附属池田小事件で逃げた教師のその後と事件の詳細・真相に迫る!

附属池田小事件の概要と詳細についてまとめた記事です。加害者である宅間守について、被害児童や遺族について、裁判の経過について、逃げた教師のとった行動、逃げた教師のその後についての詳細をお伝えします。附属池田小事件について詳しく知りたい方はご覧ください。

附属池田小事件で逃げた教師のその後と事件の詳細・真相に迫る!のイメージ

目次

  1. 1附属池田小事件の概要と詳細
  2. 2附属池田小事件の犯人の概要
  3. 3附属池田小事件の被害者の概要
  4. 4附属池田小事件の裁判と判決の概要
  5. 5附属池田小事件で逃げた教師の名前とその後
  6. 6附属池田小事件の遺族
  7. 7附属池田小事件で生き残った子供達は?
  8. 8附属池田小事件による統合失調症患者への影響
  9. 9附属池田小事件から学ぶ教訓
  10. 10悲劇を繰り返さないために

附属池田小事件の概要と詳細

2001年6月8日、大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校にて8人の児童が死亡した小学生無差別殺傷事件、通称附属池田小事件の概要と詳細についてお伝えします。

附属池田小事件の犯人の名前、犯行の概要、犯人の生い立ち、逃げた教師の名前とその後、被害者や遺族、裁判の概要について、ご覧ください。

事件の概要

2時間目の授業が終わりに差しかかっていた10時20分頃、犯人である中年の男が出刃包丁を所持して附属池田小に侵入しました。

犯人が校庭を横切り校舎東端に位置する2年東組に侵入したところ、それに気付いた男性教師(36)が「外に逃げろ」と大声で児童たちに指示しました。悲鳴を上げて教室から逃げ出す児童のうち、転んだ児童が犯人により襲われ、4人が重軽傷を負いました。
 

犯人は男性教師により椅子を投げつけられ、その後、隣の2年西組に移りました。西組の女性教師(28)は児童に逃げるよう指示したのち、通報のため教室から飛び出しました。
 

西組では児童が次々に襲われ、8人の児童が死傷しました。(この先生が、その後「逃げた教師」として批判の対象となった先生です)


続けてその隣の2年南組に犯人は侵入しましたが、南組は既に休み時間に入っていたため教師がおらず、5人の児童が死亡しました。花壇に水をまいていた2年南組の男性教師(27)は助けを求める児童の声に気付き、教室に向かいました。

その間、犯人を捕らえようとした二人の男性教師のうち一人が刺され、重傷を負いました。
 

その後、犯人は西端の1年南組に侵入しました。その場で、切りつけられながらも2年南組の男性教師は犯人と格闘し、やがて副校長(43)が加勢し犯人を取り押さえました。約15分間の無言の凶行でした。

附属池田小事件が与えた大きな影響

安全だと思われていた学校内でのあまりに惨たらしい事件であったこともあり、附属池田小事件は大々的に報道され、多くの人々の記憶に焼きつくこととなりました。

附属池田小の防犯対策のずさんさや、教師の対応の問題、法律のあり方など、様々なことが問題視されました。この事件をきっかけとして、その後見直されることとなりました。

附属池田小事件の犯人の概要

附属池田小事件を引き起こした犯人である宅間守(37)のその名前はすぐさま世間に知れ渡りました。この名前を聞くだけで、附属池田小事件のことを思い出される方もいるのではないでしょうか?

このような凄惨な事件を引き起こした張本人は一体どのような人物なのか、注目の的となったのです。

宅間守とは?

附属池田小事件の当時、宅間守は統合失調症を装っていましたが、二度行われた精神鑑定の結果では「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」とされています。

 

また、犯行前に薬を服用したと供述していましたが、宅間守が所持していた薬はいずれも特異な副作用があるものではなく、しかも尿検査の結果では薬の成分は検出されませんでした。

宅間守は犯行の責任が疾患や薬の副作用にあると見せかけ、自らの罪を軽くしようとしていたことが伺えます。

宅間守のプロフィール

名前:宅間守
生年月日:1963年11月23日生まれ

職業:無職(事件当時)

身長:182cm

体重:75kg

前科:15犯(強姦、暴行、器物破損など多岐に渡る)

宅間守の生い立ち

宅間守は兵庫県伊丹市にて生まれ育ちました。幼少の頃から三輪車で国道の中心を走って渋滞を引き起こしたり、動物を虐待するなどの異常な行動が見られていました。

小中学校の学校生活は荒んでおり、いじめられることもあれば、自らもいじめや暴行を行っていたといいます。なお、附属池田中学の受験を宅間守は希望したものの、成績を理由に受験させてもらえなかったというエピソードがあるようです。

 

地元の中学を卒業後、工業高校に進学したものの、入学早々に教師を殴って退学させられています。その後、18歳のときに航空自衛隊に入隊しましたが、1年後に家出少女への強姦未遂で除隊処分となりました。

その後、十数社の転職を繰り返すも定着することはありませんでした。

宅間守は母親に連れられ精神科を受診、入院しましたが、院内にて建物から飛び降りて重傷を負っています。それにより、統合失調症(当時の病気の名前は精神分裂病)の診断を下されました。


その後、強姦事件や傷害事件、薬物混入事件など多数の罪を犯し、3年の服役を経験してはいますが、精神障害を理由に「責任能力なし」と判断され多くの刑事処分を免れてきました。

 

理由は定かではありませんが、母親は宅間守を身ごもったとき、「これはあかん」「おろしたい」と父親に訴えていたといいます。母乳をあげることすら嫌がっていたとのことです。母親は家事や育児が苦手であり、家事のほとんどを父親が代わりに行っていました。

中学受験時には「お前なんて産まれてこなければよかった」と母親から言われたと、宅間守はノートに記録していました。

一方の父親は日常的に家庭内暴力を振るっていました。宅間守の家庭は、罵詈雑言を浴びせられることや暴力を振るわれることが当たり前の環境であったようです。ときに取っ組み合いをしたり、父親が宅間守を石で殴打する出来事もあったといいます。

 

宅間守には実の兄が居たのですが、40代前半のとき、自殺しています。自身の事業の失敗を理由としていますが、弟の宅間守の影響があったのではないかと見られています。

附属池田小事件の被害者の概要

附属池田小事件の死亡者は8名であり、教師2名を含める15名が負傷しました。

被害者

亡くなった被害者のうち7名が2年生の児童、1名が1年生の児童でした。新聞記事には被害児童のあどけない笑顔と名前が掲載されました。

 

突然刃物を持った男に襲われる恐怖がいかほどのものであるか、伺い知ることはできません。亡くなった児童はもちろんのこと、助かった児童も死と隣り合わせの恐怖をその身に刻まれてしまったことでしょう。

トラウマ体験のフラッシュバックといったPTSDの症状による苦しみもまた、消し去ることのできない被害となりました。

 

それだけでなく、「なぜ自分は助かってしまったのか」「自分は生きていていいのだろうか」など、周りの人が死んだのになぜ自分は助かったのかという事件や事故などの生存者に特有の罪の意識、サバイバーズギルトもまた附属池田小事件の被害と言えるでしょう。

宅間守は尊い命を奪っただけでなく、多くの児童の人生に暗い影を落としました。

被害者の保護者

附属池田小の校内は事件当時、混乱状態に陥っていたことや、対策が整っていなかったこともあり、通報や救急車の要請が遅れてしまいました。そうなってしまうと当然ながら、被害児童の保護者への連絡も行き届かないという状況でした。

保護者の中には、事件の発生を知り、病院を探し回ってやっと我が子を見つけた時にはすでに亡くなっていたという方もいます。その心中を考えると言葉もありません。

附属池田小事件の裁判と判決の概要

犯行内容はもちろんのこと、公判中の宅間守の態度は度し難いものでした。

亡くなった子どもたちのことを、自分が自殺するのに役立ってくれたといった旨のことを発言しており、遺族でなくとも腸が煮えくり返るような怒りを覚えずにはいられないものだったでしょう。

反省の見られない態度

附属池田小事件の初公判では「命をもって償います」などと反省の意を述べていました。

ところが、2003年8月28日に大阪地方裁判所にて行われた公判中の態度や発言内容は、被害者や遺族の神経を逆なでするような極めて悪質なものでした。反省のかけらもない、極悪非道そのものでした。

 

通常であれば、死刑判決を言い渡す際には主文を最後に述べるところ、その慣例は破られ大阪地裁は主文を先に言い渡しました。

もっとも、宅間守は開廷時に騒いで退廷命令を受け、主文が言い渡された時には既に退廷させられていたため、死刑判決を直に耳にすることはありませんでした。

早期の処刑執行

附属池田小事件から3年後、2004年9月14日に宅間守の死刑が執行されました。宅間守は担当弁護士に対し、一刻も早い処刑を望むとの旨の手紙を出していました。結果的には希望通りの早期執行となりました。

附属池田小事件で逃げた教師の名前とその後

犯人への批判はもちろんのこと、この事件においては逃げた教師の行動や、附属池田小の防犯意識の低さに対しても批難が殺到しました。

事件当時、附属池田小2年西組の女性教師(当時26歳)は児童たちを置いて逃げたとの見方があります。

たとえ通報のためとはいえ、目の前で襲われる児童たちを置き去りに逃げたということが非難され、女性教師の名前はネット上でも簡単に調べられてしまうほどでした。

ここでは諸事情を考慮し、その名前は伏せておきます。

助けを呼びに行ったのか、逃げたのか

また、自分だけその場を離れたということだけでも十分批判の対象となりましたが、通報に事件発生から7分以上もかかったことも問題視されました。

学校から逃げた児童の中に、近くのスーパーで助けを求めた児童がおり、そちらの通報の方が事件発生から5分と早かったのです。

 

そういったこともあり、女性教師は通報をするために教室を飛び出したのではなく、逃げただけではないのか、との関係者からの追求がありました。様々な意見が飛び交いましたが、その真偽は定かではありません。

半年後に明かした胸中

逃げた教師は事件後、附属池田小を退職しています。さらに半年後、女性教師は記者に対してその胸中を明かしました。

その発言内容は「本当に申し訳なくて、悔やんでも悔やみ切れません」「教師なのに子供たちを守ってあげられなかった。子供たち、遺族、そして保護者のみなさんには本当に申し訳なく思っています。なんとおわびをしてよいのか、いまだに言葉がみつかりません」など、苦しい胸の内が語られました。

附属池田小事件の後、逃げた教師は何度も死のうと考えていたことが、その記事から伺えます。「逃げた教師」というレッテルは十字架として重くのしかかったことでしょう。
 

かといって、大切な我が子を失った遺族からすると、逃げた教師がちゃんと我が子を守ってくれていたら死なずに済んだのではないかと思わずにはいられないでしょう。

遺族や被害者家族の中には「信頼していた先生だったのに」と裏切られた気持ちになった方もいるでしょう。そのような遺族や被害者家族の気持ちを考えると、逃げた教師に同情してもいられません。

先生の在り方について


この逃げた教師を通じて、学校の先生は非常事態においてどんな行動を取るべきか、考えさせられることとなりました。

ネット上では、「学校の先生とて学校に従事する従業員であり、先生だからといって自分の命を張ってよその子の命を守れるわけではないだろう」といった意見もあったようです。

しかし、子どもを預かる学校においては、子どもを守ることのできる大人は先生しかいません。先生を信頼しているからこそ、学校に子どもを預けられるでしょう。

この事件をきっかけとして、非常時において、先生がリードして子どもの安全を守る重要性が示されたと言っていいでしょう。その後、先生が応急処置を学ぶ機会が増えるなど、学校による先生への研修が導入されたようです。

附属池田小事件の遺族

我が子を突然に、あまりにも理不尽な出来事で失った遺族の怒りや悲しみ、喪失感は計り知れません。附属池田小事件の遺族の中には手記や書籍を通して、その悲痛な思いを世に放たれた方もいらっしゃいます。

亡くなった山下玲奈さんの母、和子さんの手記

以下は、遺族である山下和子さんの手記に書かれてあった文言の概要です。

「あの笑顔をもう一度見たいよ。もう一度会いたいよ。毎日寂しくて寂しくてたまらないよ」「ただいまって笑顔で帰って来るのを待ってたのに学校でお友だちと何して遊んだか聞きたかったのに。もうお話できないんだね」

附属池田小事件は、家族のささやかな幸せ、希望、日常を奪い去ってしまいました。

被害者への追悼

附属池田小事件を受け、様々なところで追悼の意を込めたアクションがありました。

事件発生2日後に横浜にて行われたFIFAコンフェデレーションズカップ(日本対フランス戦)においては、両国の選手が附属池田小事件の被害者に黙祷を捧げる様が世界中で放映されました。

 

また、被害児童がファンだったアーティスト、宇多田ヒカルにより事件の被害者へ捧げた「FINAL DISTANCE」がリリースされました。

 

他にも、被害児童のうち松本零士のファンだった女児の名前がOVA作品「大YAMATO零号」のヒロインの名前となりました。

附属池田小事件で生き残った子供達は?

附属池田小事件で生き残った児童たちも既に大人になっています。2016年6月、亡くなった児童の同級生のうち5名がNHKの取材に応じました。

 

取材の中では、襲われた時の生々しい記憶や恐怖などが語られました。中には事件後1年ほど「誰かに襲われる」という恐怖が付きまとい、苦しい思いをしてきたことが明かされました。

被害当時6、7歳の幼い子供たちに事件がどれほどの影響を与えたのかと考えると胸が痛みます。

附属池田小事件による統合失調症患者への影響

宅間守は統合失調症と診断されていたことや、精神科に入院していたということがメディアで大々的に取り上げられました。

そのため、統合失調症の患者であるということだけ、もしくは精神科に入院しているというだけで、病気について知識のない人から偏見を持たれかねませんでした。

事件後に症状が悪化した患者も

当時、実際に統合失調症を抱えていた患者や精神科に入院していた患者からすると、堪え難い状況であったことでしょう。

事件後は統合失調症患者の症状が悪化したり、症状が再発した患者も居たようです。これも、診断名が悪用されたことによる被害と言えるかもしれません。

附属池田小事件から学ぶ教訓

附属池田小事件を経て、もはや「学校に子供を預けていれば安心」とは言い切れなくなりました。子供が当たり前に学校に行き、当たり前に帰って来る。その日常が、いとも簡単に崩されかねないという警鐘が鳴らされることとなったのです。

附属池田小事件をきっかけに防犯意識高まる

附属池田小事件を契機として、地域に開かれた学校から、閉ざされた学校への変換がもたらされました。警備員が配置され、部外者の校内への立ち入りは原則として禁止されるようになりました。また、防犯ブザーの利用が増えました。

結果として、安全対策は強まる傾向となったのです。

心神喪失に関する法律の整備についての概要

宅間守は多くの犯罪歴があるにも関わらず、附属池田小事件を起こすまでの間、精神病患者を装い刑罰を逃れてきました。当時の法律では、心神喪失と認められ無罪、もしくは不起訴処分となった犯罪者は措置入院制度が適用されてきました。

措置入院では、症状による他害の疑いがなくなれば、退院させることが義務付けられていました。宅間守は措置入院の経歴があったこともあり、事件をきっかけとして法整備に向けた議論が行われました。

 

結果として、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律(通称医療観察法)が2003年に制定、2005年に施行されることとなりました。

同法律により、心神喪失により無罪、不起訴処分となった犯罪者は、社会復帰調整官による医療観察や指導を継続的に行い、病状の改善と再犯の防止、さらには社会復帰を促進することとなりました。

悲劇を繰り返さないために

以上が概要となります。ここまで読まれたあなたはどのように感じたでしょうか?

附属池田小事件は世に多大な影響を与えました。二度とこのような悲劇を繰り返さないために、私たちに何ができるでしょうか?

 

子供を被害者にしないために、家庭の中で防犯の意識を高めておくことが役に立つかもしれません。襲われたときにどうしたらいいのか、どうやって身を守るのか。幼い子供ほど、そういった防犯教育が必要ではないでしょうか。

また、子供を加害者にしないために、家族関係を見直すことが役に立つかもしれません。宅間守は両親から愛情を感じる機会はほとんどなかったのではないかと推測されます。

両親から暴言と暴力というコミュニケーションを受け続けたことによって、宅間守は自身も暴言と暴力というコミュニケーションでしか他者と関われない大人になってしまったという可能性があるでしょう。

宅間守が両親から愛情を受け取っていたら、他者に愛情を向けられる大人として育っていたら、結果は違ったのかもしれません。子供を愛せない、傷つけてしまう、もしもそんな気持ちに駆られているのだとしたら、冷静に家族関係を見つめ直してみましょう。

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