痰壺の意味とは?駅などに設置されていた理由などを徹底解説!
駅の構内で小さな丸いカンや陶器をみたことはありませんか?それはもしかしたら、痰壷かもしれません。痰壷は明治時代から平成にかけて、日本の衛生状態をよくするために活躍したものです。今回は、そんな痰壷や流行した結核などについて色々と紹介していきましょう。
目次
駅に昔設置されていた痰壺って知ってる?
新しい元号になって昭和の時代ははるか遠くに感じるようにもなってしまいましたが、その昭和の時代、昔の電車や駅には「痰壷」が設置されていたのをご存知ですか?
年配者であれば「ああ!そういえば」と思い出すかもしれませんが、若い方は「え?痰壷?本当に?なんのために?」と驚く事実でしょう。
では、なぜ駅には痰壷が置かれていたのでしょうか。その理由や痰壷にまつわる「怖い噂」などを順番に紹介していきたいと思います。
そもそも痰壺とは?
痰壷とは、小さくて白い陶器の壺であり、その中に痰を吐くためにあります。中には「エ」と文字の書いてあるものもあったそうです。
痰壷が昔は駅やホーム、そして列車の中に設置されていたことは事実です。しかし、そもそも痰壷とはどうして必要であり、どのように使うのでしょうか?そして何故それが必要だったのでしょうか。
それは、痰壷が誕生した時代も関係していました。
痰壷が設置されていた年代
一体いつからいつまで痰壷が設置されていたかというと、結構長い期間です。省令にて痰壷の設置を規定されていたのは、何と明治37年の2月から平成14年の4月1日まででした。
平成14年といえばついこの間のような気がする、という方も多いでしょう。ちなみに、明治37年は日本が大国ロシアに宣戦布告をした年であり、富国強兵のために日本人の衛生面を強化する必要があったのです。
省令も「肺結核予防規則」という名前で出されています。詳細な省令内容はインターネットで「肺結核予防規則」と検索すれば簡単に出てきますので、興味がある方は調べてみてください。
駅に痰壷が置かれていた理由
戦争に勝つために、日本全体の力を合わせる必要が、政府にはどうしてもありました。
では、富国強兵のためになぜ痰壷が置かれていたか、そしてそれがどうして駅だったのかを、詳しく説明しましょう。駅に痰壷が置かれていた理由は、その時代に応じて必要だったものだったのです。
痰が出やすい環境だった
1つ目の理由は、当時、日本人は非常に痰が出やすい環境にあった、ということです。蒸気機関車だったために空気も悪く、道路もまだ整備されていなかったので窓から砂埃が入って来放題でした。
そのため痰が今よりも数倍出やすい状況だったと考えられます。そして走る列車の中から外へと痰を吐くのが危険だったので、痰壷にいれるという方法が採用されました。
また、列車に洗面台がついている場合、昔は深めの更に水をためて洗顔していたため、そこに痰を吐くわけにはいかなかった、という理由もあります。綺麗な水を守るために、痰は別の場所で処理する必要があったのでしょう。
結核予防規則で決められていた
省令で痰壷の設置が義務付けられた明治37年当時、結核は「死の病」として広く恐れられていました。
この時はトイレも汲み取り式であり、色んな場所で堆肥をしようしていたことも、雑菌やウィルスが空気中に蔓延しがちだったのです。戦争をするに当たって富国強兵を目指す日本政府にとって、結核は大きな敵でした。
そのため、感染を予防するために痰を外に吐き散らす行動を禁止しようとしたのです。しかし砂埃やすすなどで痰が出てしまう、なら痰壷に吐かせてしまおうというわけです。この省令は平成14年まで続きました。
昔の痰壺が分かる画像を紹介
洗面場所の木枠につけられている、小さめの陶器が痰壷です。昔から白い容器であったようです。現在ではあまりみませんが、古い駅や大きい駅であればたまに設置されているのを見ることが出来ます。
もしみかけることがあれば、今では珍しいものですので写真をとっておくという方もたくさんいるようです。
痰壺に関する怖い話コピペまとめ
都市伝説というか、色々な噂話が真実であるかのように語られることがたくさんありますが、痰壷についても色々あるようです。
眉唾ものと断言したい気持ちを持つ方が多い、不快な噂話ですが、ここで披露したいと思います。
ストローおじさん
「検索していはいけない言葉」に出てくるのが「ストローおじさん」です。彼は痰壷にストローを突っ込んで全部吸い取ってしまうのだそうです。最強に気持ち悪い噂として有名です。
ぶっかけご飯
もう1つ、不快な噂話として有名なのが「ぶっかけご飯おじさん」ですが、これは簡単に想像できるでしょう。
どんぶり飯に自分の痰を吐きかけてそれを食べる、というものです。実際に目にした人がいるなら可哀相になってくる話です。
今では通用しない昔の常識とは?
いつの時代も、その時には大真面目に皆が信じていた「常識」というものがあります。中には科学や医学が発達してそうではなかったのだ、と判ってくることもあり、昔の常識は今の常識ではないが、一般的です。
では、痰壷に関わらず、今では「そんなこと関係ないよ」とか「大丈夫だった?」と聞きたくなるような昔の常識を紹介していきましょう。
特に若い方は「本当にそんなことが?」と思ってしまうことも多いでしょう。
部屋の明るさと視力低下は関係ない
子供のころちょっと暗くなってきた部屋で漫画や本を読んでいると、「目が悪くなるから電気をつけなさい!」とお母さんに注意されたことはありませんか?暗い部屋で何かをするのは視力の悪化を招く、は常識でした。
しかし、これに科学的根拠はないということが今ではわかっています。目が悪くなってしまうのは部屋の明るさではなく、本なりゲームなりパソコンなり、何か1つのものを凝視していること、が問題なのです。
長時間近い距離で物を凝視することが視力低下を導きますので、部屋の明るさや暗さは関係ありません。パソコンやスマートフォンが普及している現代では、その使用時間について、考える必要がありそうです。
風邪でも風呂に入って良い
昔は、「風邪を引いたらお風呂は入るな」と言われていました。これは昔、お風呂が野外にあったからなのです。部屋までの往復で体温が奪われてしまうことが問題でした。
しかし現代ではお風呂は基本的に家の中にありますし、保温状態もよく、湯冷めはあまりしないようになっています。
体力は奪われますが、体は温めたほうがいいということで、最近では「風邪を引いてもお風呂には入って良し」というのが常識になりつつあります。ただし、病気の種類によってはお風呂は厳禁ということもありますので医師に確認しましょう。
痰壷がなくなった理由
では、現在はまったく見なくなった痰壷ですが、その過程について紹介していきます。省令そのものは明治37年から平成14年まで続きましたが、平成になるとほとんど見なくなりました。
では、どうして撤退することになったのでしょうか。日本の衛星状態が良くなったからでしょうか、それとも他にも理由があるのでしょうか?その答えを紹介しましょう。
結核が完治する病になった
昔の駅構内や列車内に痰壷が設置されていたのは、当時流行っていて死者がたくさん出ていた結核を予防するために政府が義務付けていたからです。空気の悪い駅に痰壷を置くことで環境をマシにしようとしたのです。
しかし、1944年に抗生物質であるストレプトマイシンが誕生、何とそれまで「死の病」であった結核は、完治が可能な病気になっていったのです。日本人の栄養状態が非常によくなった結果、体力が出来たことも理由でしょう。
結核予防のためであり、悪かった衛生状態の向上が理由だったので、結核が治る病気になってトイレも水洗になると、日本の衛生状態はかなり良くなってきたので痰壷の必要がなくなったのです。
現在でも結核で亡くなる人はいる
明治37年の当時、人口10万人あたり結核による死者は257人でした。これは政府が必死になるのもわかる数字です。しかし、抗生物質が誕生して以来、その数は年々減少し、2010年の時には1.7人にまで下がっています。
しかし、結核で死亡してしまう人は現代でもまだいる、というのは事実です。ほぼ完治できる病気になったとはいえ、やはり感染には気をつけなくてはなりません。
神経質に清潔にこだわる必要はありませんが、自衛できるところはしっかりと自衛し、清潔な手を保つなどの努力はしましょう。
衛生状態をよくするためにあった痰壷
痰壷は、日本の衛生状態を良くするためにあったものでした。時代を経るにつれて蒸気機関車は電車になり、砂の道路はアスファルトにかわって砂埃もたたず、日本はかなり衛生的な国になったのです。
そのため、昔に比べると痰が絡む人も少なくなり、結核の流行で死者が大量に出ることもなくなったので、痰壷は役目を終えたのです。
現在でもたまに駅構内でみかけることがあるそうですが、その時には少し昔へと思いをはせてみてください。