シモ・ヘイヘとは?白い死神と呼ばれた最強の伝説のスナイパー

1939年、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した冬戦争において、ソビエト赤軍から“白い死神”と恐れられた伝説のスナイパー、シモ・ヘイヘ。スナイパーとしての確認戦果542名という史上最多の記録をもつシモ・ヘイヘについてまとめました。

シモ・ヘイヘとは?白い死神と呼ばれた最強の伝説のスナイパーのイメージ

目次

  1. 1フィンランドの伝説のスナイパーシモヘイヘ
  2. 2シモヘイヘに関する様々な伝説
  3. 3シモヘイヘの外見や性格
  4. 4シモヘイヘの残した名言
  5. 5シモヘイヘが使用していた銃は?
  6. 6シモヘイヘの関連書籍
  7. 7もう一人の白い死神スロ・コルッカ
  8. 8最強の記録よ永遠に

フィンランドの伝説のスナイパーシモヘイヘ

シモ・ヘイヘは1905年にフィンランドの小さな町ラウトヤルヴィに生まれました。軍に入隊する前は猟師兼農民として働いており、狙撃の基礎はこの頃行っていたケワタガモ猟で培われたと言われています。天性の才能があったのはもちろんですが、同僚たちが昼休憩をとっている間も熱心に練習し、射撃の腕を磨きました。

20歳になると、兵役義務によりフィンランド国防陸軍に入隊し、兵役後は在郷軍人となり白衛軍に所属しました。1939年にソビエト連邦がフィンランドに侵攻した冬戦争で召集された際には、それまでの射撃成績等を認められ、狙撃兵の任務を与えられました。極寒の中、純白のギリースーツを身にまとい、次々と敵を狙撃する姿はソビエト赤軍から“白い死神”と呼ばれ恐れられていたそうです。

終戦後には、第一級自由十字褒章とコッラー十字章を受勲しました。また、兵長から5階級特進し、最終階級は少尉となっています。フィンランドが生んだ最強のスナイパーの伝説、名言などについて詳しく紹介します。

シモヘイヘに関する様々な伝説

シモ・ヘイヘのスナイパーとしての戦果は、確認されたものだけでも世界最多の542人にものぼります。“白い死神”とまで呼ばれた最強のスナイパーの伝説をいくつか紹介します。

スコープは使わず裸眼でスナイプ

シモ・ヘイヘが使用していた狙撃銃には倍率4倍のスコープが装着できますが、彼は基本的にスコープを使わずに狙撃を行っていました。銃の軽量化と、スコープのレンズが光を反射することによって敵に自分の位置を知られるのを防ぐためです。また、スコープを使用すると射撃の際に頭を高く上げる必要があるため、レンズの反射と同じく敵に見つかる危険がありました。

シモ・ヘイヘは零下30℃から40℃の極寒の中、300m以内の敵ならほぼ確実にヘッドショットを成功させたと言われています。450m以上の狙撃もオープンサイトのみで成功させています。稀有な集中力と視力が、シモ・ヘイヘの伝説的な活躍を支えていました。

1分間に16発の的を撃ち抜く

あるとき、小銃で射撃の練習をしていたシモ・ヘイヘは、仲間から制限時間1分以内にどれだけ多くの的を撃てるかという課題を与えられました。標的との距離は150m、使用していた銃の弾倉の装弾数は5発です。

彼は1分間に16発を撃ち、16の的を撃ち抜きました。単純計算で1つの的にかけられる時間は4秒以下ですが、弾の補充が必要なため、実際はそれよりももっと短くなります。ヘイヘは驚異的な速さと精度で的を撃ってみせたのです。

コッラーの奇跡

“コッラーの戦い”は、1939年12月から1940年3月まで、ヨーロッパ最大の湖・ラドガ湖の北部を流れるコッラー川の周辺で行われた戦いです。人も装備も消耗しているフィンランド軍1個師団が、少なくとも3個師団を展開するソビエト赤軍に対抗しました。シモ・ヘイヘも、この伝説の戦いに狙撃手として参加しています。

この激戦区で、ヘイヘはアールネ・エドヴァルド・ユーティライネン中尉率いる第6中隊に所属していました。ユーティライネン中尉は少ない兵力でソビエト赤軍を撃退し続け、国民的英雄となりました。また、中尉は、指揮官から「コッラーは持ちこたえるか?」と尋ねられ、「コッラーは持ちこたえます、退却を命じられない限りは」という名言を残しています。実際に、地形を熟知し戦術を駆使したフィンランド軍の猛反撃によって、コッラーは持ちこたえました。

ユーティライネン中尉は、戦地で良心を理由に武器を持つことを拒否した兵士を「それなら敵に雪玉でもぶつけてやれ、ロシア人を通さないならそれでいい」と説き伏せてしまうなど、逸話や名言が多い人物です。シモ・ヘイヘの経歴を知り、一番能力を発揮できる狙撃手の任務を与えたのはこの有能な中尉でした。

捕虜達にも恐れられる“白い死神”

シモ・ヘイヘの生家は冬戦争の際にソビエト連邦の領地になってしまいましたが、1941年に起こった継続戦争で再占領に成功し、再びフィンランドの領地に戻りました。ソビエト連邦の占領中にヘイヘの農場内に作られた宿舎は、その後、フィンランド人が戦争捕虜の収容所として使用していました。

ある時、農場の仕事をしていたヘイヘが収容所の脇を通りかかると、フィンランド人の看守が「彼はソビエト連邦の兵士を542名も撃ち殺した」と説明しました。それを聞いた捕虜達は静まり返っていましたが、しばらくすると、そのうちの1人が恐る恐る「彼は平常心を取り戻しているのか?」と尋ねたそうです。

戦闘中以外でも、その凄まじい戦果でロシア人を震えあがらせた“白い死神”は、まさに伝説の最強スナイパーと言えます。

シモヘイヘの外見や性格

ソビエト赤軍から“白い死神”と恐れられたシモ・ヘイヘは、どんな人物だったのでしょうか。死神や最強のスナイパーという言葉から恐ろしい外見や性格、屈強な体格を想像してしまいそうですが、実際のシモ・ヘイヘという男はそれらとは正反対とも言える人物だったようです。

小柄な体格

フィンランド人の平均身長は180cm前後ですが、シモ・ヘイヘは152cmと大変小柄でした。集合写真を見ると、周りの男性よりも頭1つ分程小さいことがわかります。ヘイヘが使用していた小銃は120cmもありましたが、手足のように自由に扱っていたそうです。

顔に残った大きな傷跡

シモ・ヘイヘの顔について、残っている写真を見ると、小さな瞳に垂れた眉、薄く引き結ばれた唇がとても穏やかな印象を与えます。

しかし、この顔は1940年の戦闘中の負傷により、大きく変わってしまいました。負傷後に撮られた写真から、左顎が大きく歪んでいることがわかります。これは、敵兵の銃撃が唇から左顎を貫通し、重傷を負ったためです。

シモ・ヘイヘは意識不明の状態で病院に運ばれました。負傷から1週間後に意識を取り戻しましたが、顎には生涯消えない傷跡が残りました。彼を収容した兵士が「頭が半分なくなっていた」と言うほど酷い状態だったため、一時は戦死したと思われ、新聞に死亡記事まで掲載されました。記事を読んだヘイヘは、家族に「主役がいないから葬式は待ってくれ」と手紙を書く羽目になりました。

謙虚で物静かな性格

最強のスナイパーとして伝説的な戦果を残しているシモ・ヘイヘですが、性格はとても謙虚で控えめだったようです。勲章まで授与された自分の功績を、進んでひけらかすことはありませんでした。寡黙で内気な人物で、話しかけられても言葉少なに返すばかりだったと言われています。英雄につきものの名言もあまり残っていません。

冬戦争の手記には、戦争中に狙撃したのは500人と実際よりも少なく書いていました。小銃以外の武器で倒した敵兵の数はスナイパーとしての戦績を超えるとも言われていますが、本人は誇張されていると発言しています。謙遜なのか事実なのか、記録がないため確認することはできませんが、控えめな人物であることがわかります。

残っている写真でも、立ち位置を指示されない限り後列や他人に隠れるような目立たないところに写っており、内気さを感じさせます。

自然と共生する狩人

シモ・ヘイヘは戦後、猟師兼猟犬のブリーダーとして暮らしました。冬場にはウサギやキツネ、ヘラジカなどを猟犬と共に狩っていました。ブリーダーの技術も高く評価されており、フィンランドの第8代大統領ウルホ・ケッコネンからヘラジカ狩りに招待されたこともあります。

釣りも趣味にしており、友人とサーモン釣りにでかけることもありました。また、野生動物の保全活動にも積極的に参加していました。自然を愛する彼の活動には、多くの賛辞が寄せられました。

シモヘイヘの残した名言

数多くの名言を残している有名人もいますが、シモ・ヘイヘはそういったタイプではありませんでした。彼は自分の功績を自慢するような人物ではなく、多弁な性格でもなかったため、あまり名言と呼べるものは残っていません。そんな彼の発言の中でも印象的な名言を紹介します。

パートナーは愛用の銃

コッラーに作られたシェルターで色鮮やかに描かれた少女の絵を眺めていたシモ・ヘイヘは、仲間から「その娘を嫁にどうだ?」とからかわれました。それに対し彼は、「嫁ならもういるよ、2人ももらってどうするんだ」と答えました。ヘイヘが嫁と呼んだのは、彼が愛用している小銃でした。常にそばに置き、戦場で共に戦った小銃は、生涯独身だったヘイヘにとって大切なパートナーでした。茶目っ気と彼の人生を表した名言です。

継続は力なり

シモ・ヘイヘは晩年に受けたインタビューで、どのようにして最強とまで言われる射手になったのかと尋ねられ、ただ一言「練習だ」と答えました。才能があったことはもちろんですが、伝説のスナイパーの技術は膨大な努力によって培われたのです。

寡黙な“白い死神”から発せられたこの極めて簡潔な名言には、言葉では表現しきれない苦労と実感が込められているようです。現代の狙撃手の統計データの中でも、ヘイヘの戦績は首位を占めています。名言を裏付ける確かな成果が、修練の大切さをなによりも物語っています。

シモヘイヘが使用していた銃は?

シモ・ヘイヘは最強のスナイパーでしたが、短機関銃の名手でもありました。ヘイヘが使用していた銃について詳しく紹介します。

モシン・ナガンM28

モシン・ナガンM28は、ロシア帝国が開発したボルトアクション方式の小銃であるモシン・ナガンM1891を改良した銃です。耳のようなガードのついた新しいフロントサイトが装備されており、フィンランドでは“立ち耳”の意味をもつ“スピッツ”の愛称で呼ばれています。全長約120cm、重量約5kg、口径7.62mmの小銃で、狙撃銃としても使用されました。

後にヘイヘはその活躍により、スウェーデン実業家のエウゲン・ヨハンソンがフィンランド軍に寄付した小銃も授与されました。これは軍で最も優れた狙撃手にと贈られてきたもので、ヘイヘは下級軍曹でしたが、その栄誉に相応しい人物でした。これは、司令部が前線で戦う兵士達の功績を認めていることを示し、士気を高める狙いもありました。

スオミ KP/-31

シモ・ヘイヘは短機関銃の扱いにも長けていました。短機関銃スオミ KP/-31はフィンランド軍の技術将校、アイモ・ヨハンネス・ラハティによって開発されました。ラハティは卓越した技術により多くの重火器を開発し、勤務中に飲酒する許可を与えられていたそうです。

スオミ KP/-31は口径9mm、弾倉の装弾数は40発。“スオミ”はフィンランド語で“フィンランド”という意味です。ヘイヘは、記録が残っているだけでも200人以上の敵兵をこの銃で射殺しています。

シモヘイヘの関連書籍

最強のスナイパー、シモ・ヘイヘに関連する書籍をいくつか紹介します。

『白い死神』

『白い死神』ペトリ・サルヤネン著、古市真由美訳、アルファポリス

シモ・ヘイヘ本人や関係者へのインタビューに基づいて執筆されたヘイヘの伝記。最強のスナイパーであるシモ・ヘイヘや冬戦争について、実際の様子や兵士達の名言、伝説を知ることができます。狙撃手そのものについて書かれた章もあり、狙撃の歴史や狙撃手の技術について詳しく解説されています。

『雪中の奇跡』

『雪中の奇跡』梅本弘著、大日本絵画

冬戦争における戦闘や兵器の運用について詳細にまとめられた書籍で、200点以上の写真も掲載されています。フィンランド人が圧倒的な兵力をもつソビエト赤軍とどう戦ったのか、詳しい情報とともに知ることができます。

もう一人の白い死神スロ・コルッカ

フィンランドにはもう一人の“白い死神”がいました。彼の名はスロ・オンニ・コルッカ。最強のスナイパー、シモ・ヘイヘと並び称された狙撃兵で、冬戦争では400人以上のソビエト兵を射殺したとされています。最終階級は曹長でした。

スロ・コルッカは1904年に、ラドガ湖の西側にあるサッキヤルヴィに生まれました。ヘイヘよりも1歳年上で、ヘイヘと同じくケワタガモ猟で狙撃の腕を磨きました。彼の戦績は冬戦争の開戦時から突出しており、その活躍を知ったヘイヘは彼に倣って戦果を記録し始めたと言われています。

コルッカは単独での戦闘を得意としており、敵の狙撃兵と1対1で戦ったり、500m以上の狙撃を成功させたという伝説も残っています。ただ、彼の装備や戦績はシモ・ヘイヘのものに類似しており、軍に正式な記録も残っていないため、架空のものではないかとも言われています。

最強の記録よ永遠に

ヘイヘの生まれ故郷ラウトヤルヴィには、コッラーで戦った勇敢な兵士達と伝説のスナイパーを偲ぶ“コッラーとシモ・ヘイヘ博物館”が建てられています。

シモ・ヘイヘは自分の家族や故郷の独立を守るために戦いました。彼の活躍は素晴らしいものですが、別の麺から見ると、それは多くの犠牲者が生まれたことと同義です。ヘイヘの記録が塗り替えられるような戦争が今後も起きないことを祈ります。

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