大道寺あや子の現在の消息不明?三菱重工ビル爆破事件の美人犯人の今
今回は大道寺あや子について紹介します。三菱重工ビル爆破事件の犯人の1人である大道寺あや子とは、どんな女性だったのでしょうか。大道寺あや子が参加していたグループや大道寺あや子のプロフィールや経歴から、現在に至るまでをまとめていきます。
目次
大道寺あや子はもう死亡してるのか?
今回は大道寺あや子についてまとめていきます。三菱重工ビル爆破事件などを犯した、大道寺あや子は、現在は消息などは掴めているのでしょうか。大道寺あや子の生死についてもみていきましょう。
大道寺あや子とは?
そもそも大道寺あや子とは、どんな女性なのでしょうか。1970年代に話題となった、大道寺あや子のプロフィールについてみていきましょう。
大道寺あや子のプロフィール
大道寺あや子
— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) June 24, 2017
日本赤軍の軍事委員。
1948年生まれ。72年に東アジア反日武装戦線を結成し、連続企業爆破事件を起こす。
75年に逮捕されるも、ダッカ事件で釈放され、日本赤軍に加入。世界各地で日本赤軍の拠点作りに奔走し、現在も逃亡中。 pic.twitter.com/9DuFtbzz5B
本名 | 大道寺あや子 |
生年月日 | 1948年10月20日 |
現在の年齢(2019年現在) | 71歳 |
出身地 | 北海道 |
活動内容 | 東アジア反日武装戦線の元メンバー |
大道寺あや子は北海道出身で、新左翼武装組織である東アジア反日武装戦線の元メンバーの女性です。三菱重工ビル爆破事件などを起こした犯罪者でもありますが、美人すぎる犯人だという事で話題となったのです。
大道寺あや子の経歴
大道寺あや子は、三菱重工ビル爆破事件などを犯す犯罪者となってしまいますが、どうしてそんな犯罪を起こす事になったのでしょうか。大道寺あや子の経歴をみていきましょう。
星薬科大学に入学
北海道釧路湖陵高等学校を卒業した大道寺あや子は、東京の星薬科大学に推薦入学をします。北海道釧路湖陵高等学校時代は、成績優秀でスピードスケート部でも活躍をしていた事から、卒業生総代を務めるほどでした。
星薬科大学に入学をした大道寺あや子は、自治会活動、授業料値上げ反対闘争などに参加しています。大道寺あや子は大学生の頃から、新左翼な考え方を持っているように思われるかもしれませんが、日本では1960年代頃から学生運動は盛んに行われていました。
大道寺あや子も、その世間の流れにのって、学生運動に参加していたものだと思われます。学生運動には参加していたものの、星薬科大学は無事に卒業する事になったのです。
卒業後は薬剤師になる
星薬科大学を卒業した大道寺あや子は、子供の頃からの夢であった薬剤師の道に進みます。薬剤師になって、病気の人を助けたいという夢があったのだそうです。
三菱重工ビル爆破事件の犯人となってしまう人とは思えない、とても優しい性格をしていた事がわかります。夢を叶えた大道寺あや子は、東京の病院で薬剤師として働いていたようです。
1973年に大道寺将司と結婚
大学卒業後、薬剤師として働いていた大道寺あや子ですが、1973年には大道寺将司と結婚をする事になります。
大道寺将司と大道寺あや子は、高校時代の同級生でした。高校時代にはほとんど接点がなかった2人でしたが、高校の同窓会で再会する事になったのです。
同窓会で再会をした時、大道寺あや子は大道寺将司に研究会に勧誘されたそうです。興味を持った大道寺あや子は研究会に参加するようになり、大道寺将司とも交際を始めます。そして2人は結婚をする事になりました。
1974年に三菱重工爆破事件を起こす
結婚を機に大道寺あや子は務めていた東京の病院を退社して、製薬会社に転職しました。この転職は、後に起こす犯罪のために、薬品を入手するためだったと言われています。結婚を機に転職をしたという事は、結婚をする時には、犯罪を起こす計画をしていたのかもしれません。
そして1974年8月30日に、三菱重工爆破事件を起こす犯人となります。大道寺あや子が結婚をして1年ほど経った頃の話です。結婚をした後から、本格的な武装闘争に備えて、薬品の調達だけではなく、資金調達もしていたと言われています。
もともとは昭和天皇を暗殺するという計画をしていたようですが、この計画は途中で断念しました。この計画で使う予定だった爆弾を、そのまま三菱重工爆破事件で使ったと言われているのです。
逮捕されるが1977年に釈放
三菱重工爆破事件は、綿密な計画が立てられていたため、当時の警察は犯人を特定するまでに時間がかかったそうです。三菱重工爆破事件発生後、警視庁公安部と刑事部が合同で特別捜査本部を設置したものの、なかなか犯人の手がかりを掴む事ができませんでした。
警察が犯人の手がかりを掴む事ができないまま、大道寺あや子ら東アジア反日武装戦線は、旧財閥系の企業や大手ゼネコンに爆破事件を起こしていきます。大道寺あや子ら東アジア反日武装戦線が、それらの企業を狙ったのは、帝国主義を支えている企業を悪だと考えていたからなのだそうです。
なかなか犯人の手がかりを見つける事ができない警察でしたが、1975年に大道寺あや子ら主要メンバーが犯人として逮捕されるます。しかし1977年には釈放される事になりました。
三菱重工ビル爆破事件とは?
ここで改めて、三菱重工ビル爆破事件とはどんな事件だったのかを振り返っていきましょう。なかなか犯人の手がかりを掴めないでいた警察が、東アジア反日武装戦線が犯人だと特定したのはどんな理由からだったのでしょうか。
1974年に三菱重工本社ビルで爆発が発生
三菱重工本社ビルで爆発が起こったのは、1974年8月30日の午後0時45分頃です。三菱重工本社ビルの1回正面玄関付近で爆発が発生しています。
実はこの爆破の数分前に、三菱重工本社に「時限爆弾を仕掛けたのでただちに避難するように」と、犯人から犯行予告の電話がかかってきていたのです。
電話を受けた人は、ただのイタズラ電話だろうと思って、内容を詳しく聞く事なく、電話を切ってしまいました。その後、再度犯人から電話がかかってきたのですが、たまたま担当者が席を外していて、その間に三菱重工ビル爆破事件が発生したのです。
東アジア反日武装戦線によるテロと判明
三菱重工本社ビルに仕掛けられた爆弾の破壊力はすさまじく、三菱重工本社ビルの1階部分は大破しました。また窓ガラスに至っては、9階まで全てのものが粉々になり、ビルに隣接している道路へと降り注ぐ事になったのです。
爆破で怪我をした人はもちろんたくさんいましたが、ガラスの破片などで怪我をした人も大勢いました。この三菱重工ビル爆破事件により、通行人を含む8人が死亡、393人の重軽傷者が出ました。
物的損害も含めて、栓の最悪の爆弾テロ事件として、当時も大きなニュースとなった出来事です。その後の捜査で、東アジア反日武装戦線によるテロと判明する事になります。
東アジア反日武装戦線のメンバー
東アジア反日武装戦線は、大道寺あや子をはじめ多くのメンバーで構成された武装集団でした。大道寺あや子がいたのは、東アジア反日武装戦線の狼グループで、メンバーには大道寺あや子の夫である大道寺将司、片岡利明、佐々木規夫と大道寺あや子の4名です。
三菱重工本社に電話をかけてきたのは々木規夫、爆弾を仕掛けたのは大道寺将司と片岡利明で、大道寺あや子は現場の見張り役だったと言われています。結果として何人もの死傷者を出してしまうテロとなりましたが、計画の時点では、人的被害を出す予定ではなかったようです。
実際、三菱重工本社に「時限爆弾を仕掛けたのでただちに避難するように」と避難を促す電話を掛けていた事でもわかるでしょう。死者が出た事で、メンバー内でも動揺があったようですが、その後も活動を続ける事になります。
その後も企業を狙った爆破事件を起こす
まさか死者が出るとは思わなかったと、動揺するメンバーもいる中で、企業を狙った爆破事件を起こしていったのは、メンバーが集まって話し合うという機会が少なかった事も原因だったのかもしれません。
三菱重工ビル爆破事件の犯人の手がかりがなかなか見つからなかったのは、東アジア反日武装戦線には特定のアジトがなく、メンバーが一同に集まる事がほとんどなかったからです。
メンバーたちは、どこにでもいる、ごく普通の会社員として、普通の生活を送っていたのです。そのため、なかなか三菱重工ビル爆破事件の犯人にたどり着く事ができなかったと言われています。
1975年に逮捕された
手がかりがほとんど無い中で、ようやく東アジア反日武装戦線の実態にたどり着き、狼グループの4人と、協力者1人を逮捕する事となります。
美人犯人と言われた大道寺あや子の画像
東アジア反日武装戦線の犯人が逮捕された時、大道寺あや子の画像が流出すると、美人犯だと言われて話題となりました。美人犯と言われた大道寺あや子の画像とは、どんなものがあるのでしょうか。
#おまえらの織姫貼ってけ
— 革命的ゲバルトな子@埼共闘副委員長 (@honoka51934835) July 7, 2015
重信房子・大道寺あや子 pic.twitter.com/ddPJIDgHck
大道寺あや子の写真や動画は、モノクロが多いのですが、こちらはカラーの画像になります。可愛いイメージの女性であるように思われます。
大道寺あや子
— 東アジア反日武装戦線bot(準備中) (@EAAJAF_bot) July 23, 2019
東アジア反日武装戦線のメンバー。
1948年生まれ。大卒後に薬剤師となり、大道寺将司と結婚。東アジア反日武装戦線に参加。連続企業爆破事件では爆弾用の薬品調達や見張りを担当。
75年に逮捕されるも、ダッカ事件で釈放。 pic.twitter.com/Vpl1dtUtWP
同じ服を着ているので、逮捕された時の大道寺あや子の画像でしょう。正面からみても、可愛いイメージの女性です。
三菱重工爆破の犯人の佐々木規夫と大道寺あや子は国際指名手配中! pic.twitter.com/U1Eld09d4X
— 面白画像・おもしろGIFアニメ倶楽部 (@GazouOmoshiro9) March 26, 2014
指名手配をされた時の、大道寺あや子の画像です。逮捕された時の画像と比べると、やや大人っぽい雰囲気の女性になったように感じます。
現在も逃亡中のメンバー
— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) July 29, 2019
■佐々木規夫、奥平純三
佐々木隊として活動中。
■坂東國男、大道寺あや子
坂東隊として活動中。
■岡本公三
レバノンに亡命中。
■松田久
重信房子の側近だったが、重信逮捕後の動向は不明。
■仁平映
消息不明。 pic.twitter.com/vt5bhCrB6n
こちらも同じく、指名手配された時の大道寺あや子の画像です。やや年齢を重ねている事がわかります。他の指名手配の写真は変わっていません。大道寺あや子は、警察からかなりマークされていたのでしょうか。
大道寺あや子のその後は?
1975年に逮捕された大道寺あや子ですが、1977年に釈放されています。8人もの死亡者を出した三菱重工ビル爆破事件の犯人が、2年で釈放されたのはどんな理由からだったのでしょうか。
1977年に日航機ハイジャック事件が発生
1975年に東アジア反日武装戦線のメンバーとして大道寺あや子が逮捕された後、1975年8月に人質をとった立てこもり事件が発生します。これは国際テロ組織である日本赤軍が起こした犯罪です。
犯人グループは、日本国内で服役中の同志の釈放を日本政府に要求しました。日本政府は、人名を優先して、5人だけを釈放したのです。その5人の中に、東アジア反日武装戦線のメンバーである佐々木規夫が含まれていました。
佐々木規夫は釈放された後、1977年に日航機ハイジャック事件を起こします。日航機ハイジャック事件では、人質解放の条件として、およそ16億円の身代金と、服役中の同志の釈放を日本政府に要求したのです。
超法規的措置で大道寺あや子が釈放
1977年に起きた日航機ハイジャック事件で、およそ16億円の身代金と、服役中の同志の釈放を条件に出された日本政府は、超法規的措置として身代金の支払いと服役中の6人の釈放をする事になります。
その6人に選ばれたため、大道寺あや子はわずか2年で釈放される事となったのです。
服役中のテロリストを釈放するのはクアラルンプール事件に続き2度目の高尾です。日本政府は、国内からだけではなく、国外から批判を浴びる事となり、結局当時の総理大臣は引責辞任しました。
海外に逃亡して消息不明
1977年に超法規的措置として釈放された大道寺あや子は、海外に逃亡して消息不明となりました。はっきりと確認がとれたわけではありませんが、バングラデシュのダッカで日本赤軍のメンバーと合流したと言われています。
その後、アルジェリアで他の日本赤軍のメンバーとともに投降したのだそうです。アルジェリアで投降したのは、アルジェリアがハイジャック防止条例を結んでいなかったためだと言われています。
アルジェリアに行った事までは確かですが、その後の行方はわかっていません。大道寺あや子の足取りもそこからわからなくなっています。
大道寺あや子の現在は?
アルジェリアから消息不明となった大道寺あや子ですが、現在の消息はわかっているのでしょうか。アルジェリアから姿を消した後の、大道寺あや子についてみていきましょう。
1985年にコメントを発表
1977年に消息不明となった大道寺あや子ですが、1985年には東アジア反日武装戦線の支援者へ向けてのコメントを発表しています。しかしそのコメントを発表してから後には、また消息不明となりました。
1999年に日本赤軍最高幹部と面会
1999年に香港で松田久とともに日本赤軍最高幹部の重信房子と会った事も確認されています。その重信房子が2000年に逮捕されて、日本赤軍の解散を発表すると、大道寺あや子が逃亡先から「日本赤軍解散宣言無効宣言」を表明しました。
潜伏先は南米か?
「日本赤軍解散宣言無効宣言」を表明いたのが、南米だった事から、逃亡先は南米ではないかと予想されましたが、現在でも大道寺あや子がどこに潜伏しているのかはわかっていないようです。
東アジア反日武装戦線とは
三菱重工ビル爆破事件の犯人は4人
— クロスケ (@kuro_we) April 8, 2018
・佐々木規夫→海外逃亡中
・益永利明→死刑囚
・大道寺夫将司→死刑囚→病死
・大道寺あや子→海外逃亡中 pic.twitter.com/B8fM8aSzL2
少し話を戻して、そもそも東アジア反日武装戦線とはどんなグループだったのでしょうか。もともとは法政大学で大道寺将司が開いた勉強会が始まりだったようです。
学生運動が終焉した事で、勉強会は解散しますが、一部のメンバーで研究会を開く事になります。ここに大道寺あや子が参加します。過激な自虐史観などを持ち、一般市民を装いながら闘争を行う、地下ゲリラ組織として活動をしていきます。
東アジア反日武装戦線というのは、「反日帝闘争のための共同戦線」という意味があり、最初に立ち上げたグループが大道寺あや子が参加していた狼、その後、さそりや大地の牙が合流をしました。
大道寺あや子以外のメンバーの今は?
それでは東アジア反日武装戦線の狼の大道寺あや子以外のメンバーは、現在はどうしているのでしょうか。大道寺あや子以外のメンバーの、現在の様子をみていきましょう。
大道寺将司
大道寺将司
— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) July 31, 2019
東アジア反日武装戦線の最高幹部。
1948年生まれ。法政大でLクラス闘争委員会を結成。後に東ア反日武装戦線となる。多くの爆破テロを起こし、75年に逮捕。2017年に獄中で病死。
仲間を連れ去ったと日本赤軍を批判していた。 pic.twitter.com/orHfKyNaK5
大道寺あや子の夫である大道寺将司の現在は、1987年に死刑判決が確定しています。しかし大道寺あや子と佐々木規夫が逃亡中であったため、死刑は執行されず、東京拘置所に収監されていました。2017年、68歳で拘置所内で死亡しています。
佐々木規夫
佐々木規夫
— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 1, 2019
日本赤軍の軍事委員。
1948年生まれ。74年に東アジア反日武装戦線に参加し、連続企業爆破事件を起こす。
75年に逮捕されるも、クアラルンプール事件で釈放され、日本赤軍に加入。その後ダッカ事件に参加し、現在も逃亡中。 pic.twitter.com/yBtjKl6Sa6
佐々木規夫は1975円に釈放され、1977年に日航機ハイジャック事件の実行犯となり、1998年に、1度日本に戻ってきた事が確認されています。しかし逮捕されるまでには至らず、現在も逃亡中です。
益永利明
片岡利明
— 東アジア反日武装戦線bot(準備中) (@EAAJAF_bot) July 22, 2019
東アジア反日武装戦線のメンバー。
1948年生まれ。法政大学Lクラス闘争委員会に参加。後に東アジア反日武装戦線となる。
職業訓練校で会得した技術で爆弾製造の中心的存在となり、多数の爆破テロに関与。
75年に逮捕。死刑判決。 pic.twitter.com/ARPsqNWGWp
益永利明は大道寺将司と同じく、1987年に死刑判決が確定しました。死刑判決を不服として再審を請求しましたが、2008年に棄却されています。2010年に脳梗塞を発症し、現在は後遺症で意思疎通が難しい状態になっているようです。
大道寺あや子の生死は不明
今回は大道寺あや子について紹介しました。三菱重工ビル爆破事件の犯人ですが、現在も消息不明で、生死もわかっていません。美人で人を助けるために薬剤師を目指していた女性が、どうして犯罪者になってしまったのか謎が残る事件です。