求道者の意味や読み方とは?使い方を例文を用いて解説!

求道者とは、いかなる人物を指すのか。その意味や読み方使い方の用例をご紹介します。求道者における東西の違い、キリスト教と仏教における読み方の違い、それにイスラームのスーフィーも交えつつ触れていきたいと思います.求道者の意味についてみていきましょう。

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目次

  1. 1求道者の意味や使い方が知りたい!
  2. 2求道者の読み方とは?
  3. 3求道者の意味とは?
  4. 4求道者ってどんな人?
  5. 5求道者の使い方
  6. 6求道者の類語
  7. 7ダルビッシュ選手の名前の由来
  8. 8煩悩と慈悲と愛と自己犠牲

求道者の意味や使い方が知りたい!

求道者の意味や使い方に迫っていきたいと思います。どういうわけか資料が少なく難儀しました。野球選手とかスポーツ選手の、派生的な物としての求道者は多いのですか。元来は宗教的真理を求めるような人たちのことです。

求道者の読み方とは?

読み方としては「きゅうどうしゃ」「ぐどうしゃ」になります。一般的には「きゅうどうしゃ」と読むことの方が多いでしょう。

求道者の英語表現

求道者を英語では「investigator」もしくは「catechumen」と表わします。investigatorには他にも、求道者、調査者、研究者、捜査員などの意味が含まれます。catechumenは他にも、洗礼志願、求道者、入門者、初心者などの意味も含まれます。

求道者の意味とは?

求道者とは端的にいって宗教家を指しますが、転じて一途に目的に向かう人、プロフェッショナルに徹する人もいうようになりました。引退したイチローなども良く言われました。

キリスト教での意味

キリスト教の教会においては、洗礼を受ける前の人、その準備段階にある者のことを、求道者(きゅうどうしゃ)と呼ぶそうです。クリスチャンとは永遠の求道者だと言う人もいます。聖書に基づいて信仰を深め、その言葉を探求をする人の事を求道者と呼ぶのでしょう。

仏教での意味

求道(ぐどう)とは仏語になります。仏の教え求法 (ぐほう) を求めることでもあります。仏教では、この世における苦は、執着と欲望にあるとされています。ひとまとめに煩悩(ぼんのう)と言います。

煩悩を焼き尽くして、悟りを得るために修行することが、仏教でいう求道者「ぐどうしゃ」となります。執着こそが煩悩であり苦の元なのです。それらを捨て去ることで、生死すら越えた悟りの智慧、涅槃(ねはん)の境地に到れるとされています。

古代仏教や禅にはその傾向が強く、臨済禅には「仏に会ったら、仏を殺せ」「親に会ったら親を殺せ」というのがあります。修行中に仏(悟り)に固執したり、肉親に気持ちを奪われないようにするためです。固定化されたイメージ否定なのです。

求道者ってどんな人?

それは、外見からは判断つきずらいものです。まじめにやっているようでもルーティンと化しているならば、意味がありませんから。受験勉強なら他人でも判断できるでしょうが、特に宗教など心のありようは、まったくのブラックボックスなのです。

あのオウム真理教の人たちだって、本人たちは至って大真面目に修行をしていたのは事実です。麻原本人がどこまで本気だったのかは、かかなり怪しいですが。

探究心がある人

宗教を抜きにして一般論で考えれば、求道とは探求心のことです。そのジャンルにおける好奇心は必要になります。他人が与えてくれるのを待っているだけなら、そこから一歩も前に進めません。歩いたところが道になる、というやつです。求道者とは、道を求めるだけではなく、自ら道をつくる人の云いでもあります。

自分に厳しい人

自分に厳しい反面と、自分がしたいことをするエゴイストの側面も忘れてはなりません。マハトマ・ガンジーやブッタの家族に対する態度は、厳しいものでした。ガンジーは家族であるより同士であることを求め、ブッタは自分の心を執着させるので子供に「障碍(ラーフラ)」と言ったりしています。

求道者の使い方

求道者、「ぐどうしゃ」もしくは「きゅうどうしゃ」の使い方を、過去の文化人、作家の文章から例にとり、みていくことにしましょう。以下、三つの作品から挙げてみました。

「求道者」を使った例文

今から挙げる三者にの文には、すべて宗教が絡んでいます。ですので比喩としての求道つまり探求の意味合いだけでは、納まりません。とくに中里介山などは、好奇心では済まない、愚直な信仰心で書いていたのです。

「大菩薩峠」21無明の巻 中里介山

よしそれほどでないにしても、憂悶は詩人のことで、悔恨は求道者(ぐどうしゃ)の段階で、現実と未来に執着の強い科学者が、瞬間に起伏する感情の波に揺(ゆす)ぶられるのは恥辱である。

大菩薩峠21/無明の巻/中里介山著。著書は宮沢賢治と同じく、法華経に大分熱を入れていた人物です。彼も生涯独身でした。この作品は、法華経の世界観をそのまま現世に顕したような作品なのです。当然ここは「ぐどうしゃ」となります。

「古寺巡礼」和辻哲郎

もとよりそこには上流階級の人もあったに相違ないが、多数は中流及びそれ以下の社会の求道者(きゅうどうしゃ)であった。

古寺巡礼/和辻哲郎著。寺をテーマにしていますが、ここで取り上げているのは、専門的な仏教の素養のない人たち。なので広く一般的な「きゅうどうしゃ」が適当かと思われます。

「霊訓」浅野和三郎

よりて冷視せられ、無智者によりて罵られ、又頑冥者流によりて異端視されるであろう。しかし乍(なが)ら真の求道者は、われ等の教によりて手がかりを獲、真の信仰者はわれ等の教によりて幸福と、進歩との鍵を掴み、――

霊訓/浅野和三郎著。著書は、東京帝国大学英文学科卒業。1928年(昭和3年)には、ロンドン開催の第三回国際スピリチュアリスト会議(世界神霊大会)に出席して、「近代日本における神霊主義」を英語で講演するなどしました。

仏教よりキリスト教との関係が深いところから、求道者は「きゅうどうしゃ」と読む方が、しっくりくるかもしれません。

求道者の類語

・聖人・仙人・天人・超人・師・賢人・学人・神仙・先哲・導師・超俗の賢者・隠者・寒山拾得・世捨て人・聖者・求道者・因地・行者・賢者・守護聖人・先賢・脱俗の人・聖人君主・生き神様・有徳の人・浮き世離れした・瞑想家・役小角・役行者・修験者・久米仙人・脱俗的な・山伏・熊野山伏・験者・上人・僧家・高僧・持経者・修行者・大行者僧徒・仏僧・法師・御坊・僧・寺僧・修行僧・お坊さん・坊主・僧侶・求法僧・求道僧

上記には、求道者の類似語を列挙紹介しました。当然、これですべててというわけでありませんが。

天人の五衰

一つ、衣服が垢で油染みる。一つ、頭上の華鬘(けまん)が萎える。一つ、身体が汚れて臭い出す。一つ、腋の下から汗が流れ出る。自分の席に戻るのを嫌がる。

天人五衰(てんにんのごすい)とは、仏教用語です。仏教の世界観・世界構造における六道(六つの世界)の最高位の天界にすまう天人が、その長寿の末に訪れる死の兆しと特徴の5種類のこと。大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)には、大五衰として上記のような天人の衰えが記されています。三島由紀夫『豊饒の海』の第四巻のタイトルは『天人五衰』です。

ニーチェの超人

ニーチェに限っていえば、超人とは、この世が同じ事の繰り返し無意味であったとしても、それに対し積極的に然(しか)りといえる人になります。

寒山拾得を題材とした芸術作品

寒山拾得(かんざん じっとく)には、それを題材とした芸術作品があります。森鴎外や井伏鱒二、他にも美術作品などがあります。中国の江蘇省、蘇州市楓橋鎮にある臨済禅のお寺「寒山寺」に伝わる風狂の僧である、寒山と拾得の伝承をもとにしています。鴎外のものを読むと、なんだか神様と勘違いしてしまいそうですが。

ダルビッシュ選手の名前の由来

ダルヴィーシュとは、イスラームのスーフィーの修道僧ことです。貧者を意味する中期ペルシア語が語源とされ、また、イスラム文化圏における人名でもあります。スーフとはアラビア語で羊の毛皮のことで、スーフィーが羊の皮を着たり座布としていたことが由来のようです。

この画像は音楽や旋回舞踊を伴う修行法で、スーフィーの修行者たちが、陶酔的かつ忘我状態に達するための有効な手段として広く行われてきました。特にメヴレヴィー教団のものが有名で、歌舞音曲をともない数時間にも渡ることがあります。

トルコ共和国では、イスラームで禁止している歌舞や音楽を信仰に持込んだかどにより、スーフィーを禁止しました。20世紀初頭、ケマル・アタチュルクらが欧化政策を推進すると、ダルヴィーシュ(スーフィー)は違法扱いの禁教となり強制解散させられました。現在では、このような歌舞は観光客相手のショーとしてのみ行われているそうです。

煩悩と慈悲と愛と自己犠牲

全ての苦の眼鏡である煩悩を消す一方、聖者は愛しもしないし憎みもしない。原始仏教では慈悲が尊ばれます。キリスト教では愛です、仏教では慈悲です。

「聖者は愛しもしないし憎みもしない」と云い、「あたかも蓮の葉の上の清らかな水のようである」のだそうです。また、「恨みに対して恨みで返せば恨みは尽きることがない」と云い、「恨みを捨てて慈悲で返してこそ恨みは止む」とも云います。

左の頬を差し出すキリスト教や、飢えた虎に食われるブッダの前世とかの大乗仏教(ブッダ死後成立)に比べたら、なんだかやけにアッサリしていると思いませんか。

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