【袴田事件】袴田厳は冤罪?現在も死刑囚?事件の真相はいかに

袴田事件とは静岡県の清水で起きた強盗殺人放火事件です。味噌製造会社の専務宅が放火され長女を除く家族が亡くなりました。警察は袴田巌氏を強盗殺人と放火、窃盗の容疑で逮捕し裁判で死刑判決を下しました。しかし袴田巌氏は袴田事件の冤罪を訴え続けます。

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目次

  1. 1袴田事件とは?詳細と概要
  2. 2袴田巌さんが冤罪となった訳
  3. 3警察の取り調べ
  4. 4裁判の流れ
  5. 5死刑判決
  6. 6袴田巌さんの精神疾患と拘禁反応
  7. 7袴田巌さんの現在は?
  8. 8真犯人は?
  9. 9息子への想い・現在も真相は闇の中・・・

袴田事件とは?詳細と概要

この事件は冤罪によって一人の男性の人生の大半が奪われてしまう出来事になります。今も解決しておらず真相は深まり続けている事件です。

長女を除く一家4人殺人&放火事件!!

1966年に逮捕され死刑が確定していた袴田巌の名を取り、袴田事件と呼ばれています。

事件が発生したのは1966年6月30日未明。静岡県清水市(現静岡市)にあるみそ製造会社の専務宅で火災が発生。焼け跡から長女を除く一家4人の遺体が発見され全ての遺体に無数の刺し傷があった為、静岡県警は殺人事件として捜査を開始しました。

事件発生から2ヵ月後の8月、同社の従業員として働いていた元プロボクサーの袴田氏が強盗殺人・放火の容疑で逮捕されました。当時は30歳で結婚もしており2歳の息子もいました。

取調室という密閉された空間で連日平均12時間にわたる過酷な取り調べが袴田氏を待っており、当初犯行を否認していたが無理矢理自白を強要され遂に翌月9月には一転して自白、容認を認めてしまいます。

死刑確定から一転!!

長女を除く一家4人が殺害されたこの事件。11月に裁判が始まり袴田氏は一貫して無実を訴えていましたが、67年8月に味噌工場のタンク内から血が付着した5点の衣類が発見されこの血痕が袴田氏や長女を除いた被害一家の血液と一致してしまいます。

これが決め手となり、68年9月に第一審の静岡地裁で熊本裁判官より袴田氏の有罪(死刑)判決が出されました。その後東京高裁は控訴を棄却し最高裁も上告を棄却した為、80年に死刑が確定してしまいます。

熊本裁判官死刑確定を不服と感じ冤罪を求めた弁護団は第1次再審請求を申し出ましたが静岡地裁に却下され、2008年3月には最高裁も再審請求(特別抗告)を棄却しました。

しかし翌月には弁護団が静岡地裁に第2次再審請求を申し立て、11年8月に5点の衣類の血痕のDNA鑑定が行われました。その結果袴田氏のDNAと一致しないことが判明してしまいます。

物的証拠の唯一の根幹が揺らいだことにより、14年3月に静岡地裁は再審開始を決定します。裁判官は捜査機関に証拠捏造の疑いを示唆し、形の執行・拘置の停止という決定を下し、同日袴田氏は東京拘置所から釈放されます。
 
事件発生から半世紀近くたっての再審で「世界でもっとも長く収監されている死刑囚」とギネス世界記録にも認定されているこの事件。冤罪が濃厚になった袴田氏の釈放は、取調べの全面可視化や死刑制度の是非を問う議論にも一石を投じる事となりました。

袴田巌さんが冤罪となった訳

今回の事件では多くの不審点が発見されました。数々の疑問点を紐解いていきます。

証拠の衣類の寸法に異変!

冒頭でお伝えした5点の衣類のうちズボンには「寸法4 型B」と実況見分調書に記載されており、B4であれば被告人は本件発生時にはズボンを優に穿けたものと認めると熊本裁判官より証拠認定されていました。

ところが2010年9月に静岡地裁と検察、弁護士の三社協議で証拠開示があり、当時の警察官がズボンを製造したメーカーを調査して他のズボンのタグを押収したところ、それには「寸法Y5 色C」と記載されていました。

このメーカーではタグの上段に寸法、果断に色を表記しており、このスタイルに従うと5点の衣類のズボンは「寸法Y4 色B」との表示であったと推測されます。

静岡地裁の村山浩昭裁判長は、確定判決時の認定と異なり新証拠が袴田氏のウエストサイズと適合すると認定する事になります。

検察官の不祥事が発覚!

ズボンの実況見分は裏付捜査まで行われており手違いで見落とされるような状況では無い事から、当時の検察官により隠蔽されていたことが判明されます。

公判ではこのズボンが実際に穿けるかどうかで何度も実験・論争を繰り返しており、選別するに当たり新規に担当した検察官がメーカーに問い合わせた事で実態が明るみになります。

検察官の対応が不適切であった為、このように冤罪となる事件に繋がってしまいました。

警察の取り調べ

放火&殺人の容疑で逮捕された袴田氏。彼に待っていたのは残虐な取調べでした。

恐喝のような取り調べ!

逮捕当時30歳だった袴田氏。当時の20日間で240時間にも及ぶ取り調べが行われましたが、その内容が驚愕でした。炎天下の中平均12時間行われ、最長で17時間まで及ぶこともありました。

トイレに行くことも禁じられた上で取調室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせていました。取り調べ時間外である睡眠時にも行為は続き、酩酊状態の者の隣の部屋に収容させ、大声を上げるように指示をさせて一切の安眠を許さないようにされていました。

これだけでも十分酷い内容ではありますが勾留期限が近づいてくると更に過酷を極め、時間帯を問わず複数の人数で暴力を踏まえながら徹底して吐かせるように企てていきます。

妻・息子の為にも家庭へ戻りたかったと思われますが、乱暴ともいえる取り調べを重ね続け遂に袴田氏は真犯人ではないのに自供してしまいます。勾留期限の3日前の事で、当初3,4人だった取り調べ担当の刑事達も10人近くまで増えていました。

鑑定にも大きな謎!

鑑定にも大きな疑問が残ります。

起訴当時、犯行着衣はパジャマであると原審の裁判では熊本裁判官より主張されていましたが、起訴から1年後には公判途中で発見された5点の衣類に変更されるという経過がありました。

第二次再審で5点の衣類は袴田氏の物では無いことが判明され、事件とは無関係な物であることが明らかになりました。実際にDNA型鑑定をしたところ、袴田さんや被害者の血痕は出てきませんでした。

この事実は警察が5点の衣類を捏造していたことを意味します。これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄警部の周辺が真犯人としての関与があったとされていますが、詳しくは明らかになっていません。

裁判の流れ

ニュースでよく耳にする裁判という言葉。日本ではどのような体制を取っているのでしょうか。

刑事事件に関わる主な組織

日本の刑事事件での司法手続きには警察、検察、裁判所の3つが関わる主な組織としてあります。これらの組織は一貫して行われているように感じますが、これらは独立しており所轄官庁も違います。
 

典型的なパターンとして、まずは逮捕状を持った警察に逮捕され警察署に連行され留置場に入れられます。48時間の有効期限内に必要な証拠や書類を揃えて、事件を警察から検察へ引き渡す送検手続きを行います。逮捕の効力は検察に身柄が移されてから24時間以内となり、その間に検察は事件を立件して起訴を行うか、不起訴処分にするかを決めます。

また10日間の拘束を行う勾留請求を検察の主張で行えますが、勾留請求を認めるかどうかの判断及び最初の逮捕状を発するのは裁判所の裁判官になります。起訴された後の法廷では、双方の言い分を踏まえて罪の有無、量刑の判決を下します。

日本における三審制

日本の裁判所において、三審制が通常の案件で採用されています。第一審の判決に対して不服で第二審を求めることを控訴、第二審の判決に対して不服で第三審の裁判を求めることを上告といいます。

一つの案件に最大で3度まで判決を行えるように一見思えますが上告できる理由は限定されています。通常第三審に裁判を求める上告は最高裁判所に行いますが、定員がわずか15名の最高裁判所裁判官が全ての上告事件を審理することは事実上不可能であるため、一部の例外を除いて上告の殆どを棄却してしまいます。

上告が通らないケースが大半なので事実上は二審制に等しいと批判されています。

再審に繋がるためには

第一審の判決において重大な錯誤があった場合、第一審を行った裁判所に再審を求める事ができ、再審において却下や棄却がされた場合には上級審に即時抗告する事ができます。

しかし、実際に再審請求を日本の裁判所が受理する事は極めて稀であり、日本の再審制度は「開かずの扉」と表現される事もあります。

死刑判決

袴田氏に待ち受けていたのは最悪な判決でした。しかし幾つもの疑問点が生じてきます。

不可解な犯行内容

不信な点は事件が発生してから常に続いていました。最大の要点である5点の衣服は事件発生から1年2か月後に会社の味噌タンクから発見されますが、安易な隠し場所から事件当初に見つかっていないことがまず不自然です。

それまで犯行時の着衣は血染めのパジャマだったのに唐突に5点の衣類に変更され、袴田さんが絶対にはけない寸法のズボンなのに共布が実家から発見されます。家宅捜索の時に県警本部の責任者より応援組に共布を発見させ、客観性を持たせようとする悪質な対応にも疑問を持ちます。

この他に複数の虚偽が報告され、後に警察でのでっち上げだったと公判で裁判官より証明もされます。矛盾だらけの取り調べを経て遂に袴田氏は自白をしてしまいます。

前述で上げた長時間の取り調べが問題になりましたが、大事に挙げられたためか当時の警部が作成した調書45通のうち44通は証拠として採用されませんでした。ところが袴田さんが忌み嫌っていた当時の検事に対して突然心を許して犯行を自白したことになっています。

検事という立場にある者が証拠の改竄をするはずが無いと平然に答える裁判官も当時は実際に存在しており、検察の改竄を裁判官が見抜けなかっただけでなく加担していたのが現実になります。裁判所が警察と検察とグルになって、袴田さんを殺人犯に仕立て上げた構図が浮かび上がります。

異を唱える熊本裁判官

死刑判決を出した静岡地裁の裁判で判事補を務めた熊本元判事が当時30歳で、異を唱えました。当時最年少でありながら一審担当の裁判官に訴えながらも押しきられ良心の呵責に耐えきれなくなり裁判官を辞めますが、救う会と接触後に裁判官の評議内容を暴露しました。

当時熊本氏が感じた疑問はその後の高裁、最高裁の裁判官達には届きませんでしたが、唱え続けた結果、11年の夏に5点の衣類のDNA再鑑定が決定。証拠能力が否定され再審が決定します。

熊本裁判官は元々礼状請求や勾留請求の却下が多い裁判官として知られていましたが、今回の事件の一審の合議では3人の裁判官の仲で唯一熊本裁判官が無罪を主張するものの、他の2人の裁判官の反対により被告人に死刑判決を宣告します。

熊本裁判官はこの判決を悔やんで半年後に弁護士へ転身後、大学で刑事訴訟法の非常勤講師などを務めながら暮らしています。大酒が原因で体を崩して離婚・入院もされていた熊本裁判官。現在は九州で暮らしていることが報じられています。

刑事補償法により2億円近い額が支払われることになりますが、48年の人生の代償は大きすぎました。死刑が確定した事件で冤罪がないのか、冤罪なのに死刑が執行されてしまったケースは他にないのか、検証する声も多くあがっています。

袴田巌さんの精神疾患と拘禁反応

肉体的にも精神的にも追い詰められた袴田氏。現在も病状と闘っています。

精神疾病・拘禁反応とは

拘禁反応とは刑務所や難民収容所など、特定の場所に拘禁されている状況で起こる精神病の一種になります。外部から遮断された環境である事が要因でその場の雰囲気や環境に影響されて精神状況までも変化され、うつ病や幻覚、妄想などを持つようになってきます。

最初は自律神経失調症のような病状が現れますが次第に精神病状へと発展され、壁に頭を打ち付けるといった身体に影響を及ぼしたり周囲に全く反応しない昏睡状態に陥たり様々な病状が出ています。

原因が取り除かれなければ病状が更に悪化して治療が難しくなることもあります。拘禁されている環境から一時的に隔離するなどの処置を行ったり精神薬を使用したりして治療を行っていきます。

拘禁反応はあくまでも一時的なものであることが多く、その状況が解消されるまで精神的な病状も無くなっていきます。拘禁反応の中には自殺願望を抱く事もあるので注意が必要な病状になります。

現在の袴田氏の病状は?

袴田氏は30歳で逮捕されて以来45年以上にわたり東京拘置所に収監拘束されていました。死刑確定後から少しずつ精神に異常な点が現れるようになり、親族や弁護団の面会に全く応じない期間が続きました。

その後面会には応じるようになりましたが拘禁反応の影響による不可解な発言が多く、次第にコミュニケーションが取れなくなりました。釈放後の現在は自宅で過ごしながら獄中で拘禁反応に加えて患った糖尿病への治療を行っているとのことです。

袴田巌さんの現在は?

困難を乗り越えて現在に至りますが、袴田氏及び周囲の人達の今は?

袴田氏を救う会

1980年11月19日、最高裁で袴田氏の上告が棄却された日に社会評論家の高杉晋吾氏が代表となり、ボクシング関係者を含めた無実のプロボクサー袴田巌を救う会が発足されて袴田氏を獄中より救い出す活動が行われます。

現在では司法関係の公開学学習会の開催、意見広告の掲載、袴田氏の再審を求める署名活動などを行い、海外の団体への働きかけも行っています。2010年には無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会へと改称し、真犯人の発見及び逆転無罪への再審に向けて日々活動を行っています。

肝心の本人の現在は?拘禁反応は?

袴田氏は現在、姉と2人暮らしをしていますが、拘禁反応が出ており家の中で突然一心不乱に同じ場所を何度も行ったり来たりする状態で、袴田氏は姉を姉だと理解できていないように捕らえられます。釈放から1年以上経っていますが現在も会話は殆ど無く食事も離れた場所で別々にとるということです。

そんな袴田氏が笑顔を見せたのが将棋を指しているときです。幼い時から将棋を指しており、実力も兄弟のなかでも特に秀でていたそうです。来客があると何よりもまず将棋を指されるようです。

将棋の他にもボクシングについて、実際に行う事はできませんがまともな会話ができるとの事です。将棋とボクシングは昔から携わっていたことであり、日常の会話の材料だということでしょう。

袴田氏のように半世紀という長期間に拘置所の狭い空間に拘束されて妻や息子にも会えず恐怖下に置かれていた事例は無く拘禁反応が完治するかどうかは専門家でもわからないそうですが、姉や支援者の方達と共に拘禁反応から回復に向けて袴田氏は進んでいるのではないでしょうか。

真犯人は?

疑いを持つ者が多く潜んでいるこの事件。はたして真相は・・・

幾多の冤罪を生んだ男

「拷問王」と評される日本の警察官が今回の事件に大いに関わっていました。紅林麻雄氏で階級は警部、国家地方警察静岡県本部刑事課員として浜松連続殺人事件などの数々の事件を解決した名刑事であると言われます。

ところが後に自身が加担した事件の被告人が無罪となって、無実の者から拷問で自白を引き出して、証拠をでっち上げた上で数々の冤罪を作ったとして批判されます。様々な拷問の手法を考案しますが実行には直接関与せずに、部下に指示を出して実行するケースが多かったそうです。

袴田氏が東京拘置所で投獄されている間は紅林氏の指示で無理やりに自白させていた事から、彼の言動は真犯人の一人として挙げられるのではないでしょうか。

警察?長女?候補者は数知れず・・・

迷宮入りになってしまった事件の中には警察関係者が真犯人ではないかとよく噂になります。この事件も例外ではなく、熊本裁判官の一件もあり前述の紅林氏以外の警察や裁判官も候補として上がっています。

袴田氏の長女の昌子氏が真犯人の可能性も浮上しています。普段祖父の家に住んでおり事件当日偶然にも実家へ戻っており長女の昌子氏以外の家族が亡くなっています。当時高校生だった長女の昌子氏は高校へ通っておらず両親から勘当されていたそうです。

当時長女の昌子氏と交際をしていた男性が暴力団員との噂もあり、関係者も真犯人の可能性として浮上しています。味噌工場の従業員が賭博を趣味にして、賭博仲間として暴力団員と繋がっていたそうです。この事件が殺すことを前提とした殺害方法である事から、暴力団員のような特殊な人が真犯人であると考えることもできます。

真犯人の可能性が現段階で最も高い長女の昌子氏は、袴田氏の拘留停止が決まった翌日に病気で亡くなっています。タイミングの良い訃報に、自殺や殺害も噂されており真相が現在も分からないままになっています。

息子への想い・現在も真相は闇の中・・・

袴田氏が獄中から送った手紙は5000枚を超えます。その中で友人や妻・一人息子と様々な関係者に送っていますが、息子宛に届けられた手紙に大きな衝撃を与えます。袴田氏は息子には正しいと思った事に力を注いで、苦労の多く冷たい社会を反面教師として生きて欲しいと願っていました。

無罪を証明して必ず息子の元へと戻るとも伝えています。この手紙の内容には息子の父は人殺しをしていないと同時に、警察官や裁判官も事件の事実を知っているような記述も残されています。

出所後に息子と再会したとの情報が無く、袴田氏と息子が対面したのかは定かではありませんが、息子への想いは当時から伝わっているのではないでしょうか。

事件から既に50年以上経っていますが真犯人は現在も判明されておらず、袴田氏は現在も拘禁反応に苦しんでおり肩書きには死刑囚が残ったままです。支援会や弁護側の方々は現在も無罪を主張し続けており、警察側も正義の名の下に必死で対応に迫っています。

関係者には長女の昌子氏を始め既に他界されてしまった人や、立場上無罪を言えなかったり真犯人に脅迫されて想いを告げることができなかった人もいると思います。一人の男性の48年間を奪った恐ろしい事件を忘れることの無い様、冤罪とは何か、正義とは何かを今一度各々が考えていくべきではありませんか。

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