造田博の生い立ちや判決!池袋通り魔殺人事件の犯人を詳しく解説!

20年前に発生し、世間を震撼させた池袋通り魔事件。犯人は造田博という犯行当時23歳の若者でした。いったい何が、造田博を凶悪な犯行に駆り立てたのでしょうか。身勝手な理由で何の罪もない人々を殺傷した造田博の人生は、いったいどのようなものだったのでしょうか?

造田博の生い立ちや判決!池袋通り魔殺人事件の犯人を詳しく解説!のイメージ

目次

  1. 1造田博とはどんな人物だったのか?
  2. 2池袋通り魔殺人事件とは?
  3. 3造田博とは?
  4. 4造田博の画像を紹介
  5. 5造田博の生い立ちは?
  6. 6なぜ造田博は事件を起こしたのか?
  7. 7池袋通り魔殺人事件を知るための著書
  8. 8造田博の死刑は執行された?
  9. 9無差別殺人の狂気

造田博とはどんな人物だったのか?

白昼の繁華街で、凶器を振りかざし、道行く人々に次々と襲いかかった造田博。今からちょうど20年前に起こった池袋通り魔殺人事件の犯人です。

平成の時代には、8件の無差別殺人事件が発生していますが、池袋通り魔殺人事件は、犯行動機の不可解さ、犯行の狂暴性、その後に起こった通り魔事件への影響などから、最悪の部類に入ると言われています。

日本中を不安と恐怖の渦に巻き込んだ池袋通り魔殺人事件。犯人の造田博とはどのような人物だったのでしょうか。

池袋通り魔殺人事件とは?

20年たった今でも人々の記憶から消えることがない凶悪事件、池袋通り魔殺人事件。数週間後に起こった「下関通り魔殺人事件」にも影響を与えました。

関係のない幾人もの人々を殺傷した池袋通り魔殺人事件とは、どのような事件だったのか、改めて振り返ってみましょう。

池袋で通り魔事件が発生

1999年、平成11年9月8日、昼前の池袋で事件は起こりました。地下鉄で池袋に着いた造田博は、11時35分ごろ、エスカレーターを登って東急ハンズ正面入り口前にあらわれます。

造田博は、持っていたディパックから凶器を取り出すと、右手に包丁、左手に金槌を構え、「ウオー!むかついた!ぶっ殺す!」と叫びながら若い男女の二人連れに襲いかかりました。

造田博が二人を追ってエスカレーター方面に向かったところへ、運悪く老夫婦がエスカレーターを登ってきて犯人と遭遇してしまいます。造田博は妻を包丁で刺し、夫を金槌で殴りつけ、さらに包丁で刺しました。

買い物客や観光客で賑わう繁華街は騒然となり、人々は八方に逃げまどいました。その中から若い男性に狙いをつけた造田博は、先端の折れた包丁を握りしめて後を追い、池袋駅方面に走っていきました。

東急ハンズ前には事件が起きていることを知らずにパスポートセンターに向かう途中の若い夫婦がおり、正面からやってくる造田博と鉢合わせしてしまいます。

造田博は、妻に刃先の折れた包丁を突き立て、その後、大声をあげて包丁を振り回しながら駅方向へと向かいました。
 

2人の死者と6人の負傷者を出した

駅方向へ向かった造田博は、前を歩いていた、2学期の始業式を終えて帰宅途中の私立高校生の4人のうち3人に切りつけ、さらに数人の通行人を襲いました。

この事件で、最初にエスカレーター付近で襲われた老夫婦の妻と、東急ハンズ前で襲われた若い夫婦の妻が搬送先の病院で命を落とし、6人が重軽傷を負いました。

犯人として造田博を現行犯逮捕

凶器を振り回し、何人もの罪もない人々を襲った造田博は、池袋駅東口ロータリーで、追いかけてきた6〜7人の通行人に取り押さえられ、駆けつけた池袋署員に現行犯逮捕されました。

最高裁で死刑が確定

「池袋通り魔殺人事件」の裁判では、事件当時の犯人の責任能力の有無が争点になりました。

公判前の簡易鑑定では、「人格障害ではあるものの、責任能力があると」認められていたため検察は死刑を求刑、一方弁護側は、「精神分裂症による妄想状態で、心神喪失または心神耗弱だった」として精神鑑定を求めました。

精神鑑定の結果、造田博の責任能力が認められ公判が再開すると、東京地裁は、造田博被告に求刑通り死刑の判決を下しました。弁護側は「統合失調症による無罪」を主張しましたが、裁判所は鑑定結果を支持。造田博被告に死刑の判決を下しました。

判決を不服とした弁護側は、即日控訴しましたが、東京高裁はこれを棄却、一審を支持し死刑の判決を下しました。

弁護側は「統合失調症を患っていたため責任能力はない」と無罪を主張し、上告しましたが、高等裁判所はこれを棄却。「無差別に通行人を襲った犯罪は凶悪で社会に与えた影響も大きい」として、一審、二審を支持し、ここに造田博の死刑のが確定しました。

造田博とは?

池袋通り魔殺人事件の犯人として、日本の犯罪史に名を残すことになった造田博。何が、彼をこれほど凶悪な犯行に駆り立てたのでしょうか。造田博とはどのような人物だったのでしょうか。

造田博のプロフィール

本名 造田博(ぞうたひろし)
生年月日 1975年11月29日
現在の年齢(2019年現在) 43歳
出身地 岡山県倉敷市
血液型  


腕のいい大工の父とミシンの内職をする母との間に次男として生まれた造田博。経済的には比較的恵まれた家庭でしたが、造田博が高校生のとき、家庭が崩壊し、造田博の転落が始まりました。

造田博の画像を紹介

出典: https://www.dailyshincho.jp/article/2019/03291220/?all=1

何ということもないポートレートですが、造田博の写真から、底知れぬ不穏な雰囲気を感じるのは、池袋通り魔殺人事件の犯人という先入観のせいでしょうか。

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造田博の生い立ちは?

理解し難い凶悪事件の犯人となった造田博。その人間性を知る上で、生い立ちや家庭環境は重要な鍵となります。

造田博の人生を振り返ってみましょう。

高校時代に両親が失踪

幼少時代は、「カーレーサーになりたい」と言えば数十万円の本格的なカートを買って貰えるほど、恵まれた環境にあった造田博。成績も良く、高校は県内でも進学校として知られる県立高校に進学しました。

しかし、造田博が中学生のころ多額の遺産を相続した父は、徐々に働かなくなり、母が保険の外交員となって働きに出るようになりました。

造田博が高校に進学したころより、両親はギャンブルに熱中するようになり、多額の借金を重ね、借金の督促を逃れるため不在がちになりました。

借金取りが絶え間なく取り立てに訪れる家で、夜陰に紛れて顔を出す両親に、わずかばかりの食費を貰って食いつなぐ生活を続けていた造田博ですが、造田博が高校2年生のとき、ついに両親は家財道具を持って姿をくらましました。

高校を中退

造田博は、大学進学を強く希望していたため、弁当屋で働きながら高校に通っていましたが、両親が多額の借金の残して失踪したため、1993年の3月、高校2年生で退学を余儀なくされました。

高校の教師からは、大検を受験して大学を目指すように励まされ、本人もそれを希望していましたが、借金の督促から逃げるために家を捨てなくてはならなかった造田博にとっては遠い夢でした。

職を転々とする日々を送る

高校を中退し、住む場所も失った造田博は、4歳年上で当時大学生だった兄を頼って広島県福山市に移り住みます。パチンコ店員、造船所塗装工などの仕事につきますが、いずれも長続きしませんでした。

1996年には、兄に保証人になってもらい、住み込みで京都の染色工場に勤め始めますが、1か月後には「お世話になりました」との書置きを残して姿を消してしまいました。

その後も務めては辞める生活を繰り返した造田博は、結局全部で14もの職場を渡り歩き、池袋通り魔殺人事件を起こしたときには、新聞配達員でした。

過去にも多くのトラブルを起こしていた

白昼の繁華街で突然の凶行に及んだ造田博ですが、異常な行動の前兆がなかったわけではありません。

高校時代、小中学校で同級だった女生徒が自分に好意を持っていると思い込み、長文の手紙を送ったり、家に押しかけたりして女性の父親に追い返されています。

後には、この女性と結婚するためにお金が必要だと周りに話したりもしています。

造田博は、京都の染色工場を1か月で辞めると、職を求め上京しますが、住む場所も無く、所持金も無くなり、公園で野宿をし、無賃乗車や万引きを繰り返していました。

1996年12月にスーパーで食料品や衣類を万引きして捕まったときは、別のコンビニで万引きしたナイフを所持していたため、銃刀法違反に問われ、罰金10万円の略式命令が出されました。罰金は兄が立て替えました。

その後は愛知県岡崎市で職につきますが、やはり長続きせず、1997年7月、再び上京し世田谷区で新聞配達員として働き始めますが、このころより造田博は、本名や住所を明記したうえで、自らをプレジデント(大統領)と名乗り、支離滅裂な文章を外務省や国会、裁判所、警視庁などに送り始めます。

この新聞販売所も結局2か月で辞めてしまいました。造田博は1998年の6月、有り金をはたいてアメリカに渡りますが、所持金はわずか200ドルしかなく、持ち金を使い果たした造田博は、パスポートを破り捨て、錯乱状態で大使館に保護されました。

精神状態、健康状態ともに極端に悪化していた造田博は、教会の支援を受けて気力体力を回復させ、3か月後ビザが切れたため渋々帰国しました。

なぜ造田博は事件を起こしたのか?

裁判やその後の報道で公にされた造田博の主張は不可解で、犯行動機は今もって解明されたとは言えません。気鋭のルポライターが、造田博の心の闇に迫ろうと取材した往復書簡も書籍として残っていますが、明確な結論は示されていません。

犯行に及ぶ直前、住んでいたアパートのドアに、「わしもボケナスのアホ全部殺すけえの」などと書いたレポート用紙を張り付けた造田博。自分以外の「普通の人たち」を「汚い人たち」「努力しない人たち」と蔑み、怨み、妬み、苛立ちを募らせていった造田博。

なぜ造田博は、池袋通り魔殺人事件を起こしたのでしょうか。

承認欲求の高まり

進学校に通うくらい成績が良かった造田博。大学進学を希望していたにもかかわらず、身勝手な両親の出奔で将来の夢を絶たれた造田博は、高校中退を余儀なくされ、意に沿わない仕事もせねばならず、不満が鬱積していたに違いありません。

世間の人々を「努力をしない人」と蔑み、自分の身の不遇を世間のせいにして世を恨んでいたことでしょう。

自分はこんなものではない、もっと認められるべきという気持ちは俗にいう「承認欲求」です。誰にでもあるものですが、造田博の場合はその欲求が強すぎ、「努力をしない人」に対する不満と相まって犯行への引き金となったと思われます。

人生への悲壮感

自分の悲惨な人生に絶望し、破れかぶれになって犯行に及ぶというのは、わかりやすい犯行動機ではあります。誰かを巻き添えにしてやろうという歪んだ思想です。

池袋通り魔殺人事件の犯人、造田博は、「ボケナスのアホを全員ぶっ殺す」と凶行に及びましたが、自死するそぶりはありません。身勝手な主張を繰り返して世を恨んではいても、世を儚んではいません。

逮捕された後も、大検を受けて大学に行きたいと言ってみたり、「造田博教」を創ったと言ってみたり、生への執着は失っていません。造田博の場合、犯行の動機は「人生への悲壮感」というよりむしろ「人生への不平不満の解消」が大きいと言えます。

職場仲間からのいじめ

造田博が池袋通り魔殺人事件を起こした直接の引き金になったと思われるのが、犯行を思い立ってアパートの部屋を出る前夜にかかってきた無言電話です。

造田博は、夜10時04分に携帯電話にかかってきた無言電話を同僚からの嫌がらせだと思い込み、激しく憤ります。

造田博は、かねてよりこの同僚のことを「努力しない人」と思って嫌っており、この電話は「努力しない人からの嫌がらせ」だと思い、「自分の価値を認めない社会に復讐しよう」と決意したと言います。

池袋通り魔殺人事件を知るための著書

世間を騒がす重大事件が起こると、それに関する著書が発刊されることが多いです。うわっ滑りで興味本位な話題性のみを求めたものありますが、中には、犯罪の本質に迫る作品もあります。

ルポライター青沼陽一郎氏の『池袋通り魔との往復書簡』は、事件の全貌解明には至らないものの、不可解な造田博の心の闇に迫った力作として、高い評価を受けています。

造田博の死刑は執行された?

池袋通り魔殺人事件の犯人造田博は、最高裁で上告が棄却され、求刑通り死刑が確定しました。造田博の死刑は執行されたのでしょうか。

現在も東京拘置所に収監中

池袋通り魔殺人事件の発生は1999年9月8日のことでした。即日逮捕された造田博は、そのまま拘束され、12月22日に初公判が開かれました。弁護側の精神鑑定請求により裁判は中断しましたが、刑事責任能力を認める結果が出たことで、2001年1月24日に再開されました。

2002年1月18日、東京地裁は死刑判決を下し、弁護側は即日控訴。2003年9月29日に東京高裁は一審を支持して控訴を棄却。翌30日に弁護側が上告しました。

2007年4月19日、最高裁は上告を退け、造田博被告の死刑が確定しました。判決が確定するまで、事件発生、犯人逮捕から実に7年7か月もの月日を要しました。そして死刑囚となった造田博は、今なお死刑執行の日を待って東京拘置所で暮らしています。

死刑執行に時間がかかる理由

事件発生から今年でちょうど20年。造田博の死刑が確定してから12年の月日が流れ、元号も平成から令和に変わりました。犯行当時23歳だった造田博は、43歳になっています。

刑事訴訟法の475条第2項には、法務大臣は、死刑確定から6ヵ月以内に執行命令を出さなければならないと記されていますが、これはあくまで努力目標であり、法的拘束力はありません。事実1960年以降、死刑判決から6か月以内に刑が執行された例はありません。

亡くなった方々の時間は止まったままなのに、理不尽なものを感じます。ではなぜ日本では、死刑執行までにこれほど時間がかかるのでしょうか。

一つには、恩赦や再審の請求中は死刑の執行が停止されるという「慣例」があることがあげられます。恩赦や再審請求中に死刑を執行しても法的には問題はありませんが、1980年代には、死刑確定後に判決が覆る事件が4件もあり、冤罪を避けるためにもこの慣例は続くと思われます。

死刑執行に時間がかかる最大の理由は、法務省が、死刑執行が可能であるか判断する審査に時間をかけるからです。事件は、判決までは司法省に委ねられますが、死刑の執行は法務省に権限があるので、法務省による裁判資料の精査は必要不可欠です。

死刑判決が出るような重大事件の裁判資料は膨大な量に及ぶので、慎重に審査しようとすれば、時間がかかるのは致し方ありません。また、死刑囚が収監中に妊娠したり、精神に異常をきたしたりした場合も、刑の執行は停止されます。

両親からの謝罪はない

犯罪史に名を残す凶悪事件の犯人となった造田博。犯した罪は重く、決して許されるものではありませんが、同情すべき点もあります。

ギャンブルに狂い、多額の謝金を残した挙句、未成年の造田博を置き去りにして姿をくらました両親は、被害者への謝罪はおろか、今もって名乗り出てすらいません。彼らの所在は出奔して以来わかっておらず、生死すら不明です。

もしどこかで生きているとしたら、極悪人に身を落とした造田博を、どのような思い出見ているのでしょうか。

無差別殺人の狂気

池袋通り魔殺人事件で、犯人の刃に倒れた女性の夫は、事件後記者のインタビューに、「なぜあのときあの場所にいてしまったのか」と、やり場のない後悔を語っています。どこでいつ誰が遭遇してもおかしくないのが、通り魔事件の恐ろしさです。

池袋通り魔殺人事件以降も、一般人を標的にした、理不尽で身勝手な無差別殺人事件は後を絶ちません。

犯人を死刑にすればいいという問題ではありません。犯行に至るまでの経緯を慎重に調査し、これ以上このような人物を生み出さない社会を構築する努力が必要です。

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