吉展ちゃん誘拐殺人事件の真相!犯人は?【戦後最大の誘拐】
吉展ちゃん誘拐殺人事件の真相はどんなものだったのでしょうか?犯人小原保は死刑になりました。戦後最大の誘拐殺人事件、吉展ちゃん殺人事件の真相を紐解いていきます。犯人、小原保はどのようにして幼い吉展ちゃんを誘拐、そして殺人を起こしたのでしょうか。真相に迫ります。
目次
吉展ちゃん誘拐殺人事件とは?
戦後最大の誘拐事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件は刑事、平塚八兵衛が事件の真相解明に力を注ぎ、犯人は小原保と断定されました。
犯人の小原保は死刑となり、映画やドラマにもなりました。そんな戦後最大の誘拐事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件の詳細、犯人小原保の生い立ちから死刑までに迫っていきたいと思います。
吉展ちゃん誘拐殺人事件の経緯
吉展ちゃん誘拐殺人事件はどのような経緯で犯人である小原保逮捕へたどり着いたのでしょうか。これから吉展ちゃん誘拐殺人事件の真相の概要を説明していきます。
1963年3月姿を消した吉展ちゃん
1963年3月31日、東京都の台東区入谷町に住む建設業者の長男である当時4歳の村越吉展ちゃんが自宅近くにある台東区立入谷南町公園に遊びにでかけ、そのまま行方不明となりました。
当初、家族は迷子になったと思い警察に通報しました。家族の言葉のとうり新聞にも誘拐事件ではなく、行方不明と報じられました。ところが聞き込みをしているうちに、吉展ちゃんが公園で、30代の男性と会話していたという情報が出てきました。
吉展ちゃんは、入谷南公園にあるトイレの水のみ場で水鉄砲に水を入れようとしていました。その水鉄砲は60センチほどの大きさで、アメリカ製の大きなものでした。水を入れる部分が壊れていて吉展ちゃんは一生懸命水を入れようとして悪戦苦闘していました。
そこで犯人の小原保は、「おじさんが直してあげようか」と声をかけていたのでした。そうした情報から警視庁捜査一課は行方不明事件ではなく誘拐事件の可能性もあるとして捜査本部を構えました。
身代金50万を要求する電話
4月2日、犯人の小原保から最初の身代金要求の電話が家族のもとに入りました。身代金は50万円でした。次の日、4月3日「子供は返す、現金を用意しておけ」という電話が犯人から再び家族のもとに入ります。
その次の日、4月4日、三度び身代金を要求する連絡の電話が家族のもとに入り、母親が吉展ちゃんの安否を確認することるため、電話での会話を4分以上引き延ばすことに成功しました。
この出4分以上の電話で、犯人の声を録音することに成功しました。その後、4月7日まで吉展ちゃんの家族のもとに犯人から合計9回にも及ぶ身代金要求の電話がありました。
指定場所に向かう母親
4月6日、最初の身代金の受け渡し場所を指示する電話が家族のもとに入りました。「上野駅近くの住友銀行の横の電話ボックスに現金を持ってこい、絶対に警察には連絡するな」という内容でした。母親がすぐにその電話ボックスに行きましたがが犯人は現れませんでした。
「お金は持って帰る、また連絡ください」というメモを残し母親は自宅に帰りました。犯人、小原保は、その後もそこには現れませんでした。さらに家族のもとにまた電話が入り、上野の電話ボックスは近くに警察がいて危なくて近寄れなかった、今度は証拠として吉展ちゃんの靴をおくからそこに現金を持ってこい、場所はまた連絡する。
という内容の電話でした。次の日の4月7日、犯人から「今すぐ母親一人で現金を持ってこい」という身代金受け渡しの場所を指示する電話が家族のもとに入りました。すぐに母親がそこに向かうと吉展ちゃんの靴が置いてありました。母親はその靴と引き換えに身代金をその場に置きました。
犯人を取り逃した警察
ここで警察は大きなミスを犯します。合図の手違いから母親が運転する車が予定の時間より少し早く出発しました。他の刑事たちは母親より2分遅れて現場に到着してしまいました。
母親は犯人、小原保の指示どうり現場に50万の身代金を置き、代わりに置かれていた吉展ちゃんの靴を持ち帰りました。こうして警察が見張りを始める僅か2分の隙をついて犯人に身代金50万円を奪われてしまったのです。
マスコミを通じて呼びかけ
4月13日に警察はマスコミを通じて「吉展ちゃんを家族のもとに返してあげてくれ」と犯人に呼びかけました。しかし、犯人は呼びかけに応じることなく、警察は公開捜査に切り替えます。
録音した脅迫の電話の音声を異例の「犯人の声」手配としてテレビやラジオを通じて全国各地に公開し、情報の提供を呼びかけました。その結果、正午までに220件を超す情報の提供がありました。
1965年小原保を逮捕
警察は1965年に小原保を犯人として逮捕しました。逮捕の決め手となったのは脅迫電話の録音テープのその声でした。東北大学の文字部講師の言語学者の鬼春人が、犯人は、北関東、南東北出身の40歳から50歳の男であるという説を新聞に発表し、そのことが犯人の出身地の絞り込みにつながりました。
白骨化した吉展ちゃんを発見
警察の徹底した取り調べから、小原保は自白をして誘拐事件の被害者である吉展ちゃんは白骨死体となって発見された。
吉展ちゃん誘拐殺人事件の捜査はなぜ長引いた?
吉展ちゃん誘拐殺人事件は犯人である小原保を逮捕するまでに2年3か月もの時間を要しました、なぜ、そのような長い時間を要したのでしょう。ここからは小原保を逮捕するまでに時間を要した理由をご説明します。
人質の殺害を防ぐための報道協定
警察は、吉展ちゃん誘拐殺人事件が起こる約3年前に発生した、雅樹ちゃん誘拐殺人事件の悲劇を再び繰り返さないように、また、人質が殺害されることを恐れたために、報道機関に対して報道を自粛するように求めた、報道協定を結んでいました。
その報道協定のために様々な情報を得ることができませんでした。
認められていなかった逆探知
吉展ちゃん誘拐殺人事件では最初の電話があった時から、延べ9回にわたり犯人から電話が来ています。その間に警察は犯人の声の録音には成功していますが、逆探知はできませんでした。電電公社が通信の守秘義務を優先させたからです。
また、犯人が吉展ちゃんの声を一度も聞かせないことに、当局や家族は慎重にならざるおえなかったのです。行方不明報道が出されて以来、被害者の家にはいたずら電話がかかってくるようになったからなのです。
しかし、8回目の通話において、吉展ちゃんが履いていた靴の特徴を電話の相手が言い当てたため、この男が誘拐犯であることが確信されたのです。
誤った犯人像
小原保は何度も捜査線上に名前が上がったものの足が悪く、歩き方に特徴があったため、そのような男性が子どもを連れていたという目撃情報もなく、身代金を素早く奪って逃走する男と、足の悪い青年はどうしても特徴が違いました。
しかも、3月27日から4月2日までの間、小原保は福島の実家にいたというアリバイがあったため、小原保は「シロ」と思われていました。
紙幣のナンバーを控えず
まんまと身代金を持ち去られたうえに、警察は何一つ手掛かりを得ることができませんでした。ここで、用意した身代金の現金ナンバーを控えておけば、犯人が金を使った時に、足が付くようにできたのですが、警察はそれを怠っていました。
小原保逮捕の決め手
事件の解明、犯人逮捕が長引いた吉展ちゃん誘拐殺人事件ですが、犯人逮捕の決め手となったのは何だったのでしょうか。
電話の声と小原の声
犯人逮捕の決め手となったのは、脅迫電話の録音テープの音声でした。東北大学文学部講師を務めていた言語学者が「犯人は、北関東、南東北出身の40歳から50歳の男性である」という話を新聞に発表して、それが犯人の出身地の絞り込みにつながりました。
また、文化放送の記者がよくいく喫茶店で「声によく似た人を知っている」という話を聞きつけたことも犯人、小原保逮捕のきっかけになっています。声の主である小原保の録音を伴ったインタビューをして、さらに電話した際の声も録音し、脅迫電話の音声と比較鑑定した結果でした。
刑事の地道な捜査
しかし、小原保には3月27日から4月2日まで福島の実家にいたというアリバイがありました。そのため小原保は「シロ」と思われていたのですが、刑事の地道な捜査により、小原保のアリバイに不明確な点があること、小原保が30万ほどの一万円札を持っているのを見た人物が現れたこと。
身代金が奪われてすぐの一週間で収入がほとんどないはずの小原保が、42万もの金額を支出していたことなどから再び捜査線上に浮かびあがりました。1965年、捜査が開始されてから2年の歳月を要したことになります。
また、小原保は片足が不自由なため身代金の受け渡し現場から素早く逃げることができないと思われていましたが、実際は身のこなしが早いことが判明します。
最後の決め手の日暮里大火
取り調べの最中に小原保は西日暮里の大火を電車の中から見た、と話します、取り調べの刑事はその話を聞き逃しませんでした。この西日暮里の大火はゴム工場が燃えた火事のことで、事件が起きた4月2日に起こっています。
これは吉展ちゃんの家に最初の電話がかかっていた日のことです。この日に火事を見たのなら小原保が福島にいたというアリバイにはずれが生じるのです。長い取り調べの結果、ついに小原保が吉展ちゃん誘拐殺人犯であることを自白させました。
吉展ちゃん誘拐殺人事件犯人・小原保とは?
戦後最大の誘拐事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人である、小原保という人間はどのような人間であったのでしょうか。その生い立ちから見ていきましょう。
1933年福島県に生まれる
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人、小原保は1933年福島県の石川郡石川町で生まれています。小原保の生い立ちは貧しい農家の出身で、11人兄弟の大家族の中で育ちました。小原保は10番目の子供で、貧しい家族の家庭で育った小原保の犯罪の温床は、この生い立ちが原因だったと考えられます。
骨髄炎となり小学校を2年休学
小原保は小学校時代にあかぎれが原因で骨膜炎になってしまいます、。骨膜炎が原因で片足が不自由になってしまいました。その病気がもとで同級生に歩き方を真似されたりしていじめにあっていたといいます。このような生い立ちだった小原保は、足が悪いため、肉体労働ができる体ではなく、当然農家としてはやっていくことはできませんでした。
多くの地方出身者と同じように、都会である東京に出て働くことが宿命とされていました。小原保が最初に東京に出て住み始めたのは、地方からの労働者が集まる荒川区の三谷から近い南千住でした。
14歳で時計店の住み込み職人となる
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人、小原保は、中学を卒業後、仙台の職業訓練学校で時計の修理を学びました。その技術を生かして各地の時計店で働きます。小原保が時計職人を選んだのは、足が悪くても、座ったままでできる仕事だったからです。
デパートに就職するも2年で退社
小原保は、東京でデパートの時計売り場に就職するも2年で退社しました。その後時計店を転々として、まともに長続きすることはありませんでした。
東京で職を転々とし借金を抱える
その後は定職に就かず、時計や貴金属のブローカーでお金を稼いでいましたが飲み屋の女将さんと同棲して、ヒモ同然のような生活をして借金を作り、すさんだ生活をしていました。吉展ちゃん誘拐殺人事件が起こった3月ごろは、時計のブローカー業の借金返済が集中していた時期で、借金苦に陥り事件を起こしたと見られています。
犯人・小原保に下された判決
吉展ちゃん誘拐殺人事件で逮捕された、小原保には裁判で死刑の判決が下りました。当然のことでしょう。
判決は死刑
1965年7月4日、警視庁の捜査一課は小原保を吉展ちゃん誘拐殺人事件で恐喝容疑、営利誘拐で逮捕しました。小原保の弁護士は計画性がなかった犯行として控訴します。控訴審として計3回の裁判を行いましたが、東京高等裁判所はこれを棄却します。
最高裁判所は上告を棄却して、小原保の死刑が確定しました。
1971年死刑執行
それから4年後の1971年12月23日、宮城刑務所で小原保の死刑が執行されました。享年38歳のことでした。死刑確定後、小原保はかなりの数の短歌を獄中で読んでいます。何か心によりどころを持たせてやらなければと、教誨師が考えて小原保にすすめたのが短歌だったのです。
吉展ちゃん誘拐殺人事件のその後
吉展ちゃんの誘拐殺人事件は、法律にも大きな影響を与えました。刑法に営利誘拐に身代金目的略取という条項が追加され、今までの通常の誘拐よりも刑罰が重くなるように改められました。
捜査一課に特殊犯捜査係を設置
吉展ちゃん誘拐事件で数々のミスを犯した警察は、同じような事件を防ぐために、捜査一課に特殊犯罪捜査係を設けました。
戦後最大の誘拐事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件は、法律を変え、警察内部をも変えてしまう大きな事件となったのです。
ドラマ化・映画化され忘れられない事件に
この吉展ちゃん誘拐殺人事件で死刑となった小原保のことは、数々の映画やドラマになりました。本田靖春は、この吉展ちゃん誘拐殺人事件を題材として、ノンフィクション、誘拐を執筆して、1970年に、戦後最大の誘拐殺人事件としてテレビドラマ化されました。
小原保の逮捕、犯行供述、吉展ちゃんの遺体発見を受けてNHKは1965年7月5日に、ついに帰らなかった吉展ちゃん、というテレビう番組は59パーセントもの視聴率を記録しています。そのほかにも東宝映画や土曜ワイド劇場など、数々のテレビドラマや映画の題材となりました。
戦後最大の誘拐事件・吉展ちゃん誘拐殺人事件を忘れてはいけない
戦後最大の誘拐事件、吉展ちゃん誘拐殺人事件が世間に与えた影響は計り知れないほど大きなものでした。これからはこのような事件が二度と繰り返さないことを祈るばかりです。