シオニズムの意味とは?シオニズム運動を歴史的背景から解説

シオニズム運動をご存知でしょうか?ニュースでよく聞く「イスラエル」という国はシオニズム運動により建国されました。現在のパレスチナ問題の背景となっている思想「シオニズム」とドレフュス事件がきっかけとなった「シオニズム運動」を歴史的背景から解説します。

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目次

  1. 1シオニズム運動とは
  2. 2シオニズム運動の歴史をわかりやすく教えて!
  3. 3シオニズムの意味とは
  4. 4ユダヤ人の歴史
  5. 5シオニズム運動のはじまり
  6. 6イスラエル建国までに起こったこと
  7. 7シオニズム運動の目的
  8. 8シオニズム運動が盛んになった背景
  9. 9シオニズム運動によるパレスチナ問題
  10. 10シオニズム運動は「終わったこと」ではない

シオニズム運動とは

シオニズム運動をご存知でしょうか?「シオニズム運動」とは、ドレフュス事件を機に本格化したユダヤ人の民族国家を彼らの故郷であるパレスチナに建設するための運動のことです。

パレスチナと聞いて、「ニュースでよく聞く、中東の少し危ないところ」というイメージを持つ方も多いのではないでしょうか?現在のパレスチナ問題は、今回ご説明する「シオニズム」という思想が背景にはあります。

シオニズム運動やその根底にあるシオニズムという思想のもつ意味について、歴史的背景から解説していきます。

シオニズム運動の歴史をわかりやすく教えて!

シオニズム運動が始まった背景には、1894年にフランスで起きたドレフュス事件にはじまるユダヤ人への差別や偏見がありました。この運動の基となる思想「シオニズム」を提唱したのは、ドレフュス事件を新聞記者として取材していた、ハンガリー出身のユダヤ人であるテオドール・ヘルツルでした。

ヘルツルは、ドレフュス事件でフランスのみならずヨーロッパ各地にユダヤ人に対する差別や偏見などの反ユダヤ主義が流行していることを痛感します。

そこで、ユダヤ人が安心して住める場所をヨーロッパ以外に求める考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるパレスチナにユダヤ人の国を建国しようとする運動「シオニズム運動」を開始しました。しかし、そのシオニズム運動は時代とともに率いる主導者が強硬路線へと代わり、一部の者は武装化して軍事力をつけて暴力的となっていきます。

出典: https://pixabay.com/ja/%E6%88%A6%E4%BA%89-%E7%A0%82%E6%BC%A0-%E9%8A%83-gunshow-%E5%85%B5%E5%A3%AB-%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E7%85%99-%E7%A0%82-1447021/

第一次世界大戦末期の1917年11月には、イギリスがユダヤ人にパレスチナでの国家建設を認める「バルフォア宣言」がなされました。そして、1947年には、国連によるパレスチナ分割決議を経て、1948年にイスラエルが建国され、ユダヤ国家が誕生します。

しかし、バルフォア宣言はそれ以前に結ばれていた、パレスチナに住むアラブ人の独立を認める「フセイン=マクマホン協定」や、アラブ人の地域をイギリス、フランス、ロシアの3カ国で国際管理地域とする「サイクス=ピコ協定」と矛盾していました。

バルフォア宣言とその他の協定との矛盾により、アラブ人とユダヤ人がそれぞれに主権を主張する事態となり、それは現代の「パレスチナ問題」として世界的問題になっています。

シオニズムの意味とは

なぜ「ユダヤ人の民族国家を彼らの故郷であるパレスチナに建設するための運動」が「シオニズム運動」と称されるようになったのでしょうか。「シオニズム」の意味とは一体何なのでしょうか。「シオニズム」の意味とその名の由来をご説明します。

シオニズムの意味

「シオニズム」とは、「シオンの地に帰る」という意味です。

「シオン」というのは、ユダヤ教の聖地であるエルサレムを指す古名(ラテン文字ではSion、Zion等と表記)です。ユダヤ人の故郷であるシオンに帰りユダヤ人の安住の地を建国しよう、あるいは、ユダヤ教やその文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的思想や、その思想に基づく運動のことを「シオニズム」と呼びます。

シオニズムは「シオン主義」「シオン運動」とも呼ばれることもあります。

シオニズムの名前の由来

シオニズムの名前の由来は、次の聖書の言葉(ゼカリヤ書 第8章3節 )にあります。

主はこう仰せられる、「わたしはシオンに帰り、エルサレムの中に住む。エルサレムは忠信な町ととなえられ、万軍の主の山は聖なる山ととなえられる」。

つまり、この聖書の言葉は次のような意味をもちます。「主」である神が住むのはエルサレムです。エルサレムは真実の街と呼ばれるべきで、万軍の主の山であるシオンの丘は聖なる山(丘)と呼ばれるべきでしょう。

このことから、シオニズムの語源となる「シオン」は神殿がある神聖な丘であることがわかります。ユダヤ人が神聖な丘のある土地「シオン」に帰ることを「シオニズム」と称したのです。歴史的にも「シオン」はユダヤ人の心の拠り所だったことがわかります。

ユダヤ人の歴史

シオニズムを理解するには、まずユダヤ人の歴史を紐解く必要があります。

厳密には「ユダヤ人」という人種は存在せず、「ユダヤ教の信者」のことをユダヤ人と呼びます。ユダヤ人は、唯一絶対の神「ヤハウェ」のみを信じ、ほかの神については存在をも認めない一神教「ユダヤ教」を作り上げました。

そのユダヤ人が故郷であるパレスチナに祖国を建設しようとする思想「シオニズム」を持つようになったきっかけは、古代まで遡ります。

古代のユダヤ人

ユダヤ人はエジプトで奴隷生活を送っている時代に多民族から「ヘブライ人」と呼ばれていました。ヘブライ人は、紀元前1500年頃からシリア・パレスチナ地方で活動をはじめます。

ヘブライ人はそれぞれの族長に率いられて統一国家をつくることはなかったのですが、紀元前1200年頃にエーゲ海方面から地中海東海岸に進出した「海の民」の一派「ペリシテ人」が現在のガザを中心とした東海岸に侵入し、ヘブライ人を圧迫するようになりました。

ヘブライ人はそれに対抗するため、紀元前11世紀末に民族は統一され、ヘブライ王国が誕生します。その後、ヘブライ王国はソロモン王の時にユダヤ教の聖地であるエルサレムにヤハウェ神殿を建設するなどして繁栄します。

しかし、ソロモン王の死後、ヘブライ王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国は紀元前586年に新バビロニアによって征服され、エルサレムは破壊されて多くのヘブライ人がバビロンに連れ去られました。

ヘブライ人にとってバビロンに連れ去られた捕囚そのものは、あまり問題とならなかったようです。しかし、神の保護のもとにあったはずの祖国が消滅したことと、ヤハウェ神殿が破壊されてしまったことは、ヤハウェ神への信仰をゆるがす大きな危機を意味していました。

その中にあったユダヤ人は、強い望郷の思いとともに新たな信仰形態である「ユダヤ教」を確立させました。

現代では、この「バビロン捕囚」が、ユダヤ人としての民族意識を高め、ユダヤ教という民族宗教の体系をつくりあげたこと、そして、その後のユダヤ人の自国を喪失して各地に離散(ディアスポラ)することとなった始まりである、と言われています。ユダヤ人が各地に離散することにならなければ、「シオンの地に帰ろう」とするシオニズムは起こりませんでした。

ローマ時代までのユダヤ人

ユダヤ教を確立させたヘブライ人は、ユダヤ教を信じる人を意味して「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。

紀元前538年、ユダヤ人はペルシア帝国のキュロス2世によってバビロン捕囚から解放され、パレスチナに戻ることを許されます。パレスチナに戻ったユダヤ人は、聖地エルサレムにヤハウェ神殿を再建しました。

ペルシア帝国滅亡後はアレクサンドロスの帝国が成立し、ユダヤ人もその支配下に入りますが、帝国滅亡後はディアドコイの争いに巻き込まれ、はじめプトレマイオス朝エジプト、ついでセレウコス朝の支配を受けます。

その中では、独自の一神教であるユダヤ教を信仰することに対して制圧を受けていました。しかし、この制圧によってユダヤ人は結束を強め、紀元前166年には、セレウコス朝に対する反乱を起こし、政治的にも宗教的にも自由を獲得することができます。

紀元前37年にはエルサレム神殿を大改築しますが、その直後にはローマの直接支配を受けるようになり、6年からパレスチナはローマの属州となってしまいます。

その後2度にわたるユダヤ戦争でローマに抵抗を試みましたが、1度目のユダヤ戦争でエルサレム神殿は破壊され、さらに2度目のユダヤ戦争では、ユダヤ人は地中海各地に離散(ディアスポラ)せざるをえない状況に陥りました。

中世ヨーロッパでのユダヤ人

ユダヤ人は最初から迫害されていたということはなく、キリスト教社会の中では異教徒として存在するも共存をしていました。ユダヤ人に対しての迫害の歴史は、11世紀末に始まる十字軍時代以降に始まります。

ユダヤ教を信じるユダヤ人には金融業が許されていましたが、キリスト教徒は「利子をとってはいけない」という教えに縛られていたことで、商業をうまく営むことができずにいました。そのためユダヤ人が豊かになり、貧しいキリスト教徒の恨みをかうこととなってしまいます。

キリスト教徒は「ユダヤ人がイエス・キリストを救世主として認めない」「イエスを裏切ったのはユダヤ人である」ことを口実に、激しい迫害や集団的な虐殺(ポグロム)を行うようになりました。

近代以降のユダヤ人

フランス革命において、ユダヤ人も一般市民と認められます。同等の権利を有するとされたことで、市民革命の時代を経て「人権と平等」の思想が一般化しました。また、ヨーロッパで長期にわたってヨーロッパ人との定住、混血が続いたため、ユダヤ人は人種、民族として外見からは判断できなくなっていました。

その反面、ヨーロッパ各国が帝国主義の時代に入ってくると、ナショナリズムは国家主義の側面を強くし、民族主義の側面でも偏狭な人種主義が強まっていきます。その攻撃の的とされたのがユダヤ人であり、反ユダヤ主義の高まりとなって現れます。

シオニズム運動のはじまり

19世紀のロシアでは、ロシアの皇帝による専制政治とそれを支えた社会体制である「ツァーリズム」とギリシア正教会の側からの激しい迫害(ポグロム)が行われていました。

そして、近代人権思想の始まったフランスにおいても、普仏戦争敗北後の軍国主義の風潮と結びついて反ユダヤ主義が強まります。その反ユダヤ主義の高まりの中に身を置いたユダヤ人の中で「シオニズム運動」が本格的に始まっていきます。その本格化の背景にはドレフュス事件がありました。

1894年ドレフュス事件

ドレフュス事件とは、1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部勤務の大尉だったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件のことです。

日清戦争が起こった1894年の夏、フランス参謀本部がドイツ大使館に送り込んでいたスパイが盗み出したメモの中に、フランス陸軍の誰かが書いたと思われる機密情報がありました。それに驚いた参謀本部がその犯人捜しをしたところ、参謀本部付きの砲兵大尉であったアルフレッド・ドレフュスが浮上します。

ドレフュスが疑われたのは彼がアルザス生まれのユダヤ人であったからです。参謀たちが、ドレフュス大尉の筆跡を取り寄せてメモと比較し「一致している」と断定しました。ドレフュス大尉は反逆罪で逮捕され、本人は無罪を訴えましたが、軍法会議で有罪となり、無期流刑となってしまいました。

その後、新たに参謀本部情報部長となったピカール中佐は別のルートからエステラージーという少佐がドイツ大使館と連絡を取っていることを知ります。ピカールは密かに再調査を進め、その筆跡を入手して以前の鑑定人に見せたところ、メモと同一の筆跡だと答えました。

ピカールはドレフュスの無実を確信し、その結果を上層部にあげましたが、陸軍大臣以下の軍首脳は「軍事裁判の権威を守る」ことを理由としピカールの意見を抑えつけてしまいます。

その後、ドレフュス有罪の証拠をねつ造した疑いのある軍人が自殺するなどの疑惑が浮上し、民衆からの再審の声が強まります。唯一の証拠であった密書の筆跡鑑定を再度行った結果、ドレフュスではなくエステラージーのものであることが明らかになり、そのことが大衆に公となりました。

1899年にようやく再審となりますが、再び有罪を宣告されます。ここで、政府内の共和派がドレフュス救済に動き、有罪を認めることを条件に、出獄することを認められます。ドレフュスはその後の1906年になって無罪と認められました。
 

ドレフュス事件に示された「反ユダヤ主義」

この事件は、19世紀末のフランスにおいて反ユダヤ主義が根強く存在することを意味する事件でした。しかし、フランスだけでなく各地で根付いていた反ユダヤ主義を、ドレフュス事件で身を以て感じたのがハンガリー出身で新聞記者として当時パリに滞在していたユダヤ人である、テオドール・ヘルツルでした。

彼はこの事件でショックを受け、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを強く抱くようになります。そして、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざすシオニズム運動を開始するのです。

イスラエル建国までに起こったこと

第一次世界大戦中にイギリスがユダヤ国家の建設を認めた「バルフォア宣言」を背景に、ユダヤ人の多くはパレスチナへの帰還を開始しました。

しかし、それは現地のアラブ人との深刻な民族対立を生み出すこととなり、現在も「パレスチナ問題」としてニュースで取り上げられています。

ナチス・ドイツによるホロコースト

1930年代にはドイツに登場したヒトラーのナチ党によって、歴史上最悪で強圧的なユダヤ人排斥が行われました。ヒトラーはドイツ人の優秀な血をユダヤ人から守るためと称し、その民族的絶滅という極端な主張を『わが闘争』と呼び、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの民衆の不満をユダヤ人へと向けていくようにしました。

ナチス・ドイツの組織的なユダヤ人排斥は、権力掌握後、1935年にユダヤ人の公民権を奪う人種差別法であるニュルンベルク法によって確定します。そして、後に「水晶の夜」と呼ばれる全国の都市のユダヤ人居住区を襲撃する事件などの悲劇を生みながら、第二次世界大戦が始まると強制収容所が国内およびその占領に設けられていきました。

戦争の激化に伴いユダヤ人絶滅を目指す狂気の行動となり、約600万人のユダヤ人が強制収容所に送られ、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所でユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)が実行されていきました。

ユダヤ人への同情、そして建国へ

大戦後は、ホロコーストを背景に、ユダヤ国家建設への同情が集まります。国際連合のパレスチナ分割決議をうけて、1948年にシオニズム運動によってイスラエルを建国するという一応の目的が達成されました。

しかし、それに反発したアラブ連盟との間で直ちにパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発し、その結果多数のパレスチナ難民が発生することとなります。その後、イスラエルはアメリカ・イギリスの支援のもと、強力な軍事国家化をはかってアラブ側との戦闘で領土を広げていくのです。

シオニズム運動の目的

シオニズム運動の歴史を確認したところで、そもそものシオニズム運動の目的を整理しておきましょう。

文化的・精神的にユダヤ民族の統一を守るためのシオニズム運動

エルサレム神殿を破壊されることによる信仰の崩壊から、ユダヤ民族の統一を守ろうとし、ユダヤ人が自らイスラエルヘの帰還をしようとするときには、神の助けを得るようとするシオニズム運動を「宗教的シオニズム」と呼ばれます。

この宗教的シオニズムから生まれたのが、古代ヘブライ文化の中心地としてのパレスチナの復興を目的とする「文化的シオニズム」です。文化的シオニズムを主張したのは、アハド・ハアム(本名はアシェル・ギンツベルグ)というウクライナ生まれのユダヤ人です。

この宗教的シオニズムと文化的シオニズムはどちらもユダヤ民族の統一を守るためのシオニズム運動でした。この2つのシオニズム運動は、どちらも国家建設を目的とはせず、あくまで文化的、精神的な統一を目的としていました。

ユダヤ人国家「イスラエル」建国のためのシオニズム運動

テオドール・ヘルツルがドレフュス事件をきっかけに始めたのが、ユダヤ人が安心して住める土地「イスラエル」建国のためのシオニズム運動です。これは、政治的シオニズムとも呼ばれ、シオニズム運動の代表的な目的ともいえます。

ヘルツルは、“国家”を持たないからユダヤ人への差別や迫害が起こっていると考え、ユダヤ人の国家建設こそが急務であるとしました。

そして、1896年に『ユダヤ人国会』を出版し、翌年にはスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議」を開催しました。この会議には世界各地からユダヤ人が集まり、「世界シオニスト機構」を設立しました。

ヘルツルに続いて政治的シオニズムを信奉する人たちは、ユダヤ人国家の実現のために精力的な外交を展開していくなど活動をすすめました。

シオニズム運動が盛んになった背景

初期のシオニズム運動は、現在のような軍事思想に基づいたシオニズムではなく、比較的性格の穏やかなものでした。しかし、次第に強硬路線を唱える者たちによって過激な思想・運動へと変わっていきます。

では、過激な思想・運動へ変わっていった背景には何があるのでしょうか。

「政治的シオニズム」から「実践シオニズム」へ

デイビット・ベングリオンは、ポーランド生まれのユダヤ人で、イスラエルの建国を宣言した後、初代首相に就任した人物です。シオニズム運動の中で、社会主義の影響を受けて労働組合や「所有-生産-消費」を共同化した村落の自治を基礎にユダヤ国家を作り上げるという「実践シオニズム」の指導者でもあります。

ベングリオンは独立の前提として国際連合から提案されていたパレスチナ分割案を受け入れていました。しかし、独立宣言の翌日に始まったアラブ側の攻撃にすぐさま反撃し、戦いに屈さない姿勢を貫き、中東戦争下のイスラエルを主導しました。

しかし、過激な右派であるベギンが主導する「大イスラエル主義」には反対し、また労働党・共産党とも一線を画していました。

「修正シオニズム」による「大イスラエル主義」の誕生

ベングリオンが国際連合のパレスチナ分割案を受け入れていたことに反発したメナヘム・ベギンは「修正シオニズム」という軍事力強化による「大イスラエル主義」を推進します。

「大イスラエル主義」は、ヨルダン川西岸も含めた全土をイスラエル領と主張するものです。後のイスラエル国防軍の中核となるユダヤ人武装部隊「ハガナ」は、この「大イスラエル主義」によって結成され、年々その組織を拡大し、軍隊としての形を整えていきました。イスラエルが中東戦争で軍事的勝利を重ね、占領地を拡大していく中で次第にその指示を強めていきます。

その中心にいたベギンは、1973年に右派を結集してリクード党を結成し、1977年の選挙で勝利し、イスラエル首相に就任、政権を獲得しました。

このようにして、シオニズムは次第に過激な思想・運動へと変わっていったのです。

シオニズム運動によるパレスチナ問題

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「パレスチナ問題」とは、パレスチナへのイスラエル建国によって、アラブ人とユダヤ人に生まれた対立のことをいいます。

第一次世界大戦中にイギリスは、ユダヤ人に対しパレスチナでの国家建設を認めるバルフォア宣言とともに、アラブ人に対し独立を認めるフセイン=マクマホン協定を結ぶという「二枚舌外交」を行い、パレスチナでのユダヤ人とアラブ人双方に権利を与えました。

バルフォア宣言によって、ユダヤ人のパレスチナへの帰還が多くなりアラブ人との紛争が激しくなっていったのです。

中東戦争の勃発

1948年、国連はパレスチナ分割案を提示してアラブ人とユダヤ人の紛争解決を図りました。しかし、その分割案はアラブ人側に不利であったため、アラブ連盟が反発し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発することとなります。

1948年のパレスチナ戦争は全面的なイスラエルの勝利となり、イスラエルは事実上、パレスチナを占拠して国家を建設しました。

この戦いに敗れたアラブ諸国は、まずエジプトで自由将校団による弱い王制打倒のエジプト革命が行われ、イラクにも波及します。パレスチナ問題はパレスチナにとどまらず、イスラエル対アラブ諸国の中東全域を舞台とした戦争に発展していくのです。

その後、4次にわたる中東戦争を経て、アラブ側、イスラエル側にもそれぞれ相手の存在を認め、和平して共存しようという動きも見られるようになります。しかし、すぐに「徹底的に排除するまで戦う」と主張する勢力が双方に現れ、和平の機会は壊されていきます。

そして今もなお、「パレスチナ問題」は解決に向けての進展はなく、双方による武力攻撃が相次ぎ、犠牲者を出し続けています。

シオニズム運動は「終わったこと」ではない

現在は、武装したテロ組織ばかりがニュースでは取り上げられています。しかし、その背景にあるシオニズムという思想やシオニズム運動まで理解されている方は少ないのではないでしょうか。

シオニズム運動の歴史は、古代ローマ時代に起こったユダヤ戦争で、各地に離散することとなったユダヤ人が帰郷を望んだことから始まりました。ドレフュス事件で本格化したシオニズム運動は、イスラエル建国によって一応の目的は達成されましたが、「故郷パレスチナに安住の地を!」という当初の目的は未だに達成されずにいます。

シオニズム運動はたくさんの犠牲を生んでいますが、決して「終わったこと」ではありません。ユダヤ人の歴史上、根底にある思想として、これからもシオニズムの意味と目的は多くの変遷をする可能性もあります。日々のニュースに耳を傾け、中東の情勢を見守っていきましょう。

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