ポル・ポトが大量虐殺した理由!カンボジアの独裁者とは?

カンボジアの独裁者、ポル・ポトが大量虐殺した理由や、ポル・ポトという人物について詳しく紹介します。なぜ、ポル・ポトは大量虐殺という非人道的な独裁政治を行なったのでしょうか。子供までをも巻き込んだ、独裁者ポル・ポトの真実や名言を紹介していきます。

ポル・ポトが大量虐殺した理由!カンボジアの独裁者とは?のイメージ

目次

  1. 1カンボジアの独裁者ポル・ポトによる大量虐殺
  2. 2多くの大人は虐殺され子供たちは残された
  3. 3ポル・ポトの生い立ちについて
  4. 4ポル・ポトの思想【原始共産主義】
  5. 5ポル・ポトが残した言葉や名言
  6. 6カンボジアの地雷問題の現状
  7. 7真実は闇の中に

カンボジアの独裁者ポル・ポトによる大量虐殺

1975年に独裁者ポル・ポトによる独裁政治で国民の大虐殺が始まったとされています。この虐殺によって多くの命が奪われました。全く罪もない人、ポル・ポトの政治に賛同した人も虐殺されていきました。国全体の人工が大きく減るほどの虐殺でした。

この虐殺にはカンボジアの独裁者ポル・ポトの異質な思想が大きく関係していたとされています。独裁者ポル・ポトのその歪んだ思想によりこのような、罪もない多くの国民が残酷な方法で拷問、虐殺されていったようです。

なぜそのような思想に至ったのか、なぜこのような大量虐殺を実行したのか、その大量虐殺の詳細な内容はどのようなものだったのか、カンボジアの独裁者ポル・ポトとはどのような人物だったのかなど、詳しく調べて紹介していきます。

800万人の国で300万人近くの国民が虐殺された

カンボジアの独裁者ポル・ポトによるポル・ポト政権が始まってから、ベトナム軍とカンボジア救国統一戦線(ベトナムに亡命した反ポル・ポト派)に開放されるまでのたったの4年間でカンボジアの総人口800万人のうち約300万人のカンボジア人が虐殺されました。

虐殺された正確な人数は今でもわからないようです。それほどまでに無差別に大量に殺害したと言えるでしょう。世界的に見ても4年間という期間の内にこれほどの数の虐殺が行なわれた国はカンボジアを除いて他にはないそうです。

ポル・ポト政権樹立から大量虐殺までの流れ

カンボジアの独裁者ポル・ポトが政権を握り、この大量虐殺に至るまでの流れを紹介していきます。そもそもなぜこのような危険な思想を持つ人物が政権を握っていたのかなどについても詳しく紹介していきます。

カンボジア共産党結成

1960年、ポル・ポトは密かにカンボジアの首都プノンペンでカンボジア共産党を結成しました。これは、共産主義運動でもベトナムの指導から離れてカンボジア人を主体とした運動とすることを表明したものになります。

ポル・ポトは結成時には党内序列第三位でしたが、1963年に党書記となり実権を握ることになります。と同時にジャングルに潜り姿を消したとされています。このポル・ポトを主導とするカンボジア共産党を、ポル・ポト派、クメール・ルージュと呼ばれています。

1965年からはベトナム戦争が激化しました。この頃、ポル・ポトはシハヌーク政権打倒を目指してゲリラ活動続けながら、中国に行き毛沢東とその文化大革命に強い影響を受けていたようです。ポル・ポト派は1968年から反政府の武装蜂起を開始しました。

ロン=ノル政権との闘い

反米姿勢を強めながら農民蜂起を弾圧するシハヌークは次第に孤立し、1970年に新米右派のロン=ノルのクーデターによって北京に追いやられました。北京からのロン=ノル親米政権打倒の呼びかけに応じて、ポル・ポトは共闘に移りました。

ロン=ノル政府軍と激しい戦争を展開してようです。この間、ポル・ポト派は農村で解放区を作り、政府の重税から農民を解放し、また、その規律ある行動は農民の強い支持を受けるようになったとされています。

ベトナムとの関係の悪化

1973年ベトナム戦争のパリ和平協定がカンボジア抜きで調印され、アメリカ軍はベトナムから撤退、爆撃も中止されました。またカンボジア領内のベトナム軍も大半が撤退したそうです。それを待っていたかのように、アメリカ軍はカンボジア解放区への爆撃を開始しました。

この爆撃は農村に甚大は被害を与えたそうです。ロン=ノル派は組織の規律を高め、また結束も強め、ベトナムに対する強い憎しみを持つと共に、農村部を基盤とした政権樹立を独力で樹立する意図を強めていったそうです。

ポル・ポト政権樹立

1975年4月17日、ポル・ポト派はついに首都プノンペンを制圧し、ロン=ノル政権を倒しました。これは4月30日のサイゴン陥落に先立っていて、ポル・ポト派はベトナムより先に革命を達成したことを誇ったそうです。

ポルポト派は実権を握りましたが、国家首相には一定の人気があるシハヌークをかつぎ、ポル・ポトは首相となりました。しかし、シハヌークは間もなく自宅軟禁されポル・ポトの独裁者となった政治が開始されることになります。

ここから独裁者ポル・ポトによる大量虐殺が始まります。

ポル・ポト政権による人権抑圧と虐殺

1975年4月17日のポル・ポト派による解放をプノンペン市民は大いに歓迎したそうです。しかし、ポル・ポト派が翌日に出した命令は、全ての市民に対する市街撤退命令でした。

ポル・ポト政権の政治には、共同社会を建設し、通貨を廃止し、学校教育の否定などの極端な原始共産制の実現を強行しようとするものでした。反対派に対する弾圧など強圧的支配をとり続け、多数の犠牲者が出たとされています。

しかし、これからさらに多くの命が奪われてしまいます。「正しい」のは「組織」つまりポル・ポト政権であるという独裁政治で人権と自由は否定され、共産主義の理想からは遠く離れたものとなっていきました。

特にロン=ノル政権やシハヌーク派の官僚、教員やマスコミ関係者などの知識人がまず標的とされました。この時に掲げられたスローガンは「国の発展のために知識人、医者、職人、教師、などがいたら名乗り出て欲しい君たちの知識、技術が必要だ」というものでした。

ポル・ポトの掲げたこのスローガンを信じたものは続々とポル・ポトの元に集まったとされています。このスローガンは海外にいたカンボジア人のところにも発信されていたようです。苦しい農作業から解放されると喜び集まった者も多くいました。

しかし、その集められた人たちは全て機関銃により射殺されていまいました。ポル・ポトの政治にはこういった知識人は邪魔であったとされています。この他にも抵抗する人や、芸能人、歌手、俳優、僧侶、ちょっとした有名人も殺害されました。

多くの大人は虐殺され子供たちは残された

この無差別虐殺ともいえる大量虐殺により多くの大人が殺害されました。そして、多くの子供が残されました。これこそがポル・ポトの狙いだったとされています。無垢で純粋な子供に洗脳教育をし、ポル・ポトを神に近い存在と認識させることが目的のようでした。

教育を施された子供たちは兵士として、強制収監、強制労働している大人たちを監視、拷問、殺害していたという常識では考えられない状態だったようです。子供たちはポル・ポトを神、それ以外をスパイとして見る様に洗脳されていたようです。

そして驚いたことに、子供たちに医師の代わりもさせていたようです。しかし、子供であることに変わりはないので当然医学の知識などありません。よって子供たちは診察や手術と称し、傷口を引っ張ったり、メスで適当に体を切るといった行為をしていたようです。

子供たちは民家の軒下などに潜み、大人たちの会話等を盗聴していたりしていたそうです。そして、ポル・ポト政権の政治等の不平不満などを聞いたら、強制的に収容所に連行していったそうです。その収容所では子供たちによる拷問が行なわれたそうです。

老人、病人、女関係なくペンチで乳首を引きちぎったり、棒で死ぬまで叩き続けたりしたそうです。また、子供たちはこういった大人を殺害することでポル・ポトから褒められるため、殺害や拷問に積極的だったようです。

純粋な子供の心を利用した、人間とは思えないほどのポル・ポトの政治、虐殺は徐々に範囲を拡大していきました。そして、ベトナムに侵略して住民を虐殺したことでベトナム軍がカンボジアに侵攻を開始いました。

首都プノンペン陥落

ベトナム軍の攻撃を受けたカンボジアの首都プノンペンはあっけなく陥落しました。なぜならそこにいる兵士はほとんどが子供だったからです。当然戦闘訓練も受けていなかったのではないか思われます。ここからポル・ポト政権、政治は衰退していきます。

1996年にはポル・ポト政権、政治は完全に崩壊しました。一部の脱走した者たちによってこの大量虐殺は諸外国に知られていきます。恐ろしいことにそれまでの間、この虐殺は外国に一切知られていなかったようです。

ポル・ポトの生い立ちについて

ポル・ポトの生い立ちについて調べていきます。これほどの大量虐殺を主導したポル・ポトはどのような生い立ちをしていたのでしょうか。

ポル・ポトの家族構成は?両親との関係は?

ポル・ポトの父親の名前はペン・サロット、母親の名前はソク・ネムで9人兄妹の8番目として生まれたようです。生家は王宮と関係のある家系だったそうです。

ポル・ポトの幼少期

幼少期は当時の慣例に従って幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らしていたそうです。6歳でプノンペンに送られ、寺院で1年過ごした後8歳の時にカトリックの私立エリート校エコール。ミシェに入学し、そこで6年間過ごしたとされています。

ポル・ポトのフランス留学時代(1949年9月~)

グランゼコールの1つであるフランス国立通信工学校に入校して2年間の技術課程を受けたようです。留学中にポル・ポトは共産主義者となって、新生のクメール共産主義グループに参加したとされています。

その後試験に3年連続で失敗し、奨学金を打ち切られ、1953年にカンボジアに帰国したとされています。

カンボジアに帰国し共産党の活動を続ける(1953年1月14日)

カンボジアに帰国してからは私立高校で教師として働く一方で、共産党の活動を続けていたそうです。

ベトナム戦争の影響で内紛が多発(1960〜75年)

1960~1975年までの間はベトナム戦争の影響から内紛が多発していて、食糧生産などに大打撃をうけていたそうです。

ポル・ポトが首相になる(1976年4月14日)

当時の政権が打倒され、ポル・ポトが首相となり、大量虐殺が開始されました。

ポル・ポトによる農村への強制疎開・大量虐殺

ポル・ポトの政治は中華人民共和国の毛沢東主義を基盤とした「原始共産主義社会」であり、その実現のために、国立銀行を閉鎖し、貨幣なども廃止する一方、都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させていたそうです。

国民の多くは飢餓、栄養失調、過労による死へを追いやられていったそうです。このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは裏切り者やスパイの政権内への潜伏を疑って猜疑心を強め、医師や教師などを知識階級の人を殺害しました。

この虐殺はどんどんエスカレートしていき、国民の3分の1ほど殺害したとされています。

ポル・ポトが心臓発作で死去(1998年4月15日)

1997年、ポル・ポトは政府との和解交渉を試みた腹心のソン・センとその一族を殺害したとあります。しかし、その後クメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって「裏切り者」として逮捕され、終身禁固刑を宣言されました。

1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死去したとされています。しかし、ポル・ポトの死には謎や疑惑があるようです。遺体の爪が変色したことや、服着たままベッドで寝ていたなどのことから、毒殺されたのではないかと言われています。

検死などをすることなく、遺体は古タイヤと一緒に焼かれ、そのままその場所に埋められたそうです。

ポル・ポトの思想【原始共産主義】

ポル・ポトの思想であった原始共産主義とは、人類の初期の社会である狩猟採集社会に見られ、そこには階級支配は無く、富の余剰も作成されません。さらにいくつかの原始共産主義社会では食料や衣服などの全てが共有されます。

原始共産主義社会では、健全な身体を持つ全ての人間は食料の獲得に従事し、狩猟や収集により産み出されたものを全員が共有するとあります。また、原始的な社会では産み出されたものは即座に消費されるため、余剰は生まれません。

そのため衣服などの個人的な物品を除けば、私有財産はほとんど存在しない平等な社会のことを言います。

ポル・ポトが残した言葉や名言

ポル・ポトが残した言葉や、名言と言われているものを紹介していきます。政権を握っていた、独裁者であったことからポル・ポトの放った言葉には名言と言われるものや、記憶に残る言葉が多くあるようです。

名言として知られる言葉や、名言と語られているものにはどのようなものがあるのでしょうか。ポル・ポトの名言をいくつか紹介します。

名言①

「たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ」

名言②

「腐ったりんごは、箱ごと捨てなければならない」

名言③

「知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何も無く、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ。」

名言④

「国を指導する我々以外の知識人層は自国には不要」

名言⑤

「我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」

カンボジアの地雷問題の現状

現在のカンボジアの地雷問題の現状ですが、今では多くの団体の支援や活躍により、その数は激減しているそうです。カンボジアに旅行するにあたって地雷の心配をする必要はほぼないとのことです。

ガイドブックに乗っているような場所であれば、どこを歩いても問題ないようです。

真実は闇の中に

ポル・ポトの疑惑の死去により本当の真実は闇の中に葬られてしまったのかもしれません。本当に彼が国のためにこのようなことをしたのか、真実は誰にもわかりません。

ただ1つ言えるのは、なんの罪もないカンボジア国民と周辺国の多くの人が殺害されたのは、まるで意味が無かったとしか言えません。家族らの無念は計り知れません。

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