乙羽信子の死因は?若い頃に宝塚で活躍した女優の夫や子供の現在!
乙羽信子さんを知っていますか?日本の女優で若い頃には宝塚で活躍した有名な女優です。今回は乙羽信子さんの若い頃の活躍、宝塚や映画での女優としての活躍、死因などについて紹介します。夫の新藤兼人さんや子供についても紹介していきます。
目次
乙羽信子とは?
乙羽信子さんは1924年10月1日生まれで1994年12月22日に74歳で亡くなっている日本の女優さんです。鳥取県西伯郡米子町出身(現在の米子市)で、昭和の時代に活躍した女優さんです。乙羽信子さんは若い頃には宝塚で活躍していました。
1937年に宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、宝塚歌劇団第27期生としてデビューしています。同期性には、越路吹雪さん、月丘夢路さん、東郷晴子さん、大路三千緒さん、浦島千歌子さん、瑠璃豊美さんなどがいました。
乙羽信子さんの芸名は養母が信仰する新興宗教の教師が命名したそうです。乙羽信子さんは、戦後に再開された公演でトップ娘役(主に雪組公演出演)を務めたそうです。淡島知千景さんと人気を二分し、戦後の宝塚歌劇団第一期黄金時代を支えた人物です。
乙羽信子のプロフィール
本名 | 新藤信子 |
生年月日 | 1924年10月1日 |
現在の年齢(2018年現在) | 70歳没 |
出身地 | 鳥取県西伯郡米子町(現米子市 |
血液型 | B型 |
活動内容 | 女優 |
所属グループ | なし |
所属事務所 | なし |
乙羽信子の経歴
乙羽信子さんの経歴について紹介していきます。宝塚歌劇団第一期黄金時代を支えた大女優の経歴について詳しく調べて紹介していきます。では、見て行きましょう。乙羽信子さんの経歴についてそれぞれ詳しく調べて紹介していきます。
1937年宝塚音楽歌劇学校に入学
乙羽信子さんは1937年に、宝塚音楽歌劇学校(現在の高津か音楽学校)に入学しました。乙羽信子さんは宝塚歌劇団27期生です。同期期生には上記で紹介した越路吹雪さんらを含むメンバーがいました。宝塚入団時の成績は93人中四十九位だったそうです。
1939年の公演「宝塚花物語」で同期生達と共に初に初舞台を踏んでいます。この時代は同期でも初舞台演目はそれぞれ異なるようです。戦後再開された公演ではトップ娘役を務め、戦後の宝塚歌劇団第一期黄金時代を支え、活躍しました。
1950年に大映に入社し純情型のスターとして活躍
1950年に、乙羽信子さんは娘役に限界を感じ始め、松竹入りした淡島千景さんに倣うように「雨月物語/キュウバ/人魚姫」を最後宝塚歌劇団を退団しています。その後、乙羽信子さんは、大映に入社しています。大映は宝塚時代から人気のあったえくぼにキャッチフレーズをつけました。
「百萬弗のゑくぼ」というキャッチフレーズが乙羽信子さんにつけられました。そして、純情型のスターとして売り出しました。デビュー作は同年の新藤兼人さん脚本、木村恵吾監督の「処女峰」で、上原謙さんと共演しています。
その後何作か出演した後に1951年の新藤兼人さんの第1回監督作品「愛妻物語」で、夫を陰で支える妻を演じ、映画界でもスターの地位を手に入れています。
1952年近代映画の同人になる
1952年には「近代映画協会」を設立していた新藤兼人さんの第1回自主制作映画「原爆の子」に大映の反対を押し切って出演しています。これを機に大映を退社しています。そして、近代映画協会の同人になっています。
以後、近代映画協会が製作する映画に立て続けに出演する中で、それまでの「宝塚歌劇団出身」「お嬢様女優」「百萬弗のゑくぼ」「清純派」のイメージから180度転換し、強烈なリアリティー溢れる演技を見せて活躍していきました。
乙羽信子の名前は日本の映画史に永久に残ることになります。この歴史に名前が残されるということは本人にとっても非常に喜ばしいことなのではないでしょうか。
1960年「裸の島でモスクワ国際映画祭グランプリを受賞
1960年に、乙羽信子さんは代表作ともなった「裸の島」に出演します。この映画はセリフが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦(乙羽信子さんと、殿山泰司さんが演じました)だけという実験的な映画でしたが、そのリアリティー溢れる画面は大好評となりました。
「裸の島」は第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界でも高い評価を得ています。また、1971年には、乙羽信子さんは、「肝っ玉かあさん」第3シリーズでは当時47歳で白無垢姿を披露しています。以降は、石井ふく子プロディース作品の常連となっています。
1979年ヴェネツィア国際映画祭イタリア映画ジャーナリスト選出最優秀女優賞を受賞
乙羽信子さんは、1978年に新藤件兼人さんと結婚します。結婚後、最初の作品となった「絞殺」で、1979年にヴェネツィア国際映画際イタリア映画ジャーナリスト選出最優秀女優賞を受賞しています。
1983年には、乙羽信子さんは、驚異的な視聴率を記録したNHKの連続テレビ小説「おしん」に出演しました。主人公のおしんの晩年期を演じ、主演もこなせる女優であることを改めて世間に知らしめました。国内外で新たなファンを獲得していきました。
また、1987年から1992年にかけては日本テレビの火曜サスペンス劇場で、水谷豊さん主演のミステリーとその続編である、朝比奈周平ミステリーで、水谷豊さんの母親役を演じています。
乙羽信子の若い頃の画像
乙羽信子さんの若い頃の画像を紹介していきます。乙羽信子さんの若い頃の画像を幾つ取り上げてそれぞれ紹介していきます。では、見て行きましょう。
若い頃の画像①
こちらの乙羽信子さんの若い頃の画像は、上記でも紹介した「原爆の子」の記事の画像になります。この頃はまだ清純なイメージがあるのではないでしょうか。そんな若い頃の画像です。
若い頃の画像②
こちらの若い頃の画像は、「原爆の子」の一幕ですが、このような若い頃から乙羽信子さんは活躍してきました。その後も多くの作品で活躍していくことになります。
若い頃の画像③
こちらの若い頃の乙羽信子さんの画像は上記で紹介した「愛妻物語」での画像になります。この作品で映画界でもスターの地位を獲得する活躍を見せています。
乙羽信子の主な出演作品
乙羽信子さんの主な作品について紹介していきます。乙羽信子さんは数多くの作品に出演していますが、その中から代表作といえるものを幾つか取り上げて詳しく調べて紹介していきます。では、見て行きましょう。
乙羽信子出演のドラマ
乙羽信子さんの出演したドラマを幾つか取り上げて紹介していきます。乙羽信子さんは数多くのドラマ作品に出演していますが、その中から幾つか取り上げて紹介していきます。では、見て行きましょう。
「肝っ玉かあさん」
乙羽信子さんは「肝っ玉かあさん」には、第3シリーズから出演しています。「肝っ玉かあさん」は1968年から放送されたテレビドラマです。この作品では、乙羽信子さんは従業員役で出演しています。この作品で白無垢姿を披露しています。
「肝っ玉かあさん」は大正五三子が切り盛りしている蕎麦屋で起きる様々騒動や問題を明るく前向きに解決していく姿を描いたものです。
「サザエさん」
「サザエさん」は説明する必要も無いほど日本で知られています。長谷川町子さん原作のテレビドラマです。この作品で、乙羽信子さんは磯野フネ役で出演しています。このテレビドラマは1981年から1985年に放送された単発ドラマです。
「おしん」
「おしん」は1983年4月4日から1984年3月31日まで放送されたNHK連続テレビ小説第31作です。戦中と戦後の混乱期を逞しく生きた女一代記の1つです。この作品で、乙羽信子さんは晩年期の主人公おしんを演じました。
小林綾子さん、田中裕子さんとも共演しています。
乙羽信子出演の映画
乙羽信子さんの出演した映画について紹介していきます。乙羽信子さんが活躍した映画の中から幾つか取り上げ、それぞれ詳しく紹介していきます。では、見て行きましょう。
「愛妻物語」
「愛妻物語」は夫の新藤兼人さんが監督の1951年公開の映画です。新藤兼人さんの監督デビュー作で、新藤兼人さん自らの下積み時代を描いた自伝的作品です。この作品で乙羽信子さんは、石川孝子役を演じています。
「原爆の子」
「原爆の子」は1952年に公開された映画です。この作品は1945年8月6日に広島に原爆が投下され、当時広島に住んでいた石川孝子さんが生き残り、戦後に故郷の広島を訪れる物語を描いたものです。この作品で乙羽信子さんは石川孝子さんの役を演じています。
「落葉樹」
「落葉樹」は1986年公開の映画です。監督の新藤兼人さんの実体験である子供の頃の生い立ちを映画化したものになります。この作品で乙羽信子さんは母親役で出演しています。
乙羽信子の夫は新藤兼人
乙羽信子さんの夫は映画監督の新藤兼人さんです。ここからは乙羽信子さんの夫である新藤兼人さんについて紹介していきます。乙羽信子さんは夫が監督する映画に数多く出演しています。夫の新藤兼人さんはどのような人物なのでしょうか。では、見て行きましょう。
新藤兼人とは?
本名 | 新藤兼登 |
生年月日 | 1912年4月22日 |
現在の年齢(2018年現在) | 100歳没 |
出身地 | 広島県 |
血液型 | A型 |
活動内容 | 映画監督、脚本家 |
所属グループ | なし |
所属事務所 | なし |
出会って27年目に結婚
乙羽信子さんと夫の新藤兼人さんは、出会ってから27年目で結婚しました。そのことについて詳しく紹介していきます。乙羽信子さんと夫の新藤兼人さんは1951年の「愛妻物語」をきっかけに出会ったようです。この作品は新藤兼人さんの監督第1回作品です。
その作品で夫の新藤兼人さんと出会い、その後の1952年「原爆の子」に出演した頃には恋仲であったようですが、夫の新藤兼人さんにはすでに妻がいたようです。そのため忍ぶ間柄だったようです。しかし、前妻が亡くなった1978年に結婚しています。
そのため出合って27年目で結婚ということになったようです。前妻との子共たちもこの結婚を祝福したようです。音羽信子さんも「いきなり子供達ができました」と喜んでいたそうです。
結婚しても別居生活
乙羽信子さんと夫の新藤兼人さんは結婚しても別居生活を送っていたということについて紹介していきます。詳しく調べたところ、そのような事実はないようでした。二人が結婚しても別居生活という情報はありませんでした。
乙羽信子に子供はいるの?
乙羽緒信子さんの子供について紹介していきます。乙羽信子さんには子供はいたのでしょうか。詳しく調べて紹介していきます。では、見て行きましょう。詳しく調べてみたところ、乙羽信子さんには子供がいました。
乙羽信子さんには子供はいるようです。では、乙羽信子さんの子供について詳しく調べて紹介していきます。では、見て行きましょう。
息子は新藤次郎
乙羽信子さんの子供は新藤次郎さんで、夫と前妻との子供です。しかし結婚したので、乙羽信子さんの子供とおいうことになります。結論として、乙羽信子さんには子供がいました。
乙羽信子ななぜ亡くなったの?
乙羽信子さんの死因、なぜ亡くなったのかについて紹介していきます。乙羽信子さんは70歳で亡くなっています。乙羽信子さんの詳しい死因について詳しく調べて紹介していきます。では、見て行きましょう。死因は一体なんなのでしょうか。
死因は肝臓癌による肝硬変
乙羽信子さんの死因は肝臓癌による肝硬変が死因として挙げられていました。乙羽信子さんの死因については、肝臓癌による肝硬変が死因であるようです。その他には特に死因として挙げられていません。肝硬変による死因が正しいようです。
遺作は新藤監督の「午後の遺言状」
乙羽信子さんの遺作となったのは夫が監督の映画「午後の遺言状」です。この映画を最後に乙羽信子さんは肝硬変による死因で亡くなっています。
乙羽信子の夫と息子の現在
乙羽信子さんの夫と子供の現在について紹介していきます。乙羽信子さんの夫と子供の現在はどうなっているのでしょうか。では、見て行きましょう。
新藤兼人監督は2012年100歳の大往生
乙羽信子さんの夫の新藤兼人さんは2012年に100歳で亡くなっています。100歳は大往生と言っていいのではないでしょうか。
新藤次郎が近代映画協会社長を引き継ぐ
現在では新藤次郎さんが近代映画協会社長を引き継いでいるようです。息子である新藤次郎さんが現在、近代映画協会の社長を引き継いでいます。
数多くの作品に出演した女優
乙羽信子さんは数多くの映画、ドラマ、舞台で活躍してきました。最後の出演、遺作となった「午後の遺言状」では新藤監督はこの作品が乙羽信子さんの遺作になると覚悟したうえで製作に臨み、メガホンをとったようです。乙羽信子さん自身も自分の残された時間を把握していちょうです。
その残された時間を知った上で出演したようです。
昭和の時代を支えた名女優
乙羽信子さんは昭和の時代を支えた名女優として多くの人の心に鮮明に残っています。この活躍は現在ではもう見る事は出来ませんが多くの人に記憶されています。デビューしてからこれまでの間女優として数多くの作品に参加しています。
乙羽信子さんの演技を見ることは敵いませんが、多くの人々の記憶に残り、日本を代表する大女優だったといえるのではないでしょうか。