「そうか、あかんか」京都認知症母殺害心中未遂事件の片桐康晴の現在やその後
「そうか、あかんか」という、悲しく重い一言が印象的な、京都認知症母殺害心中未遂事件をご存知ですか?犯人である片桐康晴が認知症を患った母を殺害し、数年後も自らの命を絶った事件です。片桐康晴は、なぜ殺害事件を起こしてしまったのでしょうか。事件の詳細をご紹介します。
目次
京都認知症母殺害心中未遂事件とは?
「そうか、あかんか」という母との悲しい最期のやり取りが印象的な、京都認知症母殺害心中未遂事件は、ニュースで報道された後、誰もがその悲痛な殺害事件に悲しみの涙を浮かべました。
親の介護の末に心中する似通った事件が多かったことと、同じような境遇に悩まされていた家族が多かったため、衝撃的な殺害事件でありながらも、他人事とは思えない深刻な事件といった印象を、多くの人々に与えました。
世間にとって悲しい出来事として記憶されている、京都認知症母殺害心中未遂事件とは、一体どのような事件なのでしょうか。「そうか、あかんか」と、言葉をもらした、母との最期のやり取りとは、どういったものなのでしょう。
京都認知症母殺害心中未遂事件の概要
京都認知症母殺害心中未遂事件は、2006年2月1日に、京都市伏見区桂川の遊歩道で起きた事件となっています。
当時54歳だった長男の片桐康晴が、認知症を患っていた86歳の母親の首をタオルで絞めて殺害し、自分自身も首を吊って自害しようとしましたが、未遂に終わってしまった事件です。
なぜ、母と息子の片桐康晴は心中するに至ったのでしょうか?経緯を追って、一つずつ解説していきましょう。
父親の病死後に母親が認知症を発症
悲劇が起きる前は、父親と母親と息子の片桐康晴と、3人家族で京都府に住んでいました。しかし、1995年に父親が病死してしまい、その後、母親が認知症を発症してしまいます。
片桐康晴は仕事を続けながらも、献身的に母親のために介護をしていました。ですが、母親の認知症の症状は改善されることもなく、徐々に進行していき、10年後には母親が夜間に眠れず、外を徘徊して警察に保護されるなど、認知症の症状は重くなるばかりでした。
母親の介護のために仕事を辞めた長男
母親の認知症の症状の重さにより、長男は一時的に仕事を休職し、母親の介護に全力で務めました。しかし、仕事を休職したことで、徐々に貯金していた収入がなくなり、生活も苦しくなっていきました。
片桐康晴は、生活保護を受けるために役所で生活保護の申請をしましたが、仕事の状態が「辞職」ではなく「休職」状態であったため、申請は受理されませんでした。
生活保護の申請を認められなかった理由と、母親の認知症の症状がさらに悪化してしまったことから、片桐康晴は仕事を休職から、退職へと決意しました。
収入がなくなり苦しくなる生活
仕事を完全にやめたことにより収入源も完全に途絶えてしまったため、再び、片桐康晴は生活保護の相談をしました。しかし、失業保険を理由に、再び生活保護の申請は受理されませんでした。
片桐康晴は、家での生活費や、母親を介護するための介護サービスの利用料など、それらをどうにかして切り詰めて生活していましたが、アパートの家賃がカードローンでも払えなくなると、母親との心中を考えるようになりました。
母親と心中…生き残った長男
2006年の真冬の時期に、片桐康晴はコンビニで母親との最期の食事を済ませた後、母親に思い出の場所を見せるために、車椅子を押して河原町を歩き回り、死に場所を求めて河川敷へと向かいました。
京都認知症母殺害心中未遂事件の中でも印象的な「そうか、あかんか」という一言は、母親との最期のやり取りで、母親の口からこぼされた一言です。また、「そうか、あかんか」という言葉は、片桐康晴が母親との心中を決意した言葉でもありました。
片桐康晴が母親に向かって「もう生きられへんのやで」と言葉をこぼすと、車椅子に乗った母親は、悲痛な顔をする息子の片桐康晴に向かって「そうか、あかんか」とつぶやきました。
その後、最期の会話を交わした後、片桐康晴は母親の首をタオルで絞めて、殺害しました。死を看取った後、持っていた包丁で自らを切りつけ、近くにある木で首を吊ろうとしましたが、ロープがほどけてしまい、片桐康晴はそのまま意識を失いました。
それから約2時間後の午前8時頃に、近くを歩いていた通行人が倒れている2人を発見しましたが、母親は既に死んでおり、片桐康晴だけだ一命を取り留めたのでした。
「そうか、あかんか」胸が苦しくなる母親との最後の会話
「そうか、あかんか」という一言が印象的である、母親との最期の会話のやり取りは、河川敷で交わされました。片桐康晴は、母親に向かって「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」と呟いたところ、母親が「そうか、あかんか」と言葉をこぼしました。
そして、「一緒やで。お前と一緒や」と言い、側ですすり泣いている息子に対して、「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」と、死ねないなら自分の手でやるという意志の言葉を発したのです。
その一言をきっかけに、片桐康晴は心中することを決意しました。認知症の症状が酷くなっているとはいえ、「そうか、あかんか」と言葉をもらすほどに、母親自身でも、今の生活が困難であったことを、わずかながらも自覚していたのかもしれません。
これが、京都認知症母殺害心中未遂事件を強く印象付けた、「そうか、あかんか」という母親との最期のやり取りの全容となっています。
京都認知症母殺害心中未遂事件の判決
最期まで母親の介護を献身的にして、最善を尽くしたけれど母親を殺害して心中しようとした片桐康晴を、誰もが悲痛な面持ちで見ていました。
世間では、さまざまな凄惨な殺人事件がありますが、この京都認知症母殺害心中未遂事件は、犯人である片桐康晴が努力を尽くした末での、悲しい結末に至った事件でした。
長男・片桐康晴に下された判決
2006年の7月に、京都地裁は、片桐康晴に対して懲役2年6ヵ月、執行猶予3年の判決を言い渡しました。求刑では懲役3年でしたが、献身的な介護や生活の困窮があったことと、片桐康晴が今でも母親のことを思っていることから、温情判決となりました。
裁判官は片桐康晴に対して、「自分で自分をあやめることのないように、お母さんのために幸せに生きてください」と語りかけ、判決を下し、片桐康晴はその言葉に「母の歳まで生きます」と約束しました。
裁判官も言葉を詰まらせる
事件の概要を語っている間、法廷の中は誰もが静かに息をのんでいました。検察官が、片桐康晴が母親に対して献身的に介護を続けていたこと、また、金銭的にも心境が追い詰められていたことを語ると、中にはあまりの悲痛さに、顔を伏せる人もいました。
そして、殺害前の母親と片桐康晴の会話のやり取りや、片桐康晴が「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」といった供述を述べると、話を聞いていた裁判官は目を赤くして言葉を詰まらせました。
同じように、刑務官も涙をこらえるように何度かまばたきをするなど、誰もが悲痛な面持ちで事件のことを傍聴していました。
温情判決に賛同する多くの声
求刑である懲役3年から、懲役2年6ヵ月の執行猶予3年の温情判決に対する世間の声は、とても良心的な声ばかりでした。この事件がニュースやネットを通じて大きく広まると、「地裁が泣いた悲しい事件」としてまたたくまに日本中に知れ渡りました。
また、その当時の親子の境遇や、片桐康晴に対して世間の人々は強く同情し、温情判決にも賛同する声が多くありました。
片桐康晴のその後
裁判の判決が下され、裁判官に「母の歳まで生きます」と強く約束した片桐康晴のその後は、一時的には前向きに生きるような姿勢はあったものの、不幸なことに、片桐康晴は緩やかに自殺への道へ進んでしまいました。
片桐康晴は、なぜ再び、自らの命を絶つような行為をしてしまったのでしょうか。どうして、そのような考えに至ってしまったのでしょう。
木材加工会社に就職
判決後、片桐康晴は住んでいた京都を離れ、滋賀県へと転居しました。事件当時は無職でしたが、木材加工会社に就職し、月収は20万円前後と、以前のように生活にもさほど困るようなことはありませんでした。
また、休日には母親が元気だった頃にしていた渓流釣りをするなど、裁判の時に約束した「母の歳まで生きる」という言葉を果たすかのように、当時の片桐康晴には、前向きに生きようとする姿勢がありました。
思うように続けられない仕事
ですが、そのような時期も長くは続きませんでした。片桐康晴が61歳のときに、景気悪化による雇用調整のため、木材加工会社での仕事を失い、収入もほとんど得られなくなりました。
仕事を辞めた当時の所持金は、わずか30万円で、再び働くために金属加工の仕事を得ましたが、歳のために視力が弱くなっており、思うように作業が進まなかったために仕事も長続きしませんでした。
再び苦しくなる生活
仕事ができないために収入も減っていき、片桐康晴が命を絶つ3ヵ月前の貯金は、6万円にまで減少していました。しかし、真面目だった片桐康晴は、当時住んでいたアパートの家賃である月2万2,500円を一度も滞納せず、きちんと支払っていました。
このことから、再びの金銭的な困窮にもかかわらず、片桐康晴は頑なに周囲に助けを求めずに、他人に迷惑をかけまいと、一人で生きようとしていた姿勢がうかがえます。
2014年8月に自ら命を絶つ
誰にも迷惑をかけずに、経済的な困難に耐え忍びながらも生きてきた片桐康晴でしたが、2014年8月に琵琶湖大橋から身を投げて、その生涯は終わりを遂げました。
自ら命を絶つ際の所持金はわずか数百円で、片桐康晴が身につけていたポーチには、「一緒に焼いてほしい」といったメモを添えた、母親と片桐康晴を結ぶへその緒が入っていました。
片桐康晴の死はテレビでも特集され多くの反響を呼ぶ
片桐康晴の死は、テレビで特集され、世間から多くの反響を呼びました。片桐康晴に対する声はさまざまで、「母親の歳まで生きる」と交わした約束を守れず、再び自ら命を絶つ行為をしてしまったことに、残念だという声がありました。
しかし、その一方で、「当時の裁判官のその一言が、彼にとって重すぎたのではないのか」と、彼の心境に強く同情する声も上がりました。
急速な高齢化により、介護保険制度や介護サービスが広く普及したとはいえ、まだまだ十分だとはいえず、当時の社会でも大きな問題が残されていました。
自宅介護を続けた末に、自らの親を殺してしまう事件に発展することも多くあったため、誰もが他人事とはいえず、今後の介護や介護サービス、生活保護に対してなど、さまざまな意見が飛び交いました。
なぜ親類や友人に助けを求めなかった?
片桐康晴は、生活保護を受給できないかと何度も相談したり、カードローンで家賃を支払うなど、行政に対して助けを求めることはしていましたが、他に頼るべき相手がいなかったわけではありません。
片桐康晴は生きている間、どのような困窮した状況であっても、親しい知人や友人、親類などには、一度も助けを求めませんでした。
事件が起きた後や、片桐康晴が自ら命を絶った後なども、片桐康晴を知る人物は誰もが口をそろえて、「どうして言ってくれなかったんだ」と、思わず言葉をもらしていました。
尊敬していた父親
助けを求められなかった理由は、生前の父親による教えの言葉と、母親を自らの手で殺害してしまった罪の意識からくるものだと考えられています。
西陣織の糊置き職人をしていた生前の父親は、彼に対して口より先に手が出るような、厳格な性格をしていましたが、片桐康晴は父親を恨むことなく、尊敬の念を抱いていました。
父親は片桐康晴に対して、「人に金を借りに行くくらいやったら、自分の生活をきりつめたらいいのや」「返せるあてのない金は借りたらあかん」「他人に迷惑をかけたらあかん」と何度も言っていました。
それを深く胸に刻んだ片桐康晴は、どれほどの経済的な困窮や、介護の苦難に陥っても、父親の教えを守るように、身近な人には決して迷惑をかけまいと、自らの身を削って生きていたのです。
しかし、結果的にはその父親の教えが、片桐康晴が親類や友人に助けを求めることを躊躇させるものとなってしまい、悲しい事件を引き起こしてしまいました。
一人だけで抱え込まない
確かに、人に迷惑をかけることは良いことではありませんが、命の危機が差し迫るような状況では、人に迷惑をかけてでも生きることが先決です。
高齢化社会と言われる現代では特に、親の介護などで迷惑をかけられないからといって、なんでも自分で抱えて一人で解決しようとする傾向も多くあります。しかし、その結果、さらに不幸な事態に陥ることも少なくありません。
2006年に起きた京都認知症母殺害心中未遂事件は、現代では誰でも引き起こしかねない事件となっています。一人で抱え込むことはせず、まずは相談からでもいいから、身近な人や親類などに頼ってみましょう。