京都の崇仁地区とは?歴史や被差別部落出身の芸能人なども紹介

階級による差別の少ない日本ですが、残念ながら一部では根強い部落差別意識が残っています。かつて京都では最大の被差別部落あった崇仁地区。長く偏見にさらされてきた崇仁地区ですが、時代とともに新しく生まれ変わろうとしています。部落差別がなくなる日も近いかもしれません。

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目次

  1. 1京都の被差別部落「崇仁地区」
  2. 2そもそも被差別部落とは?
  3. 3崇仁地区とは?
  4. 4京都の被差別部落出身と噂される芸能人
  5. 5他の被差別部落出身と噂される芸能人
  6. 6部落の今昔
  7. 7変わりつつある崇仁地区
  8. 8知らなければ差別はなくならない

京都の被差別部落「崇仁地区」

かつて、西日本有数、京都では最大規模の被差別部落があった「崇仁(すうじん)地区」。長く差別や偏見に苦しみ、京都の華やかな賑わいからは遠くかけ離れた日蔭の存在でした。

時代とともに差別や偏見は薄れつつありますが、今なお「崇仁地区」と聞くと眉を顰める人もいないわけではありません。そんな崇仁地区ですが、被差別部落特有の裏寂しい町並みは姿を消し、今また新しく生まれ変わろうとしています。

部落解放から間もなく150年になろうとする現代、崇仁地区がかつての被差別部落だったことなど関係なくなり、いわれのない差別や偏見がなくなる日も近いのかもしれません。

そもそも被差別部落とは?

被差別部落とは、「穢多(エタ)」や「非人(ヒニン)」など、賤民と呼ばれた人々が住んでいた集落のことです。部落の起源には諸説ありますが、江戸時代の封建的身分制度から生まれたという説は、現在では学術的に否定されています。

鎌倉、室町時代の文献にも「穢多」の文字は見られ、少なくともそれ以前から被差別部落は存在したと考えられています。蝦夷などの先住民や、大和朝廷における罪人や謀反人が賤民として差別され、特定の場所に流されたことが起源であるとする意見もあります。

賤民とされた人たちは、川べりなどの特定の場所にしか住むことが許されず、職業も、処刑人や屠畜など、死に関わる仕事や皮革加工や汚物処理などに限られていました。

江戸時代には世襲制度が定められ、被差別部落出身者への差別は、より強固なものになりました。しかし、1871年、明治政府の発布した解放令により、被差別部落の解放が宣言され、法の上では部落差別はなくなりました。

それにより、部落出身者の職業選択や住む場所も自由になりましたが、現実には国民の抵抗感が強く、差別や偏見は続き、被差別部落も依然として存在し続けました。

就職の際には出生地を明記した戸籍の提出が求められ、一定の地区の出身者は採用されないといった差別が後を絶ちませんでした。1970年代になっても差別はなくならず、名にし負う大企業がこぞって、部落の地名リストを使って採用者をふるいにかけていました。

もちろんこうした差別行為は憲法に違反しますが、部落差別を直接的に禁止する法律はなく、被差別部落リストは、名簿業者によって売買され、今でも見つかり次第回収されています。

インターネット上に被差別部落の位置が記された古地図が公開されることも珍しくなく、知ろうと思えばいくらでも被差別部落の地名を知ることができます。そういった情報を元に、現代においてもいわれなき部落差別が続いているのは残念なことです。

崇仁地区とは?

江戸時代以降、人の入れ替わりが激しかった東京では、被差別部落の面影はあまり多くは残っていません。一方、関西以西には、かつての被差別部落の名残がある地区が、まだ多くあり、人々の記憶にも刻まれています。

崇仁地区は、京都でも最大規模の被差別部落があったところで、京都人なら誰もが「あそこは」と被差別部落があったことを認識している地区です。

かつてはバラックのような小さな平屋が密集した、住人以外はほとんど誰も立ち入ることのない地区でしたが、現在では多くの家屋が取り壊され、空き地の中にポツンと、改善住宅と呼ばれるマンションが建っています。

崇仁地区の歴史

京都最大の被差別部落があった崇仁地区は、解放令発布以降も、激しい差別と貧困に苦しんだ地区です。崇仁地区には、「柳原銀行記念館」という、崇仁地区の戦前、戦後の写真や部落の歴史を知ることができる貴重な資料などが展示、公開されている施設があります。

「柳原銀行記念館」は、1899年、部落民であるために一般の銀行から融資を受けることができない崇仁地区の住人のために、崇仁地区の町長であった明石民蔵氏ほか数名の有志の出資で誕生した、日本で唯一の部落出身者が作った私設銀行です。

銀行は、1927年に倒産しましたが、明治後期の貴重な洋風建築は、保存活動を経て、1994年、京都市登録有形文化財に指定されました。その後、京都市は建物を移築、復元し、1997年に、同和問題への啓蒙施設として、「柳原銀行記念館」をオープンさせました。

崇仁地区は、戦前から戦後にかけては外国人の流入が相次ぎ、貧困の度合いを深めていきました。教育の不行き届きが更なる貧困を生み、治安も悪化し、長く、近寄りがたい地区として避けられていました。

しかし、1969年に設置された同和対策事業特別措置法によって、同和地区に認定され、数々の改善事業が行われ、生活や教育に援助の手が差し伸べられました。

戦後すぐは約6000人、多い時では1万人を超える人が住んでいた崇仁地区ですが、2015年の時点で居住者はおよそ1400人にまで落ち込みました。

現在では、過去のいわれなど気にしない若者たちによって、新たな街としての開発が進んでいます。おしゃれなカフェや、行列ができるラーメン店なども立ち並び、土地にまつわる忌まわしい思い込みは、払拭されようとしています。

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崇仁地区の場所

崇仁地区は、京都駅から東へ徒歩5分ほどのところと、抜群の立地にあります。地区の東には鴨川、地区の中には高瀬川が流れています。北は七条通り、南は八条通り、西は高倉通りに囲まれた一帯が崇仁地区です。

京都は日本有数の観光名所で、土地が少ないため、被差別部落があった場所という偏見にとらわれない人々によって、次々と開発が進み、若者が集まる新名所となりつつあります。

京都の被差別部落出身と噂される芸能人

被差別部落出身であることを公にしている芸能人は多くはありません。被差別部落出身と言われている芸能人の多くは、憶測や噂、全くの誤解が根拠になっていることが多いです。もし、被差別部落出身だったとしても、その芸能人の才能や人間性には全く関係はありません。

島田紳助

1980年代前半の漫才ブームを牽引した人気漫才コンビ「紳助・竜介」で活躍した島田伸介さんは、2011年、人気絶頂の中で反社会的勢力との交流が明らかになり、芸能界を引退しました。島田紳助さんを慕う芸能人は多く、いまだに復帰を望む声は途絶えることがありません。

島田紳助さんは京都府京都市南区の出身です。この地区に被差別部落があったかどうかは、文書などに残ってはいません。しかし、島田紳助さんは、母校大谷高校の講演会で、自らが部落出身者であることを公表しました。

倖田來未

歌手として活躍中の倖田來未さん。出身地の京都市伏見区には被差別部落が複数あったため、被差別部落出身者ではないかと噂されますが、本当か嘘かはわかりません。

ちなみに、1971年に、フォークグループ「赤い鳥」が歌って大ヒットした『竹田(たけだ)の子守歌』は、よく大分県竹田(たけた)市の歌だと誤解されますが、京都市伏見区にあった被差別部落、竹田地区で歌い継がれてきた労働歌がベースになっています。

他の被差別部落出身と噂される芸能人

東京以西、とくに関西地区には被差別部落が数多く存在し、その周辺の出身者は、被差別部落出身ではと噂されることが多いです。

やしきたかじん

歌手であり、タレントであり、司会者であり、パーソナリティであったやしきたかじんさん。関西を中心い絶大な人気を誇った芸能人の一人です。2014年に食道がんのため、惜しまれながらこの世を去りました。

やしきたかじんさんは、父親が第二次大戦前後に日本に渡ってきた在日韓国人で、大阪市西成区の出身です。西成区には、大規模な被差別部落がありましたが、やしきたかじんさんは、血縁による部落民ではなく、部落に住んでいたことで、被差別部落出身と言われている人の一人です。

萬田久子

ミスユニバース元日本代表で女優の萬田久子さん。変わらぬ美貌と抜群のプロポーションで、活躍を続けています。萬田久子さんの出身地は多くの被差別部落があったことで知られる大阪市大正区で、実家が大きな精肉業を営むことから、被差別部落出身ではと噂されています。

精肉業は確かに被差別部落に住む人々が生業としていましたが、現在精肉業を営む人がみんな被差別部落出身であるわけがありません。萬田久子さんの場合も、あくまで邪推、憶測の域を出ません。

加藤あい

CM女王にも輝いたことのある美人女優の加藤あいさん。出身地は愛知県西春日井郡(現清須市)です。しかしなぜか、加藤あいさんの出身地が、愛知県海部郡甚目寺町(現あま市)であるとの噂もあります。

どちらにも被差別部落があったことから、加藤あいは被差別部落出身だとの噂がありますが、真意のほどは定かではありません。

部落の今昔

部落とは集落のことで、人が集まって住んでいる場所を指して部落と呼ぶこともありますが、被差別部落を部落と呼ぶことも多いです。

被差別部落には、先祖代々そこに住んでいる血縁による部落民と、よそから被差別部落地区に移り住んだ部落民とがいます。被差別部落地区は総じて家賃が安いため、外国人や貧困層が住みつきやすい傾向があり、それがまた部落差別の温床になっています。

貧しく、教育も行き届かない被差別部落は、犯罪の発生率も高く、一般の人からは距離を置かれ、社会から隔絶されることもこともありました。しかし、被差別部落出身だからと言って、そこに住む人全員に問題があるわけではありません。

一部には、部落民であることを笠に着て、暴利を貪る不行き届きな輩もいることは確かです。しかし、封建的な身分制度のとばっちりを受けた部落出身者には、何の落ち度もありません。その人個人を見ずに、出身地だけで差別するのは明らかに間違いです。

部落については、よく知らないという世代も増えており、差別や偏見は薄れつつあります。しかし、被差別部落をよく知らないからこそ、一人歩きしたネットのいい加減な情報を鵜呑みにし、新たな差別が生まれるという弊害も起こってます。

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変わりつつある崇仁地区

世界に誇る人気の観光地にありながら、忘れ去られたような存在だった崇仁地区ですが、歴史の風化とともに差別意識も薄れ、新しい京都の発展の礎として生まれ変わりつつあります。

崇仁地区と聞くだけで嫌悪感をあらわにしていた風潮は、今はありません。かつては被差別地域であり、不穏な空気をまとった時代が合ったことは事実ですが、今ではその面影は、雑草が生え茂った空き地に残るばかりです。

京都市立芸術大学の移転

同和政策の一環として建てられた改善住宅も老朽化が進み、住人の数も減っています。若者が地区から流出したことで、崇仁地区は、人口減少と高齢化の深刻な状況に直面しています。

そこで、京都市は、長く都市開発の枠の外に置かれていた崇仁地区の再開発に乗り出しました。もともと京都駅から近く、立地に恵まれた崇仁地区をこのままにしておくのはもったいないという意見は多く上がっていたので、開発は加速しています。

2023年には伝統ある京都市立芸術大学が西京区から移転することが決まっています。その際には、古くなった改善住宅を取り壊し、キャンパスが建設される予定です。

京都市は、崇仁地区を芸術の拠点として生まれ変わらせようとしています。芸術を愛する多くの若者が行き交うであろう数年後には、ここにかつて差別と偏見に苦しんだ被差別部落があったことは忘れ去られるかもしれません。

屋台村「崇仁新町」

崇仁地区は、被差別部落に対して何ら偏見や差別を抱いていない若者や外国人にとって、今や新たな観光名所となっています。それと言うのも、2018年、地域と若者が中心となって、屋台風の店舗で地域の活性化を図る「崇仁新町」が人気を博しているからです。

京都市立芸術大学の学生らがアイディアを出した個性的な屋台は、連日多くの観光客で賑わう京都の新しい観光スポットとして話題を集めています。

「崇仁新町」は、2023年に移転してくる京都市立芸術大学の建設工事が始まる2020年までの期間限定ではありますが、崇仁地区に人を呼び込む試みとして大きな成果をあげています。

知らなければ差別はなくならない

被差別部落問題は、歴史が生んだ負の遺産です。政府の同和政策事業によって、被差別部落出身者への理解はある程度進んだかに見えましたが、不良外国人の流入や、部落問題を利用した同和利権の乱用などで、被差別部落への非難や批判は再燃しています。

さらに、被差別部落の歴史や、理不尽な差別の存在を知ることなく、ネットの情報のみを鵜呑みにした新たな差別も生まれています。

被差別部落とは何か、なぜそれが存在したのかを知らなければ、根本的な差別の解決にはなりません。そして、たとえ被差別部落出身であっても、それはその人の人間性には何の関係もないことです。

被差別部落出身者では、と疑惑の目を向けられる芸能人は数多くいます。しかし、その多くは、根拠の希薄な憶測です。たとえそれが事実であったとしても、そんなことはどうでもいいことです。

一方で、部落出身者であることを公表し、堂々と世間に立ち向かっている芸能人、有名人もいます。日本には、かつて忌まわしい身分制度があり、その中で部落民として差別されてきた人たちがいたことは事実です。しかし、それを令和の世にまで引きずるのは、愚かしいことです。

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