明治時代の服装・ファッション!明治維新の女性や男性の洋服とは?

ファッションにはその都度流行があり、そして繰り返すものです。現在何気なく着ている洋服も元をたどると明治時代がキーポイントなのです。服装は個性を表現するにも欠かせない物。明治時代の服装や時代背景を踏まえて、今後のおしゃれの参考にしてみませんか。

明治時代の服装・ファッション!明治維新の女性や男性の洋服とは?のイメージ

目次

  1. 1明治時代の女性や男性のファッションを紹介
  2. 2明治時代の服装・ファッションの変化
  3. 3日本人の思わぬ和服姿に西洋人はびっくり
  4. 4明治時代の女性の服装・ファッション
  5. 5明治時代の男性の服装・ファッション
  6. 6女性の洋装が遅れた理由は髪型と値段
  7. 7【番外編】明治時代の食生活の変化
  8. 8明治時代のファッションはモダンでハイカラだった

明治時代の女性や男性のファッションを紹介

私たちが生活していくうえで欠かせない物はたくさんありますが、洋服もそのひとつです。下着から靴下に至るまで、衣服に身を包むのが当たり前となっています。今では様々な種類の洋服やメーカー・ブランドがあり、自分の個性を服装に出したりお洒落を工夫するなど、ファッション自体を楽しむことが趣味である人も増えています。

そんな今では着て当たり前となっている洋服が、一体いつ頃から一般的に着られているのか知っていますか?なんとその文化は今から明治時代まで遡るのです。日本文化がまさに変化を遂げた時代に広まった洋服について、明治時代の服装・ファッションを歴史とともに男女それぞれ紹介します。

明治時代の服装・ファッションの変化

明治時代と言われると、おおよその方が服装へ抱くイメージは「古い」や「和服」というものでしょう。実は和服から現在私たちが何気無く着ている洋服へと切り替わった、モダンな服装の時代だったのです。

明治時代を思い起こさせる有名なフレーズに「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」というものがあります。その時代をまさに象徴する流行り歌の一部分で、学生時代に歴史の授業で習うフレーズです。

そもそも「文明開化」というのは、西洋の物や文化を取り入れようとした明治時代の風潮を指します。西洋の物の中でも洋服という服装は、明治時代の日本には無かったまさに新しい文化でした。

1.上流階級から洋服を取り入れはじめる

明治時代に西洋文化が広まったといっても最初に洋服を取り入れたのは幕末頃の軍隊の制服で、男性が先でした。その後明治初期に官僚の制服が洋装となってから次第に一般の人々にも広がっていくこととなります。

官僚といってもごく一部で、軍事以外の行政に携わっていた文官という地位の人に対して明治5年に礼装について制定されました。この礼装は大礼服というもので、格式高い場での着用として寸法からボタンの留め方、さらには敬礼の仕方までとても細かく決められていました。

鎖国を解き様々な条約を諸外国と結ぶ中で、その交渉に携わる立場の人が外国文化を取り入れることで日本も諸外国に遅れをとらないという姿勢を見せ、ひいてはそれが文化の変遷のきっかけとなったのです。

2.明治11年に洋装を正装とする法律が作られる

今でこそ男性も女性も服装というのは自由ですが、明治時代は着用する服装も法律で定められていました。上流階級から次第に洋服が広まり始めたのをきっかけに、明治11年(1878年)に正式に「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」という法律が作られました。

洋服を一般的にも正装と定めて上流階級だけでなく庶民にも広げようとした政策でしたが、明治時代中急激に洋服へ転換したわけではありませんでした。教員や警察官などにも洋装の制服が広がりましたが、そういった人たちも自宅へ帰れば和服へと着替えくつろぐといった生活スタイルがしばらく続きました。

3.明治14年に高官が公的な場に夫人を伴う際は洋装となる

明治14年(1881年)といえば「明治14年の政変」と言われる程国内情勢が大きく動いたこの年には、服装についても「高官が公的な場に夫人を伴う際は洋装とする」というお触れが出ました。

西洋では、上流階級の人々は夫婦そろって祝宴の場に出向くことがマナーでもありました。当時の日本をはじめとする東洋文化ではあまりなじみのない光景でした。男性は外へ出て、女性は内を守るという考えがあり、夫婦揃って公の場へ出ることはなかったのです。

しかし明治時代に入り文明化を進め諸外国に遅れをとりたくなかった政府としては、こういった祝宴の場へも西洋と同様夫婦揃って参加させたいと考えます。そこで問題となったのが服装でした。

明治時代に男性が仕事の場でも洋装の制服を取り入れたのに対し、女性は仕事へ出ない為洋服を着る必要性がないことと金銭面の問題も相まって、女性の洋服導入は大変遅れていました。そうなると、夫婦揃って公の場に出ると男性は洋服、女性は和服となり服装に差が生まれてしまいます。

そこで政府は公的にお触れを出し、高官など上流階級の夫人は洋服を着るよう正式に認めたのです。一般女性に浸透するのは時間がかかりましたが、女性の洋服史はここから始まりました。

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日本人の思わぬ和服姿に西洋人はびっくり

和服と聞くと、おしとやかでピシッと着こなさないといけない窮屈そうな感じを受けますが、昔はそうでもありませんでした。和服の服装は一般庶民にとって普段着であり、楽に着る事が原則であまり見た目を気にしない日本人が多かったものです。

その服装や着方が原因で実は、西洋人が盛んに日本に訪れるようになった明治時代には「日本人は野蛮だ」と思われていたこともあったのです。

和服の着こなし方が自由すぎた

現代でいえば、男性も女性も和服というのはとても堅いイメージがある服装です。着方やマナーが細かく決まっていて、かしこまった場でしか着ない印象があります。昔の西洋人も同じように思っていたようです。

しかし実際はその逆で、洋服が法律で定められるよりも前の日本人の和服の着方は自由そのものでした。ひっかけるように羽織るだけというのはごく普通だった為、少し動けば前がはだけてしまうような状態でした。

男性は特に和服の下に何も身につけない人も多く、はだけた衣服の隙間から胸板が見えてしまう状態で外を平気で歩いていました。女性も前や太ももあたりが裾から見えていても気にしない人がほとんどで、そのような服装が西洋人にとって「日本人は野蛮だ」と勘違いしてしまう原因のひとつだったのです。

政府が法律で和服文化にテコ入れ

諸外国と条約をはじめ様々な交流を深めていた政府は、こうした日本の和服文化に対する「野蛮だ」という西洋人の見方を恐れて、同じく明治時代に法を整備し対応しました。具体的には裸体を禁止するもので、混浴などの風俗的な部分もテコ入れを行いました。

西洋から取り入れられた洋服が色々な事情でなかなか浸透しない中、一般庶民にとって当たり前だった自由な和服は時代の変化や異文化交流の中で少しずつ整えられ、現代のような厳格なイメージの服装へと変わっていったのです。

明治時代の女性の服装・ファッション

明治時代に入って洋服が取り入れられたと言っても、女性への浸透は大幅に遅れました。それでもお洒落はいつの時代も存在するもので、和服と西洋文化を上手に織り交ぜた和洋折衷ファッションが好まれていました。明治時代に主流となっていたスタイルを3つご紹介します。

袴にブーツ

明治時代に入ってもまだ日本独自の髪型「日本髪」に着物が定番だった女性の服装ですが、文明開化による様々な変化が女性のファッションへも影響を及ぼしました。

まず着ている衣服の生地や染料の変化です。日本では主流ではなかった化学繊維の染料を使った鮮やかな色の生地や、西洋の洋服に使われるような模様が、明治時代に和服にも取り入れられるようになり非常に華やかで派手な着物が増えました。

洋服だけでなく靴や帽子といった小物についても西洋の物が流通するようになり、メインで着る服装は袴、履物はブーツを合わせるという粋なお洒落を楽しんだのです。

着物にショール

ショールは現代のファッションにもよく用いられるアイテムのひとつです。衣類の一種で、防寒として服の上から肩に羽織ったり、頭にかけたりと着こなしは様々です。元はインドのカシミヤショールがヨーロッパに伝わり、ファッションアイテムとして人気になりました。

日本では明治時代中ごろから国内でウールが生産され、ショールが流通しやすくなりました。そこから着物の上に大判のショールを羽織るスタイルが流行しました。この頃から女性は、小物をファッションとして取り入れるセンスが抜群だった事が伺えます。

上流階級の女性はイブニングドレス

日本での外交政策のひとつとして有名なのが「鹿鳴館(ろくめいかん)」です。「鹿鳴館」というのは、諸外国との社交場として明治時代に建設されたものです。日本にも社交界があると諸外国にアピールするため、貴婦人慈善会や夜会が開催されていました。

鹿鳴館がきっかけで女性にも公的に洋装が認められることとなります。特に上流階級の女性たちはその華やかなパーティの場に合わせて、西洋でいう夜間の女性の正装である「イブニングドレス」を着ていました。

ドレスといえども貴婦人の正装としてスカート丈は靴のつま先が完全に隠れる長さもしくはくるぶしまで、あるいはそれ以上長いもので、原則として袖が無いデザインであることが求められました。好きな物を自由に着られるわけではなかったのです。

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明治時代の男性の服装・ファッション

軍服から始まった男性の洋服文化ですが、明治時代に一般男性にも広がったファッションというのはどういったものがあったのでしょうか。4つの服装をご紹介します。

日清戦争以降シャツやズボン下が流行

男性は女性よりもいち早く洋服を取り入れてはいましたが、やはり上流階級の人や富裕層などの一部のみの話で、一般男性に広がるのは時間がかかりました。一般男性の服装に洋服が定着しはじめたのは明治20年代以降でした。

特に今普段着として男女ともによく着られているシャツやズボンが広まったのは、日清戦争後の明治30年代です。日清戦争に従軍後帰還した男性が帰還後も規制品の下着などを購入するようになってから、全国的に広がりを見せ始めたのです。

インバネスコート

インバネスコートとは男性用の外套(がいとう)です。外套というのはコートの日本語で、一番外側に着用するための衣服です。

丈が長いコートにケープがくっついているようなデザインのもので、コートの部分は袖があるものと無いものがあります。イメージとしては、架空の探偵として有名なシャーロック・ホームズが着ているようなコートです。レトロ感の漂う、味わいのある服装です。

フロックコート

フロックコートとは、西洋で19世紀の中頃から20世紀の初めにかけて着用された、昼間の男性用礼装のことです。ロングシルエットが特徴で、現在では結婚式の新郎が着用するものくらいしか目にする機会がありません。

イメージとしては、昼間に着用する上着の丈の長いタキシードのようなものです。礼装と言うからにはピシッとしたシルエットの服装なので、パーティや外交の場など公の場で着用されていました。

ハイカラーシャツ

ハイカラーシャツとは、「ハイカラ」という言葉の語源ともなっているファッションアイテムです。

一般的なシャツは襟(えり)の部分が折り返っていますが、ハイカラーは襟が真っすぐに立っていて高い位置にあります。西洋から新しく入ってきたこのスタイルのシャツを上流階級の新しい物好きたちが取り入れたのをきっかけに流行しました。

それが語源で「西洋風を真似したり流行を追うこと」をハイカラと呼ぶようになり、流行語となりました。

女性の洋装が遅れた理由は髪型と値段

男性にとっては軍服からいち早く取り入れられた洋装ですが、女性に関しては洋装が広まって一般的に着られるようになるまで導入がかなり遅れたといいます。それは主に2つの理由が存在します。

理由1.髪型の変更には様々な壁があった

男性に対しては明治4年(1871年)に散髪を許可する法令が出されますが、それを受けていち早く散髪した女性に対して「まるで娼婦のよう」と批判した新聞記事が書かれた事もありました。また、短い髪型は尼僧を連想させるものであることと、男尊女卑の時代の流れもありました。

そのため、政府は女性の散髪に対して「男性を真似てはならない」と逆に禁止令を出しました。そのため、服装に合わせられるような髪型がなかなか広まらず、洋服の導入が遅れた一因となったのです。

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理由2.金銭的に余裕があるのは富裕層だけだった

今でこそ洋服はリーズナブルなものもあり手に入れやすく誰でも着られるような時代ですが、明治時代の洋服というのは高価な物で庶民には手の出せない贅沢品でした。特に、男性は外へ出て仕事をしている間、女性は家を守るという風潮の時代でもあり、今と違って女性自ら収入を得ることも難しいものでした。

特に洋服の中でも社交場で着用するようなドレスは上流階級でも手に入れるのが難しい程でした。そんな時代ですから、洋服導入当初しばらくの間農民は洋服に手を出すどころか、普段の服装ですら生地も作りも簡素なものだったのです。

【番外編】明治時代の食生活の変化

さて、ファッションなど洋服について重点を置いて解説してきましたが、明治時代に変化があったのは服装だけではありません。私たちの生活に欠かせないものの一つである「食」も大きく変わった時代なのです。

和製洋食の登場

文明開化とともに変化した食生活の特徴は何と言っても「肉食文化のはじまり」です。西洋人も日本へ多く訪れるようになって西洋人向けの飲食店も立ち並ぶようになりました。そこで働いた日本人が西洋の料理を学び自分で店を開いて広めるようになります。

しかし文明開化までそれまで肉食禁止の文化が深く根付いていた日本人にとって、西洋料理の一番の障壁は肉料理でした。肉食は忌み嫌われていたのです。

それでも欧化政策に伴い政府が洋食を勧めたことで次第に受け入れられ、まず初めに広がったのは「牛鍋」と呼ばれるもので、今でいうすき焼きでした。そこから和製洋食が生まれていきます。

明治時代では、西洋料理の為の食材を全て日本で揃えることは困難でした。そのため代用品として日本の食材が用いられたり、日本人の好みに合わせた味付けやアレンジが加えられました。

そうして生まれたのが和製洋食です。代表的な物としては、カレーライスや海老フライ、オムライスといったものです。日本の主食である米に合う洋食を独自に作り上げていき、今の食文化に繋がっています。

硬いパンから柔らかいあんパンへ

日本でのパンの始まりは安土桃山時代まで遡ります。ポルトガルの宣教師により西洋の主食であるパンが日本へと伝わりました。西洋では、主食として小麦本来の香りや味、そして歯ごたえを楽しめる堅いパンが主流だったため日本人の口には合わなかったと言われています。

明治時代も同様でした。西洋文化が広がりを見せ食生活にも変化が起こっても、柔らかい米が主食の日本人にとって堅いパンは受け入れられませんでした。

しかし、そんなパン文化にも転機が訪れます。明治7年(1874年)に木村屋總本店の木村安兵衛があんパンを発明したのです。柔らかいパンの中に小豆あんを詰めたあんパンは、パンでありながら和菓子のようでもあり、全国的に流行しました。米が主食だった日本でも様々なパンが開発され、食されることとなるのです。

明治時代のファッションはモダンでハイカラだった

明治時代と聞くと、教科書で目にするような古い時代を思い起こしますが、様々な変化や新しい文化が生まれたまさに「新しい時代の幕開け」だったことがわかります。ファッションでも食生活でも、新しい事を受け入れて日本が生まれ変わろうとした最先端の時代だったと言えますね。

最近は、レトロファッションも流行の兆しを見せていますが、「袴にブーツ」のようなハイカラスタイルに思わず可愛いと共感した方も多いはず。是非今後のファッションの参考にしてみてはいかかでしょうか。

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