自分の存在価値がわからない人がやるべきこと!存在する意味って?

自分の存在価値ってなに? そもそも存在価値とは? どうすれば存在価値が得られるのか? 自分の存在価値を中心に、他者との関係性から振り返ってみる存在価値などを検討していきます。なんとなれば、誰も何も、単独で存在する価値なんてないからです。

自分の存在価値がわからない人がやるべきこと!存在する意味って?のイメージ

目次

  1. 1自分の存在価値が欲しい!
  2. 2そもそも存在価値とは?
  3. 3存在価値が分からなくなってしまう原因
  4. 4自分の存在価値を見出すためにすべきこと
  5. 5存在価値が分からなくなった時に考えるべきこと
  6. 6E.M.シオランの声を聞く
  7. 7キリストの言葉

自分の存在価値が欲しい!

人はパンのみにて生くるに非ず、とはキリストの言葉からの抜粋です。この「新約聖書マタイ伝第四章」にあるイエスの御言葉は、物質的豊かさにだけ安住することを否定する言葉として受け止められている方が、一般的と思われます。

しかし、これは以下のように続きます。「人はパンのみにて生きるのではない、神の口から出るすべての言葉で生かされている」これは、かみくだいて口語に意訳したものですが、大多数の日本人は肩透かしを食らった気分になるかもしれません。

なぜなら、濃厚なキリスト教・セム一神教的な「言葉重視」によるドグマ(教条)=価値観と対面せざるを得ないからです。そもそも、聖書は、旧約であれ新約であれ、それが神と言葉で取り交わした契約にすぎないのです。

そもそも存在価値とは?

ことほどさように、おのおのにおける価値感とは、やっかいです。それが存在の根本に触れる価値ともなれば戦争は必至でしょう。そこまで広げずとも、芥川龍之介が「人生は地獄よりも地獄的」というのは、娑婆=この世が存在価値のせめぎ合いの場だからに他なりません。

夏目漱石は「知に働けば角かどが立つ、情に棹さおさせば流される」といい、個と個の対立を生む浮世の住みにくさを嘆いています。

万人の万人に対する闘争というやつは、何も原始状態におけるものではなく、むしろルソーのみるように、他者との物理的距離が縮まり、他者との比較が容易に頻繁になったときにこそ激化するのではないでしょうか。

存在価値が分からなくなってしまう原因

では、人との交流を断てば良い、それなら話しはカンタンですが、そうもいきません。人が最も価値を見出す瞬間は、それに他者が介在したときだからです。

いわゆる承認欲求です。ゲームへ現実逃避しておきながらオンラインゲームを楽しむなんて、それの典型でしょう。ゲームに現実を持ち込み、上級者が役立たずとののしれば、初心者は民主主義を訴え格差是正を求める。何をかいわんやですが、それが人間というものです。

とかく、人が自分の存在価値が分からなくなってしまう場面は、他人との関わりの場が圧倒的でしょう。また、もっとも自分の存在価値が希薄になるのは、他人との関りがないときです。人間に逃げ場はなく、袋小路で人生の幕切れを迎えます。以下、いくつかの具体例をみていきましよう。

身近なものからの無視、軽視

たいていの人は、一般社会からみれば単なる石ころですか、身近な人間関係においては抜き差しならぬ存在です。先天的であり、社会帰属における最小単位であり、家族こそ関係性の一番濃いものです。

血は水よりも濃いはずです。でも、そう限らないのも現実。ひところ、透明な存在なんてコトバが流行りましたが、この家族関係の希薄化が存在価値をなくす原因の一端でしょうか。ちなみに、画像はブラッドソーセージです。

板挟み

中間管理職の職場での立場、軋轢の真っただ中に立たされ孤立無援状態なども考えられます。この場合、自分を責め立てる上下双方には仲間がいるのに、自分には味方がいないのが特徴です。

家族が味方の場合もありますが、主戦場は職場(学校)です。そこでの負けは、男性なら、時としてその味方であるはずの家族をも失いかねません。

この場合は個の希薄化というより、個として中吊りにされることから疲れ、個の放棄を願望・成就するに至ります。社会的板挟みの例としては、オイゲン・チリコフの短編、森鴎外訳の『板ばさみ』や、『夜明け前』の主人公の父親などがあげられます。

生きがいのなさ

これは純粋に個人の問題に帰せられそうですが、鬱病やニヒリズムといった病気もしくはその人固有の実存から生じたものを除いて考えます。

仕事が生きがいだった人が大事な仕事から外された。クラブのレギュラーから外された。鬱病ではないが、突如好きだったものが無価値に思えてきた。そもそも、最初からのめり込めるものがなかったが、今さらそれが苦になってきた、等。

一見、人間関係を超越しているようですが、それだけ切り取って価値のあるものはありません。しがらみがなく、金銭面も心配ないなら、すぐに何らかの行動へ移せるはず。なのに、そうはならないから問題なのです。

自分の存在価値を見出すためにすべきこと

自分の存在価値を見出すことに対しても、人間関系がキーワードになります。ありていに言ってしまえば、関係性・全体性の回復です。

それは、確かに個人の領域では喜びを見出すことへと繋がります。ですが、一度、他者と関れば、元の木阿弥ともなりかねないものです。

趣味などの喜びを見つける

コツコツとモノを作るクラフトワーク。そういった個人趣味でも、喜びを共有する仲間がいるといないとでは段違いです。とはいえ、それが義務となったり、関係性がギクシャクしてはストレスのもとなので、さじ加減が求められます。

奉仕する

苦の元凶であるエゴをなくす。中心を空しくする。他人のために尽くす。という手も考えられます。注意しなければならないのは、それもまたエゴに基づくもの、欲求ならぬ欲望にすぎないということです。とはいえ、やらない膳よりやる偽善ともいいます。

ようは、その人の役に立てば良いだけです。ボランティア依存症になって家族が崩壊しても、あなたが身を持ち崩してもけっこう。ただし、長い目でみて、何が他人のためになるかは恐ろしく難しいものです。

施こしほど、人のプライドを傷つけることはありません。ニーチェは、ひとへ施すときは顔を赤らめてせよ、といっているくらいです。喜びは伝染するかもしれませんし、逆恨みされるかもしれません。

既存のつながりの復旧

既存のつながりを回復または強化させること。これが自己の存在価値を引き上げる、一番手っ取り早いで方法です。しかし、これもまた難しいものです。近しいものと行き違いがおき、こじれるのは生半可に知っているからこそです。

さりとて、何でも、ほじくりかえせよい、という訳ではありません。上手くいかなくなった、いきさつを無視しては堂々巡り。親しき中にも礼儀ありですから、冷めた議論が必要となります。

金銭的ゆとりがあり、第三者を介在させることも辞さないなら、社会的責任を負った専門家、臨床心理士、精神科医などの活用も考えられます。餅は餅屋といいますから。あくまで、相談相手は社会的なリスクを負った人でなければなりません。

自個へ立ち帰る

自己回帰、これは後にも続く話です。今までは関係性における足し算ばかりでしたが、引き算も考慮に入れるべきでしょう。もともと存在価値のない自分なんてものはなく、生物としてナンセンス、あってしかるべきものです。

ただし、それは自己においてのみのこと。人間社会、自然界は、個を取り換えの利かない単独者とみなしません。その実存を生きているのは、あなただけです。家族においてすら、そうです。

行き詰ったなら、一度リセットすることをおススメします。せつなでも、しがらみを忘れ、徹底的に自己へと帰り石ころとなってみるのです。自個があなたを癒してくれるでしょう。もちろん、それは0であって、無価値の価値にすぎませんが。そこからは、また迷いの一歩が始まります。

存在価値が分からなくなった時に考えるべきこと

存在価値が必要という前提は、コトバを持たぬ生き物でも自明の理と考えられます。ペットを飼っている人なら、役に立って喜んだり、役に立たてずしょげかえるペットたちの姿を、思い浮かべることができるでしょう。

そんな経験がなくとも、生の営みが自己存続のための行為に他ならない以上、そこから見れば、存在価値というコトバは自動的に導かれるはずです。大げさかもしれませんが、存在価値が分からなくなった時とは、生命の危機ともいえるのです。

よけいなことを考える

先にも触れましたが、存在価値のない生命体とはナンセンスなのです。逆に言えば、命を持つものは嫌でも存在価値を持たされます。危機に陥ったとき、生命の根幹が揺らいだとき、個が生命に反逆することがあります。それが自殺です。

もっとも私らしいこと。個であることの究極は自殺を選べることです。あるいはそれすら命という全体性に含まれている機能かもしれませんが。究極の個とは誰も癒せぬ個を癒す力を持つ反面、個を殺しもする絶大な力を持っています。

そこで、ずるがしこいエゴが必要となってきます。保留しておく、はぐらかす、意識・無意識の狭間を、のらりくらり、うだうだやる大人の知恵です。

あそべたら遊ぶ

考えても始まりません、「春の海 ひねもす のたり のたりかな 」です。しかし、あそびは、ともすると労働へ堕します。あらゆる労働の始まりはあそびでした。政治も元は神を祭る、まつりごとと呼ばれていました。実は、本来の古い神様は労働を好みません。

今だけ金だけ自分だけを実現する労働や勤勉は永遠を遮断しますが、キリギリスの今だけは永遠を覗くチャンスを与えてくれます。

スポーツのような真剣な競争は、すぐに自己投資の労働へと連れ戻してしまうので、避けた方がよいかも。勝てない自分に存在価値を失ったら、元も子もありませんから。

メメントモリ

メメント・モリはラテン語の警句です。意味は「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」、または「死を忘るな」になります。

どうせ最期は死ぬだけ、存在も価値も無となり、存在価値もへったくれもなくなります。そこから逆算してみては、いかがでしょうか。

E.M.シオランの声を聞く

エミール・ミハイ・シオランは、ルーマニアの作家であり、思想家であり、宗教学者でもあります。幼少期のエクスタシー経験を出発点として、メランコリー、鬱、不眠などを糧にニヒリズム思想を展開しました。以下は、彼の言葉。
 

存在しなかったほうがいい、という考え方は、猛烈な反論をこうむる思想の一つだ。
 
各人は、自分を内部から見ることしかできないから、必要な人間、不可欠な人間という風にわが身を思いなしており、自分こそ一個の絶対的実在だと、ひとつの全一性だと、全一性そのものだと実感し、また認知している。
   
おのれの存在そのものと完全に同化した瞬間から、人は神として行動する。人は神である。内部から生きつつ、同時に自己の埒外に生きる。そのときはじめて、平静な心で、自分が存在するという偶発事はまったく起こらなかったよかった、と得心することができるのである。

キリストの言葉

以下は、シオランも自著で抜粋した、預言者キリストの言葉になります。反対の表現をとりながら同一なことを言っています。
 

「世の人がこぞってあなたがたを褒めたたえたならば、災いと思うがよい」
『ルカ伝』第六章、二十六節。
 
「世の人にこぞって罵られ、迫害されたならば、幸いと思うがよい」
『マタイ伝』第五章、十一節。

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