ミハエル・シューマッハの現在!事故で脳死?今はどうしている?

ドイツの天才F1レーサー、ミハエル・シューマッハ、現在彼の最新情報は?ミハエル・シューマッハは引退後スキー事故で脳死状態となり死亡したとの報道もありました。死亡説が出るほど酷い事故だったのです。現在も事故の後遺症のためリバビリを続ける彼の最新情報を紹介します。

ミハエル・シューマッハの現在!事故で脳死?今はどうしている?のイメージ

目次

  1. 1F1レーサー!ミハエル・シューマッハの現在は?
  2. 2ミハエル・シューマッハの現在までの成績
  3. 32013年のミハエル・シューマッハのスキー事故
  4. 42014年の昏睡状態から回復したミハエル・シューマッハ
  5. 52017年のミハエル・シューマッハ
  6. 6ミハエル・シューマッハの現在
  7. 7ミハエル・シューマッハとその家族に穏やかな幸福が訪れますように

F1レーサー!ミハエル・シューマッハの現在は?

F1レーサーとしてほぼ全ての記録を塗り替えたシューマッハ。今後もおそらく彼を抜くドライバーは現れないといっても過言ではありません。フォーミュラーワンのオフィシャルホームページでは「モータースポーツ史上最も偉大なドライバー」と賞賛されています。その冷徹で正確なドライビングから、「サイボーグ」と呼ばれる時期があったほどです。

ミハエル シューマッハの生涯記録

チャンピオン 7回
優勝 91回
ポールポジション 68回
ファステストラプップ 77回
ポールトゥウィン 40回
グランドスラム 5回

ドイツ初のF1ドライバー、ミハエル・シューマッハは1991年8月F1グランプリで初優勝しました。シューマッハは優勝91回、チャンピオンを7度獲得、これはF1での最多記録です。1991年から1995年までジョーダン‐ベネトン・チームに在籍、その後フェラーリ・チームに移籍。2006年に一度引退しましたが、2010年にメルセデスと契約しF1に復帰しました。

事故後から現在の容態は不明

2度目の現役引退後の2013年12月、スキー中の転倒事故で頭部を負傷し、2014年6月に意識を回復するまでのおよそ半年もの間、昏睡状態が続きました。意識が戻らないシューマッハが脳死状態であり余談を許さない容態と広まっていました。家族の希望により、彼の容態は公開されなかったため、今に至るまで死亡説が出ることも何度もありました。

意識回復後、スイスのローザンヌ大学病院でリハビリに専念し2014年11月に退院しましが、ジュネーブの自宅に戻った現在も身体の麻痺と言語障害、記憶障害が残っていて車椅子での生活を余儀なくされているとも言われていますがミハエル・シューマッハについて、現在、最新情報は出ていません。

現在は49歳になるミハエル・シューマッハ

1969年生まれのミハエル・シューマッハは2018年現在、49歳です。彼の今の容態は?最新情報が一切公開されていません。

最近フランスの『L’Equipe(レキップ)』が報じたところ、現在シューマッハは自宅に隣接する自宅内病院のような機能をもつ小さな建物の中で生活しているようです。最新情報を追う2人のジャーナリストはレマン湖のほとりにあるミハエル・シューマッハの自宅に近づいたものの、そこで警備担当者に制止されたといいます。

二人のジャーナリストは、現在の最新情報を求めて追跡する事が仕事ではあるもののリハビリを続けるミハエル・シューマッハのプライベートを今、晒すことは雑誌のイメージを下げるだけと、詳細の掲載は断念しています。
シューマッハに関しては、少し前にアメリカのリハビリ専門施設に転院し療養を続けるのではないかとの報道もありましたが、その後最新情報は伝えられていません。

年収や総資産

ミハエル・シューマッハは、2004年にはフォーブス誌の世界スポーツ選手長者番付で、第2位に選ばれています。 2004年の年収はおよそ80億ドルで、フォーブス誌はシューマッハを世界で最もパワフルな有名人リストの第17位に選んでいます。続いて2005年には、ユーロビジネス誌がシューマッハを世界で初めての億万長者スポーツ選手と称えました。

ここで、現在のF1レーサーを見てみましょう。2017年度F1レーサーの年俸ランキング調べによると、F1レーサーの年収の平均はおよそ3億円です。2017年度の年俸ランキングトップは、2017年まで契約が残っているセバスチャン・ベッテルの56.7億円、2位はフェルナンド・アロンソの45.4億円です。

しかし、今現在、世界のF1レーサーで年俸が1億円を超えているのは、13位で年俸が1億円のジョリオン・パーマーまでです。上位13人の年俸は1億円を超えていますが、残りの約40名の年俸は1000万円前後と推測されます。2017年現在の現役選手たちの水準と比較しても、現役時代にミハエル・シューマッハがどれだけ稼いでいたのかがわかります。

ESPNによれば、シューマッハの個人資産は、2010年には約750億円でした。当時、メルセデス・チームからの年俸が30億円で、その他スポンサー契約などの収入が約13億円。現役を離れてから、資産や収入がメディアに公開される機会はなく、推定は難しく今の資産総額は不明です。しかし、2013年のスキー事故後は資産も目減りしているようです。

愛車

サーキットではF1マシンを手足のように操っていたミハエル・シューマッハは、プライベートではどんな車を乗っていたのでしょうか?ミハエル・シューマッハの愛車を見てみましょう。

ミハエル・シューマッハの愛車 フェラーリカリフォルニア

フェラーリ カリフォルニアは、フェラーリ初のクーペ・カブリオレ2プラス2シートのモデルとして、2008年に発表されました。何台もフェラーリを所有するミハエル・シューマッハにとってカリフォルニアは特にお気に入り、一番の愛車であったと現役時代に語っています。

ミハエル・シューマッハの愛車フェラーリ エンツォ・フェラーリ

エンツォフェラーリ(Enzo Ferrari )はフェラーリ創業55周年を記念して製造、販売されました。他にもシューマッハのフェラーリの愛車は日本でも売り出された550マラネロがあります。2003年にインターネットで受付を行ったこのシューマッハの愛車の価格は1500万円、彼の愛車の証明としてシューマッハ直筆のサインが入っていました。

ミハエル ・シューマッハの愛車 ブガッティEB110SS

EB110GTは、1991年、ブガッティの創立者エットーレ・ブガッティの生誕110年を記念して発表されました。車名はエットーレ・ブガッティのイニシャルEBと生誕110年に由来しています。ミハエル・シューマッハはこの愛車を1994年に購入。シューマッハの愛車の車体はバナナイエローでした。

2010年にEB110SSは、60万ユーロ(約6800万円)で売りに出されています。走行距離は4627kmという極上車です。世界に33台しか存在せず、しかもミハエル・シューマッハの愛車となれば、希少価値はいっそう増します。

ミハエルシューマッハの愛車 ハーレーVRSCファミリー

シューマッハは大変なバイク好きとしても知られ、数代を愛車として保有していました。ハーレー・ダビッドソンは、フェラーリレッドのミハエル・シューマッハ仕様の特別モデルを発売したことがあります。シューマッハが4度目のドライバーズタイトルを獲得した時の勝利数にちなんで、51台限定で生産されました。フェラーリレッドに彩られています。

ミハエル・シューマッハの愛車であるハーレーVRSCファミリーは、ハーレーダビッドソン唯一の水冷DOHCエンジン搭載車として登場したバイクです。

ミハエル・シューマッハの現在までの成績

ミハエル・シューマッハのレーサーとしての歴史は時には彼自身の命が危険に晒される死亡事故と隣り合わせ、批判を受けるようなレース展開をしたこともあります。4年間レースを共にしたアイルトン・セナは実際にレース中に事故で死亡しました。
シューマッハはセナの死亡によりチャンピオンになったという汚名を長年着せられます。自らの実力を証明するためにその才能と努力を尽くしたレーサー人生でした。

ミハエル・シューマッハ 生い立ちからF1デビューまで

1963年1月3日、ドイツのフュルト・ヘルミュールハイム で誕生。4歳の時、煉瓦職人の父から贈られた“原動機付きペダルカー”が車との出会いでした。夢中で路上を走らるミハエルが電柱衝突し、心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的レーシングカートと”と遭遇しました。ミハエルの父はカート場の管理を兼業するようになりました。

1983年にライセンスを取得し、1984年~1987年にドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、ドイツとヨーロッパのカートチャンピオンとなりました。彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かでなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うこともあったといいます。しかし、恩師の支援によりレースを続けました。

中学卒業後は自動車販売店に入社し整備士の資格を取得。1988年、ジュニアフォーミュラにステップアップし、フォーミュラ・フォードに参戦しました。ドイツF3選手権に参戦するWTSレーシングのオーナーに見初められマネージメント契約を結びます。ドイツF3では1989年に2勝を挙げ、チャンピオンに1ポイント差のシリーズ3位。

ミハエル・シューマッハは1990年には5勝してチャンピオンに。同年のマカオGPではイギリスF3王者ミカ・ハッキネンを下して優勝。その1週間後、日本の富士スピードウェイで初開催のインターF3リーグに参戦。F3の国際レースで2週連続優勝しました。

1990年、メルセデス ベンツが立ち上げた若手育成プロジェクトに選出されます。ミハエル・シューマッハと他2名の若手レーサーは、ベテランのヨッヘン・マスのパートナーとして交代で参戦しました。ミハエル・シューマッハは4戦出場してドライバーズ選手権5位、最終戦のメキシコで初優勝しました。

1991年はスポーツカー世界選手権 (SWC) に8戦出場し、ル・マン24時間レースでは5位入賞。ワークス最後のレースとなった日本ではヴェンドリンガーと組んで優勝しました。ドライバーズ選手権は9位。これらの好走が、同年のベネトン移籍に繋がることになります。

ジョーダン-ベネトン在籍期(1991年 - 1995年)

ベネトン在籍期間は、ミハエル・シューマッハのF1レーサーとしての本格始動であり、当時のチャンピオンや天才レーサーと戦った伝説の幕開けとも言えます。F1へのフル参戦初年度となった1992は、ネルソン・ピケに代わるベネトンのエースとして期待され、第2戦メキシコGPで3位初表彰台を獲得しました。

ドライからウェットへ移行する難しいコンディションとなった第12戦ベルギーGPで、この年のチャンピオンチームとなるウィリアムズ勢を見事な戦略で破り、デビュー18戦目でF1初勝利を達成しました。シーズンを通じてコンスタントに上位を走行し、前年のチャンピオン、アイルトン・セナを上回るランキング3位を獲得しました。

1993年は過熱するハイテク競争の中でB193Bの信頼性不足により、決勝は表彰台に登るかリタイアという両極端な一年になりました。マクラーレンがフォードエンジンに切り替えたため、セナとの対決はフォードワークスの主導権争いという側面もりました。開幕戦南アフリカGPではセナを追撃中にセナの強引なブロックに遭い単独スピンしました。

モナコGPではトップ独走中にミハエル・シューマッハのマシンが炎上してリタイアし、アイルトン・セナが優勝しました。ミハエル・シューマッハとアイルトン・セナは常に双璧として激しく戦いました。

アイルトン・セナの死亡事故 

アイルトン・セナはF1ドライバーとして1世代前になります。2人は4年間シーズンを共にします。1992年頃からメディアの前でアイルトン・セナがミハエル・シューマッハに詰め寄るシーンが多くなります。2人の間では互いに進路妨害・接触事故が数回あり故意だったとされ、確執も生まれました。

繊細で神経質なアイルトン・セナとは決して盟友の仲ではりませんでした。当時、ミハエル・シューマッハは若手F1ドライバーとしてメキメキと才覚をあらわし始め、セナの新たなライバルとして注目され始めた矢先に不幸が起きます。1994年第三戦サンマリノGP、イモラ・サーキットでのセナの死亡事故が起こりました。

ミハエル・シューマッハは「生涯の目標でありライバル」のセナの死を目の当たりにします。突然「越えるべき壁」を失った若干4年生ドライバーのシューマッハは、この瞬間からF1界を背負うことになり、追われる立場に一転します。セナ亡き後、公私共に釈然としない不名誉なF1王者になってしまいます。

アイルトン・セナの死亡事故を間近で目撃したことによって、警察から事情聴取を受けます。セナの葬儀にはミハエル・シューマッハの姿はありませんでした。「公の場で悲しむ姿を見せたくなかった、メディアは僕の涙を期待していたから」と語っていますが、当時セナのファンから殺害予告等、脅迫を受けていたとも言われています。

後にミハエル・シューマッハはブラジルのアイルトン・セナの墓に妻のコリーナと訪れています。結局1994年、セナが死んだシリーズに初のチャンピオンになったものの、会見で「シーズンのチャンピオンはセナだ。タイトルはセナに寄贈したい」と発言します。

次戦モナコGPでは、自身初のポールポジションを獲得。決勝でも優勝し、ポール・トゥ・ウィンを達成しました。前半8戦中6勝してランキング2位のデイモン・ヒルに37点差をつけましたが、後半戦はペナルティトラブルに見舞われました。ルール違反認定されベネトンチームに25000ドルの罰金、出場停止処分などを受けました。

タイトル争いはミハエル・シューマッハの1ポイントリードで最終戦オーストラリアGPまでもつれこみました。レース中にヒルと接触し、両者リタイアによってチャンピオンが決定したため、この接触は故意か否かで物議を醸しました。この結果、自身初、ドイツ人としても初のドライバーズタイトルを獲得しました。

1995年シーズン中にベネトンとの契約延長しないと表明。メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの移籍が噂されましたが、長くタイトルから見放されている名門フェラーリへの移籍を選択しました。ベネトンから有能なスタッフを連れ立って移籍し、「勝つためにはなんでもする」信念を貫き、がむしゃらにタイトルを勝ち取っていきます。

フェラーリ在籍期(1996年 - 2006年)

ミハエル・シューマッハは10年間はフェラーリに在籍しフェラーリの最も栄光に満ちたエポックを築き上げました。2000、01、02、03、04年と5つのタイトルを獲得しました。彼の打ち立てた72勝、116回の表彰台(優勝を含めた回数)はフェラーリの多くのレーサーの中で現在でもダントツの記録です。

1999年 ミハエル・シューマッハの死亡リスクの大事故

1999年第6戦カナダGPではスタートで出遅れたミハエル・シューマッハはハンガーストレートでアーバインをパス。しかし、ストウ・コーナーへのアプローチで減速できず、コースアウトしてタイヤバリアに真っ直ぐ突き刺さりました。ブラックボックスの記録では衝突時の速度は107km/h、マシンには瞬間的に50Gが懸かっていました。

ミハエル・シューマッハはモノコック内部に足を強打し、ヘリコプターで病院に緊急搬送されました。「右足の脛骨と腓骨の骨折」により自身のレースキャリアで初めての負傷欠場に追い込まれました。事故状況についてシューマッハは「どんどんブレーキが効かなくなった。なんとかスピードを落とそうとしたが駄目だった」と述べています。

ミハエル・シューマッハは病院で自身がクラッシュする瞬間のレースの映像を見て「今、自分が生きていられるのは幸運」と語りました。フェラーリは事故原因を「リアブレーキキャリパーのトラブル」と発表しました。

2000年 アイルトン・セナの41勝に並ぶ

ミハエル・シューマッハは事故のあった1999年後半にはレースに復帰しました。その後引退まで圧倒的な強さで数々のレースを勝ち抜きました。アイルトン・セナの死亡事故から6年経った2000年、生涯通算41勝でアイルトン・セナの記録と並びました。41勝はアイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハ共に9年で達成したことになります。

会見でジャーナリストにアイルトン・セナの事を質問され感慨深くなって泣き崩れ、同席したミカ・ハッキネンも思わず泣いてしまう名場面がありました。セナの死亡事故の後、不名誉なチャンピオンという汚名を自ら返上した瞬間でした。その後、ミハエル・シューマッハは圧倒的な強さで「F1の皇帝」と呼ばれるようになります。

2003年最愛の母の死亡

2003年シーズン、マクラーレンやウィリアムズとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げていました。第4戦サンマリノGPの決勝日にミハエル・シューマッハの母親が死亡しました。

このレースでポール・トゥ・ウィンを果たしましたが、記者会見でシューマッハの代理でインタビューに応じたジャン・トッドはミハエル・シューマッハのことを「ドライバーとしてでなく、1人の男として凄いことを成し遂たと思う」と答えました。

最終戦鈴鹿で、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得しました。また、ヨーロッパグランプリで、F1史上初の通算1,000ポイントを獲得しました。しかし2005年、2006年と苦戦が続くようになります。2006年第15戦イタリアGP後の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明しました。

会見では、ファン、家族、フェラーリの仲間とベネトン時代の仲間に感謝したいとも述べました。

F1現役引退後 (2007年 - 2009年).

2007年はアドバイザーという役職に立場を変えフェラーリのF1に関わり、チームを見守ることとなりました。モナコGPでは、前年までのライバルだったレーサーと握手を交わす姿がTVに映し出れたり、ヨーロッパGPには表彰台でトロフィーを渡す役として登場し、注目を集めました。

スペインで開催のイベントでドゥカティのMoToGPバイクに乗り、現役ライダーの5秒落ちというタイムをマーク。ジャーナリストらを驚かせました。2008年3月にはイタリアのマイナーレースでデビュー、4位入賞、5月にはドイツ国内のスーパーバイク選手権に参戦しましたが、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わりました。

2007年11月のバルセロナ合同テスト、同12月のヘレス合同テストに参加しました。約1年ぶりにF1マシンでしたが、バルセロナでは2日連続でトップタイムをマークし、関係者を驚かせました。同年のシーズンオフに、ミハエル・シューマッハ最後のチームメイトだったフェリペ・マッサが主催のカートイベントに参加し、総合優勝を果たしました。

その後、2009年スリックタイヤテストの際に、テストドライバーとして度々F2008を走らせています。2009年のハンガリーGP公式予選走行中、フェリペ・マッサが事故により頭部を負傷、復帰まで時間がかかるため、その代理としてヨーロッパGPからF1に復帰すると発表されましたが、2月のバイクレース転倒により復帰を断念しました。

F1復帰メルセデス在籍期 (2010年-2012年)

2009年12月23日、メルセデス・グランプリから4シーズンぶりにF1に復帰することが発表されました。復帰後は苦戦が続き、ミハエル・シューマッハは解雇されるべきだな等さまざまな方向からの批判が強まりますが、ミハエル・シューマッハ自身は復帰を後悔したことはなく、自信を失ったことは一度もないと述べています。

3年の契約期間中、安定した強さは戻らず、「苦戦」と「かつての目覚しい才能と速さ」を取り戻す乱高下のような成績が続きます。ミハエル・シューマッハ自身のレース後の発言にもこの不安定な成績が反映され、「レースが面白くない」とモチベーション低下を発し物議を醸したり、またある時は「心から追い抜きを楽しんだ」と述べています。

2013年のミハエル・シューマッハのスキー事故

2013年12月29日、ミハエル・シューマッハは当時14歳の息子ミックと、フランスアルプスでスキーをしていました。フランス・グルノーブルのメリベル・リゾートでのことでした。シューマッハは、ゲレンデ外を滑走中に転倒、岩に頭部を強打しました。

Piste ChamoisとPiste Mauduitの間の安全でないオフピストエリアを横切っている間、崖から落ちて岩の上で頭を打ったのです。

事故直後、錯綜する情報 死亡説、危篤、脳死

第一報ではミハエル・シューマッハの容態についてダメージは軽いものと報道されました。「彼は常識的な速度での滑走で事故当時ヘルメットを着用しており、ショックを受け軽い脳震盪を起こしていましたが、意識はあります。頭蓋に外傷があるかもしれないが、重傷ではありません」と関係者は発言しています。

しかし、時間が経つにつれその深刻度合いが報じられました。ミハエル・シューマッハの代理人ザビーネ・ケームは29日夜に声明を発表しました。その内容は「彼は頭部外傷を受けており、迅速な神経外科的治療を要する昏睡状態にあります」というものでした。 ミハエル・シューマッハの容態は危険なものであると発表されたのです。

脳死と昏睡

当時治療にあたった医師は、ヘルメットを着用していなければ、ミハエル・シューマッハはおそらく死亡しいただろうと語っています。その時のスピードは時速20km程度だったと言われていますが、着けていたヘルメットが割れるほどの衝撃だったそうです。緊急搬送された地元の病院で検査したところ、脳挫傷と脳浮腫などが発見されました。

ミハエル・シューマッハは、脳外科の専門チームが待つグルノーブル大学付属病院に搬送されます。2度に渡る手術を経、危機的な状況を脱し、回復を待つため「人工的なこん睡状態」に置かれます。しかし「脳死」状態であると広がってしまいました。

人工的な昏睡状態に置くのは、術後の状態が安定する2~3週間程度が一般的であり、ミハエル・シューマッハの場合も容態が安定するまでとされていました。

元F1ドクターの医学的分析 人工的昏睡と脳死の違い

ミハエル・シューマッハは、「頭蓋内出血」を起こしたといいます。その後、ミハエル・シューマッハはグルノーブルの病院で緊急の神経外科処置を受け、昏睡状態となっています。 2012年までF1ドクターを務めたゲイリー・ハートスタインは、Twitterでミハエル・シューマッハの容態を医学的に説明しました。

「硬膜外血腫(頭蓋内出血)が、怪我の後、意識清明期を経ることは、現在良く知られていることです。血腫ができ、圧力の急増によって思いがけない劇的な徴候が起こります。圧力は素早く軽減させなければなりません。これは、神経外科処置によってなされます。その後、傷病者はICU環境で観察されます」

「人工的な昏睡について。これは解明のためになされるものです。どんな激しい頭部外傷であっても、舌と喉の筋肉の調整損失に繋がります。眠っている際、いびきが起こります。しかし、これは呼吸障害であり、二酸化炭素を増加させ、酸素を低下させます。しかし、脳は酸素を欲し、二酸化炭素を嫌います。

それで、我々はチューブを患者の気管に入れ、マスクを使用します。これにより気道が保護されます。そして、換気と酸素投与をコントロールします。ですが、挿管するためには深く麻酔をかける必要があります。これが通常で言う“人工的な昏睡”です。昏睡が誘発されますが、それは実際には持続、保護、麻酔のようなものです」

ミハエル・シューマッハは脳死なのか?

脳死とは、ヒトの脳幹を含めた脳すべての機能が不可逆的に回復不可能な段階まで低下して回復不能と認められた状態のことをいいます。脳死判定の前提としてあげられるのが深昏睡であり、原疾患が確実に診断されており、回復の見込みがない状態をさします。脳死については各国の見方も異なるところもあります。

ミハエル・シューマッハの場合、スキー事故により脳に与えられた損傷を回復させ、外部刺激から一時脳をシャットダウンするための人工的昏睡状態であるため完全な脳死ではありません。完全な脳死をさけるため人工的昏睡状態を続けることの選択でした。

2014年の昏睡状態から回復したミハエル・シューマッハ

事故からほぼ1ヶ月後の2014年1月30日、ミハエル・シューマッハの主治医から昏睡状態から覚醒させるという発表がありました。死亡説や脳死説が広がるなか、ミハエル・シューマッハ静かに戦い続けていたのです。

3月には自力で呼吸でき、4月にはようやく意識を回復し、会話に反応できるという朗報が届きました。その後、6月15日にリハビリのためスイスのローザンヌ大学病院に転院、同年11月19日にようやくジュネーブの自宅に戻ることができたと報じられました。

2017年のミハエル・シューマッハ

ほとんど現在の最新情報が出されないまま、事故から5年が過ぎようとしています。ミハエル・シューマッハの現在の健康状態、容態はわからないものの、彼をとりまく環境、彼を守る家族には変化が起こっています。

スポンサー2社が契約を解除

2017年ミハエル・シューマッハのスポンサーを務めてきた2社が新たに契約解除しました。ミハエル・シューマッハがスキー事故で重傷を負ってから3年が経過していましたが、容態など最新情報は公表されていません。しかし、そのような状況でも、企業はスポンサーを継続してきました。

そんな中、新たに高級時計ブランドであるオーデマ ピゲとドイツのドアメーカーであるホルマンが契約解除しました。

オーディマ ピゲは、ミハエル・シューマッハを記念したラインをコレクションから外しました。ミハエル・シューマッハの事故後、現在に至るまでにもジェットセット、ネイビーブーツ、ロスバッハーなどがすでに契約を解除しています。現在もまだスポンサーを継続している企業は残っていますが、それらの企業も契約金額の値下げ交渉を行ったと報じられています。

そんな中、ドイツの会計コンサルタント会社であるドイチュ・フェルメーゲンスベラトゥンは、現在もミハエル・シューマッハのスポンサーを継続するとともに、今後F1昇格を目指す息子のミック・シューマッハに対しても強力な支援を行っています。 

現在も容態は回復せず?

ミハエル・シューマッハの容態について、2016年にはドイツのBunte誌が、ミハエル・シューマッハの家族の友人からの最新情報だとし、「シューマッハはセラピストの助けを借りて歩くことができる。」と伝え、イギリスのガーディアン紙は、「彼は現在、再び歩くことができる」という見出しを出すなど、マスコミの憶測記事が世界中のファンを困惑させました。

これに対しミハエル・シューマッハの家族はBunte誌に対して訴訟手続をとりました。シューマッハ家の弁護士フェリックス・ダムは「現在、彼は歩くことができない」と法定で述べました。これがミハエル・シューマッハの健康状態、容態について数少ない公式コメントとなりました。

長年ミハエル・シューマッハのマネージャーであるサビン・ケムも、一連のマスコミの報道は無責任であり、真実ではない、多くの関係者に誤った期待を与えていると述べています。

ミハエル・シューマッハの現在

ミハエル・シューマッハの2013年のスキー事故による怪我、健康に対するダメージは非常に深刻で一時は死亡説まで出るほどでした。その後、退院し自宅療養となりましたが、現在、ほとんど一切の今のミハエル・シューマッハの容態、健康状態につていの最新情報は公開されていません。

それほど深刻なダメージであり、それが彼にとって重大なプライバシーであるという考えの家族、関係者によって、世間に情報が晒されることがないように固く守られています。守秘されると尚更、彼の容態が現在も脳死状態なのか、目線によるコミュニケーションが可能であるなど根拠のない憶測、噂が耐えません。

現在もミハエル・シューマッハは療養中

現在、ミハエル・シューマッハはジュネーブの自宅で静養とリバビリを続けているとされています。ミハエル・シューマッハのプライバシーは家族の意向で厳重に守られ、現在の容態などの続報、最新情報が報道されることはありません。

あまりに最新情報が公開されることがないため、すでに死亡しているのでは?いう憶測が今、現在もあります。2016年11月にベネトン、フェラーリで、シューマッハとチームを組んだロス・ブラウンが、ミハエル・シューマッハの容態について「憶測が飛び交っているがほとんどは間違い」とコメントしています。

ロスブラウンの発言もミハエル・シューマッハの家族の心情やプライバシーを尊重し、心無い報道を抑止する意図があっての言葉だと思われます。今現在は、実業家でもあるコリーナ夫人と2人の子供たちが闘病するミハエル・シューマッハを支えています。

最新情報として最先端の治療に必要な費用を捻出するため、ノルウェーの豪邸や自家用ジェット、ミハエル・シューマッハの愛車フェラーリF2000などを売却したという報道もありました。

妻コリーナ夫人の支え

旧姓はコリーナ・ベッチュといいます。事務職の職業訓練学校を卒業後、1987年に当時F3ドライバーであったハインツ・ハラルド・フレンツェンと出会い交際を続けていましたが、1991年頃より、ハインツの友人でもありメルセデスベンツのの若手育成ドライバーで同期でもあったミハエル・シューマッハとも親しくなり、最終的にコリーナはミハエル・シューマッハを選ぶ事となりました。

1995年8月1日、ペーターズベルクにてミハエルとコリーナは4日間に及ぶ結婚式をし、ケルペンにて入籍しました。結婚後コリーナは以前よりレイニング競技に積極的に参加していた事から転じて、2005年よりスイスのヴォー州に私設の馬牧場を創業。2010年レイニング乗馬ヨーロッパ大会にて優勝を果たしています。

二人は一男一女を授かりました。2013年のミハエル・シューマッハのスキー事故以来、献身的に夫をささえ続けています。2014年F1ドイツGPの公式プログラム上で夫が挑む“闘い”の“最も厳しい時期”は終わりを迎えたというポジティブなメッセージをファンにむけて発信しました。

ドイツ語と英語のメッセージには、スキー事故以来、ファンやサポーターたちから示されたサポートにシューマッハ一家が圧倒されたと書かれています。6カ月の治療的昏睡状態を脱したミハエル・シューマッハが、スイスのリハビリクリニックに転院した際に、コリーナ夫人は「私たち全員が一緒になって厳しい時を乗り越えてきたことが嬉しかった」とコメントしています。

「今現在は長い時間がかかると予想される段階がスタートしています。皆さんはF1であれだけ長い間応援し続けてくれた方々ですので、今回の闘いでも、もう一度、ミハエルの盟友になってくれると信じています」
一方で事故以来ほとんどミハエル・シューマッハの容態、最新情報を一切ファンに明かさないコリーナ夫人に対し批判的な意見も届いています。

息子のミック・シューマッハに託される未来

2017年11月現在18歳のミハエル・シューマッハの息子ミックシューマッハは、今季ヨーロッパF3選手権に参戦。今、父親が歩んだ道と同じ道をたどりはじめました。当時元F1ドライバーのミカハッキネンが、「ミックシューマッハがF1でも成功できるかどうかといったようなことを話題にするのはまだ早すぎる。」と語っています。

F1ベルギーGPの決勝レースの前に、ミック・シューマッハは、父ミハエル・シューマッハが1994年に初めてドライバーズタイトルを獲得したベネトンB194のデモ走行を行いました。1992年ベルギーGPでの初優勝から25周年を記念して行われたイベントで、今季ヨーロピアンF3選手権に参戦している長男ミックがドライバーを担当しました。

この日のために右半分は自身の、そして左半分は父ミハエル・シューマッハのベネトン時代のカラーリングが施されたスペシャルデザインのヘルメットがを身に着けていたのが印象的です。ミックも、現在にいたるまで、父の容態について公式の場で語っていません。

ミハエル・シューマッハの息子ミック・シューマッハは自身のホームページで、次のように語っています。「レースは僕が夢に見てきたことだ。実際、レースのことは僕の心の中にずうっとあった。レースはとても疲れるし、とても困難だがすごくやりがいがあるんだ。実に最高さ。」

2017年8月29日、ミックが将来のF1参戦へ意欲を語りました。現在欧州F3選手権に参戦している18歳のミックは27日、ミハエル・シューマッハのF1初優勝から25周年を記念し、父が乗ったベネトンB194でスパ・フランコルシャンを駆りました。独紙ビルトに対し「もちろんF1が目標だが、レースに出る前に勝負できるドライバーになりたい。このまま鍛錬を続けて知識を深め、ドライバー、そして一チームメンバーとして成長したい」と語りました。

イタリアのプレマ・パワーチームに所属するミックは、F3であと2年過ごした上で、その後の2年間はF2選手権を主戦場としステップアップを図りたいといいます。「結局のところ、週末のレースに関係するすべてのことを可能な限り完璧にするのが最も重要だ。誰もがそれを理解しなくてはいけない。誰かに押し付けられるようなものではないのだから」 

家族はチャリティー活動を行っている

2013年12月29日。あの日から3年が経とうとしている2016年12月17日、ミハエル・シューマッハの家族は、「決して諦めない」ことを世の中に広めていきたいという思いから、非営利活動『Keep Fighting Initiative(キープ・ファイティング・イニシアチブ)』を新しいウェブサイトやSNSで起ち上げました。

妻のコリーナは「他の人たちが決して諦めないように励ましたい」とのメッセージとともに、夫であるミハエル・シューマッハの2007年の次のような言葉を紹介している。「僕はいつも、どんな時でも決して諦めてはいけない(never, ever give up )と信じてきた。ほんのわずかなチャンスでも常に戦い続ける(keep fighting)べきだ」

ミハエル・シューマッハとその家族に穏やかな幸福が訪れますように

「F1の皇帝」とまで言われ、全世界のF1ファンを熱狂させたミハエル・シューマッハの輝かしい記録は、今現在も若い挑戦者によって塗り替えられていません。それほどの功績を打ち立てた彼が一日も早く回復することを世界中のファンが望んでいます。

不屈の精神を持ったミハエル・シューマッハだからこそ、酷いダメージであっても、死亡や脳死といった事態を乗り越えてきました。彼の家族の愛情によって、彼の容態について最新情報が公開されることは今後もないでしょう。ただミハエル・シューマッハとその家族に穏やかな幸福が訪れることを祈ります。

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