金屏風事件とは?近藤真彦と自殺未遂後の中森明菜の緊急記者会見

交際中だった近藤真彦のマンションで自殺を図った人気アイドル中森明菜が、自殺未遂事件後行った記者会見を、金屏風事件と呼びます。謝罪に終始する中森明菜と場違いな金屏風の取り合わせが異様な金屏風事件。金屏風の意図や真相を巡っては今もさまざまな憶測が囁かれています。

金屏風事件とは?近藤真彦と自殺未遂後の中森明菜の緊急記者会見のイメージ

目次

  1. 1金屏風事件とは?
  2. 2金屏風事件の簡単な概要
  3. 3のちに金屏風事件と呼ばれた記者会見
  4. 4金屏風事件の関係者①中森明菜
  5. 5金屏風事件の関係者②近藤真彦
  6. 6金屏風事件の関係者③メリー喜多川
  7. 7メリー喜多川と近藤真彦の親密な関係
  8. 8金屏風事件はパワーハラスメント?
  9. 9今なぜ金屏風事件が話題に
  10. 10金屏風事件関連の出版物
  11. 11金屏風事件の真相は?
  12. 12金屏風事件以降の中森明菜
  13. 13金屏風事件以降の近藤真彦
  14. 14それぞれの今

金屏風事件とは?

金屏風事件、耳慣れないこの事件のことをどのくらいの人が知っているでしょうか。発端は人気アイドルの自殺未遂事件でした。

人気絶頂だった中森明菜が、ジャーニーズのアイドル近藤真彦のマンションで腕を切った自殺未遂事件は、社会に大きな衝撃を与えました。

そして、約半年の休養の後、中森明菜の復帰会見が開かれました。なぜか背後に金屏風が置かれたこの記者会見が、俗にいう金屏風事件です。

金屏風がこれほどそぐわない記者会見も珍しいのではないかと思われるほど重苦しい雰囲気の記者会見は、見ているのが辛いほどでした。今では知る人も少ない金屏風事件を振り返ります。

金屏風とは

屏風とは、風よけやパーテーションに使われる折り畳み式の家具のことで、中国から日本へと伝わりました。機能性を重視した実用的でシンプルなものもありますが、室内装飾を目的とした芸術性の高い、優雅で華やかなものもあります。

金屏風とは、屏風の全面に金箔を施し、豪華さや華やかさを強調した装飾性の高い屏風です。

室町時代に完成したといわれる金屏風は、たちまち大人気となり、日本有数の工芸品となりました。絢爛豪華な金屏風は、結婚式や授賞式、発表会など、おめでたい席で使われることが多く、人生が光り輝くようにとの意味も込められています。

金屏風事件と呼ばれるわけ

約半年、公の場に姿を現さなかった中森明菜の記者会見が、「金屏風事件」と呼ばれるのは、会場に設置された場違いな金屏風のせいです。

普通であれば、けがから回復して心機一転頑張りますという前向きの記者会見になるはずの復帰記者会見。しかし、消え入りそうな声で謝罪を繰り返す中森明菜と幸せの象徴のような金屏風の取り合わせはどう見ても違和感がありました。しかも途中からは近藤真彦も同席。

金屏風の前に交際が噂される男女が並べば、おめでたい報告を誰もが予想します。ところが中森明菜の口から出るのは謝罪の言葉ばかり。「一番信頼している人に最初に見つけてもらいたかった」というのが精一杯でした。

近藤真彦も「友人」のスタンツを崩さず、二人の交際をはっきりとは認めませんでした。中森明菜の自殺未遂事件より、不釣り合いな金屏風を背負った破局会見ともいえる記者会見のほうが、よっぽど「事件」と呼ぶにふさわしいと思われました。

金屏風が用意されていたにもかかわらず、破局と謝罪と涙の記者会見。それ故中森明菜の復帰、もとい、謝罪記者会見は金屏風事件と呼ばれるのです。

金屏風事件の簡単な概要

金屏風事件は今からもう30年近く前に起こった事件です。知らない人も多いのではないでしょうか。

人気絶頂だった中森明菜とジャニーズの人気アイドル近藤真彦の交際はほぼ公認されており、大型カップルの誕生も間近かと噂されていました。そんな矢先に起こった中森明菜の自殺未遂事件。

後に金屏風事件と呼ばれることになる記者会見までの二人の交際を振り返ってみましょう。

ファン公認で交際中だった近藤真彦と中森明菜

1980年代は、アイドル全盛の時代ですが、恋愛に関しては今よりずっと厳しく、中森明菜と近藤真彦も交際を公にはしていませんでした。それでもマスコミやファンの間では半ば公認の間柄でした。

それを利用して、週刊誌に話題を提供し、露出を増やしたり、ドラマや映画で共演させて視聴率や興行成績を煽ったりすることもありました。中森明菜と近藤真彦もバラエティーや歌番組で共演したり、雑誌の表紙を飾ったり、仲の良い交際ぶりを見せつけるかのような演出もありました。

平成のアイドル事情からすれば考えられないことですが、中森明菜と近藤真彦は1985年に、『愛、旅立ち』という純愛映画でダブル主演を務め、ラブシーンも披露しています。

結婚を控え8000万円を近藤真彦に譲る中森明菜

近藤真彦との結婚を真剣に考えていた中森明菜は、新居と家具の購入のための資金として8000万円を近藤真彦に渡したとされています。マネージャーが持ち逃げしたとも、近藤真彦が活動拠点とするカーレースにつぎ込んだともいわれていますが真相はわかっていません。

そのほかにも中森明菜は近藤真彦のために億単位の資金を提供したとされていますが、金銭問題については中森明菜も近藤真彦も自らは何も語っておらず、根拠とされる暴露本も裁判で敗訴するなど信憑性に疑問が残ります。

フライデーによる近藤真彦と松田聖子のキス・熱愛報道

ハスキーな歌声とミステリアスな美しさが魅力の中森明菜に対し、伸びのある高音と愛くるしい笑顔で男性を中心に人気を誇っていた松田聖子。対称的な二人は、人気を二分するトップアイドルとして何かと比較されていました。

近藤真彦と松田聖子はデビューが同じ年で兄妹のように仲が良く、一緒にいるところもよく目撃されていました。中森明菜の自殺未遂事件直前には、ニューヨークでの密会写真が暴露系写真週刊誌『フラーデー』に掲載されていました。

その結果、松田聖子との密会が原因で、中森明菜と近藤真彦は破局し、心に傷を負った中森明菜は近藤真彦のマンションで自殺未遂事件を起こしたというストーリーが、一部マスコミの間でさも真実であるかのように吹聴されました。

しかし、この写真は悪意のあるねつ造で、レコード会社の社員も含め複数人で食事をしたときの写真を、二人きりであるかのように加工したものでした。当時のマスコミには、刺激的であればなんでもいいとばかりに、モラルを欠いた過激な記事を載せる風潮がありました。

自殺未遂を起こした中森明菜

1989年7月11日、近藤真彦の自宅マンションの浴室で、中森明菜は自殺を図りました。帰宅した近藤真彦に発見された中森明菜は救急車で搬送され、6時間にも及ぶ手術を受け、一命をとりとめました。

当時、同情を買うための狂言ではと、心無い噂もありましたが、左肘付近を切りつけた傷は神経に達するほど深く、場合によってはマイクが持てなくなる後遺症が残る可能性もありました。近藤真彦が発見したとき、浴室は血で真っ赤だったと言います。

合鍵を持つほど親密だった男性の部屋で自殺を図る女心とはどのようなものでしょうか。交際が順調なら自殺なんかしません。破局寸前か、破局した場合が最もよくあるパターンでしょう。中森明菜と近藤真彦もそうだったのでしょうか。

金屏風前で謝罪会見!メリー喜多川が首謀者か?

全治1か月の重傷を負った中森明菜は、退院後も姿を隠したままでしたが、12月28日、それまで所属していた「研音」から独立し、個人事務所「コレクション」を設立、活動を再開させることになりました。

それに伴い、復帰会見として開かれたのが、後に金屏風事件として悪名を馳せる、謝罪会見です。中森明菜の元所属事務所「研音」スタッフは誰もおらず、レコード会社社長が付き添っていました。

金屏風事件が異常なのは、謝罪会見でありながら、自殺未遂の原因であり、破局した恋人と見られている近藤真彦が同席していたという点です。

のちに金屏風事件と呼ばれた記者会見

金屏風と事件、およそ不釣り合いな単語が並ぶ金屏風事件。そもそも婚約発表や結婚発表の記者会見でもないのに金屏風の前で会見を行うこと自体が異常です。

明るい未来の訪れを願う金屏風は、華やかな席にこそふさわしい装飾ですが、中森明菜の復帰記者会見と銘打たれた記者会見、はおよそ華やかさからは程遠いものでした。

悲壮感漂う中森明菜のか細い声に、豪雨のようなシャッター音が被さり、金屏風に反射する無数のフラッシュは砕けたガラスのように降り注ぎました。ポジティブな印象が欠片もない記者会見は、復帰会見とはとても思えず、引退会見かと見紛うばかりでした。

人生の門出を祝う金屏風がなぜこの会見で用意されたのか、善意なのか悪意なのか、真相は誰も語りませんが、中森明菜の泣きそうな笑顔と、キラキラと輝く金屏風がちぐはぐだったことだけは間違いありません。

自殺未遂の真相を知りたいマスコミは、婚約や結婚の可能性を問い質しましたが、近藤真彦はきっぱりと否定し、破局が決定的となった中森明菜は可哀想なほどでした。

金屏風事件は、異様なムードに包まれた謝罪記者会見であるとともに、中森明菜の恋心に対する止めの記者会見だったのです。

中森明菜に対しメリー喜多川から謝罪指示

入院中の中森明菜に、所属事務所「研音」への不信感を抱かせ、独立へと誘導したといわれるメリー喜多川。ジャニーズの女帝として辣腕を振るうメリー喜多川の真意はどこにあったのでしょうか。

記者会見では近藤真彦に対して謝罪し、近藤真彦に非がないことを明言するように要求したといわれています。

紅白歌合戦の裏で起こった金屏風事件

後に金屏風事件と呼ばれる記者会見が開かれた日時も異例でした。1989年12月31日、NHK紅白歌合戦の放送にぶつけて、生放送で中森明菜復帰記者会見は行われました。中森明菜の自殺未遂事件の影響か、近藤真彦はその年の紅白出場を逃していました。

一方でHNKは、中森明菜に紅白歌合戦での復帰を打診していたといいます。しかし、所属事務所とぎくしゃくしていた中森明菜はこれを辞退、新事務所設立と、年末の復帰記者会見の道を選びました。

メリー喜多川の嫌がらせという人もいます。真相はわかりません。ただ、中森明菜は慌ただしい年の瀬に、全くおめでたいムードの感じられない記者会見を、なぜか金屏風の前で行い、それが後に金屏風事件として人々の記憶に刻み付けられたという事実があるだけです。

メリー喜多川の目論見

金屏風事件は、中森明菜の復帰会見とは名ばかりの、謝罪会見につけられた名称です。きらびやかな金屏風の前で、近藤真彦は中森明菜との婚約や結婚の可能性をきっぱりと否定し、この件はこれで終わりとばかりに自分の今後の活動について意気込みを語りました。

中森明菜は、迷惑をかけてしまったとひたすら謝り頭を下げることに終始し、近藤真彦との交際や自殺未遂の真相について詳しく語ることはしませんでした。事実上の破局会見が金屏風の前で行われたのです。

メリー喜多川は、二人の恋愛関係をなかったことにし、近藤真彦を頼りになる友人に祭り上げ、心の弱った中森明菜が一方的に迷惑をかけたという図式に落とし込もうとしたのです。

金屏風事件の関係者①中森明菜

金屏風事件の被害者ともいえる中森明菜。1980年代、女性アイドルが次々と誕生し、愛らしいルックスと甘い歌声で人気を競いましたが、どこか暗い影のある中森明菜は、ほかのアイドルとは一線を隔す存在でした。

17歳で鮮烈なデビューを飾ってから35年。金屏風事件以来メディアへの露出は極端に減ってしまいましたが、中森明菜は伝説の歌姫として今なお根強いファンを持っています。

スター誕生でデビュー

中森明菜のデビューのきっかけは、テレビの人気オーディション番組「スター誕生」でした。

高い歌唱力を評価されながらも年齢にそぐわない表現力の豊かさを酷評され辛酸を舐めましたが、3度目の挑戦で過去最高得点を獲得して合格、1982年『スローモーション』でデビューしました。

大人びた風貌と高い歌唱力、アンニュイな雰囲気は国民的アイドルだった山口百恵を彷彿とさせ、後継者として多くの人の心を掴みました。

セカンドシングル『少女A』で、少し背伸びをした危うい少女の心境を印象的に歌いあげた中森明菜は、人気を不動のものにしました。その後は出す曲は全てヒットし、数々の賞を受賞、一気にスターダムにのし上がりました。

1985年『ミ・アモーレ』、1986年『DESIRE 情熱』で日本レコード大賞を受賞、名実ともに女性トップアーティストの地位を確立しました。

伝説の歌姫

抜群の歌唱力で歌詞の世界観に浸るように情感を込めて歌う中森明菜はまさに歌姫。歌に感情移入しすぎて歌唱中に震えだすこともありました。その真面目さ、ストイックさが恋愛や人間関係で中森明菜を精神的に追い詰めてしまったのかも知れません。

経済的に苦しく、家族関係が決して良好とはいえない家庭に育ったことも、中森明菜が情緒不安定で神経質な一面を持つ原因になったと考えられます。それ故、金屏風事件の折は、重度のうつ病や拒食症、対人恐怖症が心配されました。

体調不良により2010年から活動を休止、4年間新しい楽曲がリリースされることはありませんでしたが、心に迫る歌声は人々から忘れ去られることはありませんでした。過去の映像をまとめたDVDBOXが発売されると瞬く間に完売し、話題となりました。

金屏風事件の関係者②近藤真彦

金屏風事件のもう一人の主役です。メリー喜多川のお気に入りで、「ジャニーズの長男」とも呼ばれる近藤真彦。音楽活動からは遠ざかっていた時期もありますが、2015年の紅白歌合戦でトリを務めるなど、人気は健在です。

ジャニーズの所属タレントの中では最年長で、ジャニーズ内での地位は絶対です。

たのきんトリオ

1979年、学園ドラマの金字塔『3年B組金八先生』の1シリーズでデビュー。同ドラマで共演したジャニーズの田原俊彦、野村義男とともに「たのきんトリオ」として人気を博し、いがぐりボウズのような頭がマッチ棒みたいと「マッチ」の愛称で親しまれました。

翌年『スニーカーブルース』で歌手デビューすると、一躍男性アイドルのトップに躍り出ました。歌や踊りが上手いわけでもなく、真面目な優等生でもありませんでしたが、やんちゃ坊主のような愛嬌があり、不思議と年長者からも可愛がられるキャラクターでした。

1987年には『愚か者』で日本レコード大賞を受賞しました。

レーシングドライバーの顔

見た目と楽曲に恵まれてトップアイドルにのし上がった近藤真彦は、1984年富士フレッシュマンレースでレーサーとしてデビューします。

タレントレーサーなどと陰口もたたかれましたが着実に実力をつけ、表彰台に上ることができるまでに成長しました。金屏風事件が起きた1989年頃は、レースに軸足を移して全日本F3選手権に参戦していました。

金屏風事件の関係者③メリー喜多川

金屏風事件の関係者というか、首謀者と目されているのがメリー喜多川です。「ジャニーさん」と親しまれているジャニーズ事務所社長ジャニー喜多川は実弟です。

ジャニーズ事務所の女帝

肩書は副社長ですが実質的な運営や経済面を任されているのがメリー喜多川です。いわば陰の実力者、ジャニーズ事務所の中で逆らうことができる者はいません。

近藤真彦はメリー喜多川のお気に入りで、だからこそ金屏風事件もメリー喜多川の暗躍が噂されています。タレント活動そっちのけでカーレース参戦などという暴挙にでられたのも、メリー喜多川の庇護があったからこそ可能だったのかも知れません。

メリー喜多川の陰謀

約1か月の入院生活の間、メリー喜多川は中森明菜を「研音」から引き離し、独立するように仕向けたといわれています。「研音」に不信感を抱いた中森明菜は独立を決意、新事務所の社長には近藤真彦のマネージャーだった小杉理宇造が就任することになりました。

こうしてみると一見、メリー喜多川は傷ついた中森明菜を守り、支援しているように見えなくもありませんが、現実には稼働直前に小杉理宇造が新事務所から手を引いてしまいます。それも中森明菜を近藤真彦から遠ざけたいメリー喜多川の指示によるものという説があります。

中森明菜の新事務所は波乱の船出となりました。その結果、中森明菜の新曲がリリースされるのは金屏風事件から半年以上後の1990年7月のことです。

メリー喜多川と近藤真彦の親密な関係

なぜか年長者に可愛がられる事の多い近藤真彦。かなりのお母さんっ子だったせいもあるのでしょうか。デビュー当時からメリー喜多川のお気に入りだったことはよく知られていますし、メリー喜多川自身も近藤真彦がお気に入りであることを公言しています。

中森明菜が近藤真彦のマンションで自殺未遂を起こしたときも真っ先に病院に駆けつけました。

それにしてもタレントの勝手な行動を厳しく規制するジャニーズにあって、自宅マンションでの恋人の自殺未遂など最悪の不祥事を起こしておきながらおとがめなしというのは驚くべきことかも知れません。

メリー喜多川から寵愛を受けていた近藤真彦

マザコンと揶揄されるほど母親を大切にしていた近藤真彦ですが、1986年に実母を交通事故で亡くしています。メリー喜多川は自らが母親代わりとなって近藤真彦を支えると週刊誌のインタビューで熱く語っています。

ジャニーズのアイドルの中には、アイドルの枠にとらわれず自分の可能性に挑戦する人も少なくありません。彼らの多くがジャニーズ事務所を去る中で、近藤真彦はレース中心の活動期間中もジャニーズに在籍したままでした。

実質的にタレント活動をしていないにもかかわらず、ジャニーズを去らなかった近藤真彦は特別な存在です。そんなことから、一部ではメリー喜多川と近藤真彦の関係を疑うような記述も見られますが、いくら何でも下衆の勘繰りが過ぎるといわざるを得ません。

近藤真彦と藤島ジュリー景子

おそらく冗談でしょうが、メリー喜多川は娘の藤島ジュリー景子がタレントと結婚するなら近藤真彦がいいと言っていたこともあります。藤島ジュリー景子は『3年B組金八先生』で、近藤真彦と共演しています。

しかし、藤島ジュリー景子はタレント活動にそれほど熱心ではなく、近藤真彦と噂になるようなこともありませんでした。

金屏風事件はパワーハラスメント?

立場や地位を利用して何かを強要することをパワーハラスメントといいます。金屏風事件はパワーハラスメントなのでしょうか。

自殺未遂事件で世間を騒がせ、近藤真彦はじめジャニーズ事務所にも迷惑をかけた中森明菜は、メリー喜多川に逆らうことはできなかったでしょうし、ジャニーズ事務所所属の近藤真彦にとってはメリー喜多川は直属の上司、従うしかなかったことでしょう。

金屏風事件の記者会見で、中森明菜は迷惑をかけた自分からは何も言えないという趣旨のことを涙ながらに語っています。

この記者会見が中森明菜や近藤真彦が自発的に開いたのでなく、メリー喜多川に仕組まれたものだとしたら、金屏風事件はパワーハラスメント以外の何ものでもありません。

中森明菜にとって残酷な記者会見

金屏風事件は今でもネット動画で視聴することができますが、見ていて気持ちのいいものではありません。

自殺未遂は当事者にとってとてつもなく辛い出来事です。後悔、羞恥、申し訳なさ、いろいろな感情が渦巻いていることでしょう。他人には軽々に触れてほしくない問題に違いありません。

衆人環視のなか引きずり出されて好奇心丸出しの質問にさらされるのは、普通の神経の人間にだって耐えられるものではありません。しかも隣には自殺未遂の原因であり、最も迷惑をかけてしまった最愛の人がいるなんて、悪夢以外の何ものでもありません。

さらに場違いな金屏風の存在。破局の宣告を受けるために金屏風の前に座った中森明菜の心境はどんなものだったでしょうか。

誰かがこの記者会見を仕組んだのだとしても、中森明菜のためでなかったことだけは確実でしょう。金屏風事件は中森明菜を救いませんでした。

復帰会見と言いながらその実、近藤真彦との関係を否定し、自殺未遂で迷惑をかけた各方面に対する謝罪に終始させる会見に、希望はありません。そんな謝罪会見に金屏風を用意するセンスは誰にも理解できないでしょう。

人生を狂わされた大スター

神経が細く、少しエキセントリックなところがある中森明菜は、デビュー当時から薄幸なイメージがありました。家庭の事情もあったのでしょうが、儚く脆い、薄い氷のような雰囲気がつきまとっていました。それはそのまま中森明菜の魅力でもあったのですが。

死を選ぶほどに苦しんだにもかかわらず、結局もっと自分を追い詰めることになってしまった自殺未遂事件。それだけでもダメージは十分だったのに、追い打ちをかけたのが金屏風事件でした。

ただ恋をしただけだったのに、全ての責任を負わされ、公衆の面前で破局を宣言され、事務所からも引き離され、頼る人が誰もいない、歌う場所もない、そんな状況に放り出されてしまったのです。

ルックス、センス、歌唱力に恵まれた中森明菜は、飛ぶ鳥を落とす勢いでヒット曲を連発し、ファンを熱狂させました。衣装やメイク、ヘアスタイル、ダンス、照明と一曲ごとに細部にまでこだわって世界を作り上げる様はアイドルの枠を超えていました。

中森明菜は紛れもない大スターでした。自殺未遂事件だけなら、これほどのダメージは受けなかったかも知れません。中森明菜の人生を狂わせてしまったのは、あまりにも無神経な金屏風事件だったのではないでしょうか。

金屏風が象徴したもの

前途を照らす光のはずの金屏風。金屏風事件のあの日、中森明菜に覆いかぶさるようにそびえていた金屏風は、何を意味していたのでしょう。メリー喜多川はじめジャニーズ事務所の圧力だったのでしょうか。

たくさんの人の明るい未来を願ってきたはずの金屏風は、あの日、1989年の大晦日、歪んだ呪いのように中森明菜のアーティストとしての未来、一人の女性としての未来を飲み込んだのです。

慶事に添えられるはずの金屏風がこれほど禍々しい印象を与えたのは、金屏風事件が初めてでした。

今なぜ金屏風事件が話題に

30年近く前の金屏風事件が再び注目を集めたのには訳があります。中森明菜が金屏風事件の直前に設立した新事務所「コンティニュー」の社長に就任するはずだった人物で、メリー喜多川は親交が深く、ジャニーズの懐刀として知られていた音楽プロデューサーの小杉理宇造。

金屏風事件当時、近藤真彦をプロデュースしていたこともあり、メリー喜多川と共謀して金屏風事件を画策した人物と目されています。

国民的アイドルとして活躍していた「SMAP」の突然の解散騒動を巡る公開謝罪の構図を描いたとされているのが、この小杉理宇造です。

「SMAP」の解散騒動から公開謝罪までの一連の騒動を金屏風事件に重ね合わせる人は少なくありませんでした。憔悴しきった「SMAP」の様子は、虚ろに笑う中森明菜の痛々しい姿を思い出させました。

解散騒動と自殺未遂事件、原因に違いはありますが、タレントに追い打ちをかけるという点で、「SMAP」公開謝罪と金屏風事件の基本的な構造は同じです。

金屏風事件関連の出版物

中森明菜の自殺未遂の真相も含めて、金屏風事件はさまざまな憶測が面白おかしく吹聴されています。それほど人々の関心を引き、注目されるショッキングな事件でした。

これこそが真相と、見てきたかのように語られている幾つかの出来事に関しては、全くの事実無根だったりします。当事者である中森明菜と近藤真彦が固く口をつぐんでいるにもかかわらず、真相らしく聞こえる話が流布されるのはなぜでしょうか。

とくに自殺未遂については当人たちにしか知り得ない複雑な事情があるはずで、第三者が興味本位であれこれ口を出すべきことではありません。ですが、金屏風事件のような不可解な事件が起こると、暴露本のようなものが必ず出版されます。

1994年と1995年に立て続けに出版された二冊の暴露本は同じ著者によるものです。著者は1992年から1993年に中森明菜のマネージャーのような立場にいた女性で、一時は中森明菜が「お母さん」と呼んで慕っていた人物です。

『哀しき性』と題された一冊には金屏風事件の真相が事細かに綴られていますが、中森明菜は「事実とは違う」として訴訟を起こし、勝訴しています。

この女性が中森明菜のそばにいたのは、金屏風事件から2年以上経ってからのことで、しかもその後1年で喧嘩別れしています。

近藤真彦との交際や金屏風事件当時のことを知り得ない立場の女性が、あたかも本当らしく金屏風事件の真相として書いた本を根拠に、事実と違う話が金屏風事件の真相として独り歩きしている向きもあります。

金屏風事件から立ち直りかけていた矢先に信頼していた人物から受けた仕打ちは、中森明菜の人間不信を加速させました。

もしかしたら本の内容の一部は真実なのかも知れませんが、中森明菜が自分の口から語らない限り、金屏風事件の真相は永遠に藪の中です。

金屏風事件の真相は?

中森明菜と近藤真彦、当事者二人が多くを語らない以上、金屏風事件の真相は知るべくもありません。メリー喜多川の陰謀説が未だ根強く残るのは、どこからどう見ても不似合いな中森明菜と金屏風の取り合わせのせいでしょう。

あそこに金屏風がなかったら、これほどまでにいろいろなことが邪推されることはなかったかも知れません。でも実際、金屏風はありました。誰かが何かの目的をもって、あの記者会見の会場に金屏風をセットしたのです。

金屏風事件の真相とは何だったのでしょうか。

メリー喜多川の罠にはめられた中森明菜

金屏風事件が起こった当時からまことしやかに囁かれているのが、「婚約会見説」です。中森明菜はこの記者会見を近藤真彦との婚約発表記者会見だと聞かされおり、騙されて記者会見を開かされたのだというものです。

目的はもちろん近藤真彦が自殺未遂事件とは無関係であり、恋愛関係にもないということをはっきりさせるためです。この場合、首謀者はどう見てもジャニーズ事務所の実質的な支配者であるメリー喜多川です。

メリー喜多川の発案だったとしたら、メリー喜多川の寵児である近藤真彦も、逆らうことはできなかったでしょう。だからこその金屏風、中森明菜をあの場に引きずり出すための舞台道具だったと考えられているのです。

もしこれが真相だとしたら、これほど酷いことがあるでしょうか。命がけで愛した人と、ようやく結ばれると思った矢先に奈落の底に突き落とされるのです。メリー喜多川がこんなシナリオを描いたのだとしたら、ジャニーズ事務所の闇は相当深いといわざるを得ません。

婚約発表と思い込んであの場に中森明菜がいたのだとしたら、近藤真彦が婚約、結婚をきっぱり否定する瞬間まで、希望を持っていたのだとしたら、記者会見の動画はまさに悪夢です。

二人が破局したのが実際はいつなのか、真相はわかりません。自殺未遂事件のときにはもう破局していたのか、金屏風事件までの1か月の間に破局したのか、今まさにこの瞬間に破局が決定的になったのか。

金屏風事件の後も、もしかしたらまだ細い糸は繋がっていると信じていたのか。中森明菜にわずかでも望みを抱かせたのだとしたら、金屏風事件は本当に罪深い事件です。

復帰を祝しての金屏風か

金屏風事件の真相は、実は誰にもわかりません。誰もが真相を語らないのですから当然です。いくつかそれらしい仮説を立てるのが精一杯です。次のように、メリー喜多川首謀説よりいくらかましな仮説もあります。

一刻も早く復帰したかった中森明菜は年内に記者会見を開くことを熱望しました。急遽会見を開くことになったホテルは復帰会見というおめでたい会見に合わせ、お正月を迎えるということもあって金屏風を用意しました。

途中から会見に参加した近藤真彦も開口一番、中森明菜の喜ばしい復帰という意味のことを述べています。

とはいうものの、この説にはかなり無理があります。クライアントの意向を確かめないままホテルが会見会場のディスプレイを決めるはずはありません。やはり誰かの意図、意思が働いてあの金屏風は設えられたのでしょう。

もし、婚約発表説がなかったとしても、記者会見場に入って金屏風を見た瞬間、中森明菜はどう感じたでしょうか。どちらにせよ金屏風事件は、醜悪な演出で彩られていたことに変わりはありません。

金屏風事件以降の中森明菜

金屏風事件で近藤真彦との破局が決定的となった中森明菜。歌手として新たな境地を開こうと果敢に挑戦を続けました。その後も数々のスキャンダルに見舞われ、順風満帆ではありませんでしたが決して歌うことを諦めませんでした。

歌姫としての地位を不動のものにしたのは、金屏風事件を乗り越えた後の努力の成果です。

活動再開から休養まで

金屏風事件から7か月後、前作から1年3か月経ってようやく中森明菜の新曲『Dear Friend』がリリースされました。自殺未遂事件、金屏風事件、近藤真彦との破局とスキャンダルに苦しんだ中森明菜でしたが、人気は一向に衰えず、この後もヒットを連発しました。

意志をこめた強い瞳と、時折見せる天真爛漫な笑顔が中森明菜の魅力の一つでした。しかし、金屏風事件以降の中森明菜の笑顔はどこかぎこちなく、痛々しくさえありました。

涙をこらえて失恋の歌を歌う中森明菜の姿に胸を痛めたファンも少なくありません。デビュー当時から抜群のプロポーションを誇っていた中森明菜でしたが、金屏風事件以降はみるみる痩せ、ウエストは両手でつかめそうなほどでした。

新曲やアルバムはヒットを続け、コンサート活動も盛況で、テレビドラマに出演するなど精力的に仕事をこなしていました。1992年に安田成美とダブル主演で出演した連続テレビドラマ『素顔のままで』は、大ヒットし、女優としての才能も垣間見せました。

こうして金屏風事件が起こってから20年、過去のスキャンダルに負けず意欲的に音楽活動を続けていた中森明菜ですが、2010年に体調不良を理由に無期限の休業に入りました。

心配の声が

楽曲はヒットを続ける一方、1991年には再び新事務所の設立、92年にはレコード会社を移籍、その後も何度も新事務所の設立やレコード会社の移籍を繰り返すなど、人間関係や金銭面でのトラブルが続きました。

何度か熱愛報道もありましたがどれも結婚には至らず、やせ細った体や、歌うとき以外は聞き取れないほど小さな声でしか話さない様子に、金屏風事件で受けた心の傷の深さを心配する声は絶えませんでした。

金屏風事件以降の近藤真彦

金屏風事件で心に痛手を負った中森明菜に対し、近藤真彦はどうだったでしょうか。中森明菜の自殺未遂事件以降、激しいバッシングに合いながら沈黙を守った近藤真彦は、金屏風事件で中森明菜との結婚を否定した後、どのような人生を歩んだのでしょうか。

突然の結婚発表

アイドルとしての活動はピークを過ぎていたとはいえ、中森明菜の自殺未遂という大スキャンダルは、芸能活動に大きく影響しました。

金屏風事件での他人行儀ともとれる態度に再びバッシングも起こりましたが、擁護する声も大きく、近藤真彦の周囲は徐々に落ち着きを取り戻していきました。レースに熱中していた時期で、日本にいないことが多かったのも幸いしたのかも知れません。

いつまでも金屏風事件の被害者として好奇の目を向けられる中森明菜と違い、1994年には一般女性と結婚を発表しました。

この結婚発表が中森明菜のライブの前日だったこともいろいろと揶揄されましたが、意図したものであったのか、ただの偶然か、知る由もありません。

レーシングチーム設立

アイドルのお遊びと冷ややかな目を向けられていたレーサー挑戦でしたが、国内外のレースでも優勝や入賞をするなど、実力を認められました。2000年には自身のレーシングチーム「KONDO Racing」を設立、2002年からは後進の育成のため、監督に就任しています。

アイドルとカーレーサーの二足の草鞋を履く生活で、音楽活動はそれほど活発ではありませんでしたが、金屏風事件の1989年に連続出場がストップして以来、遠ざかっていた紅白歌合戦には、1996年に久しぶりに出場しました。

それぞれの今

30年近くたった今、金屏風事件の真相を究明することは必要でしょうか?平成生まれの人は金屏風事件があったことすら知らないかも知れません。

中森明菜も近藤真彦も、もちろんメリー喜多川も、自殺未遂事件に関しても、今屏風事件に関しても、一切何も語っていません。

ただ、もう二度と、金屏風があんな使われ方をしなければいいのにと願うばかりです。

メリー喜多川の今

高齢になっても剛腕ぶりは健在で、相変わらずジャニーズ事務所の女帝として帝国を仕切っています。「SMAP」解散騒動で一部のジャニーズファンや国民からは蛇蝎のごとく嫌われましたが、巨大帝国ジャニーズを守るためには仕方がないのかも知れません。

金屏風事件の首謀者としても悪名はつきまとっていますが、誰も真相を明かさない限り、金屏風事件の疑惑が晴れる日は来ないでしょう。

近藤真彦の今

中森明菜との破局から一転、幸せな結婚をし、家庭も円満、夢だったレースの世界でも活躍しており、金屏風事件の傷跡は表面上はうかがえません。

金屏風事件ではあることないこと書き立てられ、詐欺師のようにもいわれましたが、言い訳も弁明も一切せず、金屏風事件について語ることもありません。

ジャニーズ事務所の最年長タレント記録を更新中で、「後輩思いのいいお兄ちゃん」として知られています。最近では、タレントというよりレース監督としての顔のほうが知られるようになっています。

中森明菜の今

金屏風事件で深く傷ついた中森明菜ですが、ファンは復活を信じて待ち続けました。金屏風事件から25年経った節目の年、NYからの中継ながら紅白歌合戦に出演し、新曲を披露しました。実に4年ぶりの活動再開でした。

まだ金屏風事件の痛手を引きずっているかのようなおどおどとした話し方でしたが、歌い始めるとそんな弱々しさは一気に吹き飛ぶような迫力で、歌姫の健在ぶりを見せつけました。

2016年には7年ぶりにステージに立ち、徐々に人前で歌う機会も増えてきました。ディナーショーのチケットは発売後瞬く間に完売する人気ぶりです。

金屏風事件は未だに中森明菜の心に棘となって刺さったままかも知れません。金屏風事件当時25際だった中森明菜には重すぎた試練でした。金屏風事件が起こらなければ、人間不信に陥り、苦しむことはなかったのかも知れません。

でも、中森明菜は歌手として帰ってきました。もう30年近く前の金屏風事件のことはそっとしておいていいのではないでしょうか。中森明菜は今までそうだったように、これからも金屏風事件について口を開くことはないでしょう。

金屏風事件は過去の遺物として葬り、中森明菜の歌声を知らない世代の人たちにも、力強い歌声を届けられるように頑張って欲しいと、多くの人が願っています。

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