無の境地の意味や使い方とは?悟りを開いている状態?
人間は悟りを開くと無の境地に入るといいます。仏教では無の境地に入ることを重要視しているので、仏教に馴染み深い日本人には理解しやすいのではないでしょうか。今回は無の境地について、意味や使い方を含めどういう状態なのかをまとめました。
目次
「無の境地」ってどんな状態のこと?
無の境地という言葉は通俗的ではないため、宗教的な連想をする人が多いのではないでしょうか。確かに無の境地は仏教用語ですが、それゆえにどんな人間にも訪れる可能性があります。
なぜなら、どんな人間にも煩悩や誘惑に負けてしまうくらいの心の弱さがあるからです。心の弱さがあると、無の境地に入るのは難しいでしょう。
心の弱さがあるということは、周りの雑音に意識が向きやすいということになります。無の境地とは集中し煩悩や雑念にとらわれない状態のことなので、必然的に心の強さが求められるでしょう。
「無の境地」の意味とは?
部の境地は仏教用語であるため、難しく感じる人が大半でしょう。一方で、漫画やゲームで取り上げられることもあり、一部の人には馴染み深い言葉かもしれません。
人間の世界では煩悩という概念が度々問題になります。犯罪行為や一時の気の迷いなどは一例にすぎませんが、煩悩によって失敗する人間はこの世に数え切れないほどいるでしょう。
そこで大切なのが、無の境地の意味を理解し、煩悩の抑止をすることです。「今無の心でいられていない」と感じたとき、気をつけることができるかもしれません。
集中すること
すでに軽く説明しましたが、無の境地に入るということは集中していなければなりません。人は集中力を高めているときに、迷いや不安といったネガティブな感情を排除しようとします。そうして煩悩を無くしていく事で、無の境地に近づけるわけです。
そのくらい、無の境地と集中力は深い関係にあります。集中することは、無の境地へ近づくためのファーストコンタクトと言えるでしょう。
物事の真理を知り悟りを開くこと
無の境地は広く言えば精神世界を表す言葉です。しかし普通の人間は少なからず煩悩に揺さぶられます。その戒めとして、無の境地には悟りを開き物事の本質を知るという意味が付随するようになりました。
悟りを開くということは自分の欲求に振り回されなくなるということです。悟りの対義語である迷いを断ち切れば、物事の真理を理解することができるのではないでしょうか。
仏教用語で雑念のない状態のこと
仏教では、悟りを開くと雑念がなくなり自分がどこで何をしているのかさえ気にならなくなると言います。普段生活しているときには意識していないような音も、悟りを開くと鮮明に聞こえるようになるそうです。
無の境地に入るには、どんなことに対しても真理を得なければいけません。完璧に無の境地に入ることは難しいですが、その精神世界に近づくことは人間にも可能です。
無の境地には、人間には不可能と思われる精神的概念と、人間でも近づけるであろう可能性が眠っています。現実世界で雑念や煩悩をなくすことこそ、無の境地の本質的な意味と言えるでしょう。
「無の境地」の類語と意味
無の境地にはいくつかの類語が存在します。無の境地という言葉は聞いたことがなくても、類語なら知っているという方も多いかもしれません。今回紹介するのは以下の三語です。
・悟り ・無我 ・無心 |
悟りが早い
先ほどから何度も登場している「悟り」という言葉は、もうすでに気づいていた方もいるでしょうが無の境地の類語です。悟りを開く、悟りが早いというような使い方をします。
悟りとは知らなかったことを知ることで、妖怪の覚(さとり)の元になった言葉とも言われています。わかりやすくかみ砕いて説明すれば、物事を見抜いたり見通したりするという意味もあるようです。
無我の境地
無我とは無心であることを表す言葉で、これもまた仏教用語です。無駄な欲や、私情の悩みなどがないという意味をもち、あらゆるものが本質的には存在していないという仏教の根本思想が元になっています。
無我の境地という言葉はある漫画で取り上げられたことがあるので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。また、無我夢中という場合には我を忘れることという意味になるので、少しニュアンスが変わります。
無心の境地
無心には複数の意味がありややこしいため、勘違いされる方もいるかもしれません。無の境地の類語としては、迷いから離れた心のあり方を意味します。広義では心がないさまを表すようです。
仏教の言葉の一つとして、心に迷いがなく雑念から解放された状態のことを無心と言います。ちなみに無心するという使い方をすると、人に対し遠慮をしないで金目のものをねだることという意味になるので注意してください。
「無の境地」の言葉の使い方
無の境地は普通の人間には馴染みのない言葉なので、使い方がわからないという方も多いのではないでしょうか。仏教用語であることから、使い方も仏教関連のみだと思っている人もいるかもしれません。
実際はそんなことはなく、無の境地は日常的に使いやすい言葉です。あまり一般的でもないため、知っていて正しい使い方をすれば周りとの差が付くかもしれません。
何かに没頭しているとき
人間は何かに集中しているとき、そのことだけにのみ意識を向けます。その集中している瞬間、何も考えていない状態が無の境地です。
使い方としては「集中しすぎて無の境地に入っていた」という感じがいいでしょう。仕事で急に話しかけられたときや、話を聞いていなかったときの対処に使えるかもしれません。
何も考えずボーっとしているとき
集中しているのとは反対に、ボーっとしているときにも無の境地は使えます。意識がどこかに飛んでいるような、話しかけてもすぐに返事がないような状態も、ある種の無の境地です。
使い方は、「あの人無の境地に入っているね」のように他者に向けていうのがいいでしょう。ボーっとしていることを注意したいときに、「無の境地に入るな」ということで空気が悪くなりにくい効果もあります。
気をつける点は、意図的に上の空な状態のときは無の境地とはいえないということです。ボーっとしていると言っても、悟りを開いた感じでなければ無の境地ではないので、使い方には注意してください。
仏道をならい悟りを得たとき
仏教にはこのような言葉があります。「仏道をならうは自己をならうなり」といって、仏教を学ぶということは自分を知るということ、というような意味があると言われています。
そして自分を知るということは己の欲求や自意識を忘れることです。そうして煩悩がなくなると、自ずと悟りが開かれるという教えが続いています。
このような状態になる人は滅多にいないでしょうが、使い方はあります。普段の行いがあまり良くない人間に対し、「無の境地に入るために仏道をならったほうがいい」というように勧める使い方です。運が良ければその人を改心させることができるかもしれません。
「無の境地」を意識する時
人間は煩悩に取り憑かれる生き物であるため、より無の境地への憧れを高めます。行動をするときには「集中したい」「周りを気にしたくない」というような考えが過ぎることもあるでしょう。
ではどんなときに無の境地を意識してしまうのか、理解していれば余計にパフォーマンスを落とさずに済むかもしれません。
スポーツの試合や受験のとき
オリンピックの選手やプロ野球選手など、高いパフォーマンス能力が一瞬に求められるような人たちは、無意識のうちに無の境地に入っていると言います。
それは長い経験や努力を積んだ結果得られたのでしょうが、経験の浅い若者はなかなかそうはいきません。緊張やプレッシャーによって、自身の能力を自ら落としてしまいます。
そしてそういうときに無の境地を意識し、自身の行いや結果に悔いてしまう若者はたくさんいるはずです。加えて、意識してしまうことでより無の境地に入ることが難しくなってしまいます。
嫌なことをしなければならないとき
自分にとって嫌なこと、身にならないと感じていることに対しても無の境地を意識します。意識するというより、せざるを得ないというほうが適切かもしれません。
嫌なことをするとき、早く終わって欲しいがために無心になることはありませんか?そのとき、人は少なからず無の境地を意識しています。
人間同士のコミュニケーションがうまくいかないとき
人間というのはコミュニケーションを取ることで関係を深めます。しかし、このコミュニケーションがうまくいかないときに、前述した自分にとっての嫌なことという感情が芽生えてしまいます。つまり、気づかないうちに無理をしてしまい、無の境地を知らず知らず求めてしまうのです。
煩悩のせいで失敗したとき
煩悩というのはときに人の人生を破滅させます。たった少し欲を出しただけで失敗してしまうと、その失敗のトラウマから同じような状況で無の境地を意識するようになります。若い人だけでなく年配の方でもなる可能性は否定できません。
「無の境地」に入る方法
無の境地に入るために、お寺へ行って修行して…というような想像をする方はいませんか?確かにそれがもっとも確実性のある方法かもしれません。しかし、普通の人間にはなかなか踏み出しづらいのも事実です。
あまり時間をかけずに無の境地に入りたい場合、修行という長い時間を要するものには躊躇してしまうのも理解できます。そこで、比較的簡単に誰でも取り組みやすい無の境地の入り方というのをまとめてみました。
部屋の掃除や整理整頓
誰でも取り掛かりやすいのが、自分の部屋の掃除です。昔は女性が担当していた分野ですが、現在は綺麗好きな男性も増え、男女関係なく掃除はやりやすいのではないでしょうか。
例えば掃除をしたとき、何も考えず無の心で汚れを落としていたことはありませんか?実は無の心で汚れを落とすこの瞬間こそ、無の境地に入っている状態です。このとき、他のことを考えながら掃除をしていなければ完全に無の境地に入っていると言ってもいいでしょう。
無の心で掃除をしていると時間を忘れてしまうことも少なくありません。しかし部屋の掃除は心の掃除という言葉もありますので、この機会に無の心で取り組んでみてください。
一つのものにだけ集中して取り組む
掃除が苦手な人もいるかもしれません。そういう方は、掃除の代わりに何か一つのことに集中してみてください。ここで大切なのが、「一つのこと」だけに取り組むということです。
勉強や仕事をするときどうしていますか?世の中にはスマホという便利な機械が普及して、音楽や動画が身近になっているのは実感できます。仕事や勉強のお供にBGMとして用いている人も多いのではないでしょうか。
人間はマルチタスクができますが、何かを並行して行なっている時には無の心になることはできません。本当の意味で無の心になりたいならば、取り組むのは一つだけにし、携帯などの誘惑物は離れたところにおいたほうがベストです。
座禅や瞑想
修行とまでいかなくとも、それなりにしっかりと無の心になりたい人には座禅や瞑想がオススメです。ヨガなどのゆっくりと行う健康法は、集中力を高めたり無の心に入ったりするのに取り掛かりやすいとされています。
お寺では初心者向けの座禅会や瞑想の指南をしているところもありますので、女性だけでなく男性も挑戦しやすいのではないでしょうか。瞑想は自宅でもアプリを使えばより始めやすいですし、慣れてしまえば朝のルーティンとしても組み込めます。
あまり難しく考えずに取り組めるのが、座禅や瞑想の良いところです。無の心に入る第一歩として、本格的に始めるきっかけになるかもしれません。
無の境地に入った芸能人は?
無の境地に入ることは、人間であれば誰でもなり得る現象です。子供だろうが大人だろうが、男女問わずどんな人間にも突然訪れるかもしれないのがある意味怖くもあります。
芸能人も例外ではありません。むしろ、ストレスが溜まりやすく発散しづらい芸能人は無の境地に入りやすいでしょう。今も第一線で活躍している芸能人ですら、無の心で仕事に望んでいるときがあるようです。
マツコ・デラックスは仕事に対して
有名なコラムニストであるマツコ・デラックスさんは、仕事に対して無の境地に入っていると語っています。現在も多数の司会やレギュラー番組を抱え、辛口のコメントで支持されているはずなのに無の境地に入ってしまうのです。
「力を入れず、淡々と仕事をする」ということに重きを置くマツコ・デラックスさんは、どんな番組でも潔くやめる決意を持っています。それ故に、期待をしないしされたくないという感情が芽生えるのは仕方ないかもしれません。
いとうあさこは結婚に対して
マツコ・デラックスさんとは違い、いとうあさこさんは自身の結婚について無の境地に入っていると語りました。女性芸人の重鎮とも言えるいとうあさこさんは、兼ねてから結婚や過去の恋愛についてネタにしています。
年齢を重ねるにつれ、無の心で結婚という人生のターニングポイントに望むようになったそうです。女性芸人の中でも品のない発言を連発するのがある種の売りであるいとうあさこさんだからこそ、自身の結婚が難しいのだと悟りを開いてしまったのかもしれません。
無の境地にたどりつくには
普通の人間には到底たどり着けないと思われているのが無の境地ですが、近づくことは不可能ではありません。マルチタスクをやめ、一つのことに集中してみるのもいいのではないでしょうか。