宅間守の生い立ちや死刑執行までのまとめ【附属池田小事件】

宅間守という男を覚えていますか。かつてスクールシューティングを行い、多くの罪のない子供を大量に殺害した事件の犯人です。世にいう「附属池田小事件」は今でも多くの人の心に残っているでしょう。宅間守が起こした事件の概要や、名言、裁判、死刑執行までをまとめました。

宅間守の生い立ちや死刑執行までのまとめ【附属池田小事件】のイメージ

目次

  1. 1附属池田小事件の宅間守容疑者
  2. 2宅間守の経歴
  3. 3附属池田小事件の概要
  4. 4口笛を吹きながら入廷する宅間守容疑者
  5. 5宅間守の家族は?
  6. 6宅間守が獄中結婚した嫁
  7. 7宅間守の名言・発言集
  8. 8死刑判決を下された宅間守容疑者
  9. 9二度とこのような悲劇を起こさないために

附属池田小事件の宅間守容疑者

2001年6月、大阪府池田市の大阪教育大学付属池田小学校で起きた児童と教師が殺傷された事件、すなわち附属池田小事件の犯人が宅間守です。現場で附属池田小事件の容疑者として現行犯逮捕された映像を覚えている人もいるでしょう。

宅間守とは、一体何者で、どういった生い立ちで性格をした人間だったのでしょうか。ここでは宅間守のことについて、簡単に説明していきます。

非社会的な性格

宅間守は、生まれつき非社会性の強い性格でした。それについては、父親も母親も認めています。ただ本人には全く自覚がなかったと考えられます。自覚がないので、非社会的な行為を行っても反省も悔い改めることもほぼ子供の頃からなかったようです。

その性格のため、幼少期から父親や母親を非常に困らせる状況にありました。国道を三輪車で走って車の往来をじゃまするなどの幼少期を経て、学童期に入っても友人をとことんまでいじめ倒したり、嘘ばかりついて周囲を困惑させました。

大人になってからも、宅間守は犯罪を犯すのですが、そのたびに精神病院に通院し統合失調症の診断をもらおうと必死でした。しかし、宅間守を診察した医師の多くは人格障害を疑っていました。

強烈な被害妄想と劣等感

宅間守は非常に強烈な被害妄想と劣等感を抱えていました。被害妄想や劣等感は小学校の頃から出現しており、周囲の人間が自分の悪口を言っていると思い込んだり、自分の意見を否定されれば激しく怒るなど、性格面の問題は子供の頃からあったことがわかっています。

劣等感は勉強などの面で非常にあり、授業時間はおとなしい生徒であったと教師は記憶しています。にもかかわらず、事件の現場になった附属池田小を受験したかのような嘘の発言を周囲にしていました。

宅間守は大人になっても自分の仕事を医者などと発言することがあり、自分の置かれている現状に劣等感を抱いていたことが垣間見えます。

潔癖症

宅間守には、異常に潔癖症な部分がありました。例えば外出先のトイレで用が足せない、用が足せても水を流せば自分に散ってくるかもしれないので水が流せないなどです。

その潔癖な部分は、全て便に関するものでした。トイレに関することには全て便が付いている気がし、それが我慢できずに苦労していたようです。

他の部分で潔癖症や強迫行為がないにもかかわらず、便が付いていると考えることが宅間守の頭から離れなかったようです。布団や枕だけは、家でも常に綺麗にしていないと無理で、その理由も「便が付いていたら嫌だから」との理由でした。

性への過剰な欲望

宅間守の性への欲望が尋常でなかったことも注目すべき点です。女性が好きなわけではありません。ただ性交をすることが目的です。

宅間守は、基本的に女性に対して優しい感情や愛おしい感情を持てなかったようで、しばしば暴力や脅迫によって性交を行っていました。結果、強姦や強姦未遂で数回警察に逮捕されています。

宅間守が初めて強姦をしたのが高校2年生のときで、その後も数回強姦未遂や強姦をしています。強姦については、小学生高学年から中学生になってはクロロホルムで眠らせて交換する妄想や白昼夢に励んでいて、それをついに現実にしてしまいました。

宅間守の経歴

普通に生い立ちであれば、附属池田小事件のような恐ろしい犯行をできる人間には育ちません。一体宅間守という人間は、どういった経歴や生い立ちを持ってでき上がったのでしょうか。ここでは宅間守の生い立ちなどについて、詳しくみていきましょう。

宅間守について

宅間守は、昭和38年11月23日に兵庫県伊丹市にて出生しました。生まれてから実家はずっと同じ伊丹市で生活を営んでいました。幼稚園の頃に父親と母親が共働きだったため、父親の祖父母の家で生活をしていた時期もあります。ちなみに幼稚園に1年だけ行ったことがわかっています。

生い立ちとしては、宅間守は父親や母親とあまり密着をせずに育てられた印象です。公立小学校、公立中学校を卒業し、県立尼崎工業高校に入学します。高校2年時に高校を退学し、定時制高校に同年に再度入学します。しかし、この学校も登校しなくなり、退学になっています。

その後宅間守自衛隊に入隊しますが、こちらも事件を起こし約2年に除隊になりました。その後は父親にお金を用立ててもらい引越業を開業しようとしたり、不動産管理会社に入社したり、タクシーやトラックの運転手と仕事を転々とします。

しかし、宅間守は強姦によって逮捕され実刑を受け奈良少年刑務所に収監されました。そこで約2年間服役しています。

この後、附属池田小事件までの間に暴力事件や強姦など事件を大量に起こしますが、宅間守が服役したのはこの1回だけになります。他は精神疾患による措置入院などでずっと罪を逃れることになります。

宅間守の生い立ち

宅間守の生い立ちは、いたずらと暴力、弱い者いじめに彩られていました。

小学校に上がって、体の大きかった宅間守は自分より弱い者をいじめて使い走りにしたり、暴力をふるいました。誰かに暴力をふるうことはしばしばあったようで、小学生の頃の通知表には各学年で「いじめをやめましょう」と書かれていることがほとんどでした。

そんな生い立ちのため、宅間守は子供の頃から人への共感性が乏しく、人と上手くやっていけなかったことが周囲の証言からわかっています。その結果、生い立ちを何年みていっても、ずっと浮いた存在になっていたようです。

宅間守に子供はいる?

3度目の結婚の際、宅間守の3人目の嫁が妊娠をしましたが、DVなどで夫婦関係が破綻しており離婚の話し合いがなされていた当時だったため、嫁は中絶を選択しています。宅間守は子供を望んでいたためこのことは許せなかったと発言しています。

しかし、この嫁を監視するほど嫁に執着していたにもかかわらず、子供の父親は浮気相手ではないかと思い込んだり、DNA鑑定を要求したりと、非常に猜疑心を丸出しにしていたことが本人と3人目の嫁の証言からわかっています。

4人目の嫁との結婚当時もこの嫁が妊娠していました。この妊娠出産には宅間守自身が反対していました。4人目の嫁は離婚後に出産しました。性別は明確ではありませんが、成人するかしないか位の宅間守の子供がいることは確かです。

宅間守の犯罪歴

宅間守には非常に多くの犯罪歴があります。自衛隊を退職するに至った家出少女を淫行や不動産管理が会社在籍時の入居者への強姦、交通トラブルによる暴行などは数えるのが大変なほどです。交通トラブルや同僚との揉め事による暴行などは、宅間守が伊丹市職員になってからも変わりませんでした。

極めつけが、平成11年に伊丹市内の小学校で用務員をしていたときに起こした異物混入事件です。しかし異物混入事件の際は、幻聴や幻覚などの嘘を精神科病院で訴えて統合失調症と診断され、結果不起訴になりました。

強姦は逮捕されていないものでも多数あり、ほとんどで飲み物の中に薬を持って意識混濁した女性をホテルに連れ込みました。

また、身内に対しても犯罪的傾向は顕著に表れ、身内を巻き込んで揉め事を起こすのが得意でした。母親をそそのかして、遺産放棄をさせた相続について裁判を起こさせたり、強姦で逮捕され逃げるために病院屋上から飛び降り大怪我を負ったことを母親のせいにして父親と母親を脅迫したりしました。

最終的に母親は、宅間守に精神疾患のような状態に追い込まれます。他には犯罪にはなっていませんが、中学生時代には猫を虐待し、何匹もの猫を殺していたことを自分自身で語っています。

結婚に関しても、お見合いパーティーに出て経歴詐称をするのがいつものことで、日本航空のパイロットのバッジを持っていたり、お見合いパーティーごとに名刺を作り替えたりと、詐欺のような方法で女性をだますことも平気でした。

附属池田小事件の概要

ここでは社会に衝撃を与えた附属池田小事件の概要をみていきましょう。

附属池田小事件は、多くの子供が、宅間守という一人の歪んだ大人のせいで犠牲になった痛ましい事件です。附属池田小事件の発生から17年経った今でも、その衝撃が和らぐことはありません。

附属池田小事件に関して詳しく知りたい方はこちら

Thumb附属池田小事件で逃げた教師のその後と事件の詳細・真相に迫る!
附属池田小事件の概要と詳細についてまとめた記事です。加害者である宅間守について、被害児童や遺...

大阪の小学校で起きた児童襲撃事件

大阪府北部の池田市にある大阪教育大学附属池田小学校は、国立大学の附属校として非常に人気が高い小学校です。当然通っている子供たちも優秀な子供が多くいます。そんな小学校で附属池田小事件は起きたのです。

平成13年6月8日に附属池田小事件は起きました。宅間守は前月の5月末頃自殺を考えていましたが、結局自殺はできず、自分の陰鬱とした気持ちを晴らすため他人を殺すことを決意したと発言しています。

しかし、それは非常に曖昧な計画で、自分が気に入っている女性を殺そうと考えたり、車で通行人を数人轢き殺そうかと考えたりの状態でした。

附属池田小を狙った理由も元々は、当時大阪府池田市に住んでいた宅間守が附属池田小しか学校を知らなかったためです。附属池田小事件前日には附属池田小を襲う決意をし、エリート校で頭の良い子供を一人でも多く殺すことを考えてたとの発言が残っています。

池田小学校に凶器を持って侵入した宅間守

朝自宅を車で出た宅間守は、金物屋に寄って包丁を買います。人を刺すには刺身包丁だと考え購入しようとしますが、金物屋の人に頑丈な包丁を求め出刃包丁を購入します。購入後カーナビに附属池田小を入力し、そのまま向かいました。

池田小に到着した宅間守は車を駐車し、ビニール袋に包丁2本を入れて校内に侵入します。途中教師とすれ違いますが、教師は生徒の父親と勘違いをし会釈して通り過ぎます。

これは、宅間守がカッターシャツにスラックスというきちんとした格好をしていたためと、当時の公立学校は地域に開かれた学校であったため校内に入ってくる人をあまり気にしない時代であったことが理由でしょう。

こうして、宅間守は侵入を続け、外廊下から教室が見渡せる場所まで行き、1階にいる低学年の児童を見つけました。

児童8名が殺害され児童13名と教諭2名が傷害

宅間守はもともと低学年の子供を狙って事件を起こしました。低学年の子供であれば複数の子供を刺すことが容易だと考えたと発言しています。

1階に低学年の子供を見つけ、まず教室に生徒だけしかいない方を選び、包丁で次々と刺していきました。その教室の子供を全員刺すと、隣の教室に移動して再び子供を襲いました。

次の教室に移動しようとしていた時に、宅間守は一人の男性教師と揉み合いになってこの教師を刺しました。次の子供がいる教室を探して、見つけるとまた刺しましたがその後複数の教師に取り押さえられます。

取り押さえられても抵抗することはありませんでした。これについて宅間守は、子供を大勢刺すことができ、ある程度の達成感があったことと非常に疲れていたからと発言しています。

附属池田小事件では、8人の子供の命が奪われ、13人の子供と2人の教師が怪我を負いました。

口笛を吹きながら入廷する宅間守容疑者

逮捕起訴された宅間守は、当然裁判にかけられます。その裁判でも宅間守は驚くべき行動を繰り返します。宅間守の裁判ではどのようなことが繰り広げられたのでしょうか。

宅間守の言動・精神鑑定の結果は?

宅間守は裁判において、一度も遺族に謝罪していません。また、裁判中に反省の弁を述べたこともありません。

ときには裁判で遺族を侮辱し、威嚇し、自分の思うことと言いたいことだけを発言しつくしました。それにより、子供を亡くした遺族の感情はより傷つけられたことは間違いありません。

裁判の判決の時には、宅間守は口笛を吹きながら入廷し、裁判所内に大きな驚愕を与えました。判決前に遺族への不規則な発言を繰り返し、悪い意味で名言とも言われる数々の言葉を吐き出し、宅間守は自分自身の判決を直接自分の裁判所内で聴くことなく退廷を命じられました。

裁判中に行われた精神鑑定の結果、宅間守は多動性障害と非社会性行為障害が認められました。それだけではなく、他人の気持ちを理解する能力に非常に問題を抱えていました。この共感能力の低さは、現在では診断が不可能な心理的な発達障害と言われています。

また、人格においては情勢欠如が認められ、虚言癖に空想癖もある上に、攻撃性・衝動性・自己中心性が著しく見られました。加えて、脳の前頭葉に悪性度の低い腫瘍もみられています。

精神鑑定においては、統合失調症などの精神疾患でではなく、特異な心理的発達障害を持ち、情性欠如者であり、非社会性人格者であり、責任能力には一切の問題がないと診断されました。そしてこれが裁判に提出されました。

犯行の動機は何だったのか?

反抗の動機は、宅間守自身が社会的にも精神的にも金銭的にも追い込まれ、これ以上生きていくのが難しいと考えたからです。

全て自業自得な話にもかかわらず、宅間守は自分がこれほど追い込まれていることを自分の父親や母や3人目の嫁、または社会の責任にしていました。社会全体への恨みが犯行に走らせたと宅間守自身が発言しています。

また、もう一つの動機は自殺の回避です。裁判中の宅間守の発言によると、自分が死ぬのであれば「何かどんと大きなことをして」世間を驚かして、結果死刑執行をしてもらおうと考えていました。

宅間守の家族は?

宅間守には、父親と母親と兄がおり4人家族でした。彼の生い立ちの悲劇は、ある意味崩壊家庭で育ったこととも言え、それが附属小池田小事件にも関係したのではないかと考えられました。ここでは、宅間守の生い立ちに非常に重要な家族について紹介します。

暴力的な父親

宅間守の父親は、九州出身の男性です。小学校卒業後旋盤工として家計を支えるために働きました。妻と結婚後はタクシー運転手として働き、昭和62年に定年退職後は年金生活を送っていました。

父親の性格は、頑固で怒りを爆発させるところがありました。また、気分屋で屁理屈が多い人間でもありました。

宅間守本人は、父親を短気で自己中心的だと評しています。子供の頃から癇癪を起して怒鳴られたり、殴られることもしばしばあったようで、大嫌いだとも言っています。宅間守本人にとっては、あまり良い生い立ちとしては残っていません。

家事が苦手な母親

宅間守の母親は、あまり子供を可愛がらない性質の母親でした。母親は育児全般が苦手であったらしく、宅間守と兄の生い立ちは、母親からネグレクト傾向の強い状態のなかで育てられています。

また、家事も苦手で、主婦として家庭を切り盛りすることはできない人でした。しかし、長い間仕事を持って働いていました。

宅間守は母親のことを、大人になり切れていない人間で感覚で生きている人と評しています。

自殺した兄

宅間守には7歳年上の兄がいました。宅間守曰くは、兄とは年齢が離れていたためあまり関わりがないと言っていましたが、実際は宅間守が未成年の頃から警察沙汰の問題を起こしたときなど身元引受人として兄が対応していました。

また、兄が外車を購入した際は、わざわざその車を破壊するようなこともしています。

兄も仕事を転々としており、離婚の経験もあります。宅間守が附属池田小事件を起こす約2年前、平成11年に自殺しました。自殺の原因としては、事業の失敗や経済的困窮などが考えられると父親は語っています。

亡くなった祖母

子供の頃一緒に暮らしていた父親方の祖母は、母親に代わり非常に宅間守を可愛がっていました。宅間守もなついていて、いわゆる「おばあちゃん子」な子供でした。そんな唯一可愛がってくれた祖母も、認知症などで数年入院した後亡くなりました。

宅間守は警察の取り調べの際に、今までの人生で悲しかったこととして祖母の死をあげています。しかし、それも「一時の感傷だった」と言ってもいます。

宅間守が獄中結婚した嫁

宅間守は、逮捕後獄中結婚をしました。通常、死刑執行が考えられる人間が、その前に嫁をもらうなど理解ができないことです。加えて、宅間守は人生において複数回の結婚と養子縁組をしていました。このメンタルはどこから来るのでしょうか。

5人目の嫁

宅間守が獄中で結婚した5人目の嫁は、宅間守の支援者だった女性です。5人目の嫁は「死刑廃止論者」であり、文通を通じて獄中の宅間守と知り合いました。その後この5人目の嫁と結婚をしました。

宅間守はこの嫁に非常に感謝していたようで、死刑執行前に刑吏官に「妻に僕が感謝していると伝えてください」と言い残し、死刑執行をされました。

過去の嫁

宅間守は、1人目の嫁との結婚時に兵庫医大の医者だと嘘をついて結婚しました。これがあっさりとばれて、1人目の嫁とは3カ月で離婚しました。次に1カ月も経たないうちに、2人目の嫁と結婚しました。この嫁とは強姦罪の逮捕が理由で、4年後に離婚しています。

その翌年に、年配の女性に面倒をみてもらう形で養子縁組をしました。しかし、金銭のせびりや暴力暴言などのため、約1年2か月後に解消されています。

その2年後に3人目の嫁と結婚しました。この嫁には非常に執着し、離婚後も3人目の嫁は苦労します。結局1年3か月後に調停離婚しました。

そして、その4か月後に4人目の嫁と結婚しています。翌年に異物混入事件を起こし、4人目との嫁とも離婚となりました。

宅間守の名言・発言集

宅間守は、逮捕後も自分の言いたいことを発言しました。それは精神鑑定の時も裁判の時も変わりませんでした。遺族の気持ちも考えずにとんでもない発言を繰り返した宅間守の発言と気分が不快になるような名言をまとめました。

宅間守の裁判での発言・名言

宅間守が裁判所で行った発言、不快極まる名言は以下のとおりです。

名言1・警察に生け捕りにされて不愉快。
名言2・遺族の証人喚問は検察のパフォーマンス。
名言3・幼稚園ならもっと殺せた。

自分が殺した子供たちに向けての発言、胸糞が悪くなる名言は多くありすぎて全てを紹介できません。

精神鑑定時の発言・名言

精神鑑定中にも宅間守は、担当の精神科医にさまざまな発言をしています。ここでの発言も名言も、誰もが怒り狂うような内容です。まず、宅間守は附属池田小事件のことをぶすぶす事件と言いました。これは法廷でも発言しています。その他の明言は次の通りです。

名言1・8人殺した方が1人2人殺しての死刑よりはまし。
名言2・人何十万の命より自分の命が一番重たい。
名言3・生まれてきてしんどいだけの繰り返し。

これ以外でも、宅間守は死刑執行までの間非常に多くの発言、名言を残した死刑囚と言えます。

死刑判決を下された宅間守容疑者

退廷を命じられた裁判において、死刑判決が出されました。これによって宅間守は死刑囚となりました。判決から死刑執行までは、どのような過程を経たのでしょうか。

宅間守自身による控訴取り下げ

死刑判決が裁判所で出た時点で、弁護団は即日控訴をしました。しかし日をおかずして、宅間守本人が控訴を取り下げ、死刑判決が確定しました。そのため宅間守は、あとは死刑執行を待つだけになったのです。

しかし今度は、宅間守はすぐに死刑執行をすることを要求し始めました。死刑は死んで償う刑罰であって、いつ死刑執行になるのかと脅えさせながら生き長らえさせる刑罰ではない、との理由からです。

その希望通りなのか、社会与えた影響が大きすぎた事件であるからか、日本の死刑執行では考えられないほどの早さで宅間守の死刑執行に至ります。

死刑執行

宅間守の死刑執行は、2004年9月4日に死刑執行が執り行われました。死刑執行前に、リンゴジュースとタバコをもらってゆっくり味わうように飲んだ後、宅間守は死刑執行の場所への消えて行きました。

遺族は宅間守の死刑執行にあたり当然何も知らされてなく、突然の死刑執行に戸惑った遺族も多かったようです。

二度とこのような悲劇を起こさないために

子供を殺された遺族には、謝罪もなくどうしようもない感情を抱えながら日々生きていらっしゃるでしょう。

私たちが何かこの先に悲劇を生まないためにできることは、子供の生い立ちが問題のある生い立ちにならないよう、子供にたくさんの愛情と熱情で育てて、社会で迷惑をかけない普通の子供を育てていくことです。

過ぎた事件ではなく、いつどこで誰か行うかわかりません。自分の周囲の子供が宅間守のような人間にならないよう、大人は努力をしながら、子供を大切に育ててあげてください。

関連するまとめ

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ