フリッツル事件の概要とその後!関連する映画や書籍も紹介!

2008年に発覚したフリッツル事件。フリッツル家の父ヨーゼフが娘エリーザベトを地下室に24年間監禁し、強姦して子供を7人も産ませました。その後、書籍でも映画でも注目されて再度世間を驚かせたこの事件。フリッツル事件の全貌について分かりやすくまとめてみました。

フリッツル事件の概要とその後!関連する映画や書籍も紹介!のイメージ

目次

  1. 1フリッツル事件とは?
  2. 2フリッツル事件の関連人物と生い立ち
  3. 3フリッツル事件発覚までの経緯
  4. 4ヨーゼフ・フリッツルの裁判
  5. 5フリッツル事件の地下牢
  6. 6フリッツル事件のその後
  7. 7フリッツル事件に関する書籍
  8. 8ブリー・ラーソン主演の映画『ルーム』
  9. 9「部屋」から外の世界を見てみませんか

フリッツル事件とは?

フリッツル事件とは2008年4月にオーストリアのシュテッテンで発覚した凶悪な事件です。フリッツル家の娘が24年間にもわたり自宅の地下牢に監禁され、その間に実の父であるヨーゼフから近親相姦に遭い、7人もの子供を産んだのです。

日本では「オーストリアの実娘監禁・強姦事件」や「恐怖の家事件」として報道され、現代ではなかなか信じられない事件として一躍有名となりました。

その後、2010年(日本では2011年)にアイルランドのダブリン出身の作家エマ・ドナヒューによりフリッツル事件をもとにフィクションを交えた長編小説『部屋』が編み出され、2015年には映画『ルーム』が上映されました。

オーストリアの実娘監禁・強姦事件

このフリッツル事件はオーストリアのアムシュテッテンで起きました。父であるヨーゼフ・フリッツルは当時18歳だった実の娘であるエリーザベト・フリッツルを自宅の地下室に24年間もの間監禁しました。そして、近親相姦により7人の子供が生まれています。

その後、フリッツル事件が明るみになったきっかけは、長女ケルスティンが重い病気に冒され、病院へ連れ出すところから始まります。42歳になったエリーザベトは再び太陽の光を浴びることができましたが、その時の心境は筆舌に尽くしがたいものがあります。

このフリッツル事件は世界に注目されていましたが、裁判が終わったその後、事件の内容をもとにした書籍や映画の誕生により再び注目されることとなります。

実の娘を24年間監禁!子供が7人産まれる

近親相姦によってヨーゼフ・フリッツルとエリーザベト・フリッツルの間に生まれた7人の子供を紹介します。一人目であった長男ミヒャエルは、生後すぐ亡くなってしまいました。

その後、生き残っている6人は、長女ケルスティン、次女リザ、三女モニカ、四女アレクサンダー、次男シュテファン、三男フェリックスとなります。

このうち、リザ、モニカ、アレクサンダーは孤児と見せかけ、地上で育てられました。地下室で暮らしていたのはエリーザベト、ケルスティン、シュテファン、フェリックスとなります。

フリッツル事件の関連人物と生い立ち

このフリッツル事件に登場してくる人物について、紹介します。

ヨーゼフ・フリッツル(犯人)

ヨーゼフ・フリッツルは、1935年4月9日にアムシュテッテンでヨーゼフ・フリッツル・シニアとマリア・フリッツルの間に産まれました。

母マリアは仕事をしており、ヨーゼフは1人っ子として育てられました。父は、ヨーゼフが4歳の時に家族を捨て、二度と連絡を取ってくることはありませんでした。

父は後に第二次世界大戦でドイツ国防軍として戦い、1944年に戦死したため、ヨーゼフ・フリッツル・シニアという名前はアムシュテッテンの記念碑に刻まれています。

高等技術工科大学で電子工学を修めた後、彼はリンツの鉄鋼会社で働き始めました。1956年に21歳で当時17歳だったロゼマリアと結婚し、2人の息子と5人の娘が生まれました。

エリーザベト・フリッツル(被害者)

1966年4月6日、ヨーゼフとロゼマリアとの間に生まれました。11歳となった1977年から近親相姦を含めた虐待を受け始めます。15歳で義務教育が終わると、エリーザベトはウェイトレスになるための訓練を受け始めました。

1983年1月に彼女は家から逃げ出し、仕事仲間とともにウィーンに隠れ住んでいました。3週間以内に彼女は警官に発見され、両親の元に帰されてしまいます。彼女はウェイトレスの訓練を再開して1984年の中旬に終了し、リンツ近郊の都市で仕事をしていました。

そして、その年の8月、監禁が始まりました。フリッツル事件の始まりです。

ロゼマリア

1956年、当時17歳であったロゼマリアはヨーゼフと結婚します。

この悲惨なフリッツル事件の裏で、エリーザベトの母親は何しているんだと思う方が多数ですが、まさか実の娘と孫が地下室にいるとは考えてもおらず、ヨーゼフが言う通り、家出をしたのだと信じ切っていました。

エリーザベトの失踪届も出しますし、エリーザベトが置いていったと思われる自身の孫3人を地上で大切に育てますし、その行動に監禁のほう助をしたような点は全くありませんでした。裏を返せば、ロゼマリアもフリッツル事件の被害者の一人であったと言えます。

フリッツルの7人の子供達

フリッツル事件では、近親相姦により地下室で7人の子供が生まれました。

1993年3月19日、父親はエリザベスが産んだ9ヶ月の赤ん坊リザを両親に預けるという手紙を人に見せて娘が一旦家に戻ってきて子供を置いていったと話します。

1994年12月15日、再び10ヶ月の女の子モニカが預けられ、父親は今回も娘が書いたという手紙を人に見せています。 

1997年8月3日、15ヶ月の女の子アレクサンダーが上2人と同様に預けられました。ヨーゼフとロゼマリアは、自分の孫を孤児として地元の社会福祉事務所に届出を出し、許可を得て子供達を育てていました。

役所の係員が何度も視察に夫婦を訪れましたが、ここでもヨーゼフは矛盾なく拾った時の状況を説明しています。そのため、フリッツル事件発覚まで長い月日を要したのです。

監禁されていたケルスティン、シュテファン、フェリックスは太陽の光を人生で一度も浴びることなく育てられました。地下室は、4人目の子供が生まれた1994年に増改築されて、母と3人の子供たちが住むに際して拡張がされていました。

フリッツル事件の契機となったのは、2008年にケルスティンが意識不明の状態となったときです。

当時ケルスティンは19歳。地上に上がれてからも、太陽の光にとてつもなく弱い子供達は病院での治療が必要となりました。その入院生活は2か月程であり、精神的にも肉体的にも弱っていた彼らは徐々に普通の生活へと慣れていきます。

フリッツル事件発覚までの経緯

このフリッツル事件が発覚したのは、エリーザベトの長女ケルスティンが重い病気のため病院へ連れ出すところから始まります。

その後、医師や警察による連携、またテレビでのニュース報道により、エリーザベトの再捜索が始まります。長年にわたる監禁状態から久しぶりの地上の光景、その刺激は非常に大きかったことが伺えます。

ここでは、監禁中の生活環境を、警察に保護された後にエリーザベト本人が語った内容をもとに紹介します。あまりにも悲惨なフリッツル事件の24年という信じられない月日を思い浮かべながら読んでみてください。

エリザベートが父に監禁される

1984年より24年間の監禁でレイプは3000回以上にも及びました。エリーザベトへの虐待は彼女が11歳の頃から始まり、警察に保護されるまで自由のない生活をしていたのです。フリッツル事件の前兆です。

1984年の8月29日にエリーザベトは、ドアの取り付けを手伝うため地下室に行くように言いつけられます。そのままヨーゼフによって力で倒され閉じ込められました。翌日ヨーゼフはチェーンを持って戻り、彼女をレイプしたのです。

フリッツル事件の舞台となった地下室は常にネズミがはびこり、空調の悪さから湿気がひどく呼吸は切れてあえぎ、長くは動き回れない状態でした。電気は頻繁に切れ、ひどいときにはそれが10日も続きました。

新鮮ではない食糧はすぐに不足し、ヨーゼフがいつ配給に現れるのか分からないことから、エリーザベトは常にうまく分配しなければいけませんでした。

地下室にいたときは、恐怖、鬱の状態に常にさらされ、たびたびエリーザベトは自殺の念に襲われました。最初の数ヶ月は時計もなく時間が全くわからなかったそうで、鎖でつながれていたそうです。

性的なおもちゃを持ってきては暴力的な行為に何時間も及び怪我することもあったそうですが、何の治療も受けさせてもらえなかったそうです。

そして、エリーザベトは常にヨーゼフに服従しないとひどい目に遭うと脅されていました。自分がいなければ生きていけないことを何度も示し、戻ってこないと脅すこともありました。精神的に追い詰められ、妊娠中はとくに不安定になったそうです。

医療的な助けは何も得られず、妊娠するたびに恐怖でいっぱいだったようです。湿気と結露もひどく、夏はサウナのようになり、ひどい生活条件の下でたびたび病気になったそうです。ヨーゼフが持ってきたのは咳止めと痛み止めだけだったと言います。

妊娠したときのストレスはまたもやエリーザベトを死の世界へ誘い続けたのです。

もちろん、娘であるエリーザベトが突然いなくなりましたので、母ロゼマリアは失踪届を書きました。その約1か月後、父はエリーザベトに地下室で無理矢理書かせた初めての手紙を警察に届けました。

エリーザベトは家族に飽き飽きして友達と一緒にいること、両親が自分を探すようなことがあれば出国することが書かれていました。これがフリッツル事件発覚を遅らせる要因でした。

ヨーゼフは当時警察官に対し、エリーザベトは狂信的なカルト宗教に入信した可能性が高いと述べていました。エリーザベトは、最初の数日は壁に体当たりし、天井を引っ掻き、痛みに呻き、助けを求めて苦悶していたことを明らかにしています。

彼女の爪は剥がれ、腕に血が垂れるまで指の皮膚で天井を引っ掻き続けていました。数日経つと、彼女は休日にハイキングいっていると思い込もうとしました。かつて見たことのある遠くの山を選んで、心の中でそこに辿り着くまでの計画を立て、出発しました。

彼女は地下室の階段の段数を知っていたために電気を消し、2時間経つと夜明けの雰囲気を出すために電気を点けました。眠りにつく時には、オーストリアの古い歌を口ずさみました。

地下室に監禁されている24年もの間、フリッツルは平均して3日に1度は彼女を訪れ、食糧や日用品を与えていました。

その間近親相姦は続きます。エリーザベトは監禁されている間に7人の子供を産みました。1人は生後すぐに死んでしまい、リザ、モニカ、アレクサンダーの3人は幼児の頃に取り上げられ、ヨーゼフとその妻ロゼマリアと地上で暮らしました。

フリッツル夫妻は地元の社会福祉事務所の許可を得て、この3人を養子として育てていました。当局は、ヨーゼフが3人が家のドアの前に置かれていた状況を「非常にもっともらしく」説明したと述べています。

家族の元には何度もソーシャルワーカーが訪れたが、不満も聞かず、おかしいと感じることもありませんでした。そのため、フリッツル事件について発覚まで時間を要したのです。

1994年に4人目の子供が産まれた後、ヨーゼフはエリーザベトと子供達のために、地下室をそれまでの35m2から55m2に拡張しました。またテレビやラジオ、ビデオ等も与えました。食糧は冷蔵庫で保存でき、ホットプレートである程度調理することもできました。

エリーザベトは将来のために子供達に読み書きを教えました。彼らを罰する時には、ヨーゼフは数日間地下室の電気を消すか、食糧の供給を止めました。

ヨーゼフは、エリーザベトと3人の子供が脱出を企てた時にはガスで殺すつもりだったと供述したが、地下室にはガス管がなかったため、捜査官はこれは単なる脅しであると結論付けました。

ヨーゼフは、毎朝表向きには農家に売っていた機械の図面を描くために地下室に行ってたそうです。しばしば夜までそこに留まっていましたが、ロゼマリアはコーヒーを持って行くことも許されていませんでした。

また、家の1階部分を12年間借りていた店子は、地下から声を聞いたが、ヨーゼフはガス暖房の音だと答えたと述べていました。

長女ケルスティンの病気で事件が発覚

2008年4月19日、長女のケルスティンが意識を失い、ヨーゼフは病院に連れて行くことを了承しました。フリッツル事件が発覚する契機となります。エリーザベトはヨーゼフがケルスティンを地下室から運び出すのを手伝い、24年ぶりに外の景色を眺めました。

エリーザベトはその後、地下室に戻されました。ケルスティンは救急車で地元の病院に運ばれ、命に関わる重篤な腎不全と診断されました。ヨーゼフは遅れて病院に到着し、ケルスティンの母が書いたノートが見つかったと主張しました。

ヨーゼフは医師のアルベルト・ライターとケルスティンの病状やノートのことについて議論しましたが、病院のスタッフがその説明に矛盾を感じ、4月21日に警察に通報しました。

また彼は公共メディアを通して、行方不明の母親に関する情報を提供するように呼びかけ、またケルスティンの病歴に関する追加情報を提供しました。そこでようやく、警察はフリッツル事件と称し、エリーザベトの失踪に関する捜査を再開したのです。

ヨーゼフは、エリーザベトがカルト宗教に入信し、直近の彼女からの手紙は2008年1月の日付でケマテンから投函されたものあると主張し続けました。

警察は、カルト宗教に関する情報を集めている男性と接触し、彼はヨーゼフの主張するカルト宗教の実在を否定し、またエリーザベトの手紙は言われたことを書かされたような奇妙なものに見えると指摘しました。

ニュースはこのフリッツル事件について大々的に報じ、エリーザベトは地下室のテレビで自分に関わる地上での出来事を知ることになりました。

エリーザベトは父に病院に行かせてもらうように頼み込み、4月26日、ヨーゼフは、息子のシュテファンとフェリックスとともにエリーザベトを解放しました。

ケルスティンが病院に運ばれてから1週間後のことでした。ヨーゼフは妻ロゼマリアには、エリーザベトが24年ぶりに帰って来ることを決意したと話しています。ヨーゼフとエリーザベトは、ケルスティンが4月26日から治療を受けている病院に向かいました。

警察は、ヨーゼフとエリーザベトが病院にいるという連絡を医師から受け、病院の敷地内で彼らを拘束し、尋問のため警察署に連行しました。警察がエリーザベトに対し、2度と父親と会う必要はないと約束するまで、彼女は今までの詳細を語ろうとしませんでした。

その後の2時間で、彼女は24年間に及ぶ囚われの生活について語り始めました。深夜を過ぎた頃、警察官はフリッツル事件に関する3ページの調書をまとめました。

ヨーゼフは家族に対する不法監禁、強姦、過失致死、近親相姦等の重罪の疑いで、ついに逮捕されました。4月27日の夜に、エリーザベトとその子供、母のロゼマリアは警察に保護されました。

ヨーゼフ・フリッツル逮捕

遂にフリッツル事件の犯人として逮捕されたヨーゼフは当時73歳でした。オーストリアの各局メディアはヨーゼフを「怪物」と称し、あまりにも恐ろしいこのフリッツル事件を大きく報じてきました。

逮捕に踏み切ったのは、ケルスティンの医師が病院において母親の不在を不思議に思い、警察に通報したことから始まり、DNA鑑定の結果、ケルスティンがヨーゼフの実の娘だということが証明されたからでした。

ヨーゼフ・フリッツルの裁判

ヨーゼフの裁判でこのフリッツル事件が明るみに出たことにより、その証言はあまりにも悲惨な生活環境を浮き彫りにすることとなりました。ヨーゼフの犯罪歴、そして判決に至るまでの流れをご覧ください。

フリッツルの犯罪歴

ヨーゼフ・フリッツルが警察に逮捕されてから、彼には多くの性犯罪歴があったことが明らかとなりました。1967年の9月と10月、ヨーゼフはオーストリアのリンツでそれぞれ21歳と24歳の女性を強姦し、18か月間服役した過去を持ちます。

1967年の年次報告や当時の広報資料では、彼は他にも強姦未遂や公然わいせつの被疑者となっています。それでは、なぜそのような性犯罪を繰り返していたにもかかわらず、今回のフリッツル事件の発見が遅れてしまったのでしょうか。

それはオーストリアのある法律に問題がありました。

最後の発覚している性犯罪歴から25年以上経ったその後、彼はエリーザベトの産んだ1人の子供と養子縁組、さらに2人の里親となることを申請しました。

ところが、オーストリアの法律に基づくと、この記録は破棄されていたため、地元当局は過去の犯罪歴に気付くことができなかったというのです。

オーストリアの法律では犯歴の公開は50年間禁じられており、また犯罪の程度により異なるが、終身刑でない限り、5年から15年で犯歴を削除することができると定められています。

フリッツル事件裁判当時、ザンクト・ペルテン検察の報道官は記録が届き次第、慎重に調査すると述べましたが、上記法律を理由にフリッツル容疑者の犯歴からは削除されているため、詳細が明らかにされることはないだろうと付け加えました。

当時、オーストリアのメディアは、フリッツル事件の特集番組において、ヨーゼフ・フリッツル容疑者に性犯罪の前科があったことを大きく報じていました。

そして、このフリッツル事件を契機に、オーストリアでは、性犯罪に対する現在の処罰があまりにも軽すぎるのではないかとして激しい議論が巻き起こりました。

フリッツル事件の判決は?

ヨーゼフ・フリッツルの裁判は、2009年3月16日にオーストリアのザンクト・ペルテンでアンドレア・ハマーを裁判長として始まりました。1日目、ヨーゼフはオーストリアの法律に基づいて、青いバインダーの後ろにカメラから顔を隠しながら法廷に入ってきました。

開廷が宣言されると、全てのジャーナリストや傍聴人は法廷から退出するように促され、すぐにヨーゼフはその青いバインダーを下ろしました。そして、ヨーゼフは殺人と脅迫を除く全ての罪についての弁明を始めました。

ヨーゼフの弁護士であるルードルフ・マイヤーは、開廷の挨拶で陪審員に対し、客観的に判断し、感情に流されないよう要請しました。

ルードルフ・マイヤーは、ヨーゼフは「モンスターではなく」、クリスマスの休日には、地下室にクリスマスツリーを飾ったことを明らかにしました。

一方で、検察官のクリスティアナ・ブルクハイマーは、このフリッツル事件が主任検察官として担当する最初の事件でした。彼女は陪審員に対し、1m74cmの法廷のドアを示して天井がいかに低かったかを訴え、被害者が精神的に圧迫されていたことを訴えました。

また、じめじめした地下室から採取したカビ臭い物体を法廷に持ち込んで環境の劣悪さを実証し、ヨーゼフに対する終身刑を訴えました。この日、陪審員は2008年7月にエリーザベトが警察官や精神科医と交わした11時間に及ぶ会話の記録を見ました。

このテープは非常に悲惨なもので、8人の陪審員は一度に2時間以上は見ることができなかったと言われています。

陪審員が審理に耐えられなくなった場合に備え、4人の補充陪審員が控えていました。ビデオの検討の他に、新生児医で精神科医でもあったエリーザベトの兄ハラルトの証言も行われました。

母ロゼマリアやエリーザベトの子供達はこの裁判に対する証言を拒否しました。弁護士のルードルフ・マイヤーは、審理2日目にビデオによる証言が行われていた際、変装したエリーザベトが傍聴席に座っていることを確認しました。

ルードルフ・マイヤーは「ヨーゼフはエリーザベトが法廷にいることに気付き、青ざめて崩れ落ちた。これはヨーゼフの心が入れ替わった証拠だ」と訴えました。そして翌日、ヨーゼフは裁判官に歩み寄り、全ての罪に対する弁明を撤回したのです。

2009年3月19日、遂にヨーゼフに対して15年間の仮釈放を認めない終身刑の判決が下りました。彼は判決を受け入れ、控訴しない意向を示しました。フリッツル事件の終結です。

ヨーゼフは現在、かつて修道院だったオーバーエスターライヒ州にあるガルステン刑務所の精神疾患犯罪者のための特別な区画に収監されています。

フリッツル事件の地下牢

フリッツル事件の現場となった地下室は、とてつもない仕組みが施されていました。まさに長期にわたる軟禁を目的とした作りでした。事件が明らかになったことから、その地下室の全貌が明らかになりました。

ヨーゼフ供述の地下室

「1981年から1982年頃地下の秘密の部屋を地下牢に改造し、洗面台やトイレ、ベッド、ホットプレート、冷蔵庫を設置した。1993年にはさらに自分だけが知っている秘密の廊下も設置した。」

「隠し地下室には、5mの回廊、貯蔵庫、3つの小部屋が設けられ、狭い廊下で繋がれた。」

「台所と風呂に続いて2つの寝室が作られ、それぞれに2つずつのベッドが備えられた。広さは約55m2で、高さは1.70mだった。隠し地下室には2つの出入り口があった。開き戸は重さが500kgで、その重さから長年使われていないと考えられた。」

「コンクリートで補強された金属のドアは、重さ300kgで高さ1m、幅60cmだった。ヨーゼフの地下の仕事場の戸棚の裏に隠され、遠隔操作の電気コードで守られていた。このドアに辿り着くためには、5つの鍵のかかった部屋を通る必要があった。」
 

「エリーザベトや子供達がいる部屋までは、合計8つのドアを解錠する必要があり、そのうち2つのドアはさらに電子錠で守られていた」

計画的な地下室計画

フリッツル家の自宅の歴史は古く、1890年頃に建てられたものでした。ヨーゼフは1978年以降に地下室の増築を開始しました。1983年には土地家屋調査士がフリッツル家を訪れており、増築した部分は建築許可に適合していることを確認しています。

しかし、ヨーゼフは地下を過剰に掘削し、違法な部屋の追加を行っていました。その結果、ヨーゼフが供述したとおり、3つの小部屋と2つの寝室という、地下室としては大規模な回廊が存在していたのです。

フリッツル事件のその後

2009年3月19日、父ヨーゼフ・フリッツルに判決が下されたその後、このフリッツル事件をもとにした書籍が誕生しました。そして、その書籍は悲惨な事件でありながらもエリーザベトの母としての強さに着目され、一世を風靡したのです。

その後、映画も制作され、数々の賞も受賞しています。

また、エリーザベト本人は6人の子供達と一緒にオーストリア北部の無名の村に移住しました。6人の子供は引き続き通院での治療が必要でした。

地上に住んでいた子供3人は、彼らが捨て子だったというのは作り話だったということ、子供の頃には父であり祖父のヨーゼフから虐待を受けていたこと、兄弟が地下に監禁されていたこと等、フリッツル事件の全貌をそこで初めて知ることになりました。

それに加えて、子供達全員が、近親相姦で産まれた子供に共通する遺伝的な問題を抱えていました。エリーザベト自身は母ロゼマリアから疎遠にされていたと語っていたものの、地上で育った3人の子供がロゼマリアの家を定期的に訪れることを認めていました。

当時、母ロゼマリアは小さなアパートに1人で住んでいました。

2009年6月、オーストリアの新聞は、フリッツル事件の続報として、エリーザベトがボディガードの1人と交際を開始し、一緒に住んでいると報じています。

フリッツル事件に関する書籍

2008年にフリッツル事件が発覚してから2年後の2010年、アイルランドのダブリン出身のエマ・ドナヒューにより、本事件をもとにした長編小説『部屋』が編み出されました。その書籍について紹介します。

作家エマ・ドナヒューってどんな人?

エマ・ドナヒューは1969年に8人兄弟の末っ子として生まれました。アイルランドのダブリン大学では文学士を首席で修得し、卒業後はイギリスに渡り、ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ、ガートン・カレッジで博士号を修得します。

23歳から作家として活動し、ガートン・カレッジで知り合ったカナダ人男性と結婚したことを契機に、1998年からカナダ・オンタリオ州ロンドンを拠点にます。

小説家として青春ドラマからSFまで様々なジャンルの小説を発表し、劇作家、歴史研究家の顔も持ちます。

書籍『部屋』のあらすじ

『部屋』は2010年に発表されました。この書籍は5歳の男の子「ジャック」の視点から描かれています。ジャックは母親と小さな部屋に閉じ込められていました。

まさしくこのジャックが、フリッツル事件でのエリーザベトの息子、当時5歳だった「フェリックス」の証言に基づいて作成されているのです。

ジャックは母親と小さなキッチンとバスルーム、ベッドとテレビが備え付けられた1つの小さな部屋で生活していました。ジャックにとってはこの部屋そのものが現実の世界です。

母親は息子がショックを受けないように、外界の情報に多く満ち溢れたテレビを観ても、それはテレビだけの世界なのだと教え込んでいました。

母親はジャックの心身を少しでも健康に保とうと、食事にも気を遣い、テレビを観る時間も規則的にし、口腔衛生も清潔にすることを心掛けていました。

ジャックが母親以外に知っている人間はただ一人、「ニックおじさん」でした。ニックおじさんはジャックが衣装ダンスに隠れて寝ている夜間にやってきては、食料品や日用品を持ってきました。

ジャックはニックおじさんが自分の母親が19歳の頃から7年間近くここに監禁していたことには気づいていません。そして、まさしくジャックはそのニックおじさんが母親を強姦して産まれた子供だったのです。

ジャックが15歳の誕生日を迎えた一週間後、母親はニックおじさんが半年間仕事をしておらず、家が差し押さえの危機だということを悟ります。

それにより、自分たちが解放される前にきっとニックおじさんは私と息子ジャックを殺すだろうと確信した母親は、ジャックが重病にかかっているということを理由に脱出を試みます。

ジャックはもちろん部屋の外の世界や、母親とニックおじさん以外の人間の存在についても概念化することはできませんでしたが、母親は脱出のために徐々に外の世界について教え込んでいきました。

ニックおじさんがジャックを病院に連れていくことを拒絶したとき、母親はジャックが亡くなってしまったと嘘をつきました。そこで、ニックおじさんはジャックを毛布で包み、部屋の外へ運び出したのです。

その瞬間ジャックはニックおじさんのもとから逃げ出し、優しそうな通りすがりの人のところへ飛び込み、警察と連絡を取ることができたのです。

ジャックは初めての外の空気に、コミュニケーション能力も低かったにもかかわらず、警察とのやり取りの中で、母親を部屋から救出することに成功しました。

2人は治療のため、また一時的な居場所の確保のため、精神病院に入院しました。ニックおじさんはその罪から懲役25年の実刑判決を言い渡されました。母親は家族と再会し、この広い世界とのふれあい方を再認識しました。

一方でジャックは今まで経験もしたことのないような世界や人々に、自身が追い付かなくなってしまい、またあの「部屋」に戻りたくなります。

メディアでも大きく取り上げられますが、残念ながら母親はインタビュー取材に応じた後はメンタルダウンしてしまい、自殺未遂をしてしまいました。母親が病院にいる間、ジャックは祖母とその新しいパートナーと暮らし始めます。

母親が近くにいないことで、ジャックはより困惑し、この環境や優しく愛してくれているはずの祖母たちにも不満が溜まっていきました。小さな部屋で制約を受け続けた過去や人との境界線について、ジャックの考えが理解されなかったからです。

母親が退院してから、2人は町から離れた村に引っ越しました。母親はジャックとの今後の将来について葛藤を抱き続けていました。一方でジャックは彼の世界観が徐々に広がりつつあったのです。ついにジャックはあの「部屋」に一度行きたいと言い始めます。

長い間監禁されていた「部屋」を再び目の当たりにしたジャックは、もはや何も感じませんでした。そして「さようなら」の言葉と共に部屋を去りました。

書籍『部屋』の評価

エマ・ドナヒューの書籍『部屋』はイギリスで権威のある文学賞ブッカー賞の最終候補に残りました。

日本語翻訳についても5歳児目線の文体であることから、慣れるまでは読みづらいとも言われていますが、その分このフリッツル事件の生々しさが浮かび上がってくることでしょう。

このお話が本当にフィクションだったら良いのに、というレビューもたくさんあり、悲惨なフリッツル事件という実話に基づいているといっても信じられない方が多数です。皆さんも一度、少年の気持ちになって、この書籍『部屋』を覗いてみてはいかがでしょうか。

ブリー・ラーソン主演の映画『ルーム』

2015年に制作され、日本では2016年に公開された『ルーム(ROOM)』。監督レニー・エイブラハムソン、主演ブリー・ラーソン、他ジェイコブ・トレンドレイ、ジョアン・アレン、ショーン・ブリージャス、ウィリアム・H・メイシーが共演しています。

2015年トロント国際映画祭で特別試写会があり、その後のテルライド映画祭で初演放映されました。また、第88回アカデミー賞においては、主演女優賞にブリー・ラーソンが輝き、作品賞、監督賞、脚本賞にノミネートされました。

フリッツル事件を元に作られた映画

この映画の脚本は書籍『部屋』を書いたエマ・ドナヒュー本人です。まさしくフリッツル事件をもとにした長編小説をそのまま映画にしたものなのです。

一世を風靡したこの映画ですが、映画を観てから書籍の存在を知り、そして実話であるフリッツル事件を初めて知るという人がほとんどでした。

そして、実は映画化のオファーが殺到する前に、映画化を予想してエマ・ドナヒューは脚本の草稿作成に取り掛かっていました。多数のオファーの中で、非常に熱意ある長文の手紙を送った監督レニー・エイブラハムソンに直感で映画を委ねることになったのです。

映画と書籍との違い

もうお気付きの人もいるでしょうが、エマ・ドナヒューがフリッツル事件に注目したのは決してスキャンダラスな部分ではなく、極限状態においても息子を想う母親の愛情や人間の立ち直る強さです。

内容は書籍と大きく変わりませんが、5歳児視点の主観的なストーリーではなく、ある程度客観的でありながら、瞬時にお客さんを「部屋」に引き込む勢いが非常に特徴的です。

そして子役を演じた当時8歳のジェイコブ・トレンドレイは、難しい役柄でありながらも立ち位置をよく理解し、「部屋」しか知らない=「部屋」を悲観していない少年、なんなら遊び心をもって「部屋」で生活する様子を完璧に演じ切りました。

「部屋」から外の世界を見てみませんか

フリッツル事件の真相から、その後に一世を風靡した書籍や映画を紹介しました。なかなか実話だとは思えない凶悪な事件ですし、異なる視点から見ることでこの事件を美化することはもちろんできません。

ですが、歴史に残るこのフリッツル事件、書籍、映画を一度目にすることによって、あなたの世界観が変わるかもしれません。監禁期間24年間という月日をあなたは想像できますか。

小さな「部屋」での24年間、その後の「とてつもない広い世界」とのギャップは計り知れません。今でもTSUTAYAでDVDをレンタルしたり、AMAZONで書籍を購入できたりします。良かったらこれを機に、本や映画を手に取ってみてください。

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