ニヒルの意味とは?ニヒルな笑みなどの使い方を例文で紹介

「ニヒルな男」などとは、めっきり言わなくなりました。日常会話では完全な死語といって良いでしょう。しかし、ニヒルな状況は、まったく無くなっておらず増大する一方です。もう改めて一度ニヒルの意味を知り直し、事挙げする必要に迫られている時期が来ているのかもしれません。

ニヒルの意味とは?ニヒルな笑みなどの使い方を例文で紹介のイメージ

目次

  1. 1「ニヒル」の使い方を理解しよう
  2. 2「ニヒル」の意味や語源とは?
  3. 3「ニヒル」の使い方
  4. 4「ニヒル」の類語
  5. 5「ニヒル」の対義語
  6. 6ニヒルな人の特徴とは?
  7. 7狼疾記
  8. 8死を想え

「ニヒル」の使い方を理解しよう

現代において、その意味を理解し使い方をマスターすることに何の価値もありませんが、ニヒルを遊び感覚で学びましょう。ミイラ取りがミイラになるのも一興といえます。※ただし、自己責任でお願いいたします。

「ニヒル」の意味や語源とは?

ニヒルはラテン語の「nihil」から来ています。意味は虚無。虚無とは何も信じられないこと、信ずべき何物もなく、ただむなしいこと。空虚、がらんどう、からっぽ。

「ニヒリズム」は、1733年にドイツ人である「 Friedrich Lebrecht Goetz 」が『De nonismo et nihilismo in theologia caeterisque eruditionis partibus obviot 』というラテン語の本の中において、ラテン語で使用しています。意味は連続論と対置された原子論のことでした。

その後「ニヒリズム」は、哲学の中で種々変化していきました。権力への反抗のためには暴力を辞さない政治的ニヒリズムから、道徳的ニヒリズム、認識論的ニヒリズム、宇宙論的ニヒリズム、どうせ何をやっても最後はみんな死んじまう、生は無意味であり不条理だとする実存的ニヒリズムへ至るまで。

「ニヒル」の語源

ニヒルはラテン語から来ています。語源は「nihilum」で、接頭辞 の「ne:~ない」+「hilum :少量のもの」からなります。

「nihil」は代名詞で意味は「何も~ない」nihil est. :なんでもないです。nihil specto. :何も見てないよ。

ラテン語の例文 Nihil factum est. :何事も起こらなかった。

「ニヒル」の使い方

ニヒルの使い方を見ていきましょう。使い方はカンタン。ほとんど他者への無責任なレッテル貼りです。言っている人の印象ですから不正解なんてありません。昔はカッコよいイメージがありましたが、今は人へ使うのは、ほぼ死語です。哲学的意味合いにおいて、悪いイメージでしか使用されていません。

「ニヒル」を使った例文

ニヒルを使った言葉は、どうしても白黒映画のように時代がかってしまいます。ほこりの被ったコンテンツを掘り起こして、思い出したかのように使うとスマートでしょう。

ニヒルな人

・彼は狼みたいな奴で、呪われた詩人、ペトリュス・ボレルのようなニヒルな人だった。

・映画『座頭市物語』平手造酒を演じた天知茂は、ニヒルな人の役をやらすとピカイチだった。

・イヴァン・トゥルゲーネフの『父と子』にはニヒルな人たちが登場します。主人公のバザーロフからしてニヒリストなのですから。

ニヒルな笑み

・君はいったいキリストとおぼしき人物が大審問官へ向けた無言のキスとあれは、ニヒルな笑みだったというのかい?

・君が考えているようなそういう意味じゃないさ、あれは作者の強いニヒリズム、不条理な現実への捏造、積極的逃避、生への意志だったのさ。

・君もたいがいだな、そうやって自分だけ達観したような、薄ら笑いのニヒルな笑みを浮かべてるがいいさ。

ニヒリズム

・本人たちの主張はどうあれ、当時の一般人から見たら、ダダはアナーキズムともニヒリズムとも区別なんてつかなかったろ。

・ダダイストで詩人の辻潤はニヒリズムの生涯を送り、最後は虱(しらみ)まみれの餓死で終わった。

・ニーチェはニヒリズムにも、色んな種類があるといってたらしいぜ。

・たとえば、信じられるものが何もないから浮草のように漂うしかない弱いニヒリズムと、何もないなら自分からそれを捏造(ねつぞう)してでも生きようとする、強いニヒリズムの二種類のニヒリズムがある、とね。

・ニーチェは考えられる限り最悪のニヒリズムを自らへ突き付けた、それが同じことの繰り返しのニヒリズムというやつだ。

・だから、人類にはニヒリズムを超克した奴なんていないのさ。君はドラクエを一回目と百回目で、同じ気持ちで出来るかい? ――な、それがニヒリズム。

「ニヒル」の類語

ニヒルの類語や、それへの連想語からあれこれ紹介していきます。
 

・虚無的・無関心・無感情・無感動
・捨て鉢・投げやり・斜に構える・自暴自棄
・冷淡・冷徹・冷酷・薄情・超然・他人事
・砂粒のような・孤立的・アトミズム
・クール・シニカル・デカダン・アプレゲール

虚無的

虚無的とは、中身のない中心軸の無い、うつろな状態のこと。からっぽ。

・『虚無思想研究』は日本の虚無的なダダイストたちの手による月刊誌でした。

・東西文化上の虚無的イメージとして、西洋における虚無は有と対立した無意味な悪だが、東洋における虚無思想の伝統は、有の可能性を秘めた、空、真如、道、無極にして太極などにみられるような充実としてある。

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斜に構える

斜に構えるとは、相手を見下したり、見下したい気持ちが前提としてあるところから来る態度です。それは、往々にして自虐(じぎゃく)へと繋がっています。したがって、あまり燃料やエサを与えないようにしてください。

・アンデルセンの斜に構えたエゴイスティックな態度というのは一種独特で、万物平等の慇(いんぎん)さで示された。それは深い孤独から来るものであったというトルストイの言葉を引用しつつ、花田清輝は『汝の欲するところをなせ――アンデルセン――』の中で持論を語っている。

アプレゲール

アプレ、アプレゲールとは、第一次大戦後は「エロ・グロ・ナンセンス」の流行であり、第二次世界大戦後は規制の権威、道徳観を無視する無軌道な人たちのことをさしました。一種の唯物主義者であり、極論すれば「信じられるものは金と性欲だけ」みたいな人たちのことです。光クラブ事件などがその代表例でした。

・私にいわせれば、石原慎太郎は昭和のアプレだったし、橋下徹は平成のアプレである。どっちも一時保守のふりをしていたのが奇妙な共通点だ。それに、ひろゆき、ホリエモン、竹中平蔵を足したら、平成の四大アプレの完成だ。

・アプレの彼らに共通しているのは、カントのいうような不快に耐えた後に得られる「崇高さ」が足りないということだ。

「ニヒル」の対義語

ニヒルの対義語と、それから連想される言葉の紹介をします。
 

・有意味・有的・有時間・横溢(おういつ)・充溢(じゅういつ)
・熱心・興味審査・情熱的・存在的
・信心・信仰・信頼・連帯
・歴史的・回帰的・循環的・つながり
・エネルギー・アガペー

有意味

・有意味な人生を求めると、結局、人に振り回されることにならないかな。

・何をそんなに守りたいのかね? 君は何事にも有意味を否定するのだから、当然、自分も信じちゃいないはずだのに。

・現象とコトバをポストイットみたいに、都合よく貼りつけたり剥がしたりする気ままさの有意味を否定しているんだよ。

・じゃあ君の中には法則があるんだ、それは有意味だろ。

・人間は生活を楽にするために、物質の傾向を記憶に留め有意味に活用するのさ。

情熱または情熱的

情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう

『情熱の薔薇』 THE BLUE HEARTS 作詞作曲 甲本ヒロト。 TBS系、ドラマ斉藤由貴主演の『はいすくーる落書2』の主題歌でした。

アガペー

アガペーとは、一般的にいって神からの人への愛である。英語の古カトリック訳では「チャリティー」(charity)と訳されました。 「エロース」loveだと、情欲的な愛と誤解される惧(おそ)れがあるためです。ラテン語の訳では「カリタス」caritasを当てました。

ニヒルな人の特徴とは?

ニヒルな人は孤独を常の友としています。おしゃべりであっても、結局は一人です。その風が来たのが、生まれか、育ちかは、誰にもわかりません。

口数が少ない

ときに、口数は多い時もあります。おしゃべりなくらい喋りますが、現実暴露をともないます。悪意のある場合と、悪意の無い場合が考えられます。なぜなら彼にとっては、それが心の習慣だからです。ある意味倫理的であり、態度としては非倫理的ともいえます。

何を考えているのか分からない

ニヒルな人は人なみのことしか考えていません。人間だもの。

狼疾記

「養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也。」孟子。其の一指(いっし)を養(やしの)うて、其の肩背(けんはい)を失えども、而(しか)も知らざるときは、則ち狼疾(ろうしつ)の人たり。

中島敦の書いた『狼疾記』(ろうしつき)の序文には、上の文字が掲(かか)げられています。狼疾とは、「ある人が一本の指に気を配っているうち、その肩や背まで失っていることに気がつかない状態、それを狼疾の人という」のだそうです。

始まりは南洋ですが、プルーストのような何気ない想起から、ある不安が立ち上ってきます。主人公が少年時代に患った、漠とした病的な不安。それは自分だけでなく、地球や太陽にも終わりがあることにと気づいてしまった、存在の不確かさに由来する不安でした。

大人から杞憂(きゆう)と一笑に付されても、それが真実であるがゆえ、彼の不安は消えません。大人は誰も、根本的には否定してくれないのですから。彼自身が大人になった今でも、知に対するわだかまりが残りました。「どうにもならないものを、神はオレに与えやがった」という怒りが。

しかし、その後の展開は低俗に堕してい行きます。太宰治の『トカトントン』のようなラスト(自分への説教)で終了。ありきたりなものを、ありきたりに書くという作者の野心(下心)でしょうか。嘉村磯田(かむらいそた)のような私小説にも、ルソーやドストエフスキーのような告白文に届かず、狙った失敗作(凡作)にもならない結果で終わりました。

死を想え

ニヒリズムないしニヒルな人は、現在には不必要なのでしょうか。そうは思いません。ニヒルを否定する人はニヒルを認めなければ、部分しか愛さないことになります。ニヒルに客観的事実があるのは曲げようもありませんが、愛には嘘をつき続ける態度にこそ真実があるからです。もちろん他人に押し付けるのではなく。

昭和と比較してではなく、2000年代一桁の平成と比較しても、犯罪率は急激に激減しています。真夏の濃い闇としてのニヒルが薄れた今、その陽射しも陰っているにちがいありません。

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