おせんころがし殺人事件の真相やその後!犯人の栗田源蔵の生い立ちも紹介

8人の罪のない人たちを殺害した、残忍な殺人事件「おせんころがし殺人事件」をご存知でしょうか。犯人の栗田源蔵は死刑宣告され、死刑が執行されましたが、今でもその事件は残酷な事件として知られています。この記事では、「おせんころがし殺人事件」の概要をご紹介します。

おせんころがし殺人事件の真相やその後!犯人の栗田源蔵の生い立ちも紹介のイメージ

目次

  1. 1おせんころがし殺人事件とは?
  2. 2事件犯人・栗田源蔵の生い立ち
  3. 3栗田源蔵が犯した8つの殺人事件
  4. 4栗田源蔵逮捕の経緯
  5. 5おせんころがし殺人事件の裁判と判決
  6. 6凶悪犯の代表格にもなった
  7. 7おせんころがし殺人事件のその後
  8. 8殺害現場「おせんころがし」の現在
  9. 9凶悪な連続殺人事件

おせんころがし殺人事件とは?

「おせんころがし殺人事件」とは、1952年10月11日、現在は鴨川市と呼ばれている千葉県安房郡小湊町にある、通称「おせんころがし」と呼ばれている断崖絶壁で起きた殺人事件のことです。

犯人の栗田源蔵は、このおせんころがしでの殺人事件の他にも、複数の殺人事件を引き起こし、合計8人もの命を奪いました。「おせんころがし殺人事件」は、それらの連続殺人事件も含めた事件の総称となっています。

事件犯人・栗田源蔵の生い立ち

「おせんころがし殺人事件」の被害者の多くが女性や子どもで、それも単なる殺害ではなく、強姦目的の殺害がほとんどでした。

多くの人を殺害した凶悪な事件の犯人・栗田源蔵ですが、どのような生い立ちをしているのでしょうか。それぞれ経緯を追って、ご説明していきましょう。

12人兄弟の三男として生まれる

栗田源蔵は、1926年11月3日に、秋田県のとある川漁師の12人兄弟の三男として生まれました。しかし、家庭は極貧状態で、一家の大黒柱となる父親は病弱で働けなかったために生活もままならず、母親一人の手で家計が支えられている状況でした。

このように、当時の時代は貧乏でありながらも子どもがたくさんいる家庭、「貧乏人の子沢山」が多く存在していたといわれています。

病弱な父親と極貧生活

極貧生活である上、多くの兄弟を持つために、母親は朝から晩まで一日中、毎日働くために家や家族の世話をする時間はありませんでした。病弱だった父親も、ほとんど寝たきり状態で子どもの世話をする余裕もなく、療養に専念していました。

そんな極貧生活を小さい頃から送った栗田源蔵は、親からまともな愛情をもらえず、放置されながらもなんとか食事を与えられて、すくすくと成長していきました。

夜尿症が原因のいじめと小学校中退

貧乏生活ながらも、栗田源蔵はなんとか小学校に就学することができました。しかし、通常ならばこの年頃になれば治っているはずの夜尿症がずっと続いており、小学校ではこのことが原因で、栗田源蔵は頻繁に、周囲の児童からいじめの対象とされてきました。

元々、内気な性格だった栗田源蔵は、いじめの被害に対して抵抗もできず、小学生三年生になると、小学校を中退して、働く場所を見つけるために、農家に下男として奉公しました。

ですが、農家に奉公する時期になっても夜尿症は続いており、再びこの夜尿症が原因となって、農家の人たちは栗田源蔵を敬遠し、彼を追い出すこともしばしばありました。

また、夜尿症以外にも、栗田源蔵本人に盗み癖があったことから、仕事も長続きせず、その後も一年間に10回以上もの奉公先を転々として、働き口を変えていきました。

徴兵と夜尿症が原因の除隊

栗田源蔵が19歳になると、徴兵制度により、1945年に栗田源蔵は徴兵され、弘前の歩兵第31連隊へと入隊しました。しかし、ここでも彼を苦しめる夜尿症が原因となり、入隊後のわずか二ヵ月で除隊されてしまいました。

長年、栗田源蔵を苦しめ続ける夜尿症は、彼が「おせんころがし殺人事件」の犯人として死刑宣告され、死刑が執行される死の間際まで、夜尿症は治らなかったといいます。

荒くれ者の「はやぶさの源」

終戦後、栗田源蔵は北海道に流され、北海道の美唄炭鉱で炭鉱夫となって働いていました。過酷な労働環境の中、それまで貧弱だった栗田源蔵は屈強な体になっていき、元々内気だった性格も、同業者の荒くれ者の影響を受けて、横暴な性格へと変化しました。

また、荒々しさはどんどん増していき、栗田源蔵は不良グループのリーダ格になるまで昇りつめ、「はやぶさの源」と呼ばれるまでに、みずからも荒くれ者の男として、気性の荒い人間になっていきました。

ヤミ商売のブローカーに

炭鉱夫を辞めると、栗田源蔵は米を破格の値段で売る、ヤミ商売のブローカーとして生計を立て始めました。当時、戦後の影響で国内は大変な食糧難となっており、米の入手が困難とされていました。

そのため、たとえ高い値段をつけられていたとしても、米はどんどん売れていき、ヤミ商売のブローカーとしての生活も成り立っていたのです。

そして、ここでの仕事で知り合った女性たちとの三角関係のもつれから、のちの「おせんころがし殺人事件」と呼ばれる、連続殺人事件の発端となったのでした。

栗田源蔵が犯した8つの殺人事件

「おせんころがし殺人事件」の特徴的な点は、その事件の残虐性と、多くの女性と子どもが殺害されたことです。犯人の栗田源蔵は4つの殺人事件を引き起こし、短い期間で8人の人間を殺害しました。

どのような場所で、悲惨な殺人事件が起こったのでしょうか。一つ一つ、事件の概要を説明していきます。

静岡県での交際女性2人の殺害

「おせんころがし殺人事件」の発端は、静岡県で起きたとある殺人事件からでした。1948年に、ヤミ商売のブローカーとして生計を立てていた栗田源蔵は、そのとき知り合った二人の女性との三角関係のもつれから、交際女性を二人、静岡県で殺害しました。

殺害動機は、「三角関係が面倒くさいから」という、なんとも単純でいて、犯人の栗田源蔵の非情な性格を思わせるような、血も涙もないものでした。

栃木県で主婦を強姦し殺害

二つ目の事件は、1951年8月8日に栃木県で起きました。家で子どもを寝かしつけていた主婦を、犯人の栗田源蔵が強姦、絞殺したのちに、死姦をしました。

初めの事件とは異なり、この事件では栗田源蔵は初めから強姦目的で女性に近付き、卑劣な犯行を成し遂げました。

行方不明の夫を探す母子4名の殺害

連続殺人事件の通称、「おせんころがし殺人事件」とも呼ばれるのは、この三つ目の事件を指しています。殺人事件の現場は、千葉県にある、通称「おせんころがし」と呼ばれる断崖でした。二つ目の事件と同じ年の10月10日に、この殺人事件が引き起こされました。

当日、勝浦駅で仕事先から帰らない夫を、多くの駅を転々として探していた母子四人に、犯人の栗田源蔵は声をかけました。このとき、母親はしつこく付き纏う栗田源蔵を遠ざけようとしていたそうですが、栗田源蔵は執念深く母親に声をかけて、後を追っていました。

しかし、押し問答の末に現場である「おせんころがし」で、栗田源蔵は逆上し、母親が連れていた長男と長女を断崖絶壁の「おせんころがし」に投げ落としました。

次に、怯える主婦を強姦したあと、主婦の背中に背負っていた次女ごと、同じく断崖絶壁の「おせんころがし」に投げ落としました。

このとき、投げ落とされた母子は崖の下まで落ち切らず、途中で引っかかっていましたが、死を確認するために栗田源蔵は母子の元まで行き、非情にも近くにあった石で彼女らの息の根を止めました。

幸いながらも、初めに長男とともに投げ落とされた長女だけは軽傷で済んでおり、とっさに崖の近くにあった草のかげに身を隠していました。

母親、次女、長男の三人は栗田源蔵の手により殺害されましたが、長女だけが唯一、奇跡的に生き延びることができました。「おせんころがし殺人事件」の中でも、唯一の生存者となっています。

千葉県で主婦と姪を殺害

「おせんころがし」での殺人事件のあとの翌年、1952年1月13日にも、犯人の栗田源蔵は再び殺人事件を起こしました。現在の千葉市花見川区である、千葉県千葉郡検見川町で、主婦とその姪を殺害し、主婦は殺害後に死姦されました。

「おせんころがし殺人事件」の最後の殺人事件となりますが、初めの事件である1948年から、1952年の短い間に、栗田源蔵は多くの命を残虐な行為で奪っていきました。

栗田源蔵逮捕の経緯

「おせんころがし殺人事件」の連続殺人事件が終わりを迎えたのは、1952年1月13日に千葉県で起きた最後の事件がきっかけでした。

事件現場で犯人の栗田源蔵の指紋が検出され、窃盗などの前科があった栗田源蔵は、三日後に「おせんころがし殺人事件」の犯人として割り出されて逮捕されました。

1948年から1952年までの4年の間に起きた凶悪な殺人事件は、ようやく終止符を打ち、世間の主婦たちにも安堵の心が生まれたのでした。

おせんころがし殺人事件の裁判と判決

この「おせんころがし殺人事件」の残虐性は、他に類を見ないものでした。犯人の残虐な行為や、短い期間で連続して殺人事件を起こしたことなど、事件の異常性が際立っていました。

「おせんころがし殺人事件」は、連続した殺人事件を起こしているため、それぞれの事件に応じて、裁判側からそれぞれの判決が下されました。

判決は死刑

犯人の栗田源蔵に対する判決は、死刑となりました。しかし、死刑といっても、当時は裁判の中でも前例のない、二つの死刑判決が下されています。

1952年1月13日の千葉県で起きた殺人事件に対して、同年8月13日に千葉地裁は栗田源蔵に死刑の判決を下しました。また、翌年の12月21日には、別の事件に対して宇都宮地裁でも、千葉地裁と同じく、栗田源蔵に死刑の判決を下しました。

今まで、一審のうちで二つの死刑判決を受けたのは初めてのことであり、この「おせんころがし殺人事件」がどれほどの残虐性が秘められていたかを、知らしめるような異例の死刑判決でした。

凶悪犯の代表格にもなった

1956年当時、日本の死刑制度に異を唱える声が国会に多くあり、死刑制度を存続させるか廃止させるか、激しい議論が日々行われていました。

その際に、存続派が、この「おせんころがし殺人事件」の犯人・栗田源蔵に対する、裁判での二つの死刑判決が下された事実を挙げて、「世の中には淘汰する以外にない大量殺人犯がいる」と、死刑廃止派に主張しました。

犯人の栗田源蔵は「凶悪無比な特殊な極悪人」と呼ばれるほど、日本国内では凶悪犯の代表格ともなっていました。

おせんころがし殺人事件のその後

「おせんころがし殺人事件」は解決し、裁判でも二つの死刑判決が下される異例の事態がありましたが、その後の栗田源蔵の言動にも、反省の色は見られませんでした。獄中で死刑が執行されるまで、栗田源蔵は何をしていたのでしょうか。

手記「懺悔録」

死刑判決後、栗田源蔵は獄中で「懺悔録」という、これまでの事件の経緯をみずからつづった手記を書きました。手記の中では、合計11件の殺人を告白する文字がありますが、おせんころがし殺人事件だけは無実であると主張していました。

また、この手記に首を絞めて強姦したり、死姦する理由は、9歳の頃に近所の老人に「女と寝るときは叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」と言われたため、それを鵜呑みにして、女性を喜ばせようと思っての行為だったと語っています。

そして、12月に栗田源蔵は、この手記を書物として売ろうと、新聞社や放送局に手紙を出し、弁護士などにも依頼をしました。しかし、弁護士はその依頼を却下し、栗田源蔵はあっさりと諦めたのでした。

必死の命乞い

栗田源蔵は、死刑の執行を受け入れられず、何度も再審請求の手続きを行いました。死刑判決が決まった日には、「冤罪だ!」と激怒して激しく抗議をしたかと思えば、死刑確定後には精神科医に対して「生きたいんです、助けてください」と命乞いするなど、その精神状態の波は激しいものでした。

1959年栗田源蔵の死刑執行

1959年10月14日に、栗田源蔵は死刑が執行されました。死刑執行当時の栗田源蔵は、32歳を迎えていました。

死刑が執行される前の栗田源蔵は、獄中で看守に暴言や暴行を繰り返した凶悪な死刑囚でしたが、死刑設備のある宮城刑務所に移送されてからは、みるみるうちに横暴な性格が一変し、衰えていって気弱な性格になっていました。

生き残りの長女のその後は?

「おせんころがし殺人事件」の「おせんころがし」で起きた殺人事件で、唯一の生還者となった長女は、あの後どうなったのでしょうか。

詳しい事情は明かされていませんが、栗田源蔵が逮捕されたのちに現場検証に立ち会った際、当時の衝撃的な光景やみずからに降りかかった暴力を思い出し、涙を流して震えていたと言われています。

奇跡的な生還とはいえ、目の前で家族を殺された事実があるため、長女の心に残った心理的なショックは、長い年月を経ても長女を苦しめるものとなっていることでしょう。

殺害現場「おせんころがし」の現在

「おせんころがし殺人事件」という名が広がると同時に、事件の通称ともなった「おせんころがし」に多くの注目が集まりました。殺害現場ともなった「おせんころがし」ですが、現在ではどのような状況になっているのでしょうか。

景色の良い観光スポット

断崖絶壁でもある「おせんころがし」は、元々は景観の良い観光スポットの一つとして有名な場所でもありました。断崖から見える海などが絶景であるため、現在でも、ツーリングやドライブで訪れる観光客が多くいるようです。

心霊スポットとしても有名に

観光スポットとしての名が広がると同時に、「おせんころがし殺人事件」以来は心霊スポットとしても有名になりました。亡くなった母子の幽霊が出るなどと噂され、度胸試しとして夜遅くに足を踏み入れる人もいると言われています。

また、この殺人事件以外にも、この「おせんころがし」の名称の由来となった話も、多少の影響を与えています。この崖の近くに住んでいたおせんという一人娘が、村人を苦しめる非道な父親を改心させようと、身投げしたという伝承が残っています。

「おせんころがし」は、景色として綺麗な風景を持ちながらも、このように不穏な伝承も残っていることから、心霊スポットとしての不気味な雰囲気もあるようです。

凶悪な連続殺人事件

凶悪で残忍な「おせんころがし殺人事件」は、裁判に異例な死刑判決をさせると同時に、栗田源蔵がどれだけ凶悪的な人間であったかを物語る殺人事件となりました。

子供の頃は、気弱で貧弱だった栗田源蔵でしたが、育った環境や働く環境によって、思いもしない性格へと変化しました。置かれた環境によって、人は善良な人間にも、残虐な人間にも、どちらにも成り得る可能性があります。

多くの犠牲者を出し、多くの人々に恐怖の種を植え付けた殺人事件ですが、誰もがこのような事件が再び起きないことを、願っていることでしょう。

事件の記事はこちら

Thumb「白暁燕誘拐殺害事件」の真実とは?犯人・関連人物・被害者の詳細!
白暁燕誘拐殺害事件をご存知ですか?台湾で人気女優のパイピンピンの娘白暁燕が高天民らによって誘...
Thumb長岡京殺人事件(ワラビ採り事件)の真相!犯人・関連人物・被害者の詳細!
世界中にある未解決事件は数え切れない程です。長岡京殺人事件もその一つです。未解決のまま時効を...
Thumb石井舞ちゃん行方不明事件の真相!犯人や関連人物・失踪したその後
1991年、福島県田村郡船引町で起こった女子小学生行方不明事件、「石井舞ちゃん失踪事件」につ...

関連するまとめ

関連するキーワード

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ