財津一郎の現在は?病気で死亡説!タケモトピアノのCMはまだ続く?

「ピアノ売ってちょうだ~い」でおなじみの財津一郎さん。現在、何してるの?生きている?病気なの?タケモトピアノのCMでしか見ないけど、芸能活動は続けているの?といった皆さんの疑問に答えます。これを読めば財津一郎さんの全てがわかります。

財津一郎の現在は?病気で死亡説!タケモトピアノのCMはまだ続く?のイメージ

目次

  1. 1財津一郎の現在は?
  2. 2財津一郎の経歴・プロフィール
  3. 3役者としての財津一郎の活躍
  4. 4財津一郎の息子・財津功の芸能活動
  5. 5財津一郎は現在何歳に?健康状態は?
  6. 6財津一郎の現在の活動は?
  7. 7財津家について!財津一郎と財津和夫の関係は?
  8. 8財津一郎さんは生きている!

財津一郎の現在は?

財津一郎さんといえば、華美な役は少ないもののベテラン俳優のいぶし銀の演技で、ドラマを盛り上げてくれました。キレのあるギャグも有名です。しかし、最近ではテレビや舞台での活動を見かけることはなく、現在は活動をされているのか気になっている方も多いかと思います。

独特な味のある美声と黒のタキシードを着てタケモトピアノのCMに出ている財津一郎さんですが、病気もせずに若々しいお姿は現在も健在なのかといいますと、既に年齢も80歳を過ぎてますので、CM出演時よりは年を取られています。

〜してチョウダイ!のギャグも、懐かしい響きです。年齢的にも病気説や死亡説がでていてもおかしくないですが、生きているようです!現在のお姿は残念ながらメディアでの出演がないため見ることがないですが、活動状況はどうなの?と気になるところです。

一人息子はテレビ局で仕事をされているようです。息子さんの芸能活動や、歌手の財津和夫さんとは兄弟なのか?という疑問にもお応えします。ところで財津和夫さんて?という方のために、徹底的に調べてみましたので是非ご覧になってください。

ちなみに財津和夫さんは、ポップスグループ「チューリップ」のボーカルです。
 

病気で死亡説が流れている

財津一郎さんは昭和9年生まれで、愛川欽也さん、坂上二郎さん、長門裕之さん、牧伸二さん、藤村俊二さん、大橋巨泉さん、山本文郎さんらと「昭和9年会」を結成しています。残念ながら、現在ほとんどのメンバーは年齢も年齢ですので既に他界していて、生きているメンバーの方が少ないという現状です。

では、財津一郎さんは?生きている?病気?というと、年齢が61歳の時に脳内出血を発症をしており、そこで大きな病気と向き合っています。

左半身に軽い麻痺が残ったものの、リハビリに励んだおかげで、わずか3か月後にはドラマに復帰されています。2011年4月号の「今日の健康」のインタビュー取材では、財津一郎さんがこたえる形で病気のことについて掲載されています。

ひとたび脳内出血を発症してしまうと、病気になる前と同じような日常作業が困難になることも珍しくなく、それまでの生活が一変する可能性すらあります。病気を克服するための精神力は想像以上でもあります。

わずか3カ月という短い期間で病気を克服しドラマに復帰していますが、その裏では本当に辛いリハビリ生活を乗り越えた財津一郎さんの役者に対するプライドでもあったのでしょう。

病気克服復帰後も数々の役を演じており、2004年の連続テレビ小説(通称朝ドラ)にも出演されています。しかし、財津一郎さんの年齢76歳で主演をされた映画「ふたたびswing me again」以降は事実上の芸能活動は残念ながら確認できていません。

生きている説

現在も生きているの?回答は「はい、生きている!」です。財津一郎さんといばえ、タケモトピアノのCMをはじめ、有名なギャグも創り出してますし往年のスターでもありますから、多くの活動をされています。もしもお亡くなりになっていたら、芸能レポーターがだまってはいないでしょう。

また息子さんもテレビ局に勤務されていますので、もしもの時には訃報のニュースが流れると思います。

年齢的にも、健康体を維持されるのは財津一郎さんのギャグ風に言うと「キビシイッ!」かもしれませんが病気をふき飛ばすほどのギャグは健在ではないかと思います。

財津一郎の経歴・プロフィール

今度は財津一郎の今までの経歴やプロフィールを見ていきたいと思います。

熊本での生活

財津一郎さんの「財津家」は神武天皇の時代から続く名家で、しかも父親は現在の農林水産省(農林省)の役人でした。3人兄弟の末っ子として、生を受けています。はじめは東京に住んでいましたが1944年、財津一郎さんの年齢が10歳の時に父親が中国出征を機に、財津家の故郷である熊本県へ疎開しています。

シベリア抑留していた父親の帰りを待つ間は、苦しい貧しい生活だったようです。病気の母を助けるために、必死に食料を調達しようとした幼少期でした。

高校時代の活動

終戦後も高校を卒業するまで熊本で過ごしています。高校時代は、なんと水球に情熱を注いでいました。後に水球はやめてしまいましたが、もし続けていたらインターハイ優勝のメンバーに入ってもおかしくない実力の持ち主だったそうです。

高等学校で合唱と出会ったことや、大好きな映画の影響もあって、活動の場をプールから演劇へ変更されています。

2007年12月にNHKの番組撮影のため、母校の阿蘇清峰高校をおとずれた際には、全校生徒より花束が贈られるなど歓迎を受けています。

財津一郎さんは「ここで友だちにいじめられていた時に担任の先生が学校の畑で一緒に麦踏をして、『踏まれた人間ほど強くなる、今は耐えよ、出る時を待て』と励まされた、皆さんもこのすばらしい阿蘇で頑張ってください」と熱いエールを後輩たちに贈っています。高校時代の経験が、財津一郎さんの作品に生きている!といえます。

上京後の苦労

1953年、上京後に早稲田大学文学部演劇学科を受験をするも失敗してしまい、早大近くの印刷店などでアルバイト生活をしていました。演劇の勉強をするため、当時東京都大田区にあった榎本健一映画演劇研究所で演技を学び、また帝劇ミュージカルの研究生にもなりました。

憧れの仲代達也さんに会ったことがきっかで、1955年に財津肇メ(ざいつ はじめ)の芸名で石井均一座に入門し、ここで今の奥さんと出会っています。

財津一郎さんの芸能生活は順風満帆なものではなく、自身も「年齢が30歳までは砂をかむ思いをしよう」と、実社会でもまれながら芸を磨く道を選んでいます。皿洗いの仕事をしたり、「ジミー財津」という名前で進駐軍のキャンプ周りをしながらジャズシンガーとして収入も得ていました。

新宿の劇団「ムーラン」の舞台に立つも、そのムーランも数年後には解散。時代の波にのまれ、所属劇団が次々とつぶれるという憂き目にも耐えてきました。

大阪からやり直しということで活動の場を移し、宝塚新芸座からOSミュージックホームと歩き、1962年に吉本興行に入り、その2年後に吉本新喜劇に参加しました。

この時に、今の芸名である財津一郎に改名しています。本名は財津永栄(ながひで)さんですが、「吉本では大衆的な名前でいかなあかん。本名は堅苦しい。一郎と言えば河野一郎、有島一郎。みんな大物や」という理由から、当時の吉本興行の林社長に名付けてもらったそうです。

1965年には役者活動が認められて吉本新喜劇座長に就任しています。新喜劇参加当初は、サラリーマン役が多かったそうですが、段々と老け役が増えていったようです。

藤田まことさん主演の「てなもんや三度笠」では、浪人の蛇口一角(へびぐちいっかく)役で出演しています。最高視聴率64.8%(昭和41年関西地区)というおばけ番組で、この中でも財津一郎さん独特の世界観やきれっきれのギャグが生み出されています。

藤田まことさん、白木みのるさん、財津一郎さんの個性は、お茶の間をとにかく楽しませてくれました。スタジオに組まれたセットの中で、テンポよく展開される物語をミスなく演じる出演者は、まさに職人芸と言える!と今も語り継がれています。

財津一郎さんは、熊本日日新聞に「私を語る」という連載を持っていました。この連載は、後に「聞いてチョウダイ 根アカ人生」という1冊にまとめられています。この本の中で、自分を支えてきたのは、高校時代の恩師からもらった「『根アカ』に生きろ」という言葉と綴っています。

ここに、財津一郎さんのコメディアンとしての力強さがあるのでしょう。また、家族である奥様、息子さんの大切さも綴られています。今までの経験が生きているからこその1冊で、是非ふるさとの皆さんに読んでもらいたいと財津さんは語られています。

財津一郎のギャグって?

手を頭の後ろから回して反対側の耳をつかんで独特な甲高い声で叫ぶ「非っ常にキビシ〜ッ!」や「〜してチョウダィ!」のギャグ。また「てなもんや三度笠」では、抜いた刀の刃を蛇のようになめまわす、特徴ある動きが評判となって、子供大人を問わずブレイクしました。

この甲高い声で叫ぶギャグですが、元々はギャグではなかったようです。演技中に、突発的に奇声を発したところ、それが予想外に受けたことでこのギャグが生まれました。芸人さんは、いつどこでブレイクするギャグが生まれるか本当にわかりません。ここでも財津さんの個性が生きているのが分かります。

財津一郎さんは、大阪での芸能生活の中から大阪マインドを学んでいます。この苦労の中には、たくさんの喜びや感動があり、そこから自然とお客さんを笑わせるギャグを創りだしていったようです。

コメディアンとしての財津一郎

東京では、アカデミックな芝居を目指していましたが、お笑いに関して厳しい反応をする大阪のお客さんによって、財津一郎さんのお芝居に柔軟さを加えていきました。

「人情とリアリズムの街。一生懸命やると喜ぶし、駄目なものは駄目と教えてくれる。答えはすぐ出た」と財津さん。当時は妻と幼い息子を抱えており、寺の離れで食うや食わずの下宿生活だったが、庶民感情の動きに気づき、大衆へのサービスに喜びを感じるようになった頃に、吉本新喜劇の座長を任されました。

大阪に成長させてもらったコメディアン時代。そこで生まれたギャグ。いつも先の自分、40歳の顔、50歳の面構えをイメージし、世間に認められる有名芸能人になっても試行錯誤を続けています。

役者としての財津一郎の活躍

個性派俳優として人気がありましたが、「くどい」と言われることも多かったようです。これも本人の持ち味と自覚して演じることもありました。

コメディアンとしての財津一郎、俳優としての財津一郎。どちらかというと、後者のイメージが強いのは舞台「アニー」「三文オペラ」で美声を披露したり、高視聴率をマークした「3年B組金八先生」では英語教師の左右田先生を演じたりと、今までに出演したドラマを書き出したら、すごい量になりそうですし、またどれもが知名度の高い作品だからです。

「ふたたび swing me again」が最後の作品?

財津一郎さん、2010年に主演された「ふたたび swing me again」を最後に芸能活動されていないようです。この作品は、ハンセン病という重い差別や偏見とジャズをテーマにした深い映画です。こちらの作品には、朝ドラ俳優で有名な鈴木亮平さんも出演されています。

実は、このお話を頂いたときに財津さんはお断りしています。年齢も70歳を過ぎていたことや、病気でたおれたこともあり体力的に自信がなかったと語っています。しかし、監督に何度も説得されて出演を受けたそうです。ジャズシンガーとして活動されていた財津一郎さんですが、この映画ではトランペットを吹く姿も披露しています。

主人公の健三郎役を演じており、ハンセン病を患っていましたが長いブランクを経て社会に戻り、初めて息子に会い、またその息子夫婦と一緒に住むというところから展開される映画です。財津一郎さん自身も息子夫婦と一緒に住んでいますので、その思いと重ね合わせるところもあったのでしょうか。

多くの経験を経て、活動の場を広げて活躍してきた財津一郎さん。精力的に作品に取り組んできましたが、この作品はクランクインからクランクアップまで、ゴルフも遊びも封印して「演じる」以外、一切ほかのことをやろうと思わなかったそうです。

ストイックに最後までやり遂げ、作品が出来上がったときには感謝の気持ちで一杯とおっしゃっています。これだけの熱い思いがこめられた作品だったので、一区切りつけたのかもしれません。

歌手としての財津一郎

一番有名な曲はCM「タケモトピアノ」でしょうか。ジャズシンガーとして、またテレビアニメの主題歌「ピュンピュン丸」や、NHKみんなのうたでも「ぼくは大きな石ころさ」を歌われたりと、歌手としても活躍しています。

タケモトピアノのCMソングは、オリコンの全国総合チャート75位にランクインするという偉業も成し遂げています。タケモトピアノは赤ちゃんが泣き止むCMとしても有名で、テレビ番組でも取り上げられました。

現在の歌手活動は確認できませんが、財津一郎さんが生きている間はお茶の間に財津さんの歌声がギャグと一緒にタケモトピアノの歌にのって届けられるでしょう。

財津一郎の息子・財津功の芸能活動

財津一郎さんの年齢が27歳の時に、息子さんの財津功(いさお)さんが生まれています。息子の功さんは番組のプロデューサーとして日本テレビに勤務しています。代表的な作品には「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」や「宝探しアドベンチャー謎解きバトルTORE!」などがあります。

「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」の第1回放送では、17.2%(関東地区・番組平均)と高視聴率をマークしています。「ビートたけしの今まで見たことないテレビ」の総合演出もされいて、好評であったことから第2弾が放送されています。

「見たい」ものは、「見たことがないもの」で、息子、功さんにとってのテレビとは「ラブレター」なのだそうです。AD時代の空き時間に「クレイジー・キャッツの映画6本立て」を1本だけ観て仕事に戻ろうしたものの、ついつい夢中になり6本すべて観てしまったこともあるそうです。

この映画で「苦しい時こそ笑え」というメッセージに触れ、これまでその言葉に何度も救われたと話されています。

父親の背中を見て育った息子・功さんにはキラリと光るセンスや芸人魂も受け継がれているのでしょう。息子さんもテレビの中を活動の場として頑張っています。

財津一郎は現在何歳に?健康状態は?

財津一郎さんの誕生日は1934年2月22日なので、現在の年齢は84歳であり80歳を超えております。既に一度、脳内出血で倒れてますので、日ごろの生活や健康管理にはとても注意はされていると思います。

61歳の時に脳内出血で倒れ、緊急手術を受けています。現在も何本もの"びょう”が右脳を固定しているため、時々頭にピリピリ感じることがあり、それを感じると「お迎えかな?」と不安になることもあるそうです。

健康を保つために50歳から始めたゴルフは、病気になってからも「生きている証し」として続けていますが、80歳を過ぎた今もクラブを握っているのかは定かではありません。健康法では、足踏みマッサージと記されてます。

朝日新聞の定年時代では、野球に熱中するお孫さんと二人旅をするのが夢と語っていましたが、その夢を実現するまでは元気でいてほしいです。

掲載された平成22年の時点では、息子さん家族と一緒に暮らされていますので、お孫さんの成長が楽しくて仕方なかったのでしょう。

財津一郎の現在の活動は?

現在の活動ですが、2000年から変わらぬ映像で放送されているタケモトピアノのCMのみで、財津一郎さん自身の芸能活動は休止されている状態です。

タケモトピアノのCMのみ

ゴールデンタイムでも放送されている「タケモトピアノ」。とにかくインパクトが強く、またどんなに泣いている子もこのCMを見れば泣き止むと評判になりました。「録画して、泣き止まない子供に見せてるの」というお母さんもいました。

財津一郎さんの声が、赤ちゃんにとって心地よい440ヘルツの音域に合っていることを「探偵ナイトスクープ」でも取り上げられています。

日本音響研究所は、音がランダムで飽きない、本能的に振り向く音が多い、音楽の途中でリズムが変わるといった理由から、赤ちゃんの興味をひくのではと解析。なんと「ひよこクラブ」赤ちゃんの好きな歌1位だそうです。

1997年から放送されており、CMには2パターンありますが、どちらも人気です。それもそのはず、社運をかけた勝負CMだったそうです。高知市内のデパートで始めたピアノ販売会社「竹本楽器」が会社のルーツだそうで、後に中古ピアノ買い取り、それを海外に輸出するビジネスで成功しています。

財津さんがCMに登場する2000年までは、6本のCMをつくったものの効果が上がらなかったそうです。会長の竹本さんはじめ、社員がチラシを配り、解体業者に「壊される家にピアノがあったら教えて欲しい」と頼むほど、中古ピアノが集まらなかったそう。

起死回生を狙い、CM制作に取り組んだそうです。メロディーはプロの作曲家に依頼、歌詞である「もっと も~っと タケモット」は、竹本会長が通勤途中にホテルのロビーに座り、一息ついたときに歌詞が降り下りてきたそうです。

「タケモトピアノ」のホームページでも、元気一杯で歌う財津一郎さんの写真がたくさん使われています。マツコ・デラックスさんは番組で「タケモトピアノ」の太っ腹ぶりを話しています。

番組のスポンサーCMが埋まらないときは、タケモトピアノさんに頼みにいくと「おお、困っているのかぁ!」って、CMを出してくださるのよ!と、逸話を明かしています。

2000年から同じCMを使い続け、今でも話題にのぼっていますし、タケモトピアノCMソングとしてCDも日本コロムビアやアマゾンで販売中。「タケモトピアノ」というワードで、すぐに脳内再生されてしまうので、皆さんが思っている以上にCM効果はあるようです。

芸能事務所に所属中!引退発表もなし!

財津一郎さんは、芸能事務所に俳優として登録はあります。また引退発表もありません。芸能活動は休止中ではありますが、生涯役者を貫くのでしょう。

財津家について!財津一郎と財津和夫の関係は?

財津一郎さんと財津和夫さん、名字が一緒だけど兄弟?息子?親戚?色々と噂がでています。財津家だから、財津和夫さんとはどこかで繋がってる?そこも調べてみました。

結論から言うと、なんと財津和夫さんとは遠い親戚でした。これは、財津和夫さんからの冗談で「一郎さんと何かつながりがあるのでは?」と言っていたことがあり、NHK番組「ファミリーヒストリー」で財津和夫さんが取り上げられたときに、遠い親戚であることが判明しています。

財津和夫さん、なんと財津一郎さんのファンであることも告白。「びっくりしましたし、うれしいです」と喜んでいます。

財津和夫さんの活躍

財津和夫さんは、年齢70歳をこえていますが現在もコンサートをこなすシンガーソングライターです。「心の旅」「サボテンの花」などの大ヒットで知られており、福岡出身と財津一郎さんと同じ九州出身いうことから同じ苗字の財津一郎さんとの親戚説などがでていたようです。

財津和夫さん、歌手だけでなく大阪芸術大学芸術学部演奏学科の教授もされていて、多くの才能を発揮されています。和製ポールマッカートニーとも呼ばれており、すごい方なのです!

財津和夫さんのファンが、財津一郎さんに間違えてファンレターを送ってしまったこともあるそうで、これは財津一郎さんのファンが、財津和夫さんにファンレター送ってしまったこともあるかもしれません。

財津一郎さんは生きている!

財津一郎さんは、現在年齢84歳で生きていること。1度病気を克服されていること。またタケモトピアノのCMの中で、財津さんの歌声やギャグも生きている!こと。残念ながら、現在の芸能活動は休止はされていますが、息子さんである功さんがテレビ局に勤務され番組演出をされていますから、父親と同じ業種に進まれて頑張っています。

財津和夫さんとは遠い親戚であり、財津和夫さんが実は一郎さんのファンであることも判明。財津一郎さんの人柄や輝かしい芸能人としての功績はも生きていることが分かりました。

84歳という年齢ですが、年齢を重ね合わせるごとに更に味のある、俳優・歌手・コメディアンとしての財津一郎さんは、多くの人たちの中にキラキラと生きている!と思います。

長い文章でしたが、読んでいただきありがとうございました。

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