津山事件(津山30人殺し)の真相と犯人都井睦雄と寺井ゆり子のその後

津山事件と呼ばれる出来事をご存知でしょうか。都井睦雄という21歳の青年が、ある小さな集落で起こした30人殺しという凄惨な事件です。犯人である都井睦雄がなぜこのような凶行に及んだのか、津山事件の真相や都井と村人との真実を明らかにしていきます。

津山事件(津山30人殺し)の真相と犯人都井睦雄と寺井ゆり子のその後のイメージ

目次

  1. 1津山事件(津山三十人殺し)とは?
  2. 2津山事件の概要
  3. 3津山事件の犯人・都井睦雄について
  4. 4津山事件の犯人・都井睦雄が最も憎んだ寺井ゆり子とは?
  5. 5津山事件で都井睦雄が使用した凶器
  6. 6津山事件が起きたとされる原因は?
  7. 7津山事件に類似する事件
  8. 8津山事件を題材とした作品【八つ墓村】
  9. 9貝尾集落のその後と現在
  10. 10悲しい殺人鬼都井睦雄

津山事件(津山三十人殺し)とは?

1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田(とまだ)郡、西加茂村大字行重(現在の津山市加茂町行重)の貝尾・坂元集落という場所で発生した大量殺人事件です。

事件のあった場所の名前から津山事件、または津山三十人殺しと呼ばれています。犯人の名前から都井睦雄事件と言われることもあります。

わずか2時間の間に30人近く殺害!犯人は都井睦雄

津山事件の犯人都井睦雄は事件当時21歳でした。約2時間というわずかな時間で28名を殺害し、数名の生存者にも重軽傷を追わせました。

その後生存者のうち2名が亡くなってしまったので、都井は合わせて30人の人間を殺害したことから30人殺しと呼ばれています。

犯行は計画的!綿密な襲撃プラン

都井睦雄は犯行の数日前から、犯行の決意を記した「書置」や姉に当てた「姉上様」の2通の遺書を書き、ノートやメモを焼き、犯行現場となる集落のある場所から役場のある場所までの通報時間を自転車で何度も往復して計ったりしています。

そして津山事件前日の夕方、都井は電柱にのぼり電線を切断します。集落を停電させておき、日付が21日に変わった深夜、犯行を開始します。

津山事件の概要

岡山県の小さな集落で、当時21歳の青年によって集落の人々30人が惨殺される事件が起きました。その真相には当時根強かった結核患者の差別や、集落で未だ残っていた夜這いという風習が関係あると見られています。

夜這いとは、集落の男性がいろいろな家の女性と関係を持つ事を言いますが、この風習がどのようにして事件の真相とつながるのかまとめてみましょう。

100人ほどの集落の岡山県苫田郡西加茂村

津山事件の30人殺しは貝尾集落と坂本集落という2つの集落にまたがって行われました。津山事件の主な襲撃場所は貝尾集落で、全23戸・人口111人でした。

都井睦雄が最後に襲撃した場所は坂元集落にある一軒で、貝尾集落からは2キロ離れた場所でした。坂本集落は全20戸・人口94人で、どちらも人口100人ほどのとても小さな集落です。

都井睦雄の両親が結核で死亡・心無い村人の風評に傷つく

都井睦雄の両親は二人共肺結核によって亡くなっています。都井が2歳の頃に父が、続いて3歳の頃に母が立て続けに亡くなりました。現在では有効な薬もありますが、当時不治の病であった結核患者に対する偏見や差別は都井にとって辛いものでした。

都井睦雄が結核を発病・徴兵検査で不合格(1935~1937年)

当時は「国民皆兵」の時代で、徴兵され軍隊に入るのは名誉なこととされていました。20歳になった都井も徴兵検査を受けるのですが、肺結核と診断され丙種合格となります。

合格と付いていますが丙種というのは健康に問題があると判断され、余程戦局が悪くならないと徴兵されないため、実質的には不合格ということです。

都井が丙種合格だったことは集落に一気に広がり、肺結核であるという真実も皆が知るところとなりました。

幼なじみの女性も心変わりし村八分になる

都井の徴兵検査の結果が知れ渡ると、今まで夜這いによって関係を持っていた女性たちが次々と都井から離れ悪口を言うようになります。それは幼馴染で都井が思いを寄せる寺井ゆり子さんも例外ではありませんでした。

おまけに、病気のため農作業などもできずふらふらと無為に生きる都井に、集落の人々は白い目を向け極力関わらないように距離を置くようになりました。

日本刀やライフルを所持し襲撃(死亡者30名・負傷者2名)

都井睦雄の30人殺しの最初の被害者は祖母です。就寝中に襲われ、首を切断され殺害されました。遺書には「あとに残された不憫を考えて」と生存者となった祖母のその後を心配する殺害理由の真相が記されています。

祖母殺害の後、都井が襲撃のターゲットにしたのは主に夜這いにより関係のあった女性とその家族です。徴兵検査後、夜這いをしていた女性たちが急に態度を変え、悪口を言うようになったことを都井はひどく恨んでいたようです。

「自分が恨みを持っている家から嫁をもらった」という理由で襲われた家もある一方で、「お前は悪口を言わなかったから殺さないでおいてやる」と助かった生存者もいます。これは30人殺しが単なる無差別殺人ではない真実を表しています。

都井の中では明確な殺意とその理由がはっきりとあったのでしょう。子供や妊婦、老人関係なく無慈悲に殺害し、30人殺しという現在でも語り継がれる凄惨な事件となりました。

都井睦雄が自殺する(1938年5月21日)

都井睦雄は多くの人を殺害した後、顔見知りの子供の家を訪ねて紙と鉛筆を借ります。そして犯行前に書かれた2通の遺書と合わせて3通目となる事件の真相を記した遺書を書き、3.5キロ先にある荒坂峠という場所で自らの心臓に猟銃を当て、自殺をします。

都井の親戚はこの凶行の被害を受けていないことから、事前に都井の計画を知っていたにもかかわらず黙っていたのではないかという疑いをかけられ、集落で孤立する結果になってしまいました。

津山事件の犯人・都井睦雄について

津山事件の犯人である都井睦雄は一体どのような人物なのでしょう。30人殺しという凶行に走った21歳の青年の短い生涯を振り返ってみましょう。

都井睦雄の人物像

都井睦雄は1917年3月5日岡山県に生まれます。幼くして両親が結核で他界し、姉とともに祖母に引き取られ、後に津山事件が起きる貝尾集落に引っ越しをしました。

もともと資産のある裕福な農家でしたが、2人の学費や都井の病気の治療費のため、段々と家計が傾いていきます。学業はそこそこ優秀でしたが、都井を溺愛する祖母に進学を反対され、次第に引きこもるようになります。

そんな都井は20歳になり受けた徴兵検査で、肺結核の診断と事実上の不合格が突きつけられ、絶望します。結核患者への差別、不合格への嘲笑、夜這いの関係だった女性たちの裏切りによって都井のプライドは著しく傷つけられました。

そして都井は夜這いの関係の女性を始めとして、自分を侮辱した集落の人々に恨みを晴らすため、凶器を集め、後に津山事件と呼ばれる惨劇を引き起こしたのです。

津山事件の犯人・都井睦雄が最も憎んだ寺井ゆり子とは?

村でも美人で評判だった寺井ゆり子さんは、都井睦雄と夜這いの関係があったとされる女性の一人です。都井の一方的な妄想だったとも言われ真実は分かりませんが、結局寺井ゆり子さんは違う男性と結婚をしてしまいました。

最も好意を寄せていたがために、憎しみも一層強かったと思われます。犯行時も、「お前を残していけない」と言いながら執拗に撃ったと言われています。しかしゆり子さんは生存者として生き残ることができました。

津山事件が起こるきっかけは、事件の半月前に結婚により引っ越してしまった生存者の寺井ゆり子さんが、弟の結婚式のために、友人の良子さんと実家に戻ったことだとみられています。津山事件が起きる3日前のことです。

寺井ゆり子のその後

都井睦雄の襲撃を受けたものの運良く生存者となった寺井ゆり子さんは、2010年時点でまだご存命だと確認されています。その時点ではもう90歳を超える年齢です。今現在もご存命かは不明です。

寺井ゆり子さんは、自身は生存者となったものの、一緒に里帰りをした友人、家族5人、そしてゆり子さんが逃げ込んだ家の人も殺害されてしまいました。もし彼女の里帰りが津山事件のきっかけというのが真実なのであれば、悔やんでも悔やみきれないでしょう。

30人殺しの恐怖や自責の念、家族を失った悲しみを背負って、生存者として何十年も生きる苦しみは想像を絶するものがあります。

津山事件で都井睦雄が使用した凶器

都井睦雄は津山事件が起きる2ヶ月ほど前に隠し持っていた日本刀や短刀、猟銃と猟銃免許を取り上げられています。

都井の祖母が「孫に毒をもられた」と大騒ぎしたため、家宅捜索を受けたのです。真相は分かりませんが、祖母の健康のため味噌汁に薬を混ぜたのを毒と勘違いされたということです。

都井の言動に不穏なものを感じていた集落の人々は凶器が没収されたことで安心し、同時に凶器を隠し持っていた真実に恐怖しました。しかし都井はその4日後には新たな凶器を揃えるために行動しており、犯行計画は揺らぐことはありませんでした。

この斧でまず就寝中だった祖母を襲い首を切断します。都井を溺愛する優しい祖母でしたが、「あとに残された不憫を考えて」という殺害理由の真相が遺書で語られています。

日本刀や短刀

「連隊にいる従兄弟の昇進祝いに」とほしい理由を偽り、軍刀を購入しました。その後も「刀剣愛好家の会長が欲しがっている」と真実の理由を偽り、匕首(あいくち)と呼ばれる短刀を購入しています。

改造した猟銃

猟銃免許を没収されてしまった都井睦雄は、猟銃愛好家仲間に「猟銃免許をなくしてしまった」と真実を隠し、代わりに弾薬や火薬を購入してもらいます。そして5連発だった銃を自ら9連発に改造して犯行に使用しました。

津山事件が起きたとされる原因は?

こんなにも凄惨な事件の真相はいったい何だったのでしょう。都井睦雄が30人殺しを決行するまでには一体どのような経緯があったのか、その真実を調査していきます。

徴兵検査で不合格になったこと

もともと病弱で長期療養中であった都井睦雄ですが、軍に入隊し、兵士として国に尽くしたい思いは真実でした。現在とは違い、当時の日本では国のために戦えない男性など非国民だといわれる風潮があったのです。

しかしそれが叶わず、狭い集落という場所で孤立した都井は精神的に追い詰められ、自分を悪く言う集落の人々に強い恨みの感情を募らせていきます。

結核患者差別・村人たちからの心無い風評

幼い頃から体が弱く、肺の病気があった都井は、様々な薬や健康によいとされるものを入手し、必死に治療を試みていました。

しかし、肺結核との診断を受け、両親も結核によって亡くなっている都井は不安に苛まれ、集落の人々の差別や偏見によって更に追い詰めてられていきました。

病気を理由に幼なじみの女性の心変わり

都井睦雄が最も想いを寄せていた夜這いの関係とされる生存者の寺井ゆり子さんも、都井の結核を知り冷たい態度をとるようになってしまいました。

そして寺井ゆり子さんは他の男性と結婚をしてしまいます。そこで都井は結婚したゆり子さんに夜這いをして離婚させたり、彼女が再婚して集落から引っ越す時には道を塞ぎ、必死に引き止めたと言われています。

都井は襲撃の際「お前を残していけない」とゆり子さんに執拗に発砲したり、夜這いによって別れさせた彼女の元夫の家まで襲撃していることから、夜這いの関係にあった女性の中でも、寺井ゆり子さんが大きな存在であったことは真実でしょう。

津山事件に類似する事件

津山事件の特徴は単独犯、銃による凶行、大量殺人です。日本で起きた事件の中でこの津山事件に類似する事件にはどういったものがあるのでしょう。

少年ライフル魔事件

1964年7月29日に起きた片桐操(当時18歳)のライフル銃による発砲、射殺事件です。片桐が銃禁止区域で、空気銃を撃っていたところに通報を受けた警官が駆けつけます。(真実は不明ですが、警官を呼ぶために片桐が通報したとの見方もあります)

この警官をライフル銃で射殺し、制服とピストルと警察手帳を奪いました。更に応援に駆けつけた警官二人にも発砲し、警官の一人を負傷させ逃走しました。

その後片桐は、一般の車を次々にジャックし、人質を取りながら移動します。ロイヤル鉄砲火薬店に到着すると、店に立てこもり、店にあった武器弾薬を使って銃撃戦を繰り広げました。

打ち込まれた催涙弾によって逃げたところを取り押さえられ逮捕となりました。「色んな銃を撃ちまくることができて、たまっていたものを全部吐き出せてスカッとした気分だ」などと話す片桐には死刑判決が下り、1972年7月に死刑執行されています。

山口連続殺人

2013年7月21日、山口県周南市金峰(みたけ)で発生した高齢者5人が殺害・放火された連続殺人事件です。犯人の保見光成(当時63歳)は、近隣の住人とトラブルを抱えており、村八分にされていたことが事件の真相と言われています。

8世帯12人の小さな集落で保見は次第に孤立していき、警察に「集落の人間に悪口を言われる」と相談したり、集落を出ようかととも考えていたようですが、7月21日、とうとう事件が起きてしまいます。

犯人の保見は近隣の家2軒に侵入し、70代の高齢者を合計3人を撲殺した後、家に放火しました。翌22日にも2軒の家に侵入し、70代・80代の高齢者を2人撲殺しました。犯人捜索の結果、26日に1キロほど離れた場所で保見は発見・逮捕されました。

津山事件を題材とした作品【八つ墓村】

【八つ墓村】とは1971年に発行された横溝正史による長編推理小説です。この【八つ墓村】を原作として多数の映画やドラマが制作され、現在でも話題の作品となっています。

【八つ墓村】の作品中に登場する32人殺し

【八つ墓村】のあらすじは、戦国時代に小さな村に逃げ込んだ8人の落ち武者たちが村人の裏切りにあい殺されてしまいます。落ち武者の激しい恨みを恐れ村人は8つの墓を立て供養します。これが八つ墓村の名前の由来です。

時は流れ、落ち武者殺害の首謀者田治見家の子孫要蔵は大変残虐な男で、妻子がありながら、若い女性を監禁し陵辱していました。しかしその女性が出産した子供と共に逃げたことに怒り狂った要蔵は日本刀と猟銃を手に八つ墓村の32人の村人を惨殺します。

その取り憑かれたかのような凶行は落ち武者の祟りだと八つ墓村の村人を震え上がらせました。物語は逃げた子供が八つ墓村に戻ってくることでまた続くのですが、作品で描かれているこの八つ墓村32人殺しは津山事件と犯人の都井睦雄を題材としたものでした。

都井睦雄を思わせる犯人の出で立ち

【八つ墓村】の中で村人を32人惨殺した田治見要蔵は頭に懐中電灯を2本ハチマキでくくりつけ、日本刀と猟銃を手にした異様な格好で描かれていました。

これは津山事件の犯人である都井睦雄が30人殺しを行った際の格好を再現したものであると言えます。都井は学生服に地下足袋を履き、頭に懐中電灯を2本ハチマキでくくりつけ、自転車用のライトを首から下げており、手には日本刀と猟銃を持っていました。

【八つ墓村】の中で田治見要蔵が異様な格好で村人を惨殺しながら駆ける姿は、津山事件での都井睦雄そのものだったのかもしれません。

貝尾集落のその後と現在

30人殺しが起きた場所、貝尾集落は現在どの様になっているのでしょう。都井の親戚は集落に居場所がなくなり集落を出ていきました。修学旅行に行っていて難を逃れた少年もまた、留守中に親兄弟を失った家には住めず出ていきました。

事件後集落を出ていった人々もいれば、そのままの場所に住み続けた人もいます。驚いたことに貝尾集落は現在でも存在し、生存者の子孫が暮らしていたり、襲撃を受けた家がそのまま残されていたりします。

現在の集落の人口は30人ほどに減り、住人の多くは高齢者となってしまいました。事件から80年が経つ現在となっては真実を知る生存者はもういないのかもしれません。そして集落には1938年5月21日の日付が入った多くの墓石が残されています。

悲しい殺人鬼都井睦雄

都井睦雄は最初から残虐性を持った殺人鬼というわけではありません。都井が引き起こした津山事件の真相には、当時では不治の病である結核、結核患者に対する偏見や差別、親しい人々の裏切りなどがありました。

少人数の集落で孤立し、逃げ場がなかった都井は自分の尊厳を守るため凶行に走ったことが、事件の真相として遺書から読み取れます。現在では都井の凶行は集落の人々の心無い対応が招いたことという見方をされることもあります。

かといって30人殺しという残虐な行為は決して許されるものではありません。津山事件の犯人、都井睦雄には集落を出て人生をやり直す選択は残されていなかったのでしょうか。このような凄惨な事件が今後起きることのないように願うばかりです。

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