俳優の細川俊之の死因は?息子(子供)や木の実ナナとの関係も紹介
甘いマスクと美声で一世を風靡した俳優の故細川俊之さん。心をとろかすような渋い低音に魅了された人は数知れません。テレビに、舞台に、ラジオにと幅広く活躍した細川俊之さんとは、どのような人物だったのでしょうか。細川俊之さんの魅力を振り返ってみましょう。
細川俊之とは?
二枚目俳優からスタートし、渋い演技派に成長した細川俊之さん。低く響く特徴のある美声を覚えている人も多いでしょう。日本人の平均寿命が、男女とも80歳を超える現代、70歳での細川俊之さんの逝去は、早すぎると感じます。
NHKの大河ドラマや時代劇、ミステリー、トレンディドラマなど、幅広いジャンルで数々の作品に出演し、舞台やラジオでも活躍した細川俊之さん。家庭を持ちながら、女優の木の実ナナさんとの交際が噂されるなど、私生活でも何かと話題になりました。
病気と闘いながらも演劇人として生きたその一生を振り返ってみましょう。
細川俊之のプロフィール
本名 | 細川俊之(ほそかわとしゆき) |
生年月日 | 1940年12月15日 |
享年 | 2011年1月14日没(70歳) |
出身地 | 福岡県 |
血液型 | B型 |
活動内容 | 俳優・ディスクジョッキー |
所属グループ | |
所属事務所 | |
主な作品 | テレビ『ムー一族』『家なき子』『毛利元就』 映画『女囚さそり701号怨み節』『ラヂオの時間』『細雪』 ラジオ『ワールド・オブ・エレガンス』 ミュージカル『ショーガール』舞台『シラノ・ド・ベルジュラック』 |
二枚目俳優として着実に実力をつけつつ、私生活では結婚と離婚、再婚を経験した細川俊之さん。
恵まれたルックスと抜群のスタイル、魅力的な声につい目が行きがちですが、甘い二枚目の役だけでなく、狂気を秘めた悪人や腹黒い策士、間抜けなチンピラなど、どんな役でも変幻自在にこなす、演技派俳優としても知られていました。
50歳半ばを過ぎたころから病魔に苦しめられ、晩年は俳優の仕事をセーブしつつ大学で教鞭を取り、後進の育成に努めました。
細川俊之は高身長
細川俊之さんは、身長が175cmありました。今の若い人に混ざっても見劣りしない体格ですが、細川俊之さんは1940年(昭和15年)生まれで、その時代の成人男性の平均身長が160cm前後だったことを考えると、かなりの高身長です。
細川俊之さんは中年以降もメタボとは無縁のスレンダーな体型を維持しており、長い手足と高身長と相まって、非常に舞台映えする俳優の一人でした。
細川俊之の経歴
細川俊之さんは、福岡県小倉市(現北九州市)で生まれましたが、山口県下関市で育ち、高校卒業後、学習院大学進学のため上京しました。ところが、大学で演劇と出会い、俳優を目指して大学を中退してしまいます。
いったんは下関に帰りますが、再び上京して俳優座の試験に挑み見事合格。ここから細川俊之さんは、本格的に俳優としての道を歩み始めます。俳優座卒業以降の、細川俊之さんの経歴を順を追って見てみましょう。
1963年に劇団「文学座」の研究生になる
俳優座養成所を卒業した細川俊之さんは、文学座の研究生になりました。文学座は、俳優座、劇団民藝とともに、日本を代表する新劇団の一つで、日本の演劇界を牽引した名優が数多く在籍していました。
細川俊之さんの同期には、『おくさまは18歳』『パパと呼ばないで』『噂の刑事トミーとマツ』などで、コミカルな演技を披露し人気を博した故石立鉄男さんがいます。
1964年に舞台デビュー
文学座で演技の勉強を続けた細川俊之さんは、劇作家飯沢匡さんの『無害な毒薬』で初舞台を踏みます。その後は代表作となるエドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』やチェーホフの『かもめ』などに出演し、着実に演技を磨いていきました。
クールな二枚目俳優として活躍
文学座には1971年まで在籍し、それ以降はフリーとして、テレビや映画にも活躍の幅を広げていきました。クールでかっこいい細川俊之さんは、テレビでも引っ張りだこで、息つく暇もないほどの人気ぶりでした。
1973年に「あまい囁き」を中村晃子とカバー
「日本版アラン・ドロン」とも呼ばれた細川俊之さんは、甘いルックス以上に、心に響く美しい声が有名でした。
エジプト出身の美人歌手ダリダとアラン・ドロンが、 フランス語で歌って大ヒットさせた、 イタリアの楽曲『Parole Parole(フランス語題は Paroles Paroles)』を、歌手で女優の中村晃子さんとともに、『あまい囁き』という邦題でカバーしました。
『あまい囁き』は、他にもアラン・ドロンの吹き替えで知られる声優もカバーしましたが、妖艶な中村晃子さんの歌声に、 細川俊之さんの甘い囁きがからまる、中村・細川版の官能的な作品には及びませんでした。
声優としても活躍
一度聴いたら忘れられない魅力的な声を持っていた細川俊之さんは、声優としても活躍していました。劇場版なので知らない人も多いかもしれませんが、細川俊之さんは、1980年と1981年に公開された劇場版アニメ『あしたのジョー』で力石徹の声を担当しています。
不屈の名作『あしたのジョー』に登場する力石徹の、ストイックで格好良い生きざまに、深みのある細川俊之さんの声は、まさにはまり役と好評でした。
「ワールド・オブ・エレガンス」のラジオパーソナリティも務める
細川俊之さんが残した足跡において、もっともその美声が生かされたのが、1976年から1993年まで、およそ16年半もの長きにわたってFM東京で放送された『ワールド・オブ・エレガンス』です。
月曜日から金曜日までの午後1時からの30分、家事や仕事そっちのけでラジオに釘付けになった女性がたくさんいました。クラッシック音楽にのせて、甘く囁くように語りかける細川俊之さんの声は、多くの女性を虜にしました。
細川俊之の死因は?
人生の後半は病に苦しんだ細川俊之さんでしたが、体調を考慮しつつ、仕事を選んで活動は続けていました。ですから、その死は突然で、多くの人に衝撃を与えました。細川俊之さんの死の原因は、何だったのでしょうか。
1994年頃から次々と病魔に襲われる
細川俊之さんは、1994年、けいれん発作に見舞われ、1993年から出演していたミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』の主役ジョルジュを途中降板せざるを得ませんでした。
翌1995年には糖尿病と診断され、出演予定だった映画『ゴジラVSデストロイア』を降板、同年には脳内出血で倒れたこともありました。
2004年に大阪芸術大学の教授に就任してからは、徐々にメディアでの活動を控えるようになりました。それでも2010年には水谷豊さん主演のサスペンスドラマにゲスト出演し、健在ぶりを見せていました。
死因は急性硬膜下血腫
めったにテレビには出なくなったとはいえ、とくに重篤な様子にも見えなかった細川俊之さんの突然の死は、世間を驚かせました。
細川俊之さんは、2011年1月12日に自宅で転倒し、意識不明の状態で病院に搬送されました。転倒した際頭を強く打っており、搬送先の都内の病院で、意識を取り戻すことがないまま亡くなりました。
死因は病気ではなく、事故により頭を強く打ったため起こった、急性硬膜下血腫でした。
細川俊之の主な出演作品
46年にも渡って演劇界で生き抜いた細川俊之さんは、それこそ数えきれないほどたくさんのドラマや映画、舞台に出演してきました。代表作もたくさんあります。そんな中で、細川俊之さんのターニングポイントとなった作品や、人気があった作品をご紹介します。
細川俊之出演のドラマ
ドラマで細川俊之さんは、温厚な紳士から、くせのある変わり者、冷徹なビジネスマンなど、いろいろな役を演じてきました。ご紹介する2作品は、若い世代を中心に、人気を集めたテレビドラマです。どこかで観たことがある人も多いかもしれません。
細川俊之さんのことをよく知らない人でも、このドラマを観れば、「この人か」と思い当たるかもしれません。
家なき子
「同情するなら金をくれ」というセリフが物議を醸した日本テレビの話題作『家なき子』。1994年の作品です。
虐待やいじめ、貧困に立ち向かい、金と欲にまみれた世の中を強く生き抜こうとする少女を、当時12歳の安達祐実さんが熱演し、天才子役として絶頂を極めるきっかけになりました。
細川俊之さんは、少女の美的才能を見出し援助の手を差し延べるも、亡き娘と少女を重ね合わせ倒錯した世界に陥っていく、金のためならどんなに汚いことも平然とやってのける大金持ちの美術商を演じました。
ナースのお仕事4
観月ありささん主演のお仕事ドラマ『ナースのお仕事』は、スペシャルドラマや劇場版も作られたフジテレビの大ヒットドラマシリーズです。ドジだけれど明るく前向きな新米ナースが、失敗を繰り返しながら成長していく姿をコミカルに描き、人気を博しました。
第一作の放送は1996年でしたが、その後19997年、2000年と放送を重ね、2002年には映画も公開されました。2014年には、2002年放送の『ナースのお仕事4』から12年の時を経て、「離島編/再開編」が放送されました。
細川俊之さんは、『ナースのお仕事4』の第9話に、名医と評判だけれど、傲慢で鼻持ちならない外科医として登場しています。
細川俊之出演の映画
細川俊之さんの映画出演は、1970年代に多いため、知らない人も多いかもしれません。ここでご紹介する2作品は、実話を基にした問題作と、意表をつく展開で観る者を惹きつける話題作です。いずれも細川俊之さんの演技力が光る名作です。
エロス+虐殺
1970年公開の『エロス+虐殺(エロスプラスぎゃくさつ)』は、思想家の大杉栄と神近市子、伊藤野枝の三角関係から起こった殺人未遂事件、俗にいう「日蔭茶屋事件」を題材にした映画です。
大杉栄を刺し、殺人未遂で逮捕され実刑判決を受けた神近市子は、後にこの映画を名誉棄損で訴え、公開中止を求めましたが、「周知の事実」として却下されました。
細川俊之さんは、大杉栄がモデルとされる主人公を演じました。
ラヂオの時間
細川俊之さんが出演した映画『ラジオの時間』は、劇作家で演出家の三谷幸喜さんが、自身が主宰する劇団「東京サンシャインボーイズ」の舞台のために書き下ろした脚本を映画化したものです。映画の公開は1997年で、これが三谷幸喜さん初の映画監督作品です。
平凡な主婦が描いた脚本がラジオドラマで放送されることになりますが、主演女優のわがままで、生放送にもかかわらず脚本の変更が相次ぎ、みなが右往左往するというコメディ映画ですが、テンポのよい展開で高い評価を得ました。
細川俊之さんは、混乱を極める現場にいらだちを隠せない、演技に厳しい元二枚目俳優を演じています。
細川俊之出演の舞台
元が舞台俳優の細川俊之さん。大きな体と美声が一番魅力を発揮するのは、やっぱり舞台だったのかもしれません。
無言な毒薬
細川俊之さんが、俳優としてデビューした記念すべき作品です。残念ながら内容や配役は記録に残っていません。
34丁目の奇跡
『34丁目の奇跡 Here's Love』は、アメリカ映画『34丁目の奇蹟』を原作としたミュージカルで、1963年にブロードウェイで上演されて以来、何度も再演されている名作です。
クリスマス直前のデパートを舞台に、サンタクロースを信じていない超現実的な少女と、人間不信の母親が、本当のサンタクロースに出会うハートフルなファンタジーは、日本でも好評を博し、何度もリバイバルされています。
細川俊之さんは、日本初上演のとき、実は本物のサンタクロースであるクリス・クリングルを演じました。
細川俊之の家族は?子供はいるの?
離婚歴があることはよく知られているものの、細川俊之さんの私生活はあまり明らかになっていません。家族や子どもはどうなっているのでしょうか。
小川眞由美と1度目の結婚
細川俊之さんは、舞台『シラノ・ド・ベルジュラック』で共演した女優の小川眞由美(当時は真由美)さんと1967年に結婚、1児をもうけますが、1071年ごろからは別居が続き、1973年に離婚しました。
娘は小川雅代
娘は、女優、ロックシンガーとして芸能活動をしている小川雅代さんです。離婚後は親権を持つ小川眞由美さんが育てました。小川雅代さんは、細川俊之さんの死後、2012年に『ポイズン・ママ 母・小川真由美との40年戦争』を出版しています。
千夏記と2度目の結婚
細川俊之さんは、小川眞由美さんとの離婚の翌年、1974年に、元タカラジェンヌの千 夏記(せんなつき本名藤本典江)さんと再婚しています。
その後は私生活を、一切公表しておらず、子どもの有無も、家庭の様子もうかがい知ることはできません。
細川俊之と木の実ナナとの関係
細川俊之さんといえば、女優の木の実ナナさんとの仲が、何度も取りざたされてきました。二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。
長年「ショーガール」で共演
細川俊之さんと木の実ナナさんの関係は、1974年から15年も続いたミュージカル『ショーガール』から生まれました。
公演総数547回、観客動員数60万人を超す大ヒットミュージカルとなった『ショーガール』は、細川俊之さんと木の実ナナさんの歌と踊り、しゃれた会話が満載の二人舞台で、息の合ったショーを繰り広げました。
夫婦以上のつながりを築く
一心同体のような、息の合った舞台を繰り広げる細川俊之さんと木の実ナナさんの中を、邪推する人もいましたが、木の実ナナさん曰く、舞台での新鮮な気持ちを保つため、公演のとき以外は一切の交流をしなかったそうです。
それでも細川俊之さんとは、舞台で手を握っただけ体調わかるほど、親密な関係を築いていたといい、「そういう面では夫婦以上」と語っています。
死後
細川俊之さんは、ご自身の死後、遺体を医学の向上に役立てて欲しいと、献体を申し出ていました。細川俊之さんのご遺体は、希望どおり、大学で行われる人体解剖学実習の教材として提供されました。
そのためご遺体はなく、すぐには葬儀も執り行われず、遺骨が戻ったのは亡くなってから1年以上経ってからでした。
細川俊之さんをしのぶ
多くの作品に出演し、たくさんの人々を楽しませてくれた細川俊之さん。細川俊之さんの美声に心を癒された人も少なくないでしょう。亡くなった後も、人々の役に立つことを願った細川俊之さん。最後までダンディで素敵でした。
早すぎる死に悲しみは絶えませんが、数多くの作品にその姿は残されています。改めて振り返ってみてはいかがでしょうか。