「えた・ひにん」の意味とは?多い地域や苗字!現在の生活【穢多非人】

「えたひにん」と聞いたことはあるけど実際どんなものなのか知はっている人は少ないのでは?どんな人が「えたひにん」と呼ばれ、住む地域や仕事や性格、名乗る苗字をどのようなものだったのか?現在にもその苗字や地域は存在するのかをご紹介させていただきます。

「えた・ひにん」の意味とは?多い地域や苗字!現在の生活【穢多非人】のイメージ

目次

  1. 1えた・ひにんとは?
  2. 2えた・ひにんの身分と生活
  3. 3えた・ひにんの多い地域
  4. 4えた・ひにん【穢多】と【非人】の違いと苗字の意味
  5. 5えた・ひにん【穢多・非人】という名前の意味
  6. 6えた・ひにん差別はなぜあったのか
  7. 7えた・ひにん差別の現在
  8. 8これからを生きる私たちが大切にすべきこと

えた・ひにんとは?

「えたひにん」(穢多・非人)と聞くと、全く聞いたことがない、もしくは学校などで聞いたことはあるが詳しい意味などははあまり知らないといった人がほとんどだと思います。

ここでは日本で行われていた「えたひにん」(穢多・非人)という身分の制度と「えたひにん」と呼ばれていた人に対する多くの扱いと意味についてご紹介させていただきます。

まず「えたひにん」とは身分の名称であり、江戸時代に身分上の厳しい差別を受け生活をした人々に対する名称です。また地域の「部落差別」という言葉の「部落」の概念ともされています。
 

えたとは

鎌倉,室町時代には寺社に隷属する手工業者、雑芸人らを、穢多(えた)、河原者、散所 (さんじょ) などと呼びましたが、まだこの時代の日本ではこれらの人々に対する性格な社会的身分としての規定はなかったため、戦国時代に一部の人々は解放されました。

江戸時代になり、封建的身分制度の確立したとき「士農工商」の身分が作られましたが、えた(穢多)と呼ばれていた人々は士農工商の4つの身分の下に位置付けられ一番低い身の意味合いとされました。

ひにんとは

非人(ひにん)と呼ばれた人々はえたと呼ばれた人々と同じく「士農工商」の身分制度の4つの下の身分としての意味合いとされておりましたが、えたと呼ばれる人々との多くの違いがありました。

それはえたと呼ばれる人々と違い、出生によるほか、刑罰によるもの(非人手下(てか))生活困窮などにより多くの地域で乞食浮浪してで非人になるものとがあり、もといた身分に戻る制度「足洗い」の制度もあったそうです。

えた・ひにんの身分と生活

では、えたひにんと呼ばれた人々はどのような身分で一般の人との違いを作り、どのような生活が多かったのでしょうか?そしてえたひにんと呼ばれる人々の多くはどの様な地域で生活をしていたのでしょうか?

えた・ひにんは江戸時代の身分制度

では、「えたひにん」と呼ばれた人々はどの様な差別をされ、生活をしていたのでしょうか?
江戸時代に確立された「士農工商」の下の身分として果たして現在の私たちが想像できる私生活とは?

身分制度の最下位に値し意味する「えたひにん」。今現在のの私たちが当たり前にしているとことが出来たのでしょうか?

今まででお伝えした通り「えたひにん」と呼ばれる人々は「士農工商」の身分制度の最下位に値し意味する身分でした。その身分ゆえに江戸時代に現在では考えられない、身分上の厳しい差別を受け一般の生活とは違うを強いられてきました。

ここで「士農工商」についてご紹介いたします。士農工商とはもともとは中国古代に人民を4種に分けた名称でした。

日本では豊臣秀吉が兵農分離を進めていくうえで次第に成立し、江戸幕府によって確立された制度です。
朱子学、その意味とは、すなわち人間の”性”とは何だろう、どこから来ているのだろう、ということを考える学問の思想の意味に基づいて確立されました。

まず、武士を最高位におき、武士に多くの特権を与えるとともに、武士の経済的要求を満たす多くの貢納(献上品など)の負担者である農民を武士の次に地位を与えました。

その下は物を作り出す職人とし、そして生産にたずさわらないとのことから、商人が最下位におかれました。

ですが、この頃の実際の生活は違い、武士の次に商人→職人→農民となっており農民の生活はあまり良いものとは言えませんでした。身分は武士の次に値するはずなのに…と思う農民からの不満が高まり、その不満が溢れかえるようになっていきました。

そこで置かれたのが「えたひにん」とし、そこで幕府は農民の不満を抑え、商売る意味で、仕事に失敗し負債を背負った商人、農業がつらく逃仕事から逃げ出した農民、町のごろつきなどを集め「えたひにん」の意味合いとしたといわれています。

すでに差別社会で生活営む人々がどのように苦しんでいたかを想像するだけで背筋がぞっとしますよね。

えた・ひにんの生活事情

では、ここで「えたひにん」と呼ばれていた人々がどのような生活を送っていたかについてご紹介いたします。先の文章で士農工商よりも低い身分だとお判りいただけている通り、「えたひにん」と呼ばれていた人々は、地域で一般の農業、物つくり、商売などを行うことは許されておりませんでした。

また、えたひにんと呼ばれる人々には決まりがあり、「祭事厳禁」の慣習が義務付けられました。地域の神社で執り行われる祭事などの神聖な催しには、神が汚されるとされ参加をすることはもちろんのこと、祝うこと悲しむことも禁止とされていました。

そして、えたひにんの人々は、自身たちの居住をするところでも制約があり、自身たちの地域である沼地や山奥に潜み生活することしかできず、自身の家の墓も墓石は土の下に隠さなければならなかったとされています。そして苗字を聞けばえたひにんだとわかるように苗字も決められていました。

当時の身分制度は、就く業種なども決められていたため、生まれた家の身分がえたひにんの身分だった場合、その子供もえたひにんと位置付けられました。

穢多非人(えたひにん)と呼ばれた人々の居住した地域や、その集落を「被差別部落民」と呼んだことから、西日本などでその地域を「被差別部落」を「部落」と呼ぶことから定着したとされ同じ苗字の人々が多かったといわれています。

当時のえたと呼ばれる人々ははどんな仕事をしていたのか

えたひにんのえたと呼ばれた人々はどの様な仕事を行っていたことが多いのでしょうか?
商人よりの下の位の人々が行っていたえたひにんと呼ばれる人々の多い仕事をご紹介させていただきます。

ひとつは、離れた地域で農民が捨てた・あるいは病死した牛馬を回収してまわり、自身の地域に持ちかえり、自身の地域でその死骸を処理をし、その肉を食べて生活をしていたとされています。その牛馬の獣皮剥ぎ、加工などを行い革製品を作るという仕事がえたひにんと呼ばれる人々の仕事でした。

また、刑吏、捕吏(刑を執行するもの・刑務所の番)などの下級警察が行うような仕事や、草履づくり、販売などもえたひにんと呼ばれる人々の仕事だったそうです。

ひにんと呼ばれる人々はどんな仕事をしていたのか

では、えたひにんのえたではなく、ひにんと呼ばれる人々はどの様な仕事をしていたのでしょうか?

ひにんと呼ばれる人々はえたと呼ばれる人々と違い、溜御用(宿のない者のための病監や収容所の管理)・牢屋敷への詰番、囚人の送迎・罪人の仕置きの仕事、刑場の管理といった仕事をおこなっていたといわれています。

ひにんと呼ばれていた人々はもといた身分に戻る制度「足洗い」の制度のためにこのような仕事を行っていわれています。

えたひにんと呼ばれる人々は、身分が上の者の不浄物、いらなくなった物や人を処理することが仕事であり、現在でいう、職もなく家もない云わばホームレス以下の存在で、本当の「下」の仕事をするのが当たり前と認識されていました。

現在の日本では地域によってホームレスに対しては、食事支給や住居支援などが行われておりますが、当時の社会では全くそのようなことがなかったと思うと、感慨深い内容です。

えた・ひにんの多い地域

差別的身分制度のなかでえたひにんと呼ばれた人々は、差別社会の中の江戸時代にどのような地域で暮らしていたのでしょうか?

当時えたひにんと呼ばれ差別をされていた人々が暮らす地域や精神病不具白痴などの人々の集まった地域を被差別部落と呼んでいたそうです。そこにはみなえたひにんと呼ばれる人々が居住していたため苗字も同じものが多かったです。

被差別部落とは、えたひにんに対する対策事業の対象となった地域の総称となっていて、封建的身分制で最下層に位置づけられたえたひにんの人々を中心に地域が形成されていました。

その地域は西日本地域に非常に多く、都道府県では、一番に多いのが福岡県、二番に多いのが広島県、三番多いのがに愛媛県となっており、それぞれの県でゆうに400地域を超えるといわれております。

なぜ西日本に多くえたひにんと呼ばれる人々の差別部落が多かったのでしょうか?それは、日本で最古の歴史を持つ京都が関係しています。

京都からの江戸へ遷都が行われる前の天皇の存在意味が強く絡んでおり、江戸時代、日本の中心は京都とされ、神聖なる天皇の逆の意味である「身分の卑しいもの」や「穢れ」が江戸時代の京都では江戸より厳しく意識された結果によるものだといわれています。

京都にいる貴族たちを中心とした「身分の卑しさ」や「穢れ」への偏見が、西日本から関西の地域、京都で生まれたことが被差別部落の地域への設置や、穢多非人(えたひにん)の身分制度の起因ともされています。

では、被差別部落が多かった上位三県「福岡県の地域」・「広島県の地域」・「愛媛県の地域」についてご紹介いたします。

えたひにんが暮らしていた地区・苗字が多い県「福岡県」

福岡県の被差別部落の数は、調査にばらつきはあるものの、約600地域存在するといわれています。その約600地区の振り分けは、北九州市内に約100ヵ所、筑後平野の南部地区に約40ヵ所、旧産炭地の東部地区に約300ヶ所、福岡市を中心とした西部地区に約140ヶ所とされています。

福岡県にえたひにんと呼ばれる人の被差別部落が多いとされている理由は、北海道・東北地方の蝦夷(えみし)を移配して太宰府のある重要な地域の管理・及び警備をさせるためであったのではないかと考えられています。

また、福岡県の言い伝えによると、福岡市の千代部落は黒田藩主によって姫路から連れて来られたえたひにんと呼ばれる人々によって、皮なめし工の集落に起源を持つ地域でされており、そのため福岡県の地域に集中して多いのではないかと考えられているそうです。

えたひにんが暮らしていた地区・苗字が多い県「広島県」

二番目にえたひにんと呼ばれる人々が多かった広島県では広島県内には414ヶ所あるいは422ヶ所の被差別部落の地域が存在しているそうです。

広島県の中で一番大きい被差別部落の地域は、広島市西区の福島地区(福島町、南三篠町、都町)となっており、規模の大きさでは日本全国で5本の指に入るほどの大きさとされています。

広島県に被差別部落の地域が多い理由は、1889年の軍港が開設されたことと、共に日本海軍に納める牛豚肉のための屠場(とじょう)が設けられたためとされています。

また、死体の火葬場や海軍で捕らえた者の監獄の警備、野良犬の処理場などが作られたため、この付近に住むえたひにんと呼ばれる人々が周りから賤視され、差別されて被差別部落の地域になったとされています。

えたひにんが暮らしていた地区・苗字が多い県「愛媛県」

では、えたひにんと呼ばれる人々が三番目に多かった愛媛県はどうなのでしょうか?

現在確認できる愛媛県の被差別部落の地域は約400地区と言われており、愛媛県の被差別部落の地域の多くは海沿い100世帯以上存在しているとされています。

では、なぜ海岸沿いに多かったのでしょうか?

愛媛県は四国4県の中でもっともえたひにんと呼ばれる人々が集まる被差別部落の地域が多いとされています。それは、愛媛県の地区数が四国4県の中で最多なのは海賊対策からではないかと考えられています。

えた・ひにん【穢多】と【非人】の違いと苗字の意味

ここではえたひにん(穢多・非人)の違いと苗字についてご紹介いたします。「えたひにん」と呼ばれることが多いですが「えた」と「ひにん」には違いがあり、ひにん(非人)」と呼ばれる人には大きく分けて二つの意味と種類がありました。

また「えたひにん」と呼ばれる人々にはそれぞれ苗字が存在し、苗字を見ただけでわかるよう、一般の人との区別をつけていたことも事実です。

では、「えた(穢多)」と呼ばれる人々、「ひにん(非人)」と呼ばれる人々がどのように区別され、一般の人から区別が出来る苗字にされたのかをご紹介いたします。

えた・ひにんの人が名乗った苗字とは

ここでは、えたひにんと呼ばれていた人々の苗字についてご紹介いたします。苗字にはえたひにんと呼ばれた人々のやっていた仕事が大きく影響したといわれています。

えたひにんと呼ばれた人々で、主にえたと呼ばれる人々が行っていた仕事は先ほどお話しした通り、農民が農業で飼育し、捨てた、あるいは病死した牛や馬を回収し、その家畜の肉を食べて生活し、その家畜の皮を加工し革製品を販売していたためそこから苗字をつけました。

革製品を加工する仕事=苗字の由来とされ、苗字に「革」「皮」が入っているえたの人々が多かったそうです。

明治維新の「身分解放令」によってえたひにんという制度が廃止されたため、当時苗字で「革」や「皮」を名乗っていた人々は、元の身分がばれることを恐れ、同じ発音の「川」や「河」に苗字を変えたそうです。

【非人】の意味

えたひにんと呼ばれる人々の「ひにん(非人)」の意味とは何なのでしょうか?

えた(穢多)とひにん(非人)の違いとしてはまずその漢字から来ています。非人という漢字を見て私たちがぱっと想像がつくのが、「非人道的な人間」というものが想像がつくかと思います。

非人と名前のがつけられたのは、もとは身分が高かった者が「罪」を犯したことで身分を落とした者ということです。なので「足洗い」制度が適用され、「銭」を納めてえたひにんから平民へと戻ることができるというものだったのです。

【非人】は2種類の意味がある

「非人」とひとくくりに言われていますが、基本的にえたひにんの「非人」には二種類存在し、「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」の二つに分けられていました。

非人という位置づけは変わりませんが、どのような行いをしたかによって区別され、違う名称で呼ばれていました。

では、その二つの違いについてご紹介させていただきます。

野非人(のひにん)

「野非人(のひにん)」とは、現代社会で呼ばれることの多い、帰る家のない「路上生活者」・「ホームレス」のこととされていました。

これは農民が農村部で病や障害などにより、武士に年貢を納めることが不可能となってしまった人々が江戸へと流れ入った、いわば「無宿者」といえる人々のことです。

この「無宿者」と呼ばれる人々を特定の区域で共同生活をさせることにし、被差別部落を構築していきました。ですが、これはのちに「無宿狩り」の引き金となってしまいます。

「無宿狩り」とは野非人(のひにん)と呼ばれる働ける状態ではない人々が江戸に溢れかえり徘徊が多くなってしまったため、幕府は1778年(安永7)無宿人(野非人)を捕らえていきました。

捕らえた野非人の中で、再犯のおそれある者は懲らしるため、佐渡金山の水替人足の仕事をさせることを始めました。

以来幾年にわたり長崎、大坂などの無宿人(野非人)を佐渡送りにしていきましたが、1790年(寛政2)には鬼平犯科帳で有名な、火付盗賊改長谷川平蔵の建議によって改訂されました。

罪のない、または再犯の恐れがない無宿人(野非人)には生業を与えて更生を図るための施設として、江戸佃島に人足寄場(にんそくよせば)ををつくり、油絞りなどの業務を行わせ、身元引受人さえあれば出所を許したとされています。

抱非人(かかえひにん)

野非人に対し「抱非人」という区別もありました。抱非人の野非人に対する違いは4つ挙げられます。

それは、自身の姉妹、叔母、姪と密通(不倫)をした者、相対死(男女の心中)で生き残った者、主人と下女の心中で生き残った主人、15歳未満、無宿の子供で盗みをした者とされていました。

このような罪を犯した「抱非人(かかえひにん)」は、特例として認められていることがありました。

それは、「足洗い」制度で、自身の家族や親戚が「銭」(現代でいう釈放金)を支払うことにより、「抱非人」から「平民」としての身分に戻れたとされています。

えた・ひにん【穢多】と【非人】の違い

ここでは、えたひにんと呼ばれた人々の、えた(穢多)呼ばれた人々とひにん(非人)と呼ばれた人々との違いについてご紹介いたします。まず、えたとひにんとの最大の違いは、えたの人々はひにんの人々よりも身分が低かったということです。

えたの人々は何かいい行いをしたとしても一生涯「平民」つまり庶民に復帰をすることが許されていませんでした。

それに対してひにんと呼ばれた人々は、野非人であれば、身元引受人さえあれば出所を許されましたし、抱非人であれば、「足洗い」制度で釈放金を支払えば平民に戻ることが許されていたのです。

さらに、ひにんは、自身の生活を行う上で「物貰い」・「物乞い」(人に情けをかけてもらうこと)や遊芸をするなどの独占権利を持つことが許されており、足洗制度などの優遇されることで、えたとのとの違いを設けられておりました。

ここでもひにんはえたよりも上の位に置かれていたということがわかると思います。

また江戸時代には、ひにん以外の身分の者が「物乞い」を行うとそれが罪とされたていたため、「物乞い」はひにんの特権のようなものであったとされています。このよなところでえたひにんの区別がつけれらました。

えた・ひにん【穢多・非人】という名前の意味

えたひにん(穢多非人)と呼ばれた人々がどのように差別され、一般の人々との違いについてはご紹介いたしましたが、ではなぜ、えたは「穢多」・ひにんは「非人」とされるようになっていったのでしょうか。

次ではそれぞれえた(穢多)とひにん(非人)の名前の由来についてご紹介いたします。

えたと呼ばれた名前の由来

ひにんと呼ばれた由来に対してえたと呼ばれた由来をご紹介いたします。穢多(えた)と名付けられた名前のの由来や語源としては「鷹が餌を取る(えとり)」という説が一番考えられていますが、その根拠はまだはっきりとされていないのが事実です。

江戸時代には屍体処理、すなわち死んだ人間の遺体を処理する人々のことを「餌取」と名付け、餌取という職業がありました。

これは死んだ人間の死体をを鷹の餌として取り処理をする仕事であり、「餌取(えとり)」という言葉と「穢れ」の意味が合わさって「穢多(えた)」という称されたといわれています。

ひにんと呼ばれた名前の由来

では、穢多(えた)・非人(ひにん)と呼ばれた非人(ひにん)の名前の由来は何でしょうか?

それは貴族で平安時代の書家・橘逸勢(たちばなのはやなり)が、時の天皇、仁明天皇から謀反人であるとされ捕まる際に、橘逸勢は重罰を受け自身の姓を「橘」から「非人」に改めたことが由来とされています。

また農民が自身の農地から逃げ出し、人別帖(現代の住民票)から除かれた人も「非人」と呼ばれ、身分制度から外れ人を総じて「非人」(ひにん)と名付けたとされています。

えた・ひにん差別はなぜあったのか

では、なぜ「士農工商」の人々は大幅な差別はされず、えたひにんと呼ばれる人々のみ、このような人間離れした差別を受けるようになったのでしょうか?

それは当時の社会から今現在に至るまでの日本人の特徴をとらえているというほかありません。

ここでは、当時の日本人が考えていた思想についてご紹介いたします。

なぜ当時はえたひにんという制度を作ったのか

にんげんが生きていく中で必ずしも避けては通れない存在が「死」です。
ですが、だれも何かの「死」に対して接しなければそこら中に動物に死骸や人間の遺体が転がっているような世の中にあります。

そのため「えたひにん」という身分を設け、農業に失敗し、脱走したもの、病にかかり今までの業務が出来なくなってしまったもの、罪を犯したものをその業務にあてていたわけです。

身分が低いからという理由で「下」の業務を行っていたえたひにんと呼ばれる人々ですが、彼らがいなければ当時から現在の日本は成り立たなかったといっていいでしょう。

なぜ差別されるべき存在にしたのか

昨今、日本人は「穢れ」というものを忌み嫌う神道を信奉していました。当時も現在も本人が無宗教であったとしても無意識に神道に縛られているのです。

その神道の中でも「死」は最大の穢れとして恐れられており、いわば一種の伝染病のような認識だったのです。

現在の日本でも、お葬式から帰って来たときは、塩を体に振りかけるなどの動作がありましよね。これは仏教の行事ではなく神道の呪法で穢れを浄化しているためだといわれています。

えとひにんと呼ばれる人々は、当時の人間が忌み嫌う存在である、「死」に限りなく近い仕事をしていたため、このような差別がされていたものと考えられます。

また一般の人間がすることではない仕事をしていたため、一般の人々から「私たちとは生きる場所が違う人間」・「私たちとは同じ生活をしてほしくない」と差別をされていたものと考えられます。

このような生活を送っていたがためにえたひにんと呼ばれる人々は差別という軽蔑の目で見られることが多かったのです。

えた・ひにん差別の現在

では、えたひにんと呼ばれていた人々への差別は現在もあるのでしょうか?

身分上の差別自体は、明治時代に入り「身分解放令」の発布により身分制度事態は廃止となりました。事実上、えたひにんと呼ばれていた人々にも自由という権利が与えられたわけです。

しかし、身分制度の廃止が決定され「四民平等」という言葉が生まれても、明治時代以降もえたひにんと呼ばれる人々には「新平民」(新しく平民になったもの)という形で差別はのこり、周囲の人々からの視線は痛いものでした。

 

現在もえたひにんに対する差別はあるのか

現在の日本で特に若者は、自由に結婚し自由に出産をするというものが当たり前だが、ご高齢の方や歴史の知識に長けている方、実際に偏見や差別を受けた方などがいまだに多く、なかには苗字と出身地で「元被差別部落の出身」だと分かってしまう人もいるようです。

「○○さんと結婚をしたい」と親に話したところ「その相手の苗字は元被差別部落の人間の苗字だから自分の子供を被差別部落出身者と結婚はさせられない」といった親がいることもまた事実です。

現在でもこのようなことがあるということは、江戸時代に決められた身分制度があるがゆえに、自身の好きな人とも結婚が出来ないとなるとこの身分制度はやはり考えさせられるものがありますよね。

なぜ差別は無くならないのか

では、なぜ現在でも「差別」はなくならないのでしょうか?
それはこれから考えていかなければならない日本人の考え方です。
えたひにんだけでなく、日本人の中で消えていないものが「人種差別」です。

よく外国人旅行者に「日本の国はとてもよかったけれども、日本人はレイシストだ」といわれます。レイシストとは基本的に差別主義者のことを指します。

人種差別撤廃条約1条の1などで、国際的に合意されている「レイシズム」の定義に従えば、人種・民族的出身にもとづく差別を行う者をさします。

さらに日本に住む外国人の3人に1人が差別的な使いを受けたと回答しているといわれています。

日本人の傾向として、自身より何かが劣っている、もしくは自身とは何かが違うから、という者に対しての比較が原因かと推測されています。

これを踏まえたうえで考えると、江戸時代に身分制度が設けられた際の日本人の観点が今だ抜け切れていないということが分かるかと思います。

これからを生きる私たちが大切にすべきこと

今までえたひにんについてご紹介してきましたが、日本の歴史を振り返ってみると、差別はつきものなのだと思う私たち日本人はどのような考えで生きていけばよいのでしょうか?

「人間は生まれながらにして皆平等である」という言葉はありますが、その言葉を常に心に刻み込んでおかないと、私たち日本人が「差別はなくてはならないもの」という考えがもし将来起こった時にまたえたひにんと呼ばれる人に対する差別のようなものや、それ以上の歴史的事件がおきてしまうのではないでしょうか。

金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」の言葉に、「みんなちがってみんないい」という言葉がありますが、人はみな自身と全く同じ人間はいるはずもなく、誰かと同じことをしようとしても全く同じとこは出来ません。

ですが、それこそが人間ひとりひとりの個性であり、生き方であるのです。
これからを生きていく人間である私たちは、常に「自分」というものをもち、それを心がけて生きていくことが、私たちの使命なのではないでしょうか?

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