鈴木ヒロミツの死因は?息子や弟に関する情報も徹底解説
鈴木ヒロミツと言えば、俳優やタレントとして有名でしたが、ザ・モップスと言うバンドで歌を歌うボーカル担当でデビューし、弟の幹治さんもドラムでバンドにいました。鈴木ヒロミツはCMにも出演し、いろんな曲を作りました。妻や息子さんの現在は、どうなのでしょうか?
目次
鈴木ヒロミツはどんな人?
鈴木ヒロミツさんは、満州で生まれました。東京都で育ち、ザ・モップスと言うバンドでボーカルをしていました。1967年にデビューし、その後1974年にザ・モップスが解散した後、俳優・タレントとして活動していました。何本かのCMにも出演しています。
私達は、鈴木ヒロミツさんが俳優をしていたイメージが強いのですが、歌手として出演していたドラマのエンディングテーマを歌っていました。
鈴木ヒロミツさんは美食家でもあり、2002年にグルメ本も出版しています。中日ドラゴンズが大好きで、東海テレビで番組を持っていました。
俳優さんをしている時は、どちらかと言うとコミカルなイメージですが、バンドのメンバーとして音楽をやっている時は怖いイメージに思えます。
芸能界で活躍していた時、知人の医師から余命宣告を受け、入院治療を行わない選択をして、妻と息子に看取られ亡くなりました。鈴木ヒロミツさんの死因は肝細胞癌でした。
鈴木ヒロミツのプロフィール
本名 | 鈴木 弘満 |
生年月日 | 1946年6月21日 |
現在の年齢(2018年現在) | 60歳没 |
出身地 | 東京都 |
血液型 | B型 |
活動内容 | 歌手・俳優・タレント |
所属グループ | ザ・モップス |
所属事務所 | ホリプロ |
ザ・モップスで芸能界にデビューし、その後は俳優やタレントとして活躍し、さらに歌も歌って本を出版と、いろんなところで活躍していました。
鈴木ヒロミツさんは、ドラマや映画・CMに出演していただけでなく、声優としてアニメにも出演していました。ラジオ・バラエティと広く芸能界で活躍されていました。
また芸能界でも有名な美食家で、グルメリポーターをし、料理を紹介した単行本「食わずに死ねるか!」も出版しています。
鈴木ヒロミツさんは、知人である医師から余命宣告を受けました。妻や息子には自分の状態を笑顔で伝えたようです。その後、入院はせず妻や息子と一緒に過ごすことを選びました。
2007年3月に肝細胞癌が死因で亡くなっています。現在では、再放送かレンタルDVDでしか姿を見ることが出来ません。
鈴木ヒロミツはロックミュージシャン
鈴木ヒロミツさんは、ザ・モップスと言うロックバンドでボーカルをつとめていました。このバンドには弟も一緒に参加しています。
ドラマに出演されていたイメージから、ロックミュージシャンだったとは想像出来ないかもしれませんが、このレコードのジャケットを見る限り、ロックだったのは間違いありません。
どんな曲を演奏して、どんな歌を歌っていたのか興味がありませんか?実は、月光仮面もザ・モップスの曲なのです。
鈴木ヒロミツさんは、このザ・モップスで活動している時から、CMにも単独で出演しています。その後も何本かのCMで見かけましたが、現在ではもうあの姿を見ることが出来ないのが残念に思われます。
1966年前身の「チェックメイツ」が結成
1966年に、埼玉で鈴木ヒロミツさんの弟である鈴木幹治さんが作ったバンドが、チェックメイツです。メンバーは、ギターとボーカル担当の星勝さん・ベース担当の三幸太郎さん・ベース担当の村上薫さん・ドラムス担当のスズキ幹治さんの4人でした。
インストゥルメンタルバンドだったチェックメイツにスズキさんの兄である鈴木ヒロミツさんがボーカルで入って5人になりました。曲は黒っぽいロックやブルース・ロックを目指していたようです。
5人になってから、本格的にバンド活動がスタートしました。その後、ザ・モップスに変わって行きます。
1967年ロックバンド「ザ・モップス」のボーカリストでデビュー
チェックメイツとして本格的にバンド活動をしていた1967年、都内のゴーゴー喫茶などで活動していた最中にスカウトされてホリプロと契約することになりました。
11月に日本ビクターからシングルデビューを果たします。主にジャズ喫茶や米軍キャンプでの演奏が多く、当時のグループサウンズのバンドとは、路線が違っていたそうです。
鈴木ヒロミツさんは、ザ・モップスのボーカルとして数々の歌を歌っています。現在有名になっている井上陽水さんや忌野清志郎さんはザ・モップスの前座をしていたことがあります。松任谷由実さんは追っかけをしていたと言うから驚きです。
鈴木ヒロミツが所属していた「ザ・モップス」の活躍は?
鈴木ヒロミツさんと弟の鈴木幹治さんが所属していたザ・モップスのバンド名の由来は、メンバーの頭がモップみたいだったとか、人々の心を音楽でモップのようにきれいにしてあげたい、と鈴木ヒロミツさんが語っていたようです。
数々の作品を残し、また今では大物アーティストとなった人の曲を提供したり、プロデュースしたりとバンドのメンバーは現在も活躍しています。
1967年に「朝まで待てない」でデビュー
ゴーゴー喫茶などで活動をしている時に、スカウトされて1967年に「朝まで待てない」と言う曲で芸能界にデビューしました。
レコードのジャケットを見ると、サイケデリックでドラムにも模様が入っています。鈴木ヒロミツさんのデビュー当時のイメージは、怖めのカリスマと言う感じでした。
現在では、いろんなCDジャケットがあるのでカラフルなのも見慣れていますが、当時は異色のバンドでレコードジャケットも斬新なものでした。
1970年「月光仮面」がヒット
1971年に発売された「月光仮面」と言う曲は、バラード調からスタートし、途中にセリフが入っていて、面白い曲です。鈴木ヒロミツさんのボーカルが凄く良いです。
バンドの音楽もサイケデリック・サウンドと言われているだけあって、聴き応えがあります。途中のセリフは、宇宙語を話す月光仮面に鈴木ヒロミツさんがインタビューをしているのだそうです。ライブでこの曲を演奏する時には、毎回セリフが違っていてファンを楽しませていました。
そんな楽しいライブも現在では見ることが出来なくなってしまいました。一度見てみたかったと思う人も多いのではないでしょうか。
1974年5月に解散
ザ・モップスは、1974年5月に解散してしまいます。7月にアルバム「イグジット」が発売されました。解散後、星勝さんは、TV番組などの音楽を担当するようになりました。鈴木ヒロミツさんは、俳優やタレントとして活動するようになります。
当時は、歌謡曲とフォークがブームだったためにロックバンドでの活動に限界を感じ、解散することになったようです。解散後、メンバーはそれぞれの活躍の場へと向かって行きます。
弟の鈴木幹治さんは、解散後に浜田省吾さんを支え、三幸太郎さんは、マネージメント活動をしていましたが2011年に音楽活動を再開しています。
バンドのメンバーは、現在も活動しています。
鈴木ヒロミツは単独でCMにも出演
鈴木ヒロミツさんは、ザ・モップス当時に単独ででCMに出演していました。代表的な作品は、モービル石油やアメリカンファミリー生命保険会社・湖池屋のCMです。
この他に、福岡の銘菓であるひよ子・づぼらやのCMにも出演していて、合計5本の作品があります。
モービル石油のCM「のんびり行こうよ」
モービルのCMにでは、ガス欠になってしまったクラシックカーを、手押しで動かすと言うもので、その中で使われた「のんびり行こうよ」と言う言葉が、流行語となっていました。
鈴木ヒロミツは俳優デビューもしていた
鈴木ヒロミツさんは、CMだけでなく芸能界で俳優やタレントとしても活躍していました。「時間ですよ」シリーズ3の第66~95回の放送に釜田質店の従業員である猫田役で主演しました。
1974年の「事件狩り」「夜明けの刑事」「新・夜明けの刑事」「明日の刑事」には、刑事役で出演しています。また、エンディングテーマも制作していたそうです。
さらに「江戸を斬る」「水戸黄門」などの時代劇にも出演していました。テレビドラマだけではなく、映画にも多数出演しています。現在でも有名な時代劇で、再放送もされています。
一躍有名になったのは1974年「夜明けの刑事」
鈴木ヒロミツは、俳優活動をする中で有名になったきっかけが「夜明けの刑事」と言うテレビドラマでした。1974年10月から1977年3月の期間に毎週水曜日の20時から放送されていました。
坂上二郎さん・石立鉄男さん・石橋正次さんと共演しています。鈴木ヒロミツさんは、巡査である小林敦刑事の役で出演しました。
役柄は、三枚目のムードメーカーで責任感が強いのですが、太っていて丸メガネをかけている少しコミカルな見た目のうだつのあがらない刑事でした。
「夜明けの刑事の」エンディング曲「愛に野菊」を歌う
鈴木ヒロミツさんは、「夜明けの刑事」に出演し、エンディングテーマの「愛に野菊を」を歌っていました。シングル・レコードのB面にには、ディスコファンクですごくファンキーな曲が収められています。
動画投稿サイトにあるこの曲を聞いてみると、出だしがコーラスで始まり、その後鈴木ヒロミツさんのボーカルが入ります。割と癒し系の曲だと思われます。
鈴木ヒロミツの弟とは?
鈴木ヒロミツさんの弟さんは、ザ・モップスでドラムスを担当していた鈴木幹治さんです。弟の幹治さんは、ザ・モップスが解散したすぐ後から、愛奴とソロ活動に移った浜田省吾さんをサポートしていました。
その後も浜田省吾さんをサポートし続けますが、詳しくは後ほどご紹介します。
「ザ・モップス」のドラム担当の鈴木幹治
鈴木ヒロミツさんの弟・鈴木幹治さんは、ザ・モップスの前のバンドであるチェックメイツから、ドラムスを担当していました。
兄である鈴木ヒロミツさんが加わり5人のバンドになってから、有名になっています。
浜田省吾のプロデューサーとして活躍
鈴木幹治さんは、ザ・モップス解散後から、ずっと浜田省吾さんを支え続けました。今でも「路地裏の少年」を聞くことがあります。
鈴木幹治さんがプロデュースしたレコードは多く、「木枯らしの季節」「生まれたところを遠く離れて」「涙あふれて」「Sand Castle」「Thank you」「Illumination」「…to be "Kissin'you"」「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」「Dream Catcher」「僕と彼女と週末に」「LOVE TRAIN」「MIND SCREEN」「君が人生の時・・・」「マイホームタウン」「ON THE ROAD」などがあります。
鈴木ヒロミツの家族構成
弟さんがザ・モップスのドラムス担当だった鈴木幹治なのは分かりました。では、鈴木ヒロミツさんの家族構成はどうだったのでしょうか。
鈴木ヒロミツさんは結婚していました。妻は美恵子さんで二人の間に息子の雄大さんが生まれました。鈴木ヒロミツさんの家族は妻と子が1人と言う構成でした。
死因となった肝細胞癌で余命宣告を受けた後、家族には笑って伝えたと言います。その時、妻や息子はどんな気持ちだったのでしょうか。
鈴木ヒロミツの妻(美恵子)
松崎しげるさんによれば、鈴木ヒロミツさんは結婚する前から妻である美恵子さんにぞっこんだったそうです。余命宣告を受けてからも、妻にたくさんラブレターを書き、たくさん話しをしたと美恵子さんは言っています。
妻から、「最高の旦那だった」と言われるくらい、奥さんを大切にしていたのだと言うことが分かります。妻や息子を愛し、余命宣告後にヒロミツさんは、家族と一緒にいることを選びました。
死因となった肝細胞癌、人間は肝臓が悪くなると、だるさを感じると言いますので、相当厳しかったのではないかと推測されます。
鈴木ヒロミツの息子(雄大)
鈴木ヒロミツさんの一人息子である雄大さんは、父が亡くなった時、20歳でした。鈴木雄大と言う同名で、歌手に楽曲を提供している人がいますが、別人だそうです。
雄大さんは、息子としてお父さんの闘病する姿を見ているのは、辛かったことでしょう。死因となった癌を患うと人間は本当に驚くほど痩せるので、見ている方は辛くなるのです。
鈴木ヒロミツの死因は何だったのか?
鈴木ヒロミツさんが余命宣告を受けたのは、死因でもある肝細胞癌が発見されたからです。発見された時の余命は3ヶ月でした。
それを発見し告げたのは知人の医師だと言います。知り合いに余命宣告をするのは、辛かったと思われます。その後、病と戦った様子はこの後で詳しくお知らせします。
2006年12月肝細胞癌と診断
鈴木ヒロミツさんは、2006年12月に医師から余命3ヶ月と告知されました。その時、選んだのは入院治療ではなく妻や息子と一緒に過ごす時間を持つことでした。
闘病の末、妻や息子に看取られて翌年2007年3月14日に肝細胞癌のため亡くなりました。医師の診察を受けた時、すでに死因となる病気が進んでいたのです。
2007年3月14日死去
2007年3月から体調が悪化して、13日に入院します。翌日14日、息子の呼びかけに応えたり、妻や息子の名前を呼んでいたのですが、死因は肝細胞癌で午前10時2分に息を引き取ったそうです。
鈴木ヒロミツさんは、享年60歳でこの世を去りました。3月15日に東京都文京区の伝通院でお通夜が営まれ、戒名は「美雄永満愛大喜善居士(みゆうえんまんあいだいきぜんこじ)」で妻と息子の名前を1字ずつ使った戒名でした。
鈴木ヒロミツさんは、お酒が好きだったとのことです。肝臓は沈黙の臓器と言われているので、死因となった肝細胞癌の症状を自覚したとき、すでに悪化していたのでしょう。
鈴木ヒロミツの弟とその娘の現在
鈴木ヒロミツさんの弟である鈴木幹治さんとその娘さんの現在は、どうなっているのでしょう?2012年に浜田省吾さんのオフィシャルユーチューブチャンネルにアップされている動画では、鈴木ヒロミツさんの弟の娘さんが、オープニングのコーラスを歌っています。
浜田省吾の歌に参加
鈴木ヒロミツさんの弟である幹治さんの娘さんは、2人います。JustineさんとSean Lisaさん、この2人が
浜田省吾さんの「I am a father」の7冒頭部分のコーラスをそれぞれ14歳と11歳で歌ったと会報130号で省吾さんが語ったと書かれているそうです。
歌詞は英語になっていて、娘さん2人がしっかり聞き取れるように歌っているのが素晴らしいです。幹治さんは、浜田省吾さんをプロデュースした後も音楽プロデューサーとして活動しているようです。
鈴木ヒロミツさんは美食家だった
鈴木ヒロミツさんは、芸能界きって美食家で、グルメレポーターをしていたことを知らない人もいるのではないでしょうか。
グルメ本も出版するほど、食べることがお好きだったのです。きっと奥様の手料理も喜んで食べていらしたことでしょう。
肝細胞癌が死因となって、亡くなるまで美味しいものをたくさん食べていたのです。
ザ・モップスは今でもファンがいる
井上陽水さんや忌野清志郎さんと言う大物アーティストが、前座をしていたと言うザ・モップスですが、今でもファンの人が多くいるようです。
当時、異色のサイケデリックバンドだったザ・モップスでボーカルをしていた鈴木ヒロミツさん、動画サイトにある歌を聞くと、凄いな良い声と思う人も多いでしょう。
俳優さんとしても、私達を楽しませてくれた鈴木ヒロミツさんは心に残る芸能人です。