池内淳子の死因とは?子供(息子)や夫に関する情報も紹介

和服が良く似合う美人で、演技派女優としても有名だった池内淳子さんですが、その経歴や死因についてはご存知でしょうか。池内淳子さんのデビュー前から亡くなるまでを、順番に紹介していきます。在りし日の大女優の軌跡をご覧ください。

池内淳子の死因とは?子供(息子)や夫に関する情報も紹介のイメージ

目次

  1. 1池内淳子とは?
  2. 2池内淳子のプロフィール
  3. 3池内淳子の経歴
  4. 4若い頃の池内淳子の画像
  5. 5池内淳子の出演作品
  6. 6池内淳子は結婚してた?
  7. 7池内淳子の死因は?
  8. 8池内淳子のお別れの会
  9. 9石井ふく子プロデューサーによる池内淳子秘話
  10. 10素晴らしい女優で和服美人の池内淳子さん

池内淳子とは?

日本には有名な女優さんはたくさんいますが、叙勲での旭日小綬章授与までされた女優さんはあまりいません。2010年に76歳で没した池内淳子さんは、そんな素晴らしい女優でした。

最初は映画界にいて華々しく活躍し、その後はテレビドラマへと舞台をうつし、数々の有名作品に名前を連ねています。

では、大変な美しさと演技力のあった池内淳子さんの生涯について、デビューから死亡原因にいたるまでを紹介していきます。

池内淳子のプロフィール

本名 中澤純子(なかざわすみこ)
生年月日 1933年11月4日
現在の年齢
2019年現在)
2010年9月に76歳で没 生きていれば満84歳
出身地 現在の東京都墨田区
血液型 O型
活動内容 女優
所属事務所 デビュー当時 新東宝

美貌の女優として、また愛人役から白い割烹着の似合うお母さん役からと何でもこなせる女優として、人気だったのが池内淳子さんです。彼女は現在の東京墨田区に塩物問屋の長女として生まれました。

映画でデビューしてからはその美しさで大人気になりますが、結婚を契機にして引退、しかし離婚後にまた芸能界へ戻ってきます。

1960年代から1980年代まではテレビドラマの女王として君臨し、毎作視聴率20パーセント以上をとるとして「20%女優」とも言われました。
 

池内淳子の経歴

東京の塩物問屋の長女という恵まれた出生だった池内淳子さんですが、その美貌や上品さ、佇まいを買われて芸能界にデビューまではどんな人生を歩んできたのでしょうか。

高校を卒業したところから順番に紹介します。

1952年日本橋三越に入社

池内淳子さんは昭和27年、1952年に高等学校を卒業したあと、日本橋三越への入社試験に受かります。しかし親の反対にあい、入社は危ぶまれていました。しかし祖父の一言で入社を許され、呉服売り場に配属されます。

そこで美貌が票ガンとなりましたが、1年ほどで退社、今度は花嫁修業のためと和裁と料理の学校へ通います。しかし「サンケイグラフ」のカバーガールに応募したことで、芸能界への道が開けます。

「サンケイグラフ」のカバーガールに合格

花嫁修業中ではありましたが、池内淳子さんは好奇心も大せいな女性だったようで、カバーガールに応募しました。それが合格し、10月号の表紙を飾ります。それが関係者の目にとまってスカウトされます。

そして池内淳子さんは新東宝へと入社、映画界へと入っていきます。新東宝へと入社した時、日本橋三越の呉服売り場で一緒だった前田通子さんとも再会、美貌で評判だった二人は共に映画女優として歩むことになりました。

1955年「皇太子の花嫁」で映画デビュー

新東宝に入社した翌年には映画「皇太子の花嫁」で無事にデビューします。その後の「次郎物語」では主人公の姉を演じて注目を集め、美人の脇役女優として着実にキャリアを積んでいきます。

そして1956年の「新妻鏡」で初の主演となりました。翌年の1957年には立て続けに映画に出演し、久保菜穂子さんや三ツ矢歌子さんと並べて「新東宝現代劇の女優三羽烏」と呼ばれます。

油の乗ったときでしたが1957年、俳優でジャズ歌手の柳沢真一さんと出会って結婚、女優を引退してしまいます。しかし結婚生活は短く、翌年には別居を経て離婚となりました。池内淳子さんはまた新東宝と再契約を結びます。

1962年よろめきドラマには欠かせない存在となる

離婚から芸能界へと復活し、人気が出たのは昼メロであった「日日の背信」での不倫愛に悩むヒロインを演じたことでした。ドラマは昼の放送であったのですが驚異的な視聴率をたたき出し、池内淳子さんは人気女優として有名になります。

業績悪化で倒産した新東宝から移った東京映画にて作られた「花影」で主演を演じ、高い評価を受けます。その結果、今でいう不倫ドラマの「よろめきドラマ」には欠かせない存在として「日本放送作家協会女性演技者賞」を受賞しました。

人気、演技力としてもナンバーワンに輝いたのです。この間にテレビドラマ「女と味噌汁」シリーズは毎回高い視聴率をたたき出していて、池内淳子さんの代表作となりました。

若い頃の池内淳子の画像

ではここで二つほど、若かりし頃の池内淳子さんの画像をご覧ください。上品で華やか、匂いたつような美人なのがよく判ります。

人気俳優とのプロマイド

新東宝専属の頃のプロマイドです。当時人気が非常に高かった高島忠夫さんとのショットです。美男美女で日本中をわかしました。

美しい女優達に憧れて、髪型やメイクを真似する女性達もたくさんいました。

東芝の電子レンジの宣伝ガール

池内淳子さんは色んなイメージキャラクターとしても活躍していました。これは東芝の電子レンジの宣伝ポスターです。

役柄では割烹着をきた女性が多かったのですが、石井ふく子プロデューサーによると実は池内淳子さんはあまり料理はしなかったそうです。

あまりに何もしないので妹さんたちから「殿」と呼ばれていた、と後に語られています。

池内淳子の出演作品

では、続いて池内淳子さんの出演作品を紹介しましょう。長年の女優生活の中で数々の映画・ドラマに出ていますので、ここではその中でも特におすすめしたい作品を厳選して紹介します。

衛星放送などでは昔の映画などをよく放送していますので、見かけたら是非視聴してください。

【映画】けものみち

「けものみち」は松本清張の長編小説で、社会派サスペンスの代表的作品です。1965年に東宝で映画化され、何回かリバイバルされましたが、1作目で主演を池内淳子さんが務めています。

主人公の民子は病気で動けなくなった夫を養うために旅館に住み込みで働いていますが、夫は民子をいたぶります。そこに権力者の愛人にならないか、と話をもちかけられ、民子は話にのって夫を殺害し、悪の道へと踏み込んでいきます。

池内淳子さんはヒロインの民子を演じました。珍しいほどの悪女だったため、そのことでも話題となった作品です。

【映画】男はつらいよ 寅次郎恋歌

「男はつらいよ 寅次郎恋歌」は男はつらいよシリーズの8作目です。池内淳子さんはマドンナ役で出演しており、寅次郎をメロメロにしました。

妹のさくらの夫、博の母がなくなったことで、寅次郎も家庭の幸せについて考えるようになりました。そんな時、柴又に美人の未亡人である貴子が喫茶店をオープン、寅次郎は貴子を一目みて骨抜きにされてしまいます。

いつもは少しだらしない寅さんが、貴子さんを諦めるときは男気溢れていた、と評判になった作品です。おいちゃん役の森川信さんが最後の出演でした。

【ドラマ】女と味噌汁

「女と味噌汁」は作家の平岩弓枝さんが1965年に書き下ろした小説の映像化作品です。1965年からTBS系列でシリーズ化され、大人気ドラマとなりました。1968年には映画化もされ、池内淳子さんは主演で同じく務めています。

亡くなった母の借金返済のために芸者になっている主人公のてまりが、毎晩座敷を上がったあと妹分の小桃と共にライトバンで味噌汁とおにぎりを出す店をしていました。

いつか小料理屋を出したい、という夢をもつこまりと、芸者仲間、男達の人間模様を描いたドラマです。この作品で主演の池内淳子さんは「20%の女優」と異名を得るようになりました。

【ドラマ】白い巨塔

山崎豊子さん原作の小説の4度目のテレビドラマ化作品で、2003年10月から12月まで一部が放送、2004年の1月から3月までが二部放送されました。各回視聴率は20%をこえ、最終回は30%をこすなど大人気のドラマです。

医療ドラマでは有名な作品であり、医界の権力争いや人間模様を的確に表していると評価が高い作品です。白い巨塔といえば「医者!」と誰もが連想するまでになりました。

池内淳子さんは黒川きぬ役で出演、財前五郎の実母であり、岡山の田舎で畑を営みながら息子の心配をしている女性を演じました。

【ドラマ】渡る世間は鬼ばかり

ホームドラマとして非常に有名な作品が「渡る世間は鬼ばかり」です。池内淳子さんも出演しています。

岡倉大吉と妻節子、5人の娘たちの嫁いだ先の家族との暮らしを描くドラマで、長寿番組です。

池内淳子さんは第9シリーズに出てくる客で、小宮怜子です。岡倉大吉から思いを寄せられる女性として登場しました。

池内淳子は結婚してた?

名実ともに人気だった女優の池内淳子さんですが、結婚についてはどうだったでしょうか。紹介していきましょう。

1952年に結婚

池内淳子さんは1956年にラジオで一緒になったという俳優でジャズ歌手の柳沢真一さんと、翌年の1957年に結婚しています。挙式は品川プリンスホテルだったそうです。

池内淳子さんはこの結婚を機に、女優を引退しています。

1958年に離婚

専業主婦になって家庭に入った池内淳子さんでしたが、結婚生活は長くは続きませんでした。2年も待たずに別居を経て離婚となります。1958年の1月には池内淳子さんが実家に戻ることになりました。

原因については今も不明のままですが、当時のメディアでは性格の不一致や姑との確執などが噂されています。

池内淳子には息子がいる?

池内淳子さんには度々息子がいるのでは、という憶測が飛び交うのですが、実際には子供さんはいません。結婚はしたものの夫婦生活はすぐにうまくいかなくなったのではないか、と言われています。

実際にご本人も元夫である柳沢真一さんも、二人には子供がいると言ったことはありません。

池内淳子の死因は?

映画にドラマにと演技の道を駆け抜けた池内淳子さんですが、残念ながら2010年の9月26日に他界されています。

では、その死因などについて詳しく紹介します。

2007年「肺腺がん」発覚

2007年の地方公演の最中に胸に違和感を感じた池内淳子さんは、病院で検査をしました。その結果、間質性肺炎、胸水貯留、肺腫瘍の診断が下されます。そして入院しますが、2007年中には舞台へ復活しています。

早期回復するも再発

かなり早く回復し、2007年には復帰でした。2010年5月16日まで舞台「三婆」に出演していましたが、再び入院となってしまいます。

2010年9月他界

そして約4ヵ月後、2010年の9月26日の午後4時21分、東京都内の病院で死去しました。享年76歳で、死因は肺腺癌です。

病気は喫煙が原因だった?

死因の肺腺癌について、メディアでは池内淳子さんが生前大変な愛煙家だったからではないか、という推測がなされています。

池内淳子のお別れの会

2010年、池内淳子さんの死去はたくさんの役者仲間を嘆かせました。彼女の誕生日でもあった11月4日には、芸能界仲間が多数参列する「お別れ会」が営まれました。

臨終を看取ったのも役者仲間であり、公私共に仲がよかった長山藍子さんですが、彼女はお別れの会でも世話人を務めています。

多くの役者仲間が別れを惜しむ

池内淳子さんのお別れの会には、多数の役者たちが集まりました。佐久間良子さん、八千草薫さんや三田佳子さん、宇津井健さん、赤木春恵さんや前田吟さん、高橋秀樹さんに、プロデューサーとして親しかった石井ふく小さんも参列しました。

素晴らしい演技者として愛された、池内淳子さんの人柄をあわらすお別れ会でした。黒柳徹子さんは、「一緒に老人ホームに入ろうねと約束したのに」と悲しんだそうです。

石井ふく子プロデューサーによる池内淳子秘話

昭和の女性名プロデューサーとして有名な石井ふく子さんですが、池内淳子さんとは半世紀以上の付き合いであり、臨終を看取るなど親密な付き合いだったようです。池内淳子さんが亡くなったあとに、石井さんが思い出を語っています。

江戸っ子気質でちゃきちゃき娘

石井ふく子さんが作った作品の中で舞台「鶴八鶴次郎」という作品がありますが、その中で池内さんが手ぬぐいを破るシーンがありました。破りやすいように切り込みを入れているにも関わらず、どうしても破けなかったそうです。

石井さんが「バカ!いい加減にしろ!」と怒鳴ると、池内さんも「バカ!切れないんだよ!」と怒鳴り返したそうで、周囲は驚いていたのですが見事な江戸っ子気質だと思われたそうです。

酒に強く面白がり

池内さんは愛煙家でもありましたが、酒豪でもあったそうです。石井さんとも何度も旅行へいき、酔っ払った池内さんに「裸にするわよ!」と追いかけられたとか。

石井さんは面白かったのでいつかそれを再現してやろうと考え、1987年の舞台「お嫁に行きたい!」で池内さんと長山藍子さんが酔っ払うシーンを作ったそうですが、素面では思い通りに出来ず、イライラしたということです。

素晴らしい女優で和服美人の池内淳子さん

池内淳子さんは若い時から和服が似合う女優さんでしたので、昔の映像や写真では和服姿が多く残っています。

若い頃からイメージキャラクタとして味噌の宣伝にも出ており、「味噌汁と女」で有名になったこともあって、優しいお母さんといったイメージが強くついていましたが、どんな役でもこなす演技派女優さんでした。

この週末には池内淳子さんの作品を順番にみて、素晴らしい女優を悼むのも良いかもしれません。

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