市川一家4人殺人事件の犯人「関光彦死刑囚」や生き残った長女の現在とその後
市川一家4人殺人事件を知っていますか?この事件の犯人、関光彦死刑囚は2017年に死刑執行され、この市川一家4人殺人事件はひとまずの終着点に至りました。今回はこの関光彦死刑囚と生き残った被害者の現在、その後について詳しく調べていきます。
目次
市川一家4人殺人事件とは?
市川一家4人殺人事件とは1992年、犯行当時19歳の少年が千葉県市川市で起こした強盗殺人・強姦事件です。当時は未成年者が犯人である事件はまださほど多くなかったことなどからこの事件を強く記憶している方も多いのではないでしょうか。
また未成年で死刑執行となった犯人の関光彦死刑囚も世間から注目を浴びたのではないでしょうか。今回はこの市川一家4人殺人事件の犯人、関光彦死刑囚や生き残った被害者である長女の現在、その後について詳しく調べていきます。
市川一家4人殺人事件の概要
市川一家4人殺人事件の概要について紹介します。市川一家4人殺人事件は、1992年当時19歳の少年が行きずりの少女を強姦し、その現場でその身分証明書を脅し取ったとされています。
そして、その1カ月後にその少女が住むマンションの一室に強盗目的で押し入り、現場にて住民一家5人の内少女を除く4人を次々と絞殺、刺殺しました。
その間、金品を現場である被害者宅、勤務先から奪いつつ、少女を長時間監禁し、さらには強姦したとされています。その後再び現場に戻ったとされています。
はじまりはパブで働く女性の監禁
1992年2月6日に関光彦死刑囚は市川市内のスナックバー、パブで働いていたフィリピン人のホステスを連れ出し、スナック側には無断で現場自宅のアパートに泊めていたそうです。
その上でこのフィリピン人ホステスと性的関係を持ったとされています。さらに、ホステスをマンション自室に閉じ込め、負傷させるなどしていたようです。同年2月8日に店に帰ったホステスが、このことを店の関係者に泣きながら訴えたそうです。
店の関係者はそのことに激怒し、暴力団に「落とし前」を依頼したため関光彦死刑囚は暴力団に追われるようになったそうです。現場の自宅にも取り立てに来たそうです。
買い物帰りの被害者長女の悲運
1992年2月12日の午前2時頃、当時15歳で県立高校の1年生で被害者長女であった少女は、夜遅くまで勉強していたそうです。その途中、シャープペンシルの芯がなくなったため替え芯を買いに近くのコンビニに行き、買い物を終えて帰宅しようとしていました。
そこへ愛車のクラウンに乗った関光彦死刑囚が被害者の少女を見つけたようです。帰宅途中だった被害者少女にマンション前の狭い路地で背後から近づき、自転車の後輪部分に、クラウンの左前部を衝突させたとありました。
被害者少女は転倒し、路上に投げ出され右膝に擦り傷を負いました。車から降りた関光彦死刑囚は「病院に連れていく」と被害者少女にやさしく声をかけたとされています。そして、車に乗せその現場を後にしたそうです。
その上で関光彦死刑囚は被害者少女を車に乗せ浦安市内の病院で治療を受けさせたそうです。被害者少女は当初関光彦死刑囚のことを警戒していたようですが、治療後に家まで送り届けてくれると約束されたため、安心したとされています。
しかし、被害者少女を家まで送り届けるため市川市・船橋市方面に車を走行させていた途中で関光彦死刑囚は「このまま帰すのはもったいない、強姦してやろう」と突然人気のない路肩に車を止めたそうです。
被害者少女を強姦その後個人情報を奪取
関王光彦死刑囚は車内で本性を現しナイフで被害者少女を脅し、抵抗する被害者少女の左頬、左手を切り付け全治約2週間の傷害を負わせたとあります。さらに、「黙って俺の言うことを聞け」と脅し、そのまま関光彦死刑囚の自宅アパートに拉致されたそうです。
関光彦死刑囚は2度にわたり被害者少女を強姦したそうです。その後被害者少女の所持品を改め、現金を奪ったとあります。そこで高校の生徒手帳から被害者少女の個人情報を奪取したとされています。関光彦死刑囚はその後部屋出たそうです。
その間に被害者少女は自力で脱出したそうですが、関光彦死刑囚は特に気にも留めていなかったそうです。
金に困り被害者長女宅に押し入る
先述のホステスの監禁の件で暴力団から東京全日空ホテルに呼び出された関光彦犯人は暴力団員から200万円をけじめとして要求されたとありました。関光彦犯人はなんとかするというようなことを言ってその場を収めたそうですが、金のあてはなかったとされています。
そのため暴力団の取り立てに恐れ、自宅には戻れず、車の中で寝泊まりをしていたそうです。そして、いよいよ金の工面ができなったところで以前奪取した被害者長女の住所に押し入り強盗しようと思い立ったそうです。
現場宅の下見
関光彦犯人は犯行前に被害者長女宅の現場の下見をしていたとされています。被害者長女の在宅状況を知るために時間を変えて何度か電話をしていたそうです。その結果午後は留守か老女が1人いることを確認したようです。
また、現場マンション周辺をうろつき、806号室が被害者長女宅であることを確認したとされています。さらに1階のエレベーターホールに監視カメラが設置されていることも確認したようです。
被害者長女の家族を惨殺
関光彦犯人は1992年3月5日午後4時30分頃に被害者長女宅に侵入したとされています。この時関光彦犯人は被害者長女宅から有り金をすべて奪おうと固く決意し、また、被害者長女を再び強姦してやろうと思っていたそうです。
侵入前に関光彦犯人は被害者長女宅に電話をしたそうです。その際電話には誰も出なかったため、関光彦犯人は留守だと思ったそうです。監視カメラを避けるように外階段を使い侵入したようです。
部屋の前でチャイムを鳴らしたそうですが、誰も出なかったためまた、鍵もかかっていなかったそうで、少し様子を見た関光彦犯人は、やはり留守だと確信したそうです。
侵入してすぐにテレビの音が聞こえたそうです。関光彦犯人が洋室の扉を開けると1人で留守をしていた被害者長女の祖母がテレビをつけたまま寝ていたそうです。その後、関光彦犯人は自分の靴をベランダに隠し、現金などを物色したそうですが、なかなか見つからなかったとありました。
そのため被害者長女の祖母を脅し、強奪しようとしたようです。祖母を起こし現金のありかを聞きましたが祖母は自分の財布にあった金だけ差し出し出ていくよう言ったとされています。
これに腹を立てた関光彦犯人は再び祖母を脅し現金のありかを問いただしたが、祖母はそれに応じなかったとされています。
その時関光彦犯人は緊張のためか尿意を催し、「通帳を探しておけ」と祖母にいい、一旦トイレに行ったそうです。
トイレから戻ると祖母が受話器を上げ警察に通報しようとしていたため、関光彦犯人は祖母に体当たりをし突き倒し近くにあった電気コードで祖母の頸部を締め上げ、殺害したとされています。
その後、さらに物色をしバッグから現金10万円を強奪し続けて物色していたそうです。関光彦犯人は家人の帰宅に備えて台所から包丁を数本隠し持っていたようです。その後買い物から被害者長女とその母親が帰宅しました。
帰宅した二人を脅しうつ伏せにさせた上で、母親の背中に包丁を数回突き刺し殺害、被害者長女を脅し母親を奥の洋間に2人がかりで運んだとされています。その後関光彦犯人は警察が突入してくる翌朝まで被害者長女を監禁したそうです。
午後9時40分頃被害者長女の父親が帰宅、関光彦犯人は父親を脅し通帳のありか聞き出しました。さらには、父親の勤務先の事務所にも通帳があることを聞き出し、それも強奪しようと考えたそうです。
車で事務所に向かう際被害者長女を1階で待たせ、部屋にいた父親を殺害しました。その後事務所にて通帳を奪取、被害者長女を連れラブホテルに向かいそこで夜を明かしたそうです。その際、被害者長女に対し、強姦を行っていたそうです。
3月6日午前6時30分頃関光彦犯人は再び被害者長女宅に戻り、くつろいでいたそうです。しかし、寝ていた被害者長女の妹が泣き出したので、包丁で背後から刺殺、殺害したとありました。
父親の会社からの通報により事件発覚
事務所に通帳を強殺に行った際に1度、6日の早朝に被害者長女から金の工面を求める電話を受けた際に1度の計2度父親の会社の職員から警察に通報がされていたようです。そこからこの市川一家4人殺人事件が発覚したようです。
市川一家4人殺人事件犯人の関光彦の生い立ち
さて、ここで市川一家4人殺人事件の犯人である関光彦死刑囚の生い立ちについて詳しく調べていきます。このような残酷で卑劣な犯罪を犯した関光彦死刑囚はいったいどんな風に生まれ、育ってきたのでしょうか。家族関係も含め詳しく見ていきましょう。
サラリーマン家庭に育つ
関光彦死刑囚の祖父はうなぎ屋でうなぎの卸売業をしていたそうです。その猛烈な働きっぷりで事業を拡大し市川市、東京23区東部を中心に10軒近くのうなぎ屋を構えるうなぎ料理チェーン店のオーナーとなったそうです。
祖父のうなぎに、仕事に対する熱意はすごかったようで、そのうなぎ屋の仕事についていけずに辞めていった者も多かったらしいです。
それでも祖父はうなぎ屋として必死になり働き見事うなぎ卸業、うなぎ屋として大成功させ、うなぎ料理のチェーン店までも事業拡大したようです。
関光彦死刑囚も祖父のうなぎ屋を継ぎうなぎ料理店で祖父のように必死で働いていれば、もしかしたらこのような市川一家4人殺人事件を起こすことなどなかったのかもしれません。
では、その後の生い立ちについても見ていきましょう。関光彦死刑囚はサラリーマンの父と母の間に長男として生まれたとあります。また弟も1人いたそうです。
父親の借金・DV・児童虐待により両親離婚
しかし、弟が生まれてしばらくした後、父親は仕事よりもギャンブルや酒、女遊びを優先するようになっていったそうです。さらには母親に対しても暴力を振るうようになり、関光彦死刑囚と弟までもが児童虐待をうけていたとされています。
関光彦死刑囚にはそのような生い立ちがあったようです。しかし、どんな生い立ちにしてもこのような市川一家4人殺人事件を起こしていいことにはなりません。
高校中退後は祖父のうなぎ屋を手伝う
高校中退後の生い立ちについてですが、高校中退後関光彦死刑囚は祖父のうなぎ屋を手伝っていたそうです。しかし、真面目に働かないばかりか店の売上金などを盗み出していたそうです。
荒れた生活の中で数々の犯罪を繰り返す
関光彦死刑囚はこの荒れた生い立ち、生活の中で数々の犯罪を繰り返してきました。傷害、窃盗、薬物乱用など、多数の犯罪に手を染めていたそうです。
18歳でフィリピンパブのホステスと結婚
関光彦死刑囚はうなぎ屋の同寮たちと訪れたフィリピンパブで出会った女性と恋に落ちて1991年10月31日に正式に結婚したようです。しかし、1992年1月22日頃に故郷の姉の病気を心配した女性はフィリピンに帰国、その後日本に帰ることはなかったとされています。
このように関光彦死刑囚は壮絶な生い立ちであったことがわかります。しかし、どのような生い立ちであってもこのような市川一家4人殺人事件を引き起こしていい理由にはなりません。
市川一家4人殺人事件犯人の関光彦に下された判決
市川一家4人殺人事件の犯人である関光彦に判決が下ることとなりますが、この時関光彦は19歳です。未成年が起こした殺人事件がどのような判決になるのか気になっていた方も多かったのではないでしょうか。
未成年だからと高を括るも
関光彦は逮捕直後は少年犯罪なら少年法により刑は軽くなると考えていたそうで、死刑になるとは思っていなかったそうです。しかし、関光彦の考えとは違う判決が下されました。
判決は死刑
関光彦に下された判決は死刑でした。この判決により死刑執行を待つだけ身となり、自分の犯した罪の重さに気づいたのではないでしょうか。
市川一家4人殺人事件犯人の関光彦のその後
市川一家4人殺人事件の犯人であり死刑執行を待つ身である関光彦死刑囚のその後について詳しく調べていきます。関光彦死刑囚は収監先の東京拘置所で東京新聞の記者と文通をしていたそうです。
文通の中で関光彦死刑囚は自分の生い立ちや犯した罪などに正面から向き合うようになっていたようです。「義務教育の9年間は無邪気にはしゃいだ記憶がない」など自分の生い立ちについても語っていたそうです。
そのような生い立ちでなければ現在の彼の人生は少しでも変わっていたのかもしれません。
裁判のやり直しを求めて再審を請求
関光彦死刑囚は裁判のやり直しを求めて再審を請求しましたが、結局は死刑となり、死刑執行を待つ身となってしまったようです。
2017年12月19日に死刑執行
2017年12月19日に関光彦死刑囚の死刑執行がされました。同日には同じく東京拘置所で1994年に群馬県安中市の現場で3人を殺害し、死刑が確定された死刑囚にも死刑執行がされました。
市川一家4人殺人事件の被害者長女の現在
市川一家4人殺人事件の被害者長女のその後について詳しく調べていきます。事件後被害者長女は両親の知人の下に身を寄せたそうです。
母方の実家で生活し美術学校へ
両親の知人の下に身を寄せた後、母方の実家がある熊本県に住んでいたそうです。そして、高校卒業後、熊本県を離れ美術系の大学に進学したとされています。
結婚しヨーロッパで暮らす
その後、関光彦死刑囚の死刑執行確定後の2004年にかねてから交際していた男性と結婚し、現在は生前の両親の夢であったヨーロッパに移ったそうです。現在もそこで暮らしているようです。
また現在では当時の事件の傷も少しは癒えたのではないでしょうか。現在、そして、未来も幸せに暮らしてほしいものです。
市川一家4人殺人事件犯人の家族の現在
では加害者家族の現在はどのようになっているのでしょうか。詳しく調べていきます。
関光彦の妻と子供のその後
関光彦の妻と子供のその後、現在についてですが、帰国したのちそのまま暮らしているのではないか、という情報が多くありました。
祖父のうなぎ屋のその後
祖父のうなぎ屋のその後と現在についてですが、事件後「あの店に金を出したら殺人鬼の弁護士費用になる」という噂から客が来なくなり閉店に追い込まれたそうです。
死刑執行されるまでの関光彦の心境の変化
逮捕されてから死刑執行を待つ間に、東京新聞の記者と交わした文通の中で、関光彦の心境の変化が見て取れました。
はじめは罪の意識すらなかったようですが、死刑執行が近づくにつれ、また、多くの文通を交わすにつれ関光彦に人間らしい感情を見たと記者は語っています。犯行現場の悲惨な状況なども思い出し後悔の言葉も出ていたそうです。
自分の生まれ育った環境についても悲しみをかたっていたそうです。また、文通中に癌を患った記者に対しても礼儀正しくその身を案じていたとのことです。もっと早く少しでも優しい気持ちが沸いていれば、この事件は起きなかったのかもしれません。
少年であっても死刑となる重大な犯罪
今回の事件はたとえ未成年であったからといって軽い罪でかたずけられるようなものではありません。ですからこのように死刑というもっとも重い判決が下されました。
このような悲しい事件が少しでも減るようにこれからも法律を少しずつでも見直していったほうがいいのかもしれません。2度とこのような事件を起こさないためにも。