芥川比呂志の死因とは?ハムレットの主演を務めた俳優を紹介
芥川比呂志という方をご存知でしょうか?芥川比呂志とは、作家の芥川龍之介を父親に持ち、俳優としてや文学、演出家などでも活躍された方です。そんな芥川比呂志の死因は何だったのでしょうか。また、代表作「ハムレット」についてもご紹介します。
目次
俳優芥川比呂志の死因は何だったのか?
芥川比呂志は1981年に亡くなりました。俳優や文学、演出家として幅広く活躍されていた芥川比呂志ですが、死因は何だったのでしょうか。父親である芥川龍之介が自殺をしていることもあり、それをご存知の方は気になる方は多いかと思います。今回は、芥川比呂志の死因についてお話していきます。
芥川比呂志とは?
芥川比呂志は中学生のころから演劇をしており、後に主演した「ハムレット」の評判がとてもよかったことから、「貴公子ハムレット」と呼ばれ親しまれていました。そんな芥川比呂志ですが、いったいどのような人物だったのでしょうか。プロフィールとともにご紹介します。
芥川比呂志のプロフィール
本名 | 芥川 比呂志(あくたがわ ひろし) |
生年月日 | 1920年3月30日 |
享年 | 61歳 |
出身地 | 東京都滝野区田端 |
血液型 | |
活動内容 | 俳優、文学、演出家 |
主な作品 | ハムレット、煙突の見える場所 |
芥川比呂志の名前の由来は、父親の芥川龍之介の親友である、菊池寛の名を万葉仮名に当てはめて付けられたそうです。ちなみに芥川比呂志は三兄弟の長男で、次男の芥川多加志は戦死、三男の芥川也寸志は音楽家として活躍しました。
出演した作品の中でも1955年に主演した「ハムレット」の評判がとてもよく、「貴公子ハムレット」と呼ばれていました。
芥川比呂志の経歴
あまり世の中では知られていない芥川比呂志ですが、どのような人生を歩んできたのでしょうか。芥川比呂志の経歴について詳しくご紹介します。
芥川龍之介の息子として誕生
芥川比呂志は、蜘蛛の糸や羅生門で有名な作家の芥川龍之介を父親に持ちます。芥川比呂志の美貌は父親譲りで、芥川龍之介も二枚目と有名です。
7歳の時に父親が自殺
芥川龍之介は、「羅生門」「蜘蛛の糸」「戯作三昧」「鼻」「藪の中」「歯車」「地獄変」「河童」などを書き上げた有名な作家です。どれか一つでも聞いたことがある方は多いでしょう。
そんな芥川比呂志の父親である芥川龍之介は、1927年7月24日に自殺しており、芥川比呂志は当時まだ7歳でした。「続西方の人」を書き上げた後、精神科医であり歌人であった斎藤茂吉からもらったという、致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。
芥川龍之介は亡くなる前遺書を残しており、自殺の動機は「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と記していたのは、あまりにも有名な話です。
芥川比呂志が語る父親との思い出
そんな父との思い出について、ハムレット役者というエッセイの「父のこと」の中で語られていました。芥川比呂志は父親の芥川龍之介に「おばけの絵を描いて」と頼みます。
それに対して芥川龍之介は、タバコに翅が生えてきてとんぼになった「タバコとんぼ」や、ばったが跳ねていると急に菖蒲になったという「菖蒲ばった」というおばけを描き上げます。
芥川比呂志は何が何だか訳が分からなくなって気味が悪くなり、それからおばけの絵をねだるのは辞めてしまったそうです。
芥川龍之介の晩年に写されたフィルム映像では、芥川比呂志や弟の芥川多加志と三人で楽しそうに遊ぶ姿も残されています。後に音楽家となる末の弟の芥川也寸志は、当時お昼寝をしていたらしく移っていません。
中学生から演劇を始める
芥川比呂志は、中学生の時から文学・演劇活動をしています。芥川比呂志は中学生のころから、シングというアイルランドの作家や岸田國士の戯曲を呼んでおり、15歳には中学校の校友会誌「桐陰会雑誌」に、戯曲が発表されます。
また、学芸会ではヴォニスの商人や武者小路実篤を演じています。芥川比呂志の才能は、この頃から発揮されていました。
大学時代に劇団を結成
芥川比呂志は慶応大学に進学後、原田義人、矢代静一、1941年4月29日に加藤道夫、長岡輝子らと一緒に「新演劇研究会」を結成します。
そうそうたるメンバーが揃っており、のちに戦後の文学愛を支えてきた、中村眞一郎や鬼頭哲人なども参加していました。そして「新演劇研究会」は今でも語り継がれており、その魅力について語る人は多いです。
また芥川比呂志は演劇活動をしながら、嘱託としても短期間の間、文藝春秋社働いていました。
陸軍に入隊
太平洋戦争が勃発し、芥川比呂志は大学を繰り上げで卒業、前橋陸軍予備士官学校に入校します。卒業後は、陸軍に入隊しています。そして1945年に日本が敗戦し、芥川比呂志は無事帰還します。
1947年に「ハムレット」で主演
1946年には林達夫主宰の市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」で、加藤道夫・治子夫婦と一緒にチェーホフの「熊」を演じています。
その後芥川比呂志は1947年に、同じく加藤道夫・治子夫婦や長岡輝子らとともに、「麦の会」を結成します。そして、同年に文学座で主演したハムレットでの評判が広まり、貴公子ハムレットと呼ばれるようになります。
その後1949年には「麦の会」は「文学座」に合流し、芥川比呂志は「文学座」の代表的な俳優として活躍します。
「現代演劇協会」を設立
1963年に「文学座」を脱退し、「現代演劇協会」を設立します。理事長は「ハムレット」で演出を手掛けた福田恆存が就任。そして芥川比呂志は、協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動します。
「演劇集団 円」を設立
その後、芥川比呂志と福田恆存は劇団の運営方針を巡って対立します。1975年には「劇団雲」を脱退し、「演劇集団 円」を設立。代表に就任します。
作家や演出家としても活動していた
同級生である鈴木亨主宰の詩誌「山の樹」には、「畔柳茂夫」や「沖廣一郎」という名前を使い、作家としても活動していました。
また、1974年には「スカパンの悪だくみ」で演出を手掛け、「芸術選奨文部大臣賞」を受賞。さらに泉鏡花の戯曲の「海神別荘」の演出も手掛け、文化庁芸術祭優秀賞も受賞しています。
芥川比呂志の才能は、俳優としてだけでなく、作家や演出家としても発揮されていました。
芥川比呂志はドラマや映画にも出演していた
芥川比呂志は舞台以外にも、テレビドラマや映画にも出演されていました。1953年の「第8回毎日映画コンクール」では、映画「煙突の見える場所」で「男優助演賞」を受賞しています。また、同映画で弟の芥川也寸志も「音楽賞」を受賞し、兄弟ともに受賞されています。
芥川比呂志は「劇団四季」の名付け親
1953年には、盟友である劇作家の加藤道夫が設立した劇団「劇団四季」の名付け親となっています。
「劇団四季」は1953年に設立。演出家の浅利慶太と、俳優の日下武史や藤野節子らが一緒に結成した劇団です。今では日本にミュージカルを定着させた劇団として、受け継がれています。
芥川比呂志の若い頃の画像を紹介
これは芥川比呂志の若いころの写真です。イケメンと言われているのも納得できる美貌の持ち主です。父親の芥川龍之介にもよく似ています。
芥川比呂志のその後は?
俳優としてや文学、演出家としても活躍してきた芥川比呂志は、その後はどのような人生を歩んできたのでしょうか。気になる妻と家族の存在や、享年や死因についてお話していきます。
結婚して子供もいた
芥川比呂志は結婚もしていて子供もいたようです。妻は瑠璃子という方で、芥川龍之介の次姉の子供、つまりいとこに当たります。2007年8月1日に90歳で息を引き取りました。子供については詳しい情報が残っていませんが、三女に随筆家の芥川耿子がいたことはわかっています。
妻の瑠璃子も随筆家であり、芥川一族を書いた回想記も記しています。もちろん芥川龍之介や芥川比呂志のことも記しており、若かりし頃の様子も残されています。
1981年に死去
芥川比呂志は若いころからの持病が悪化し、入退院を繰り返します。そしてその後1981年に自宅での療養中、息を引き取りました。61歳でした。
死因は肺結核
死因は若いころからの持病だった「肺結核」であり、症状が悪化してからは入退院を繰り返していました。肺結核は結核菌という細菌が原因の感染症です。結核菌は体内に入ると肺で増殖し、それによって発症します。
芥川比呂志の死因は肺結核だった
芥川比呂志は芥川龍之介の息子であり、演劇や文学、演出家として活躍していました。
中学生のころから演劇をしており、主演した「ハムレット」では「貴公子ハムレット」と呼ばれるほどの評判を獲得します。そんな芥川比呂志は、もともとの持病だった肺結核の悪化により、61歳のころに惜しくも息を引き取ります。
父親の芥川龍之介ほど、世の中には知られていない芥川比呂志ですが、代表作でもある「ハムレット」は今でも有名な作品です。これを期に、是非芥川比呂志の出演作品をご覧になってみてください。