稲葉事件の概要!北海道警察の稲葉圭昭と交際相手の畑中絹代の現在とその後

2016年に「日本で一番悪い奴ら」という稲葉事件を題材にした映画が公開されました。稲葉事件は個人の犯罪として処理されましたが、その内容は警察組織の問題も浮かび上がらせているように思われます。今回は、稲葉事件とその後について考えていきたいと思います。

稲葉事件の概要!北海道警察の稲葉圭昭と交際相手の畑中絹代の現在とその後のイメージ

目次

  1. 1誰から見ても正しい正義は存在するのか
  2. 2「稲葉事件」とは?
  3. 3「稲葉事件」の概要
  4. 4「稲葉事件」銃隊のエース稲葉圭昭の間違った歩み
  5. 5「稲葉事件」稲葉圭昭の交際相手の罪
  6. 6「稲葉事件」稲葉に道を外させた警察の制度と裏金問題
  7. 7「稲葉事件」裁判
  8. 8「稲葉事件」関わった者と道警のその後
  9. 9「稲葉事件」稲葉圭昭のその後
  10. 10大きな組織が長く継続すると特異な文化ができていくのか

誰から見ても正しい正義は存在するのか

ネットが生活の中で当たり前となり、テレビを見るよりもネットでの情報発信やコミュニケーションの方が大切だという若者が増えてきた現在、よく「ネット炎上」という言葉を耳にするようになりました。ネット炎上が事件として報道されることさえあるのが現在の日本です。

炎上の内容はさまざまですが、一番タチが悪いのは、「正義」や「正しさ」を戦わせている話題のようです。「正義」を突き詰めるためにはある程度の犠牲が必要だとか、優先順位を考えるべきだとか、何が「正しい」のかといった話題は、決着することがありません。双方が、正しいのは自分であり、相手が間違っていると思い込んでいるのです。

問題が個人間の場合は、まだ折り合いをつけやすいでしょう。しかし、これが組織の問題となった場合はどうでしょうか。それも、「正義」を扱う警察組織が一つの「正義」に向かって全員で突き進んだ場合、はたしてそれは、異なる立場の第三者から見ても「正義」の形をしているのでしょうか。

「稲葉事件」とは?

稲葉事件は、その後に発覚した北海道警裏金事件(北海道警察の幹部が捜査協力者への報酬と偽って費用を請求し、私的流用していたとされる北海道警察の裏金問題)と併せて現在の警察組織のあり方に関する問題を世に提起することとなった事件です。

稲葉事件を題材にした映画も公開され、事件の概要については広く知られるところとなりましたが、稲葉事件とは、一体どういう事件だったのでしょうか。稲葉事件が起こる背景には何があったのでしょうか。稲葉事件の当事者である稲葉圭昭とはどういう人物だったのでしょうか。そして、稲葉事件のその後、現在はどうなったのでしょうか。

稲葉事件は映画の中の作り話ではなく、現実に起こった事件です。稲葉事件を教訓として、その後の日本は稲葉事件の再発を防げる世の中になったのでしょうか。今回は、この稲葉事件をもう一度ふり返ってみたいと思います。

北海道警察の生活安全特別捜査隊班長が起こした事件

稲葉事件とは、2002年7月に北海道警察生活安全特別捜査隊班長の稲葉圭昭(よしあき)警部(当時)が覚せい剤取締法違反容疑および銃砲刀剣類所持等取締法 (銃刀法)違反容疑で逮捕され、2003年5月に有罪判決が確定した事件です。

稲葉事件により、北海道警察(以下、道警)における組織的な捜査方法の問題や警察の能力を超えた銃器摘発ノルマの設定、警察と捜査協力者の関係など、現在の警察組織が抱えるさまざまな問題が提起されました。しかし、稲葉事件は最終的には稲葉圭昭個人の犯罪とされました。稲葉事件は警察組織の犯罪とはならなかったのです。

しかし、稲葉事件は2016年に映画となり公開されたことで、現在の警察組織の問題を改めて我々に投げかけることとなりました。

「稲葉事件」の概要

稲葉事件とは、どのような事件だったのでしょうか。稲葉事件の概要を、時間の経過に合わせて追っていきましょう。

事件のはじまりは覚せい剤所持で逮捕されたWの供述

2002年7月5日、稲葉圭昭の捜査協力者であった飲食店経営のWが、覚せい剤を所持して札幌北署に出頭し、自らの覚せい剤取締法違反(所持)を自首して逮捕されました。その際、生活安全特別捜隊班長である稲葉圭昭の覚せい剤使用と大量所持についても告発したのです。これが、稲葉事件発覚の発端でした。

Wは常にお金がない状態で、「ビッグになりたい」が口癖のような人物でした。拳銃や覚せい剤、大麻やブランド物のコピー商品を売るなど、さまざまなことをやっていたようです。その中で、Wは稲葉圭昭の捜査協力者として一所懸命に働いていたそうで、稲葉圭昭もWを他の捜査協力者よりも大事にしていたということです。

しかし、金銭面でWと稲葉圭昭との間にトラブルが生じ、稲葉圭昭の後ろ盾を得られなくなったWは自分の保身のために逮捕されることで身を守ろうとしたようです。そして、腹いせに稲葉圭昭のことを告発し、稲葉事件となって広く知られることとなりました。

実は、この警察官と捜査協力者との関係が、稲葉事件の核心の一翼を担っていました。

現在の刑事物のドラマや映画では、当然のように警察官と捜査協力者の関係が描かれていますが、現実の世界ではドラマや映画の世界以上に警察官と捜査協力者の結びつきが深く、それ故に稲葉事件が起こってしまったと言っても過言ではないのです。

生活安全特別捜査隊班長であった稲葉圭昭を逮捕

7月10日午前、道警薬物対策課は勤務中の稲葉圭昭に任意同行を求め、尿検査を実施しました。その結果、稲葉圭昭の尿から陽性反応が出、稲葉圭昭は覚せい剤を使用していると判断され、同日午後に覚せい剤取締法違反(使用)で逮捕されました。

稲葉圭昭は、2000年の秋頃から覚せい剤の使用を始めたようです。きっかけは、上司との軋轢によるストレスからだったと、稲葉圭昭本人が稲葉事件の裁判の中で証言しています。

道警の現職警官が薬物使用で逮捕された事件はこの稲葉事件が初めてのことで、道警は稲葉圭昭を7月12日付で懲戒免職処分にしました。

稲葉のアジトや自宅から拳銃と覚せい剤を発見

道警薬物対策課は、7月18日に稲葉圭昭のアジトを家宅捜索します。稲葉圭昭のアジトからはロシア製の拳銃1丁と、0.44gの覚せい剤が押収されました。これにより、稲葉圭昭は7月31日に銃刀法違反(拳銃の不法所持)と覚せい剤取締法違反(所持)容疑で再逮捕され、同日、札幌地検から覚せい剤取締法違反  (使用)容疑で起訴されました。

さらに、道警薬物対策課は、7月23日に稲葉圭昭の自宅マンションを家宅捜索し、約92.9gの覚せい剤を発見します。これにより、覚せい剤の所持は密売目的とみなされ、稲葉圭昭は8月21日に覚せい剤取締法違反(営利目的所持)容疑で再逮捕され、9月11日に札幌地検から覚醒剤取締法違反(所持)および銃刀法違反(所持)容疑で追起訴されました。

これが稲葉事件ですが、その後、稲葉圭昭の供述により、稲葉事件の奥の深さが露わになっていくのでした。

稲葉を含む銃器対策課4人の捜査員の書類送検

稲葉圭昭は、稲葉事件の取調べの中で、おとり捜査を行なったことを供述します。1997年11月14日の小樽市内でロシア人船員が拳銃と実弾を所持していた銃刀法違反、加重所持(拳銃とその銃に使える実弾の両方を所持)で有罪判決を受けた事件は、実は組織ぐるみのおとり捜査だったというのです。

また、K警視の指示により、小樽市の事件現場にいた捜査協力員のパキスタン人を、稲葉圭昭は「いなかった」と偽証したことを明かします。これにより、この事件に関わった稲葉圭昭と元道警釧路方面本部生活安全課長のK警視、道警外事課指導官のN警視(事件当時は道本銃器対策課長補佐)、釧路署生活安全課係長C警部補(事件当時は道本銃器対策課主任)の4人の捜査員が、書類送検されました。

K警視は、この事件で監査官室の事情聴取初日を終え2日目の聴取を受ける前に、公園のトイレで首吊り自殺しました。

2002年12月27日、稲葉圭昭の虚偽公文書作成・同行使容疑および偽証容疑と、Nの虚偽公文書作成・同行使容疑、Cの偽証容疑については起訴猶予処分となり、Kについては容疑者死亡で不起訴処分となりました。また札幌地検は、これは合法的なおとり捜査であったと判断しました。

コントロールド・デリバリーといって、対象者に犯罪の実行を働きかけて、犯罪が実行されるのを待ち、検挙する捜査手法があります。適法とされているのは犯罪を行う意思がある人間に実行の機会を与える機会提供型のおとり捜査であって、犯罪を行う意思がない人間に犯罪をそそのかす犯罪誘発型は違法とされています。

この小樽市の事件のロシア人は、違法なおとり捜査と偽証で損害を受けたと、国と道に損害賠償を求めて訴訟を起こしました。稲葉圭昭は2009年7月31日の千葉刑務所の出張法廷で、犯意誘発型の違法なおとり捜査であったと認めました。

しかし稲葉圭昭の供述にもかかわらず、2010年3月19日に、札幌地裁はおとり捜査だったことは認定したものの、やはり違法性は否定したのでした。

「稲葉事件」銃隊のエース稲葉圭昭の間違った歩み

稲葉圭昭は、なぜ稲葉事件を起こしてしまったのでしょうか。稲葉事件は、稲葉圭昭個人の資質だけが原因で起こった事件なのでしょうか。稲葉事件が起こる経緯を、稲葉圭昭の経歴と共に見ていきましょう。

1976年に北海道警察に入る

稲葉圭昭は北海道沙流郡門別町(現在の日高町)で生まれました。営林署に勤めていた父親の関係で、転勤に伴って稲葉圭昭は稲葉家の家族と共に道内を点々とします。父親は稲葉圭昭が3歳の頃から柔道を仕込み、稲葉圭昭はその腕を上げていきました。この柔道の特別採用で、稲葉圭昭は1976年4月に道警に入ります。

最初の配属先はすすきの交番でした。配属されて間もない頃に、すすきの交差点の真ん中に穴が開いているのをみつけました。北海道は雪の影響で道路がよく陥没するそうです。先輩警察官から参考報告を出すよう命ぜられた稲葉圭昭は、A4サイズの用紙に必要事項を記載し、提出します。

その翌日には道路が直っていたのを見て、「警察ってスッゲエなぁ」と感動したそうです。警察官になりたての頃の稲葉圭昭は、まだ素朴なところのある青年だったのです。


翌年の1977年4月に、稲葉圭昭は柔道特別訓練隊員として道警本部警備部機動隊に配属されます。1978年に道警が全国柔剣道大会で優勝したのを機に、稲葉圭昭は柔道を引退し、1979年8月に道警本部刑事部機動捜査隊(通称機捜)に異動になります。この機捜での経験が稲葉圭昭に大きな影響を及ぼし、後の稲葉事件へとつながっていきます。

機捜とは、殺人や強盗などの重要突発事件に対応するために組織された部署で、稲葉圭昭はここで捜査協力者(通称エス:スパイの意)を使った捜査手法を叩き込まれます。稲葉圭昭は自分のエスを作り、暴力団員の末端や幹部、また生活保護で暮らす覚せい剤常用者のおばあさんまでをもエスとし、曲者揃いのエス達との信頼関係を構築していきます。

稲葉圭昭は1984年4月に巡査部長に昇任して札幌中央署刑時第二課暴力犯係主任に、1988年4月に北見署刑事課暴力犯係主任になり、1990年4月に警部補に昇任して旭川中央署刑事課暴力犯係主任になります。つまり、稲葉圭昭は稲葉事件を起こすまでの長い期間、暴力団捜査に携わっていたわけです。

1993年に銃器対策室に配属

1990年の長崎市長銃撃事件、1992年の金丸信自民党副総裁銃撃事件など、銃器を使用した重大事件が頻発したことを受け、1993年に警察庁は全国の警察に銃器対策室を設置します。

稲葉圭昭は、1993年4月に道警防犯部銃器対策室(現在の生活安全部銃器対策課)に、初代捜査員の一人として配属され、銃器犯罪第二係長となります。

この頃の警察は銃器の摘発に躍起になっており、この銃器対策室の設置を始めとして、総力をあげて銃器の摘発に取り組んでいたようです。そのような流れの中で、組織としての無理が無理を呼び、稲葉事件へとつながっていったようです。

8年間で100丁近い銃器を押収

1993年4月に銃器対策室に配属されてから2001年4月に警部に昇進し生活安全特別捜査隊へ異動するまでの8年間で、稲葉圭昭は約100丁近い拳銃を押収し、「銃隊のエース」と呼ばれるまでになりました。しかし、それは稲葉圭昭の地道で適正な捜査で押収した拳銃ではありませんでした。

稲葉圭昭は1993年の銃刀法改正よる自主減免制度を利用します。自主減免制度とは、拳銃や実包を提出し自ら届け出た者は、必ずその刑が軽減または免除されるという規定です。

稲葉圭昭は、エスとの裏取引で手に入れた拳銃を、その銃の所有者ではない暴力団員に頼んで自首させるというでっちあげ捜査を数多くこなしていたのです。稲葉事件は、ここから始まっていったといえるでしょう。

情報入手の資金工面のため密売に手を染める

稲葉圭昭は、これらの摘発を続けるために暴力団員らと接触してどんどんエスを増やしていきます。そのためには、情報入手のための飲食代やエスへの小遣いが必要です。エスへの情報料として、上司から1〜5万円を受け取ることができたそうですが、その回数は少なく、稲葉圭昭はかなり自己資金を使っていたようです。

当然のことながら、稲葉圭昭は次第にエスへ渡す資金の工面に困窮するようになります。そのため、稲葉圭昭はエスと協力し、拳銃や覚せい剤の密売に手を染めてしまいます。次第に、稲葉圭昭は密売で手に入れたお金を、交際相手の巡査部長との交遊費や外車の購入にまで当てるようになっていきました。

これこそが、稲葉事件の根底だったのです。警察官とエスとの癒着が深くなればなるほど、稲葉事件のような事件がいつ起こってもおかしくないような風土ができていったといえるのではないでしょうか。

「稲葉事件」稲葉圭昭の交際相手の罪

稲葉事件の裁判中、稲葉圭昭の交際相手である畑中絹代が交通事故の犯人隠匿容疑で略式起訴される事件が起きました。これは、稲葉事件そのものではないものの、畑中絹代が稲葉圭昭の交際相手であったが故に起きた事件でした。その事件について見ていきます。

交際相手の畑中絹代とは

稲葉圭昭の交際相手は、道警本部銃器対策課の畑中絹代巡査部長(当時)でした。交際相手の畑中絹代は、当時33歳でした。

畑中絹代が、稲葉圭昭が2人の交遊費として使っていたお金が稲葉事件の根底をなす汚いお金だったことを知っていたかどうかはわかりません。しかし、彼女も同じ警察組織に属する人間でしたから、全く知らなかったということはなかったのではないかと思います。

稲葉を守るために犯した罪

稲葉圭昭の家宅捜索時、交際相手である畑中絹代の自宅も家宅捜索の対象となりました。そこで、覚せい剤吸引用のパイプ2本が押収されます。稲葉圭昭の交際相手である畑中絹代は、「このパイプは、稲葉圭昭のマンションにあった物で、みつかるとまずいと思ったので持ち帰った」と話したそうです。

そのパイプからは薬物反応も指紋も出なかったため、罪には問われなかったようです。しかしこの発言は、直接的ではないかもしれませんが、畑中絹代も稲葉事件に関与していたことを示しているのではないでしょうか。少なくとも、畑中絹代が稲葉圭昭の行為を止めることができていたら、あるいは稲葉事件は起こらなかったかもしれないのです。

同年8月17日の夜、暴力団関係者の男が、父親の逮捕で落ち込んでいる息子を励まそうと、稲葉圭昭の息子と稲葉圭昭の交際相手である畑中絹代を誘い出し、飲酒をします。3人は、飲酒後に畑中絹代の車で帰宅します。ところが、暴力団関係者の男が運転していた車が、交差点でタクシーと衝突事故を起こしてしまいます。

事故直後に暴力団関係者の男は逃走し、畑中絹代は「自分が運転していた」と虚偽の自供をします。この事件が、交際相手の畑中絹代が犯した罪です。後に畑中絹代は、交際相手であった稲葉事件の当事者の関係者と一緒にいたことを知られたくなかったと供述していたそうです。

9月5日、この事件により、交際相手の畑中絹代は犯人隠匿容疑で、暴力団関係者の男は業務上過失傷害および道交法違反(ひき逃げ)等で、稲葉圭昭の息子は犯人隠匿ほう助容疑で、タクシー運転手は業務上過失傷害容疑で、それぞれ検察官に送致されました。飲酒運転については立件が難しいとの判断で、立件はされなかったそうです。

また、交際相手の畑中絹代は同日付で、懲戒免職処分となりました。理由は、交通事故の他、稲葉圭昭との親密な交際、稲葉圭昭の自宅で覚せい剤吸引用パイプをみつけたにも関わらず報告しなかった、暴力団関係者の男が飲酒運転することを容認したということでした。

「稲葉事件」稲葉に道を外させた警察の制度と裏金問題

稲葉圭昭が稲葉事件を起こすに至った背景として、警察の制度と裏金問題について見ていきます。道警の裏金問題は、稲葉事件とは別件として、稲葉事件の裁判の判決後に世に出てきた問題ですが、稲葉事件を考える背景としては外せない問題です。

警察の制度とそれに従って懸命に働く警察官達、その中で生まれた警察組織と暴力団との癒着、そして警察幹部による裏金問題が絡み合い、狂いはじめた歯車が大きなうねりとなって稲葉事件を作り上げていったのではないでしょうか。

拳銃の摘発数による点数制

当時の道警は、覚せい剤の所持で逮捕すると10点、それが5g以上だとプラス5点などと細かく設定された点数制があり、2人ペアで月30点以上挙げるのがノルマとなっていました。また、達成できないと罰則が課せられるという仕組みになっていました。

稲葉圭昭は、機捜時代から既にこの仕組みがあり、上司から「稲葉、110番じゃメシ食えんぞ。とにかくエスを作れ。稲葉さんという役所(警察署)にエスが電話をかけてくるようになったら、お前もやっと一人前だ」と言われたそうです。

稲葉圭昭は、おそらくとても真面目な青年だったのでしょう。ずる賢さとか計算高さから稲葉事件を起こしたというよりも、ただひたすら組織の決まりや上司の言いつけに従って懸命に働いた結果、稲葉事件を起こすことになってしまったように見えます。

そもそも、逮捕(事件)の内容によって点数がつけられ、その点数に対してノルマが課せられる。ノルマを達成できないと罰則を課せられるという制度は、事件を検挙する警察にとって必然的な制度なのでしょうか。事件の検挙は、何かを販売するような営業職とは性質が異なるものなのではないでしょうか。

警察官がノルマを達成するために点数が高くなる事件の検挙に血眼になり、点数の低い事件を疎かにする危険性を孕んではいないでしょうか。さらにエスカレートして、警察官が点数の高くなる事件をでっち上げるという危険性はないのでしょうか。少なくとも、この制度が稲葉事件の発端になっていることは間違いがないでしょう。

これがドラマや映画の世界の出来事なのであれば、娯楽作品として楽しむことができますが、これは現実世界での出来事なのです。そもそも、内容により価値が異なる事件などあるのでしょうか。警察の考えている正義は、我々庶民の考える正義と同じ形をしているのか、はなはだ疑問に感じるという方も多いのではないでしょうか。

拳銃の摘発のために覚せい剤は見て見ぬふり

2000年、元暴力団員の石上が稲葉圭昭に拳銃の大量摘発の計画を持ちかけます。香港マフィアが違法薬物を密輸するのを3回見逃す事で油断をさせ、4回目に拳銃を200丁密輸させて荷受人の中国人もろとも摘発しようというものです。まるでテレビドラマや映画の話しのようですが、道警銃対課と函館税関はその話しに乗ってしまいます。

道警と函館税関の合同捜査が始まりますが、4月、石狩湾新港から覚せい剤130キロを入れた直後に石上が失踪し、覚せい剤の密輸を見逃しただけで拳銃を摘発することはできませんでした。まるで映画のようですが、これは現実の話しです。

すると、今度は別の関東の暴力団員から、小樽港への大麻2トンの密輸を見逃せば拳銃を用意するという申し出があります。これも同じような結果となり、拳銃は押収しましたが、暴力団ルートの物ではなく、稲葉圭昭がストックしていたマカロフ20丁を使ったやらせの摘発となったのです。こうなると映画よりも滑稽な展開だと思わざるを得ません。

ちなみに、石狩湾新港の覚せい剤130キロの内、半分の65キロは石上が、残りは稲葉圭昭が預かり、その中から1キロを抜いて後日石上に渡したそうです。

抜いた1キロの内、100グラムを稲葉圭昭が所持し、残りをエス達に分配したそうで、稲葉事件の発端となったWが所持していた覚せい剤も、その中の一つでした。

つまり、この笑い話しのような馬鹿げたやらせ摘発がなければ、稲葉事件は起こらなかったのです。もっともここまで来たら、この事件がなくても、別の形で稲葉事件は起こっていたかもしれませんが。

首なし銃による点数稼ぎ

1993年の銃器対策室の設置は、警察庁が全国の警察に大号令をかけた「銃器摘発キャンペーン」を受けた結果でした。そのため、銃器の摘発については実力を超えたかなり厳しいノルマが課され、また道警の新記録を作りたい等の幹部の意向も働き、現場の捜査員にはかなり厳しい重圧がかけられていたようです。

押収実績がなかなか上がらないことに焦った銃器対策室幹部は、摘発する拳銃は「首なし銃」でも良いという指示を出します。「首なし銃」とは、所有者不明の拳銃のことです。これらの要素が、稲葉事件を生み出し、事件を拡大させていきます。

稲葉圭昭はこの指示を受け、エス達に「クビなしでもいいらしいぞ」と言って、拳銃を持って来させました。つまり、稲葉圭昭が「銃隊のエース」と呼ばれるほど上げた実績の実態は、そのほとんどが「首なし銃」とエスとの裏取引による偽装摘発という、稲葉事件がもたらした成果だったのです。

銃器対策室の捜査費の裏金化

稲葉事件とは別事件ですが、2003年11月に北海道警裏金事件が発覚します。これは北海道新聞社の調査報道により発覚した事件で、北海道警察旭川中央警察署が不正経理を行っていたという事件です。稲葉事件の判決が確定したのが2003年5月ですから、時期的には稲葉事件の解決後ということになります。

事件の内容は、エス(捜査協力者)がいたという虚偽の申請により費用を本部に請求し、その費用を警視以上の幹部が私的に流用していたというものです。それに伴い、偽の領収書も作成していました。また、その後、裏金問題と同様の問題が旭川中央警察署以外の署でも行われていたことがわかっており、幹部らが懲戒処分を受けています。

本来、稲葉事件は大きな警察組織の問題だったにもかかわらず、世論は後発のこの裏金問題に矛先をすり替えられて、稲葉事件は個人が起こした問題に矮小化されたという感があります。しかし、この裏金問題が発覚したことで、なぜ稲葉事件が起きたのかという事件背景をよく理解できたといえるのではないでしょうか。

そもそも、道警の裏金問題なければ、現場の捜査員達がエスへの報酬に自己資金を投じる必要がなくなり、もしくは軽減され、稲葉事件の中の覚せい剤の密売に関しては抑止できた可能性もあるのではないでしょうか。裏金問題がなければ、拳銃を摘発するために見逃した薬物の密輸入も、あそこまで大量にはならなかったのではないでしょうか。

犯罪の検挙という行為にはそぐわない点数制およびノルマ制に加え、組織的に活用しているエスへの報酬費用を不正会計により私的流用してしまう裏金問題が重なったことで、不幸な稲葉事件が起きてしまったように感じてしまいます。

裏金問題でも、稲葉事件同様、関係者の自殺が起きました。道警による裏金問題の内部調査もありましたが、残念なことに、その後裏金問題がきちんと解明されたとは言いがたい状況です。裏金問題関与者個人への処分はあっても、組織の抜本的改善には至っていないように見える点も、裏金問題も稲葉事件と同じような経緯を辿っているように見えます。

「稲葉事件」裁判

結局、稲葉事件の裁判はどのような結果になったのでしょうか。稲葉事件の裁判について、見ていきます。

稲葉圭昭への判決

2002年11月14日、札幌地裁で開かれた稲葉事件の初公判で、検察側は稲葉圭昭の覚せい剤密輸の利益が2000年4月以降だけで4千数百万円になったこと、1999年頃から自ら覚醒剤を使用していたことを明らかにしました。

また、1998年頃から、鑑賞と小遣い稼ぎを目的に拳銃約10丁をロシア人船員から入手し、暴力団関係者に密輸して約100万円の利益を得たことも明らかにし、稲葉圭昭は稲葉事件の起訴事実を認めました。

2003年2月13日の稲葉事件第3回公判では、稲葉圭昭は稲葉事件の周辺に関する事実として、拳銃押収の実態が偽装だったことやエスの実態、大麻の密売についてを供述しました。

2月24日の稲葉事件第4回公判では、銃器摘発月間だった1999年10月の小樽市内でのパキスタン人がロシア拳銃等3丁を所持していた事件はやらせだったことや、おとり捜査のためにエスの覚せい剤密輸を見逃していたこと等を、稲葉事件の周辺に関する事実として供述しました。

最終的に稲葉圭昭は、稲葉事件の判決として懲役9年、罰金160万円を言い渡されます。

判決では、覚せい剤営利目的はエスとの多額な交際費を捻出するためとしましたが、同時に交際相手との交際費を賄う目的があったとし、また捜査情報の入手目的には、警察組織内に自分の立場や能力を誇示する思惑があったとして、動機は自己中心的かつ利欲的であると断罪されました。

「稲葉事件」関わった者と道警のその後

稲葉事件は稲葉圭昭が起こした事件ですが、その周辺の事件に関わった者は道警内に大勢存在していました。その関係者達と道警のその後はどうなったのでしょうか。稲葉事件の背景にあった組織の問題は、どのように扱われたのでしょうか。

稲葉の犯行を供述したWのその後

実は、Wは2002年8月29日の朝、札幌拘置支所の個室で自殺しました。靴下の片方を喉の奥に詰め、もう片方をクビに巻き、それを歯ブラシの柄で締め上げたような状態で、布団の中に横たわっていたところを、巡回している刑務官に発見されました。死因は窒息死。遺書はありませんでした。

Wは9月11日に札幌地裁での初公判が開かれる予定で、弁護人は自殺する理由に心当たりがないとしています。そもそもWは稲葉圭昭の後ろ盾をなくしたため、自分の身を守るために自首したはずです。この自殺に疑念を抱いている人は、少なくないのではないでしょうか。

結局、札幌地裁は9月7日にWの控訴を棄却しました。
 

銃器対策課4人の捜査員のその後

先にも述べた通り、稲葉事件に関連した小樽市の事件では、稲葉圭昭と元道警釧路方面本部生活安全課長のK警視、道警外事課指導官のN警視(事件当時は道本銃器対策課長補佐)、釧路署生活安全課係長C警部補(事件当時は道本銃器対策課主任)の4人の捜査員が書類送検され、K警視は被疑者死亡で不起訴、他の3人は起訴猶予となっています。

その後2002年12月27日に、道警と国家公安委員会は稲葉事件からの一連の事件に関する調査を終了したとして、本部長ら13人の処分と再発防止策を発表しました。その中で、稲葉圭昭と自殺したK警視を除く2人の処分はどのようなものだったのでしょうか。

N道警本部外事課指導官(元道本銃器対策課長補佐)は「減給100分の10、3ヶ月」、C釧路警察署係長(元道本銃器対策課主任)は「戒告」でした。稲葉事件に関する稲葉圭昭の供述が全て真実であるとするならば、これらの処分内容は、稲葉事件の抱える問題の大きさに対して妥当なものだったのでしょうか?

交際相手の畑中絹代のその後

畑中絹代も、稲葉事件に関連して犯人隠匿および稲葉圭昭の覚せい剤使用事実隠匿の罪を犯し、懲戒免職処分となりました。畑中絹代の処分と先の稲葉事件関連で書類送検された2名の処分は、バランスが取れたものといえるのでしょうか。

なお、畑中絹代の現在については情報がなく、現在どのように暮らしているのかについてはわかりませんでした。

ネット上には、畑中絹代の現在について「その後きちんと社会復帰を果たし、2011年12月にシマノレーシングの畑中勇介選手と結婚し、サイクルライフナビゲーターの活動もしながら幸せに暮らしている」との記事が出ていますが、畑中勇介選手夫人の畑中絹代氏は、同姓同名の別人のようです。

北海道警察のその後

前述の2002年12月27日に発表された、13人の残りの11人の処分は、警察庁長官訓戒が1人、本部長訓戒が6人、本部長注意が4人というものでした。また、稲葉事件の再発防止策は、組織犯罪捜査に携わる各部に専任監察官と適正捜査指導官を配置するといったものでした。

しかし、2016年6月22日、道警は覚せい剤密売人との共謀による供述調書捏造などの疑い(証拠隠滅と地方公務員法違反)で、道警薬物銃器対策課警部補を逮捕しました。警部補は、以前からエスである密売人の情報で調書の捏造を繰り返すことで摘発実績を上げていた可能性があるという事件で、まるで稲葉事件の再来のようです。

果たして、稲葉事件やそれに関連する事件の処分や再発防止策は、適正なものだったのでしょうか。2016年のこの事件を考えると、稲葉事件の反省が活かされているとは考え難く、稲葉事件の処分や再発防止策には疑問の残るところです。日本の「正義」を扱う警察だからこそ、稲葉事件のような事件を再発させてはいけないはずなのですが。

「稲葉事件」稲葉圭昭のその後

稲葉圭昭は2011年9月に稲葉事件の刑期を終えて出所しました。稲葉事件の罪を償い出所した、現在の稲葉圭昭氏の様子を見ていきましょう。

稲葉圭昭氏の現在

稲葉圭昭氏とそのご家族は、稲葉事件について、マスコミからフェイク情報も含めて随分とひどい報道を受けました。しかし、奥様がしっかりと家族全員を支えたことで、一家離散することもなく、現在は一家揃って暮らしているようです。稲葉圭昭氏は、インタビューに「家をしっかり守ってくれた妻には頭が上がりません」と答えています。

稲葉圭昭氏には、「自分は稲葉事件における自身の罪を認めて償ったので、道警にも組織としての罪を認めて欲しい」という思いがあり、2011年に稲葉事件はなぜ起きたのかを主題とした「恥さらし 北海道警悪徳刑事の告白」(講談社)を出版し、2014年には警察と暴力団との支え合いを主題とした「警察と暴力団 癒着の構造」(双葉新書)を出版しました。

また、稲葉事件の話しを中心に、いくつかのインタビューに応じたり、ラジオで稲葉事件の話しをしたりもしました。いずれもの活動も、自身の顔を公開して、世の中にしっかりと稲葉事件の事実を残そうとしているように見えます。そして現在は、家業の八百屋の他、息子さんと一緒に「いなば探偵事務所」で探偵業を営みながら暮らしています。

事件は映画化もされた

先に紹介した「恥さらし 北海道警悪徳刑事の告白」を原作とした映画が制作され、公開されました。白石和彌監督の「日本で一番悪い奴ら」という稲葉事件を描いた映画で、稲葉圭昭氏本人もこの映画にカメオ出演しています。この映画は、綾野剛氏の主演で2016年6月25日に公開されました。奇しくも、道警で稲葉事件の再来のような事件が発覚した3日後のことでした。

稲葉事件という実際にあった事件を、映画という形で俯瞰的に客観視することで、娯楽として楽しみながらも、稲葉事件を身近に感じつつ再考することができるのではないでしょうか。また、映画という形を取ることで、稲葉事件の深みにどんどんはまっていった稲葉圭昭氏の思いも、少しは理解できるかもしれません。

大きな組織が長く継続すると特異な文化ができていくのか

今回稲葉事件をふり返ってみたことで、この事件は稲葉圭昭氏個人の事件として扱うだけでいいのだろうかと改めて考えるきっかけになりました。もちろん、稲葉事件に関わった人物の罪の重さは変わりません。稲葉事件に巻き込まれたことで、人生をめちゃくちゃにされた方もいます。

しかし、稲葉事件が生まれた背景には、当事者が所属していた組織の文化も大きく影響しているのではないかと思わざるを得ない要素が多かったように感じます。

組織が、ことに「正義」を扱っている組織が長く存続していく中で、はたから見るとある意味滑稽とも思われるような特異な文化が生まれ、当事者達はそれを真面目に守ろうとしていくという、おかしくも悲しい現実が生まれ、稲葉事件のような事件が起こる背景になったように思われます。

稲葉事件に関わったそれぞれの個人に責任や罪がないというわけではありません。稲葉事件の当事者を、組織の犠牲者だと言いたいわけでもありません。

しかし、稲葉事件を教訓として、私たちは自分が属している組織の風土や文化に流されることなく、自分の中で「正義」や「正しさ」を個々に判断し、自分の進むべき道を選ぶ力を身につけるべきなのではないでしょうか。

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