塩沢ときの若い頃や生い立ち!死因は癌?髪型やメガネが独特だった?
大きなトンボメガネに独特な髪型がトレードマークの塩沢ときさん。テレビでは、陽気で過激な発言で人気でした。そんな塩沢ときさんの突然の訃報に驚いた方も多いでしょう。テレビでみせる陽気な姿とはうらはらの生涯。その若い頃や生い立ち、死因についてまとめました。
目次
塩沢ときとは?
大きなトンボメガネに大きな独特の髪型。派手なファッションでテレビに登場した塩沢ときさん。そのインパクトのある姿と、過激な発言でお茶の間の人気者になりました。その中には、多くの名言もありました。塩沢ときさんの画像はパワフルです。
お昼のバラエティー番組に出演し人気者だった塩沢ときさんですが、まず、プロフィールをご紹介します。
【塩沢ときのプロフィール】
本名 | 塩沢 登代路 |
生年月日 | 1928年4月1日 |
死亡 | 2007年5月17日(79歳) |
出身地 | 東京都 牛込 |
血液型 | AB型 |
活動内容 | 女優 |
所属事務所 | 東宝芸能 |
実践高等女学校を卒業後、東宝芸能に所属し、女優として活躍していました。
塩沢ときの生い立ちは?
塩沢ときさんの一生は病気との戦いでした。
後に、自らの癌闘病について公表することになりますが、最初は一部の人にしか伝えずに病気と戦っていました。塩沢ときさんは、女優としてあの強烈なキャラクターを演じていたのでしょうか?生い立ちについて、まとめました。
塩沢ときの生い立ち!若い頃は清楚な美人役だった?
1947年19歳の時、塩沢時さんは東宝ニューフェイス2期に合格し、その後様々な東宝の作品に出演しています。若い頃は、私たちの印象に残っている髪型とメガネとは対照的な、清楚な役柄でした。22歳の時には、映画『女三四郎』で、端役ながら映画出演も果たしています。
その後も1950年代には、東宝の映画に清楚な美人役で出演していました。女優として芽が出ない事、その当時付き合っていた男性とも先が見えてきて、どん底の状態だったと自身の著書『がん人生』の中に書いています。
端役ながらも、親子2人で生活していけるだけの収入は得ることができる状況でした。
塩沢ときの生い立ち!30歳で最初の舌癌を克服!
仕事やプライベートで行き詰まりを感じていた30歳の時、舌癌になります。東宝映画『大判』に出演した直後、自分が痩せていることに気づきます。さらに、舌の奥の方の違和感が気になり、手鏡で舌裏を確認します。その時、舌裏の変化に気づきました。
舌裏の変化を発見して、すぐに癌だと直感した塩沢さんは、がんセンターの田崎先生を紹介してもらいます。田崎先生の紹介で、塚本先生にたどり着いた塩沢さんは、放射線治療で癌を克服します。すばらしい先生との出会いが塩沢さんの命を救うことになりました。
しかし、塩沢さんの癌との戦いはこれだけでは終わりません。塩沢さんの生い立ちを振り返ると、癌との戦いだったことに驚かされます。現在、死因の1番にあげられる癌ですが、こんな若さで最初の癌を克服していました。。
塩沢ときの生い立ち!母1人子1人での生活だった?
塩沢ときさんは、強い!自分が癌かもしれないと気づいた時、彼女のように気丈に行動できるでしょうか。若い頃の塩沢ときさんは、どんな生活をしていたのでしょう。
著書の中に、父親が早く亡くなり、母1人子1人で生活していたことが書かれています。こんな生い立ちにも塩沢さんの強さの秘密があるのかもしれません。癌が見つかった時、塩沢さんがお母さんの面倒も見ていました。
お母さんに必要以上に心配させたくないため、冷静に自分の癌の事を伝え、お見舞いにも来させなかったといいます。また、自分の男に入れ込むところは母親譲りかもと話しています。お母さんは無邪気で憎めない人だったようです。どこか塩沢ときさんとの共通点もありそうです。
塩沢ときの生い立ち!若い頃付き合っていた男性は?
塩沢ときさんは、自分の恋愛についても赤裸々に語ってくれています。舌癌で闘病することになった時、お付き合いしていたのは、家庭のある年上の男性でした。7年余りの愛人生活も先が見えてきて、ストレスを感じるようになっていたころでした。
しかし、他に頼る人もいなかったのか、自分が癌だと分かると、その恋人を呼び出し、最悪の事態には自分の母親が生活に困らないように面倒をみてくれるように頼みます。終わりが来る恋愛関係であることも感じながら、自分は癌とも戦わなければならない辛い状況でした。
人に甘えず、自分で決断し行動する強さは、そうならざるを得なかった塩沢さんの生い立ちにもあるのかもしれません。情熱的な恋愛をしながらも、結婚にはいたらず生涯独身だった理由が、その強さや行動力故だったとしたら、せつない感じがします。
塩沢ときの生い立ち!癌の克服後のコミカルな役
塩沢さんは、舌癌を克服後、恋人とも別れ、不安を抱えながらも女優業を続けます。そんな時、コメディ・ドラマで、校長先生の役を演じます。辛い状況の中、思い切ってコミカルで元気な役を必死にこなします。それは、塩沢さんにとって転機になりました。
役での明るさは、その後の塩沢ときのイメージを変えたのかもしれません。その後、直ぐに売れっ子になった訳でもなく、端役は続きましたが、20年ほどがすぎ、癌闘病の事も過去になっていたとき、黒柳徹子の『徹子の部屋』への出演依頼が来ます。
塩沢ときの生い立ち!黒柳徹子の『徹子の部屋』に出演
黒柳徹子さんの『徹子の部屋』への出演は、大きなチャンスになりました。食べる話か病気の話は注目を集めやすいとう取材班のスタッフの言葉で、癌闘病について公表する決断をしたのです。手術のために、総入れ歯となったことも告白。その番組で、多くの人の共感を得ることになりました。
その後、『いただきます』というお昼の番組への出演依頼が続きます。過激な発言や自由な行動で、司会者の小堺一機さんを慌てさせる、オバ様たちが登場する番組です。その独特の髪型やメガネ、過激な発言、陽気なキャラクターで、塩沢ときさんは人気者になっていきました。
女優として端役をこなしていた塩沢ときさんは、昭和59年から60年ごろには、休日もないほど忙しい生活をおくる超売れっ子になっていました。塩沢ときといえば、大きな頭。髪型とメガネはトレードマークになっていました。
塩沢ときの出演作品
塩沢ときさんの出演作品についてご紹介します。個性的な名脇役として様々な作品に出演していますが、たくさんある出演作品の中の一部をご紹介します。
ドラマでの個性的な役や、あの髪型とメガネという出で立ちが印象に残る塩沢さんですが、若い頃はとても美人です。
塩沢ときの出演のドラマ
レインボーマンでイグアナ(名前かっちょいいな)に扮した塩沢とき、ドラァグっぽくて素敵よね。 pic.twitter.com/q3lYt8m5da
— MiKKi (@spiralmojo) October 23, 2017
塩沢ときさん出演のドラマを2つ紹介します。どちらも個性的で印象に残る名脇役です。
愛の戦士レインボーマン
レインボーマンに変身するヤマトタケシと死ね死ね団との戦いが描かれています。東宝初のヒーロー物TVドラマでもあります。塩沢ときさんは、レインボーマンを倒すための殺人プロフェッショナルチームのリーダーであるイグアナを演じています。不気味な魔術を使い、レインボーマンを苦しめる魔女の役です。
この作品では、強烈な悪役を演じています。衣装やメークも個性的です。
ケンちゃんシリーズ
『ケンちゃんシリーズ』の子供向けドラマで、塩沢ときさんは、シリーズを通して、強烈な教育ママ役を熱演しています。「んまー。なんてことでしょう。」というお決まりの台詞がありました。
塩沢ときの出演の映画
『女三四郎』の端役でデビューしたあと、様々な映画に出演しています。初めは清楚な美人役でしたが、ほとんどが端役です。若い頃の出演作は、イメージが違い過ぎて、塩沢ときさんと気づかないかもしれません。
怪獣大戦争
この映画は日本とアメリカの合作であり、ゴジラシリーズの第6作となります。地球を侵略しようとするX聖人との戦いを描いています。この映画では、婦人団体代表の役で塩沢ときさんが出演しています。
トレードマークの髪型とメガネがないと塩沢ときさんと分からないほどです。
うれし恥ずかし看板娘
塩沢ときさんの主演作です。女三四郎の端役で映画デビューしたあと、この作品で主役のお澄を演じます。恋人を戦争で亡くした後、縁談を断り床屋を守っている美人姉妹の役を演じています。
塩沢ときの出演の舞台
1964年から2004年にかけて、20作品以上の舞台にも出演しています。最初の舞台が「アニーよ銃をとれ」でした。
アニーよ銃をとれ
アメリカのブロードウェイミュージカルです。日本初演は1964年、江利チエミ主演で上演されました。実在の女射撃手アニー・オークレイをモデルにしたミュージカルです。このミュージカルにも塩沢ときさんは出演しています。
嫁も姑も皆幽霊
幽霊の先妻と姑が現れて、主人公である小説家とその現在の妻と同居が始まるというホームコメディです。メインキャストではないようですが、初演の舞台で客演しています。株式会社NLTの講演ブログには淡路恵子さんとのツーショット画像があります。
私たちの知っているトレードマークの髪型とメガネでの出演です!
塩沢ときの出演のCM
CMは、なかなか個性的なものが多いようです。インパクトがあります。そういうCMあったなと記憶に残っている人もいらっしゃるのではないでしょうか。CM画像もいっしょに紹介します。懐かしいCM画像です。
小林製薬デントジェル
小林製薬デントジェルのCM画像です。
1990年代の小林製薬の入歯専用の歯磨きのCMです。塩沢ときさんらしい派手なファッションと髪型で出演しています!
ロッテ ホカロン
ロッテホカロンのCM画像です。
1985~1989年に放送されていました。気象解説者の福井敏雄さんと塩沢ときさんという組み合わせでインパクトがありました。福井さんもそのキャラクターで、当時人気者でした。
塩沢ときの吹き替えアニメ・映画
劇場版ルパン三世のアニメと実写両方に出てるのは塩沢ときだけ! 上は「念力珍作戦」で嬉しそうな銭形警部(伊東四朗)に胸を揉まれる婦人警官役。下は「バビロンの黄金伝説」のロゼッタ。 pic.twitter.com/muun8dTZCe
— タッド星谷 (@tadcomix48) January 11, 2018
アニメや映画の吹き替えもしています。気づかなかった方もいるかもしれません。2つご紹介します。
ルパン三世 バビロンの黄金伝説
バビロンの黄金の謎を探る謎の老婆ロゼッタ役。ロゼッタが正体を隠し老婆に化けている時の老婆の声を担当しています。バビロンの黄金をめぐって、ロゼッタとルパン、マフィアのボスで争奪戦が繰り広げられます。
悪魔の毒々おばあちゃん - ダニー・デイヴン
ベルギーのコメディーホラー作品。ダニー・デイヴン役。ロミ山田さんと塩沢ときさんがこの作品の吹き替えしているようです。アマゾンでも日本語吹き替え版DVDが販売されています。ベルギーとホラー作品とは、あまり結びつかないので、珍しい作品です。
塩沢ときはメガネや髪型が個性的で今でも注目
かわいい子供の塩沢ときスタイルの画像です。
塩沢ときさんといえば、あの大きなメガネに大きな頭(髪型)、そして派手なファッションという印象です。今でも、幅広い年代の人が塩沢さんと言えばあのスタイルを想像します。
SNSでは、塩沢ときさんスタイルで多くの画像が投稿されています。子供から大人まで、そして動物までも塩沢ときです!
大きな頭が生まれた訳は?
『徹子の部屋』1985年放送
— 池乃こいし (@369doughnut) October 26, 2017
塩沢とき(当時57歳)
「ある番組でお好きな恰好で出てくださいって言われて、それで凄いお家から出てくる人を羨んでおりまして、1度そういう恰好をしましたらどんどん派手になってしまって気が付いたらどんどん頭も大きくなってしまいましたの」 pic.twitter.com/BUDlI2b7ZJ
そもそも、あの髪型はどこから生まれたのでしょうか?TVのトーク番組に出演するさいに、自由にやってくださいと言われ、塩沢さん自身が自分でアイデアをだしたといわれています。SNSには、今でも、塩沢ときさんの画像がたくさんあります。
あの頭は発泡スチロールの芯を入れて大きくしていたと言います。大きな頭のせいで、ちょっとしたことでバランスを崩しやすく、重くて大変だったそうです。
「メアリと魔法の花」に塩沢ときさんが?
この映画今初めて観たんだけど
— らりおのふ【couturier】 (@necokick5) August 31, 2018
塩沢ときだよね?
#メアリと魔女の花 pic.twitter.com/sS3s7uU43A
最近ネット上で話題になっていた映画の登場人物を知っていますか?上の画像は、『メアリと魔法の花』というアニメ映画に出てくるキャラクター、魔法学校の校長マダム・マンブルチュークです。一目見て、塩沢ときさんを連想させてしまう、髪型とメガネ。声は天海祐希さんが担当しています。
大きなメガネにあの頭。Twitterでも、「あれは塩沢ときだよね」と話題になっていました。実は、プロデューサーの西村さんが、監督と魔女のイメージについて話し合っていた際、レディー・ガガさんのイメージを提案したそうです。
その設定で、年を取らせて太めにしていくと、塩沢ときさんに似てしまったという事です。映画を見た人の多くが塩沢ときさんを連想してしまいます。塩沢ときさんのインパクトは今でも健在です。
塩沢ときは若い頃から癌と戦っていた
若い頃、30歳で舌癌を克服してから、超売れっ子の生活をおくっていた57歳の時、再び癌と戦うことになります。右乳癌になってしまいます。舌癌の時は、孤独でここで死んでなるものかという思いで癌と戦い、優秀なドクターやスタッフ、お母さんに支えられて、癌を克服することができました。
今度は状況も違っていました。30歳で癌闘病をし、死と隣り合わせの入院生活を送った経験のある塩沢さんですが、その後は、次々と病気と闘うことになります。
自分で右乳がんを発見してしまう
超売れっ子の忙しい生活をおくっていた塩沢さんに、2度目の癌がやってきます。偶然、乳首に乳液を付けようとした時、塩沢さん自身で右胸の乳房のしこりに気が付きます。舌癌克服から27年がすぎ、癌闘病の事も遠い過去になっていた時の突然の出来事でした。
売れっ子の塩沢さんは、すぐに乳癌であることがマスコミにもばれてしまい、家まで取材が押しかけます。仕方なく、ホテル住まいをしながら、検査結果がでてから入院までの間待つことになります。患者さんが多く、入院するための病院の空きがなかったからです。
入院生活について、著書の中で赤裸々に語っていますが、この乳癌の手術で、右の乳房を切除します。「気を遣わず、悪いところは全部さっぱり切り取ってください。」と手術の時に言っています。命さえ助ければまた出直せばいいと考えたからだそうです。
黒柳徹子から電話があった?
右乳癌がマスコミにばれて騒ぎになってしまった時、黒柳徹子さん本人から電話がありました。黒柳徹子さんは、ご存知の通り、テレビ放送開始のときに日本放送経協会に女優第1号として入局し、その後も司会者として、マルチなタレントとして大活躍されていました。
塩沢ときさんは、黒柳徹子さんの『徹子の部屋』に出演し、癌闘病について公表し、舌癌の手術の際に総入れ歯になっていたことも告白していました。黒柳徹子さんは、塩沢さんの事を気遣って、心配と励ましの電話をされたようです。
黒柳徹子さんからの電話は、お母さんも亡くなられ、1人で癌闘病をする塩沢さんにとって、涙がでるほどうれしい励ましの電話だったことでしょう。そして、塩沢さんは、この癌も克服します。
塩沢ときの数々の名言・武勇伝がすごい!?
塩沢ときさんは、56歳で右乳癌を克服した後も、左胸に癌が見つかり、76歳で3回目の手術をし、芸能界に復帰しています。そんな癌闘病体験や、若い頃の多くの恋愛経験からも、多くの名言が飛び出しましたが、その中のいくつかを紹介します。
SNS上では、今でも塩沢ときさんの名言が話題となっています。経験に裏打ちされた名言だからこそ、説得力があります。
生きていることだけで素晴らしい!
「死ぬことより最悪の事なんてない。生きているってことだけで素晴らしいじゃないか」
これは、癌闘病で3回も手術を受け、死を覚悟した塩沢さんだからこその名言です。乳癌の手術をしたときにも、命さえあれば、またやり直せるという覚悟でおっぱいなんかいらないと語っています。潔い名言です。
癌は治ります!
「癌は治ります。」という言葉は、塩沢さんの信念の言葉でしょう。舌癌の放射線治療の時出会った、塚本医師の「本物です。治ります。」という力強い言葉は、塩沢さんを勇気づけました。塩沢さん自身もこの言葉を信じて、手術し癌を克服しています。
癌は早期発見して、治療すれば治る病気なのだという塩沢ときさんの信念と経験からくる名言です。
自身の恋愛体験から出た名言?
好きな男とセックスするときは、子宮がものすごく軟らかくなってるから、すごく感じるの。“女は子宮で物を考える”って、本当なのねえ。 塩沢とき (女優)
— ♡な男と女の名言bot (@man_woman_meige) September 20, 2018
「好きな男とセックスするときは、子宮がやものすごく柔らかくなっているから、すごく感じるの。女は子宮で物を考えるって本当なのねえ。」と発言しています。塩沢さんの経験から出た名言でしょうか?
塩沢ときのwikiから。もはや嫌がらせ>「男性のものを頂く」という間接的表現で精飲など情熱的な性行為を告白した。のちに『ライオンのいただきます』に出演した際、視聴者からの『彼の精液がどうしても飲めないんです』という相談に対して、『私なんか(今迄に)一升ぐらい飲みましたわよ』と発言
— ローリングクレイドル (@rollingcradle) December 19, 2012
『ライオンのいただきます』で、視聴者からの『彼の精液がどうしても飲めないんです』という相談に対して、塩沢さんは『私なんか(今迄に)一升ぐらい飲みましたわよ』と発言したことも有りました。
これらも自身の恋愛体験からのある意味、名言でしょうか。数々の名言を残した塩沢さんですが、上品な口調で下ネタを連発。塩沢ときさんならではの名言です。
塩沢ときはどうして亡くなったの?死因は何?
塩沢さんの画像は、今でも話題になるほど印象的です。しかし、その一生は、癌との戦いでした。3回も癌を克服した塩沢ときさんの死因は何だったのか、死因についてまとめました。
塩沢ときの死因は?
「癌は治ります」と話す塩沢さんですが、実は79歳の時、スキルス性胃癌でこの世を去っています。死因は癌だったのです。3回の癌手術で、癌を克服し元気に芸能界復帰を果たしていた塩沢さんですが、死因は癌。4回目の癌は克服できませんでした。
進行の早いスキルス性の胃癌で亡くなった芸能人は、他にもいらっしゃいます。日本人の死因として癌が増えつつある今、癌と共生して生きていくという姿勢を貫いた塩沢さんでした。多くの方がその潔い生き方に共感し、元気をもらったのではないでしょうか?
その死因が癌であったということが残念でもあります。
最後のテレビ出演は?
そんな塩沢ときさんの最後のテレビ出演は、黒柳徹子さんの『徹子の部屋』でした。舌癌を克服した後、この番組で癌を公表してから、多くの反響があり、注目されるようになりました。それから後の仕事ににも繋がっていった番組でもあります。
最後に出演したのが『徹子の部屋』だったというのは、不思議な縁を感じてしまいます。塩沢さん自身も入院中、最後まで黒柳徹子さんを気にかけていたといいます。人生で2回目の癌である右乳癌が見つかった時、黒柳徹子さんが心配して電話をくれたこともその理由かもしれません。
塩沢ときさんの生き方
塩沢ときさんは、数々の名言を残し、パワフルな姿でみんなを元気にしてくれました。テレビなどで見せる華やかな姿とは異なり、晩年は堅実に生活されていたようです。最後まで借家住まい、若い頃の情熱的な恋愛経験とは対照的に、一生独身を通しました。
それは、若い頃から癌と闘い、何度も死に直面しながら生きぬいてきた塩沢さんの、人生にたいする覚悟の現れなのでしょうか?死因は残念ながら癌でしたが、女性としてのチャーミングさと潔さを持ち、全力で人生を生き抜いた女優さんでした。