寺内樺風の現在や生い立ち!実家/被害者/親/家族【埼玉少女誘拐】
少女を誘拐し長期間にわたり監禁した寺内樺風。被害者の少女はどういった経緯で巻き込まれたのでしょうか?また彼の生い立ちや大学での様子、裁判の行方などについても気になる点が多くあります。寺内樺風は現在どうしているのか、何があったのか、情報をまとめてみました。
目次
寺内樺風の現在
2016年に、埼玉少女誘拐事件が大きく報道され、話題となりました。寺内樺風の現在についてまずは見ていきましょう。
その事件の容疑者・被告である寺内樺風は裁判にて、現在懲役9年が言い渡されています。被害者の少女に対して肉体関係・直接的な傷害を働いたわけではないものの、PTSDともいえる精神的な面での被害を与えた面が大きく、服役することとなりました。
また、寺内樺風がこのように社会的にネガティブな行為をはたらいたことで、彼の親が経営している会社も経営危機に陥ってしまったとのことです。
被害者の実家側は、寺内樺風に対して「一生出てこないで欲しい」と語っていますが、現在の服役を終えた後のことを思うと、確かに家族側からすれば不安が残っていると言えるかもしれません。
埼玉少女誘拐事件の詳細や裁判での行方に入る前に、寺内樺風自身についての生い立ち・姿について書いていきます。彼は独特な個性を持っていました。
寺内樺風とは?
まず、寺内樺風とは何者なのかについて見ていきましょう。寺内樺風は、生い立ちとしては大阪府出身、千葉大学の工学部情報画像学科に在籍していました。
平成23年に入学し、事件が報道された当初、彼は卒業したばかりでした。報道を受けて、千葉大学当局は、寺内樺風の卒業認定取り消し処分を検討している、と発表しました。
大阪の学校では、成績も優秀だったとのことです。両親ともに教育熱心で、寺内樺風自身も素行不良ということはなかったようです。
学業以外の点については、彼は航空機に強い興味を持っており、一年間留学を経験したこともあり、その際に航空機関連の資格を取得したと情報が流れています。また、学生時代はアニメの類も好きだったらしく、同級生の間でもそれが言われています。
家族や同級生の証言では、寺内樺風は今回の埼玉少女誘拐事件のような猟奇的な行動をはたらくような人物とは思われていなかった、ということがわかります。
しかし、彼はかねてよりずっと少女を誘拐するという行為に関心を持っており、入念な準備と計画を立てた上で今回の誘拐事件を実行に移したようです。
監禁場所は、大学生が一人暮らしで使うような何の変哲もないアパートであり、とても誘拐現場として疑われなさそうな住まいでした。立地も大学に極めて近く、長期間に及ぶ少女監禁を周辺にバレないようにするためには、相当な準備があったのだろうと思われます。
寺内樺風の両親や実家
埼玉少女誘拐事件を起こしたのはあくまでも寺内樺風本人であり、その家族・実家に直接的な責任はないのかもしれませんが、報道をきっかけに家族・実家にも注目があつまるようになります。寺内樺風はどういった実家のもとで育てられたのか、情報をまとめてみました。
両親
寺内樺風の家族は、両親・樺風・妹という家族構成でした。父親は会社経営者、母親は専業主婦であると言われています。
寺内樺風だけでなく妹さんも恐らく学生であり、となると父親はひとりでその学費と家族の生活費を稼ぎ出しているということになります。それなりのやり手経営者と考えられそうです。父親の会社経営に関しては、1つ下の見出しでより詳しく書いていこうと思います。
母親について、ネット上で挙げられている説の1つに、「外国人説」というものがあります。確たる証拠があるわけではないにもかかわらず、なぜこういった説が浮かんできたのでしょうか? 見ていきましょう。
外国人説の論拠として挙げられているのが、「樺風」という名前にあります。樺風という漢字の並び、そしてこれを「かぶ」という読み方自体も、日本人としては非常に珍しい名前であると言えます。相当な特別な理由があってこの名前を付けた、と考えて良いでしょう。
なぜその名前をつけたのかは家族にしかわからないことかもしれませんが、ネット上では様々な意見が交わされているようです。
「樺」という漢字は、樺太や白樺といった用途が思いつきますが、名前に使うことはさほどありません。日本史を勉強した人は、条約や文学集の名称としてこの字が含まれているワードを覚えているかもしれません。
「樺」という字は仏教に通ずるものがある、というのが外国人説を唱える人の主張です。であれば、仏教信仰が強いタイなどにゆかりのある人物なのではないか、ということから母親が外国人であるという憶測に繋がったようです。
あくまで憶測であり、外国人であるからといってなにか問題があるというわけではないのですが、「樺風」という名前には強い拘りがあるのだろうと考えられそうです。
実家
寺内樺風の実家、そして父親についてはどうだったのでしょうか。父親は会社経営者であると先に書きました。父親は、「e防犯.com」という大阪府池田市の会社を経営していた、とネット上で言われています。
当初はこれも憶測に過ぎなかったのでしょうが、事件の報道が盛んになっていくと、会社の公式ホームページで謝罪文が公開されます。
その謝罪文では、家族・近親者が不適切な行為をはたらいたという旨の記載がされており、事件の報道が半ば事実であると認めた形になりました。池田市に拠点があるあたり、寺内樺風の生い立ちとも一致しますし、これについてはさほど驚きはなかったようです。
今回の埼玉少女誘拐事件を受けて、会社は深刻なダメージを受けてしまったようです。防犯グッズの販売を行っている会社ということですが、やはり社長の近親者に関わるトラブルということもあって、図らずも信用を損ねるという結果になってしまったのでしょう。
会社が傾いてしまったこともそうですが、熱心に育ててきた息子がこのような猟奇的な事件を起こしてしまった、というのも父親、他の家族からすれば残念だったでしょう。
実家と家庭環境自体は特に怪しい点はなく、両親は教育熱心で、兄妹をしっかりと勉強させ育てていたことがわかっています。だからこそ、どうして寺内樺風は少女監禁に手を染めてしまったのか、生い立ちに注目が集まるようになります。
寺内樺風の生い立ち
寺内樺風の生い立ちはどうだったのでしょうか。
彼は小・中・高校を大阪の実家で過ごし、大学は千葉で過ごしています。彼の学生生活における様子や周囲の反応など、集められる情報をまとめてみました。
現在の、埼玉少女誘拐事件を起こすに至ったきっかけが学生生活の中であったのでしょうか?その生い立ちの中で、被害者の少女との接点はどのようにして生まれたのかも、疑問となっています。
小学校から高校まで
父親が池田市内の防犯グッズ販売会社を経営していることから、寺内樺風も池田市内の小学校出身であると考えられています。
中学校は、大阪教育大学附属池田中学校です。受験経験のある方なら知っているかもしれませんが、ここは大阪のみならず、関西においても名門校と言われている学校です。
高校も、同じ敷地内にある大阪教育大学附属池田高校に進学しています。内部進学と言ってよいでしょう。このように、寺内樺風の生い立ちはまず池田市で始まっていると言えます。
交際経験があった?
事件を起こしてしまった現在の寺内樺風から感じる印象は、猟奇的で恐ろしいというところですが、大阪にいた頃の生い立ちやエピソードを調べてみても、そのような印象は見受けられませんでした。
ある同級生によると、高校時代に寺内樺風は交際経験があったそうです。埼玉少女誘拐事件を起こすことから、そういった経験はないのだろうかと思われてしまいがちですが、そうでもないようです。
高校2年のときに「ぽっちゃりした」女子と付き合っていたがすぐに別れた、とその同級生は語っています。一般的な高校生のように、付き合った経験があったようです。
好きなものについては饒舌になる
高校時代、寺内樺風はクラスの中心で目立つようなタイプではなかったようです。気の合う仲間とボソボソと話している印象だった、と彼の生い立ちを知っている人からも証言が出ています。
彼は好きなものについてはとても饒舌に語る一面があったと言われています。電気系やパソコン関連について詳しかったらしく、この話題になると熱く語っていたようです。大学では理系の学部に進学しているので、電気系に強かったというのは事実でしょう。
電気系への興味とつながっているのか定かではありませんが、彼は大学時代にパイロット関連の勉強をするために1年間休学し、留学した経験があります。自分が好きなものについては本当にのめり込んでいく人物だったのでしょう。
また、「涼宮ハルヒ」などのアニメにも強い興味を持っていたと言われています。鞄にキーホルダーをつけるほど好きだったそうです。この、電気系・アニメが好きという生い立ちが、事件に関連するのかどうかは一概には言えませんが、個性を反映していると思われます。
このような、興味をもったものに没頭するという性格はとても良い事なのですが、彼は少女を監禁する行為にもかねてより興味があったと言われており、これに没頭してしまったことは災いであったと言う他ありません。
千葉大学時代
実家のある大阪を出て、寺内樺風は千葉大学へ進学します。彼は浪人を経験せず、現役での合格だったそうです。やはり勉強は得意だったということでしょう。
千葉大学に通うにあたって、大学付近のアパートで一人暮らしをすることになりました。このアパートが、後々起こす埼玉少女誘拐事件の現場になっていたようです。というのも、被害者が監禁されていたのが、大学近辺のアパートという報道があったからです。
千葉大学は、現在は千葉県・東京都・神奈川県など近辺からの学生が多い傾向ですが、難関大というだけあって、地方からも多くの学生が集まっています、西千葉キャンパス周辺は学生街として、多くの飲食店で栄えているとのことです。
彼が在籍していたのは、工学部の情報画像学科です。ITの進化がさかんに言われている今日、情報工学系の学部は競争率が増しています。将来に強いという点から理系を選択する学生が増えているようですが、寺内樺風もその一人だったのかもしれません。
千葉大学は西千葉キャンパスがもっとも大きな拠点です。工学部もこの西千葉にありますが、学部によっては松戸や亥鼻といったこともあるとのことです。近年国際教養学部を新たに新設し、現在では10学部を擁しています。
大学での学生生活
千葉大学で、寺内樺風はどういった学生生活を送っていたのでしょうか?大学といえばサークルやアルバイト、その他様々な活動に精を出すいちばんの時期とされていますが、寺内樺風はどのような取り組みを行っていたのでしょうか。
大学在学中に被害者の少女を監禁し始めていることから、被害者とどのようにして知り合ったのかも勿論気になるところです。犯行に至るまでの流れに入る前に、交友関係・学業面について書いていきたいと思います。
友人は少なかった?
彼は社交的な方ではなく、気の合う仲間に絞って交流をするようなタイプだったようです。入学して間もない頃、話しかけてくれた同級生に、「友達が少ないから、どんどん話しかけてくれ」という旨の言葉をかけられた、という声もあります。
寺内樺風がサークル活動・部活動をしていたかどうかは、定かではありません。少年時代は、町内のイベントで年下の子たちを引っ張っていくリーダー的存在であった、というニュース記事も散見されますが、大学では交友関係はあまり広くなかったと言えそうです。
パイロットに強い興味を持ち、留学?
寺内樺風は、2年生の10月からカナダへ留学するという旨の書類を大学当局へ提出しています。この留学では、パイロットの航空免許取得と語学留学が目的であった、と言われています。彼の生い立ちと絡めて、パイロットに強い関心を持っていた、と先ほど書きました。
アメリカ・カリフォルニアのパイロット養成学校に入学した彼は、4ヶ月間の在籍で自家用機の操縦資格を取得することに成功しています。
在籍時代の写真が学校ホームページに掲載されているほか、彼を知る学校関係者は、「こつこつ取り組んでいる学生だった。性格面に問題があったとは聞いていない」という旨のコメントをしています。真面目な、勉強熱心な学生だったようです。
彼が資格を取得したのは、25年9月のことです。監禁事件の被害者の女性が連れ去られたのは26年3月とされており、半年間空いていることになります。
就職先も決まっていた
寺内樺風が逮捕されたときに千葉大学は、「卒業認定・学位授与の取消」の処分を下しています。つまり彼は元々卒業していたということです。大学生活の終盤にある出来事といえば就職活動ですが、学生を終えるにあたって、彼は就職先もきちんと決めていました。
防災設備関係の会社に就職した、とネットでは言われています。具体的な会社名も一部では特定されてしまっているようです。実家・父親が防犯グッズの会社を経営していることから、コネがあったのか、もしくは元々防犯グッズ関係への興味があったのかもしれません。
寺内樺風は、被害者の少女を監禁し続けている状態の間に、自身の就職活動も並行して行っていた、と考えて良さそうです。このことも裁判の際に悪質と捉えられたのかもわかりません。
埼玉少女誘拐監禁事件の概要と詳細
改めて、埼玉少女誘拐事件の展開について整理をしておきたいと思います。寺内樺風が少女を連れ去ったのが26年=2014年の3月です。そしてそこから2年間、2016年3月に至るまで少女は監禁生活を強いられていました。
事件が終わったとき、寺内樺風は大学を卒業しており、就職先も既に決まっていました。
この2016年3月に多くの出来事が起こっており、23日に寺内樺風が大学を卒業、27日に少女が中野区で保護され、そして31日に千葉大学が寺内樺風の卒業認定・学位取消の発表を行いました。そして現在に至り、裁判所にて公式に判決が下されています。
どういった経緯で事件は始まり、終局を迎え、裁判に至り、現在に繋がっているのか。準備段階から追っていくこととしましょう。
監禁の入念な準備
「中学校のころから、少女を誘拐してみたいと思っていた」と彼は後になって語っています。監禁に対しての執着心は、埼玉少女誘拐事件を実行するまでの準備にも現れています。衝動的に事件を働いたというよりも、冷静に犯行に及んだと考えるのが妥当です。
逮捕後に裁判が行われました。その裁判の冒頭陳述で、「遅くとも平成24年(2012年)2月頃から、女子中学生・女子高校生を監禁して隔離し、観察したい」という考えを持ったと語っています。昔に実際にあった誘拐・監禁についての文献も読んでいたとのことです。
また、監禁してから少女を洗脳するための一手段として、アサガオの種を利用していたことも裁判の法定でわかりました。
種から抽出される成分を用いてドラッグを生成し、少女の食事に服用させていたそうです。監禁の中で植物を用いることを準備していたあたり、極めて冷静な犯行であったことがわかります。
被害者の少女と知り合い、実行へ
少女は、埼玉県朝霞市在住の中学生でした。朝霞市を選んだ理由について寺内樺風は、「都会過ぎず、田舎すぎない場所だから」と語っています。連れ去る現場を選ぶ際に、地図アプリを用いて朝霞市に決めたと言われています。
車を運転して現場周辺を念入りに下見し、少女が下校する風景も観察していたようです。そして、1人で下校している日に、「両親が離婚した。弁護士から話がある」と声をかけ、車で連れ去りました。当然離婚の件は嘘であり、連れ去るための口実です。
車内ではアイマスクを被せ、場所が分からないようにしました。そして連れ去った先は、本人が下宿している千葉県のアパートです。
指名手配、逮捕へ
2年が経ち寺内樺風が大学を卒業し、少しした頃の3月27日に、少女が東中野駅で保護されました。これを受けて寺内樺風は指名手配として公開手配されることとなりました。保護された少女は無事埼玉県内の家族・実家のもとに帰還を果たしました。
3月28日未明、静岡県伊東市にて身柄を拘束されます。近所の人から、血まみれの男が歩いていると通報を受け、姿を確認したところ、手配書の人物と一致した形です。血まみれだったことについては、寺内樺風が自殺を図ろうとしていたためである、と考えられています。
こうして、埼玉少女誘拐事件は一旦の終わりを迎えました。怪我の治療を待ってから、事情聴取と裁判が行われました。
報道のされ方と裁判
事件の猟奇性から、全国規模でこの埼玉少女誘拐事件は報道されました。特に昼間のワイドショーでは繰り返し扱われ、多くの芸能人・コメンテーターが番組内で被告の行為に対して批判をしています。
裁判にも大きな注目が集まり、懲役9年という判決に対して「軽すぎるのではないか」という声もありました。裁判長曰く、「完全責任能力があり」「卑劣で悪質」としながらも、監禁生活の中での暴力がなかったと判断したとのことです。
寺内樺風は裁判で、監禁の一部を否認しています。本人曰く、監禁生活の初期では監視することもあったが、それ以降は少女を1人残して家を空けることもあったとのこと。監禁というより軟禁に近いと考えていたのでしょうか。
少女は閲覧制限のないパソコンを使用する機会もあったそうです。そこで検索をかけてみたところ、両親が自らを捜索していることがわかり、何が何でも逃げることを決意したのだ、と言われています。
パソコンを使わせたり留守を任せたりするなどといったこれらの行為は、少女に実家・家族への接触を許すに近い行為とも考えられます。こうした点がもしかすると求刑と比べての減刑に繋がったのではないか、と見る意見もあります。
なぜ早く逃げなかったのか?という謎
寺内樺風が言うには、誘拐して初めのうちはしっかりと監視をしていたが、次第にそれはしなくなり、家を空けたりスーパーに買い物に行ってもらったりしていたとのこと。事実だけを羅列すると監禁なのか軟禁なのか、分からなくなってくるかもしれません。
少女には、確かに逃げる機会が常にあったはずだとネット上で言われています。にもかかわらず、なぜそういったときにすぐ逃げなかったのか?なぜ2年間も継続していたのか?という疑問が囁かれたのです。
ネット上では「ストックホルム症候群」「単なる同棲だった」と言われている一方で、少女は供述書において「逃げたかった」と述べています。事実は本人にしかわからないのかもしれません。
埼玉少女誘拐監禁事件の被害者の少女
極めて悪質な埼玉少女誘拐事件で、2年間に渡り私生活を台無しにされたと言って差し支えない、被害者の少女。ニュースが繰り返し報じられる中で、被害者の少女についても様々な憶測が飛び交いました。
彼女についても生い立ちや家族・実家など、情報を可能な範囲でまとめてみました。
被害者の少女の現在
無事家族の元に帰ることができた少女ですが、監禁生活を通じて、精神面で大きな傷を負ってしまいました。裁判で、少女の両親も被告に対して厳罰を望んでいるという節がニュースで報じられていました。
中学生であった少女は、帰宅してから2年間の学習内容を勉強していたようです。同級生たちと何周もの周回差がついてしまったために、遅れを取り戻そうとしているのでしょう。
精神面でのダメージが完全に癒えたとは言えず、監禁されていた当時のことを連想するようなワードには、現在でも拒否感を覚えるとも言われています。
被害者の少女の家族
寺内樺風の家族については多く書いてきましたが、被害者の少女の実家についてはどうだったのでしょうか?
少女の家族構成は、両親と本人ということしか分かりませんでした。両親は娘が行方不明になったことを受け、情報を求めるためのビラ配りの活動をしている姿も見せていたようです。現在は、娘との失われた時間を取り戻そうとしている最中であると言われています。
寺内樺風が行った洗脳・監禁
寺内樺風は監禁する中で洗脳を企てていました。準備の段階から過去の事例や洗脳にかかわる文献を読み、計画を立てていったようです。彼が活用したのがアサガオの種でした。種から抽出される成分を利用してドラッグを生成し、洗脳に繋げようと考えていました。
また、「逃げ場はない」「誰も助けに来ない」という旨の言葉を繰り返し復唱させたり、書かせたりすることによって脱出しないように意識にすりこませようする手法もとっていたようです。
寺内樺風の少女監禁中の生活
監禁というと、過酷な環境での生活を連想する方がいると思いますが、この事件では少し事情が異なっていたようです。監禁し始めて間もない頃は、少女を常に監視して高圧的に接していたものの、やがて少女を自由に生活させるようにしていたと言われています。
具体的には、寺内樺風自身が大学などで外出する際に、自宅に少女1人を残して行ったり、少女に1人で買い物を任せたりなどです。身体的に被害を受けた形跡が見られなかったことから、他の監禁事件と比べて異色を放っているとも言えそうです。
埼玉少女誘拐監禁事件の判決
裁判で寺内樺風は、懲役9年の判決を受けます。求刑は15年でしたが、身体的暴行などの形跡が見られなかったことなどから、減刑となったようです。2年間の少女の生活を奪ったことに対して、罪が軽すぎるのではないかと批判の声もあります。
埼玉少女誘拐監禁事件から連想された事件
容疑者の個性や事件の進み方という点で際立った存在感を放っていた、埼玉少女誘拐事件。日本で誘拐事件はいくつも過去起こっていますが、今回の事件から連想される事例として、新潟少女監禁事件を紹介したいと思います。
新潟少女監禁事件
1990年に起こったこの事件では、当時9歳の少女が9年間にわたり監禁されました。特徴的なのは、犯人の凶悪さだけでなく、県警の不祥事が発覚したという点です。捜査不備があったことから、警察に対しても批判が沸き起こった事件となりました。
最高裁まで裁判は争われ、最終的に犯人に対して懲役14年が確定しました。この犯人が長きにわたって引きこもりの状態にあったことから、引きこもりが社会問題の1つとして広く認識されるに至ったきっかけとも考えられています。
まとめ・謎は残ったまま?
寺内樺風の生い立ちや現在の姿から犯行に至る経緯まで、情報をまとめていきました。彼の冷徹さと犯行への執着心が捜査を通じて浮かび上がり、裁判も終え、一連の事件は終わりを迎えたと言えます。
しかし、先ほど書いた「なぜ逃げなかったのか」という疑問など、少女側の行動や生い立ち・家族との関係など、気になる点は残ったままです。
生い立ちを辿っていくと真面目な勤勉家という印象が伺え、監禁をするような人物には見えないかもしれません。そういった人物でも犯行を働いてしまうこと、そして2年に渡り周囲に気づかれなかったことの異常性、これらが際立っているとも言えそうです。