パリ人肉事件とは?パリで人肉を食った佐川一政の今現在【画像】

あの有名な映画『カニバリズム』のもとになった1981年の衝撃的な事件、通称パリ人肉事件。当時32歳の留学生佐川一政は同級生を射殺し、その遺体を食べました。彼は今どうしているのか。今回はパリ人肉事件の詳細と、加害者の佐川一政の現在について紹介します。

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目次

  1. 1パリ人肉事件の経緯
  2. 2パリ人肉事件犯人・佐川一政とは?
  3. 3パリ人肉事件の逮捕後
  4. 4帰国後のパリ人肉事件の佐川一政
  5. 5パリ人肉事件の佐川一政に懺悔の気持ちはあったのか?
  6. 6パリ人肉事件の佐川一政のその後
  7. 7パリ人肉事件の後得られなかった「普通」

パリ人肉事件の経緯

パリ人肉事件とは1981年(昭和56年)に起きた衝撃的な事件です。あまりにも悲惨な事件で、世間に大きなショックを与えました。

パリ人肉事件とは一体どういった事件だったのか、犯人はどのような人物だったのか。そして彼はその後いかなる運命をたどり、今現在はどうしているのか。内容を詳しく紹介しています。

※グロテスクな表現が多々あります。苦手な方はご注意ください。

日本人留学生がオランダ人女性留学生を射殺

1981年当時、32歳でフランスに留学中だった加害者の佐川一政は、友人であるオランダ人女性を射殺しました。被害者は加害者と同じ留学生でした。

被害者の女性は佐川一政にドイツ語を教えて欲しいと頼まれ、彼の自宅を訪れました。
ドイツ語の詩を朗読しているところを録音したいということで、ラジオに向かって詩の朗読をしている時に、背後から佐川一政に銃で撃たれたのです。

オランダ人女性留学生の遺体を屍姦し食べる

佐川一政は被害者をカービン銃で射殺したあと、被害者の遺体を屍姦しました。その後、一部は生のまま食べ、一部は調理をして食べました。このことから、パリ人肉事件と呼ばれています。

一番最初に食べようと考えたのはお尻の肉で、まずそのままかじりついてみたもののとても硬く、顎が痛くなってしまったということです。その後、肉を解体するための刃物を購入して自宅に戻り、解体作業を始めました。

佐川一政は船で旅行をした時に肉の解体の仕事をしている人間と知り合いになったそうです。そこで肉の解体のしかたを詳しく教わり、この事件の際に被害者を解体するためにその知識を活かしました。

パリ人肉事件のその後、知識が役に立ったとお礼の手紙をその人間に出したそうですが、当然ながら返事はきませんでした。

発見された被害者の体からは乳房やお尻の肉、太ももやふくらはぎの肉が切り取られていたそうです。

ブローニュの森に遺体を捨て逮捕

被害者の遺体の一部を食べ、一部を冷蔵庫に保管した後、佐川一政はその遺体を解体しました。バラバラになった被害者の遺体をトランクに詰め、ブローニュの森の湖に捨てに行きました。

その時間帯はブローニュの森周辺に人が多く、佐川の姿は多くの人に目撃されます。特にタクシーの運転手は被害者の解体された遺体が入ったトランクを持ち上げて、「随分重いな、死体でも入っているんじゃないか?」と言って佐川に冷や汗をかかせたそうです。

白人の多い森周辺に、小柄でやせ型の佐川の姿は目立ちました。そこで通報され、警察が湖に投げ込まれたトランクを調べてみると、被害者の陰惨な遺体が見つかったのです。

被害者の身元はすぐに特定されました。そして加害者である佐川一政はパリ人肉事件の犯人として逮捕されます。

パリ人肉事件犯人・佐川一政とは?

パリ人肉事件。それはあまりの悲惨さに昭和を代表する猟奇犯罪の一つとなっています。パリ人肉事件の犯人である佐川一政とは、いったいどのような人物なのでしょうか?

未熟児として誕生するも何不自由なく育つ

出生時、父親の両手におさまるほどの小ささで産まれたパリ人肉事件の犯人、佐川一政。1歳の時には腸炎にかかり、静脈注射をうけたそうです。父親と母親は何歳まで生きられるのかととても心配しました。

しかし、虚弱体質ではあったものの、その後の成長は順調でした。内気な性格で、文学や音楽を愛していました。文学では世界の三大悲劇と呼ばれる、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』、トルストイの『戦争と平和』、シェイクスピアなどを好んだといわれています。

小学生の頃からカニバリズムに興味を持つ

小学校の頃、佐川一政はよく叔父からこんな話を聞かされました。それは「幼い子どもを誘拐し、鍋で煮込んで食べてしまう魔法使い」の話でした。佐川一政はこの話を何度も聞かされ、次第に人肉を食べることに興味を抱いていったそうです。

パリ人肉事件の引き金の一つともいえるでしょう。

このことを精神科医に相談したこともあったそうですが、まともに相手をしてもらえたことはありませんでした。また、虚弱体質であったことから佐川一政の体は平均に比べて細く、小さく、たいへんなコンプレックスだったといいます。

これらのことは成長するにつれて、佐川一政の歪んだ人格を作り上げていき、パリ人肉事件を引き起こしてしまうのです。

大学在学中にドイツ人女性宅へ侵入し逮捕

中学、高校を卒業し、大学在学中。佐川一政の最初の犯行が起こります。ドイツ人女性の自宅に無断で押し入り、その犯人として警察に逮捕されました。この時はパリ人肉事件の時と異なり、肉を食べるまでには至りませんでした。

この事件では父親が示談金を支払い、裁判沙汰にはなりませんでしたが、この時も「食べるつもりで自宅に侵入した」のだといいます。

1977年にフランスへ留学

1976年に大学院の修士課程を終えた1年後、佐川一政はフランスに留学します。
記事の後半に彼のインタビュー動画がありますが、彼はこの時「今度こそ白人の女性を食べなければならないという強迫観念があった」とコメントしています。

その後、1981年にフランスの大学院の博士課程に在籍中、のちにパリ人肉事件と呼ばれるようになるあの惨劇をひき起こしたのです。

パリ人肉事件の逮捕後

フランスで起きた凄惨なパリ人肉事件。
加害者の佐川一政はフランスの警察に逮捕されましたが、その後いったいどうなったのでしょうか?裁判にかけられ、投獄され、一生を監獄で過ごすことになったのでしょうか?

なんと、意外な結末が待ち受けていました。

心身喪失状態とされ不起訴処分で精神病院へ

佐川一政がフランス警察に取り調べを受けた時、「昔、腹膜炎をおこした」と証言しました。しかし通訳が「脳膜炎をおこした」と誤訳してしまいました。

このことからフランス警察の精神鑑定では心神喪失状態で犯行に及んだという結果が出て、自供までしたにも関わらず裁判では不起訴処分となったのです。

その後、日本に帰国するまでフランスの精神病院に強制的に入院させられましたが、猟奇的な事件の加害者である佐川一政を国税で入院させておくことに対し、フランス国民は黙っていませんでした。

14ヵ月後に帰国し日本の精神病院に入院

フランス国民から多数の批判を受け、パリ人肉事件の犯人である佐川一政はなかば追い出されるようにして、1984年(昭和59年)にフランスから日本に帰国します。

就職活動をするも採用してくれる企業はどこにもありませんでした。一社だけパリ人肉事件の犯人でありながら逮捕もされず裁判にもかけられず、堂々と応募してくる姿勢をかった企業がありましたが、やはり社員たちの猛反発をうけ、採用取りやめとなりました。

日本の精神病院の診断は人格障碍

佐川一政は東京にある精神病院に入院し、診察を受けるも、彼には人肉食の性癖はなく、精神病ではないという判断が下されました。

自らがパリ人肉事件の犯人ではないと主張するために、フランス警察の取り調べの時は嘘をついていたのではないかとも言われました。

日本においては精神病ではないという結果が出たため、刑事責任を問えるとして、彼をパリ人肉事件の犯人として今一度裁判にかけるべく日本警察が動き始めます。

フランス警察の方針により再逮捕されず

日本の警察は佐川一政をパリ人肉事件の犯人として逮捕し、裁判にかけるよう動きました。そして、フランスの警察に裁判のため、捜査資料を引き渡すように要請します。

しかしフランスの警察は、すでにパリ人肉事件の裁判で不起訴とされ、無罪になった人間の捜査資料を引き渡すことはできないと返答しました。

結果として、パリ人肉事件の犯人、佐川一政の裁判が再度行われることはありませんでした。

帰国後のパリ人肉事件の佐川一政

パリ人肉事件の加害者でありながらも裁判では無罪となった佐川一政。フランスの精神病院を退院後、なかば強制的にフランスを退去させられます。

日本に帰国してからの彼の生活はいかなるものだったのでしょうか?

日本の精神病院退院後は小説家となる

佐川一政は帰国後、東京の精神病院に入院します。入院期間は15カ月。1年半にも満たない病院生活でした。

パリ人肉事件の加害者でありながら無罪となった佐川一政の存在は世論の注目の的となりました。再度の逮捕を望む声や、社会的制裁が必要、など。

そんな中、日本である事件が起こります。そしてそれは、佐川一政の名をさらに世に広めるきっかけとなったのです。

宮崎勤の事件でマスコミにもてはやされる

1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて起こった、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件。4歳から7歳にかけての女児が誘拐され、殺されるという事件で、特殊性も相まって大々的に報じられました。

この事件に関して佐川一政は猟奇的犯罪に関するコメンテーターとして活動し、加害者である「宮崎勤」の理解者としてマスコミにもてはやされます。

また、2004年(平成16年)に起きた佐世保小6女児同級生殺害事件に関しても、加害者の犯行動機に対して理解を示すようなコメントを残しました。

仕事が途絶えると闇金に手を出す

テレビの出演料や出版した本の印税で一時は大金を手にしますが、はやりがあればすたりもあるもの。段々と仕事は減り、収入は減っていきます。

ギャグビデオやアダルトビデオなどにも出演し、糊口をしのごうとしますがかんばしくなく、親に無心をすることもありましたが、ついには闇金に手をだしました。

両親の死に目に会えず…遺産で借金返済

2005年(平成17年)に佐川一政の父親が死去。母親はその翌日に自殺しました。そのころ佐川一政は闇金の取り立てに追われており、逃亡生活を続けていたため、両親の死に目には会えなかったといいます。

また、両親の葬儀は社葬という形で行われたため、佐川一政は葬儀に出席することもできませんでした。
両親の遺産で借金の返済をすると、公団住宅に転居します。

パリ人肉事件の佐川一政に懺悔の気持ちはあったのか?

パリ人肉事件の加害者でありながら無罪放免となった佐川一政。パリ人肉事件の犯人でありながらもメディアに有名人として取り上げられ、作家活動もしていました。

そんな彼には殺人をしたことに対する後悔や懺悔の念はあったのでしょうか?

自分が犯した犯罪を売りにメディアで稼ぐ

佐川一政はフランスから帰国したのち、パリ人肉事件の犯人としてマスコミからの脚光を浴びました。

ニュース番組に出演し、猟奇犯罪を起こした加害者たちに対して理解を示すようなコメントをしたり、パリ人肉事件のことを漫画にしたりしました。

『霧の中』や『少年A』など、彼が出版した本は十冊以上にもなります。

反省をせずに白人女性2名と付き合う

佐川一政はテレビの出演料や講演料、著作の印税などで稼いだ金を何に使っていたのでしょうか。それは、白人女性二人との交際費でした。

彼は友人の男性から白人女性二人を紹介してもらいました。この時点で女性たちは彼が過去にパリ人肉事件を起こしたということは知らなかったそうです。そして海外旅行に行ったり、高級レストランで食事をしたりして楽しみました。

その後、佐川一政の過去を知った女性たちは彼と縁を切ったそうです。

沖縄の女性に食欲を感じると語る

もともと白人女性に興味があった佐川一政ですが、ほかにも沖縄の女性にも興味を抱いていました。健康的で生命力に満ち溢れ、異国味のある女性に惹かれることが多かったそうです。

彼は沖縄の女性のことを「ちゅらさん」と呼び、インタビューでは彼女らに対し食欲を感じると答えています。

パリ人肉事件の佐川一政のその後

パリ人肉事件は過ぎ去り、マスコミからの脚光も今は昔。だんだんとメディアへの露出もなくなった彼ですが、その後は生活保護を受けて暮らしていたようです。

現在はどのように過ごしているのでしょうか。

2013年に脳梗塞で倒れる

2013年、糖尿病を患っていた佐川一政はお弁当の配達を頼んでいました。ある日、配達人が彼の家にお弁当を届けに行ったところ、彼は部屋で倒れていたのです。

慌てて救急車で病院に搬送しますが、倒れてから丸一日経過しており、経過は芳しくありませんでした。

介護が必要な体となり、現在は唯一の家族である弟が近くに移り住んで、彼の面倒をみることになりました。

今現在の佐川一政

月刊誌『宝島』の「あの人は今」という特集に、佐川一政のインタビュー記事が掲載されました。そこに彼の今現在の状況が書かれています。
その中で彼は当時を振り返ってこうコメントしています。

「ときおりこうした取材を受けて、そのたびにフランスにいた時代のことを思い出すのです、どうしてあんなことをしてしまったのか……」

また、インタビューの中では今現在の暮らしのことや、どこに行きたいかなども聞かれていました。彼は今現在は自力で歩くことすら困難で、もし行けるのなら大きな書店に行きたいのだと述べています。

もともとは深い教養を持っていたわけですから、知識に対する欲求は現在も衰えることなくあるようです。

佐川一政のベッドサイドにはアスリートの女性たちの写真が飾られており、彼の弟は健康的な肉体を持つ彼女らに対する憧れが今現在もあるのだろう、と答えています。

パリ人肉事件の後得られなかった「普通」

パリ人肉事件の犯人の佐川一政。その後の人生は、彼にとってもまったく予期しえなかったものだったでしょう。人を殺し、加害者となれば犯人として警察に捕まり、裁判で判決を言い渡される。順当な流れです。

しかし彼はそうではなかったのです。
逮捕され、犯人となり、裁判はされども無罪を言い渡され、生きながらえることになりました。

もし、高校時代に人肉を食べたいという欲を誰かがまともにとりあったのなら。もし、パリでの被害者ともう一日過ごすことがあったのなら。もし、フランス警察が捜査資料を提供したのなら。もし、日本の警察がほかの証拠を得て犯人として彼を逮捕し、再度の裁判にかけたのなら。

様々な「もしも」の先で、パリ人肉事件の犯人佐川一政は今現在も生きています。
ただひっそりと、どこにいくこともできずに。

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