アンドレイ・チカチーロとは?ロシアで52人虐殺した殺人鬼!
アンドレイ・チカチーロとは?ロシアの死神、ロシアの食屍鬼、ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔などの別名で世界中に知られているロシアの犯罪者であり殺人鬼で、類を見ない大虐殺を行なった最強の殺人鬼です。今回はこのアンドレイ・チカチーロについて詳しく紹介していきます。
目次
ロシアの殺人鬼アンドレイ・チカチーロ
アンドレイ・チカチーロはウクライナ生まれの犯罪者、連続殺人鬼として広く知られています。アンドレイ・チカチーロの名前を耳にしたことのある人も多いのではないでしょうか。
1978年から1990年にかけて、おもにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内で52人の女子共を殺害して殺人罪が言い渡されています。また、一部の犠牲者は、当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国とウズベク・ソビエト社会主義共和国で虐殺されています。
当時のソビエト連邦では「連続殺人は資本主義の弊害によるものでありこの種の犯罪、事件は存在しない」という公式の見解があったそうです。また、アンドレイ・チカチーロの犯罪、事件については、民警内部では連続殺人として認識していなかったようです。
そのため、組織だった捜査が行われていなかったようです。アンドレイ・チカチーロの犯行範囲は事実上ソ連全土に及んだこと、犠牲者が男女を問わなかったことで同一犯の犯行とは考えられずに、いたずらに犠牲者を増やすという結果になったようです。
最終的にはKGBの捜査介入が行われ、逮捕に至ったとされています。
12年の間に女性や子供52人を虐殺した殺人鬼
アンドレイ・チカチーロは1978年から1990年の12年間に52人もの虐殺をした犯罪者で、ロシア最強の殺人鬼として世界中に広く知られています。虐殺された犠牲者は男女問わず、子供から女性まで虐殺されています。
この52人という数字は世界的に見ても異常な数字であり、これだけでもアンドレイ・チカチーロが最強の殺人鬼と呼ばれる理由がわかります。アンドレイ・チカチーロは被害者をナイフで切り刻むことで快感を得ていたとされています。
このことから、ロストフの切り裂き魔、赤い切り裂き魔などの別名でも世界中に広く知れ渡っています。
アンドレイ・チカチーロの人物像
アンドレイ・チカチーロはどのような人物だったのでしょうか。犯罪者となり、大量虐殺に至るようになった理由やアンドレイ・チカチーロの人物像について詳しく調べて紹介していきます。
アンドレイ・チカチーロの家族構成
アンドレイ・チカチーロの家族構成について調べていきましょう。アンドレイ・チカチーロには、母親、父親、兄、妹がいたとされています。この内、兄は飢えた隣人に誘拐され、食べられてしまったと母親が語っているそうです。
しかし、実際に起こったことなのかどうかは定かではありません。なお、兄の名前はステパンといったそうです。アンドレイ・チカチーロの父親は第二次世界大戦でソ連が参戦すると同時に徴兵されたとありました。
戦争でナチス・ドイツの捕虜となり収容所で生き残った父親が帰還しましたが、兵役による報酬と生存の代わりにドイツ国防軍に降参したため、裏切り者や生き恥を晒したという烙印を押されたそうです。
このように、第二次世界大戦という戦争がアンドレイ・チカチーロにとって心的外傷をもたらしたとされています。後に犯罪者となり、連続殺人、大量虐殺という行為に出てしまうのは、このような経験があったからかもしれません。
性的コンプレックス・勃起不全に悩んでいた
アンドレイ・チカチーロは成長のさなかで自分が勃起不全いやゆるインポテンツであることに気づいたそうです。このことはアンドレイ・チカチーロの性的コンプレックスとなり、彼の人生において大きな悩みとなったようです。
生まれつきの性的不能であったアンドレイ・チカチーロは、髭が生える頃には神の意思によって自分は去勢されたのだと信じるようになったとされています。そして、いつしか自分の性器を無意識にいじるようになっていったとされています。
この性的不能がアンドレイ・チカチーロを生涯苛み、連続殺人、大量虐殺、殺人事件をおこす最強の殺人鬼に変貌させていったのではないかと考えられています。
勉学に打ち込むが大学受験で失敗し挫折
自身の性的コンプレックスを紛らわせるかのように勉学に打ち込み、地元では有名になるほどの秀才となったようです。アンドレイ・チカチーロはソ連におけるパワーエリートを志したとされています。その後も勉学に打ち込み大学受験に挑みます。
受験した大学は、名門モスクワ大学法学部に挑んだそうです。しかし、結果は失敗であったようです。アンドレイ・チカチーロ本人は「成績は良く、試験の手ごたえも十分だったのに、父がドイツ軍の捕虜になったばかりに不合格になった」と語っています。
実際そのようなことがあったのかは定かではありませんが、アンドレイ・チカチーロ自身はそう信じて疑わなかったそうです。アンドレイ・チカチーロは自分の才能を過大評価したまま年を重ねていったとされています。
電話工の仕事中など人に自慰行為を目撃される
アンドレイ・チカチーロは2年間の兵役を経た後、「青年共産主義同盟」の要請で、モスクワから1300kmほど離れたニジニ・タギルという街にある基地に配属されたとありました。この時期のアンドレイ・チカチーロは同僚や上司からの評判も良かったようです。
そして、ほぼ順調に任務果たして帰還したとされています。1960年に陸軍を除隊したアンドレイ・チカチーロは、家族が住むヤブロチュノア村に一旦戻り、ロシアの国境付近で仕事を探していたそうです。
ロストフ・ナ・ドヌーから30kmほど離れたロディオノホ・ネスタビィエフスキという街で電話工として働き始めたそうです。アンドレイ・チカチーロが自身の性的不能に気づいたのがこの頃であったとされています。
働き始めて生活が安定した頃に家族を呼び寄せ一緒に住んでいたそうです。1962年に両親が小さな家を購入して出て行くまでは一緒に住んでいたとされています。そして同年に妹のタチアーナが結婚したとされています。
アンドレイ・チカチーロはこの頃には暇を見つけては1日に何度も自慰行為をするようになっていたそうです。勃起不全によりまるで硬くならない自身の性器をしごくようにして自慰行為に耽っていたようです。
アンドレイ・チカチーロは仕事仲間と一緒に電信設備の修理にきていたそうですが、仲間に隠れて自慰行為を行なっていたところを運悪く同僚に目撃され、大きく馬鹿にされるという致命的な失敗をしてしまったとありました。
3歳下の妻フェーニャとの関係
妹のタチアーナは兄のアンドレイ・チカチーロを心配し、自分の働いている美容院で知り合った友人フェーニャ・オドナチェヴァを兄であるアンドレイ・チカチーロに紹介したとされています。フェーニャはアンドレイ・チカチーロの3歳年下でした。
最終的には2人は結婚に至ったとあります。フェーニャはアンドレイ・チカチーロの下戸であるところに惹かれたとされています。ロシアでは夫の酒癖が悪かったり、アルコール中毒である場合が多かったことから、このような結果になったと思われます。
勃起不全であるアンドレイ・チカチーロにとって彼女との性交は重荷となっており、そのこともアンドレイ・チカチーロを悩ませていたのではないかと思われます。しかし、性交は問題なく行なわれたそうです。後に、長女と長男をもうけたそうです。
妻フェーニャとの性行為では、アンドレイ・チカチーロは自分の指を使い彼女の膣内に射精することに努め、官能的な性交は極わずかであったとされています。また、この頃には、アンドレイ・チカチーロはある程度の社会的地位を得ていたそうです。
教職に就くがプライドが高く学級崩壊に
アンドレイ・チカチーロは結婚の翌年から、電気技師として働くかたわらで大学進学の夢を捨てきれずに、また、社会的地位の向上を求めて再び勉学に励んでいたそうです。30歳でロストフ大学教養学部の通信教育課程へ入学しました。
そして、ロシア文学を専攻します。5年後に大学卒業を果たし、教職資格を取得、と同時に新しい職場を探し、ノヴォシャフチンスクの小学校にて教師の職に就いたそうです。しかし、この頃、若い女性とのふれあいが一生の仕事にならないかと考えていたそうです。
アンドレイ・チカチーロは1971年から1981年まで、小学校や職業訓練学校の教師を勤めていたそうです。教師として最初に赴任した小学校の教室で、授業を行なおうとするも、極度のあがり性のため子供たちに全く指導できなかったそうです。
そのため、担当していた上級生のクラスを学級崩壊させてしまったとありました。共産党員であったアンドレイ・チカチーロは校長の厚意もあって副校長待遇として迎え入れられたそうですが、能力不足のため解任されています。
このころアンドレイ・チカチーロは職場の小学校などで数度の猥褻事件を起こしていたそうです。通勤途中のバスや電車のなかで少女に猥褻な行為をしていたところを同僚に目撃され、最終的には辞職させられているとありました。
その後、シャフトゥイの第33職業訓練学校の教師兼舎監として赴任、ここでは授業中に自分の性器をいじる癖を生徒達に馬鹿にされたそうです。ここでの仕事以来、アンドレイ・チカチーロは少女だけではなく少年男児にも目を向けるようなったそうです。
アンドレイ・チカチーロが殺人鬼になった経緯
アンドレイ・チカチーロが殺人鬼となった経緯について調べていきます。ここまでの彼の歴史では屈辱的なことが多く決して満足のいく人生ではなかったはずです。
このこともロシア最強の連続殺人鬼、大虐殺、連続殺人事件に至った理由なのでしょうか。では見ていきましょう。
最初の殺人(1978年12月)
1978年にアンドレイ・チカチーロはロストフ・ナ・ドヌー近くの街で炭鉱業専門学校に転勤になっています。同年の12月22日にアンドレイ・チカチーロは9歳の少女レーナ・ザコトノワを連れ出して強姦しようとしましたが、勃起はしませんでした。
抵抗されたため、アンドレイ・チカチーロは少女の首掴んで自分の全体重をかけて、少女の体が動かなくなってから行為に及びましたが、少女が息を吹き返したことも驚き、少女の性器をめった刺しにして殺害、刺している途中で射精しました。
記録されているものではこれがアンドレイ・チカチーロの最初の殺人と見られています。アンドレイ・チカチーロは息絶えた死体を切り裂いたり、突き刺したりすることで、性的興奮とオーガズムを得ることに気づいたそうです。
浮浪者や売春婦を次々と殺害(1983~1987年)
アンドレイ・チカチーロは1983年から殺人事件を起こし始め、浮浪者や売春婦などを次々と殺害し、ロシア最強の殺人鬼へと変貌していきました。
成人女性は、酒は金を与える約束をすることで誘って性交を試みたそうですが、彼の性器がやはり勃起せず、彼女らがアンドレイ・チカチーロの勃起不全を馬鹿にしたため、彼の怒りや殺意を煽ったようです。
また、バス停や鉄道駅にいる家出した子供や若い浮浪者に声をかけて彼らのほとんどを森の近くに誘い込んでいたようです。そしてそこで殺人事件を起こしていたようです。
別の男性が犯人として処刑される(1984年)
殺人事件の犯人として無実の別の男が疑われたそうです。その男は強姦殺人の前科持ちでした。しかし、その男にはアリバイがあり、妻とその友人も知っていたようです。にも拘わらず、民警が圧力をかけると彼らは態度を変えてしまったそうです。
その男自身も民警の激しい尋問の末に殺人を自供し、銃殺刑に処せられたとありました。アンドレイ・チカチーロの起こした殺人事件で全く無関係の男が処刑されました。
アンドレイ・チカチーロの逮捕が遅れた原因
では、逮捕がここまでも遅れた原因はなんなのでしょうか。詳しく調べて紹介していきます。
血液型と精液の型が一致しない?100万人に1人の人間
当時はDNA鑑定がまだなく、アンドレイ・チカチーロは血液型と体液が一致しない「非分泌型」であったと見られていましたが、実際は当時使われていた検査用の試薬では検出できないタイプだっただけではという声もありました。
捜査の連携不足やソビエト連邦の当時の価値観
殺人事件が起こったことが知られていたロストフ周辺では捜査が慎重に行なわれ、名の知れた性犯罪者による尋問というもう1つの巡回が行なわれたそうです。また、警察はロストフ駅周辺の巡回も続けていたそうです。
捜査は長年にわたってソ連社会に蔓延している官僚主義とことなかれ主義の分厚い壁に阻まれ、更なる時間と多数の犠牲者を要することとなっていったそうです。
裁判でのアンドレイ・チカチーロ
逮捕されたアンドレイ・チカチーロの裁判での様子はどうだったのでしょうか。裁判での様子を詳しく調べて紹介していきます。
裁判での態度は異常であった
裁判での様子は異常であったとされています。公判の最中にズボンを脱いで性器を露出させたり、法廷に持ち込んだポルノ写真を掲げたり、自慰を始めたりしたそうです。
自分は同性愛者ではないと叫んだり、殺人事件を否定したかと思えば、逆に殺し足りないといったようことを口にしたり、支離滅裂なことをいっていたそうです。
アンドレイ・チカチーロを題材にした作品
アンドレイ・チカチーロを題材にした作品が幾つかあります。その作品を紹介していきます。犯罪者としては非常に珍しいことなのではないでしょうか。
影響を受けて製作された作品
幾つか紹介していきます。「子供達は森に消えた」1993年発表、映画の原作になりました。「撫で肩男ーロシアの殺人鬼を追って」「ロシア52人虐殺犯/チカチーロ」など多くの作品がありました。
犯罪者としてこれほど多くの作品が作られたのは世界でも珍しいのではないでしょうか。
文明社会史上最強最悪の殺人犯
今回取り上げているアンドレイ・チカチーロにも匹敵するもしくはそれ以上の最強の犯罪者がいます。彼の名は「ペドロ・アロンソ・ロペス」です。
ペルーの悪魔、アンデスの怪物の別名でこの世界の歴史上で最強最悪の犯罪者であり、殺人鬼として広く知られています。耳したことがある人も多いと思います。この最強最悪の殺人犯は、殺人事件と呼べないほどの多く犠牲者を出しています。
その犠牲者の数は少なくとも300人であるとされていて、歴史上最強最悪の殺人犯、殺人鬼として知られています。
戦争もこの事件の要因となっている
このような殺人事件を犯し、ロシア最強の犯罪者、殺人鬼となったチカチーロですが、自身のゆがんだ性欲や性格によるものももちろんですが、戦争によって受けた心的外傷なども大きく関係していると思われます。
もし彼が戦争を経験せず、もしくは戦争というもの自体がこの世界になかったら、犯罪者とならずに違う人生を歩んでいたのかもしれません。