山地悠紀夫死刑囚の生い立ち!山口母親殺害事件と大阪姉妹殺害事件の犯人
山地悠紀夫死刑囚の生い立ちや、山口母親殺害事件と大阪姉妹殺害事件の全容を解説します。山地悠紀夫を覚えていますか?母親殺人の犯人として服役していましたが、出所後に赤の他人を殺した罪で死刑になった人物です。山地悠紀夫はすでに死刑を執行されています。
目次
山地悠紀夫死刑囚ってどんな人物なの?
山地悠紀夫死刑囚を覚えていますか?母親殺人の犯人として服役していましたが、出所後に赤の他人を殺した罪で死刑になった人物です。山地悠紀夫はすでに死刑を執行されています。
山口母親殺害事件と大阪姉妹殺害事件の犯人だった山地悠紀夫死刑囚は、どんな生い立ちで育ったのでしょうか。この記事では、山地悠紀夫死刑囚の育ってきた環境や生い立ち、山口母親殺害事件と大阪姉妹殺害事件の全容を解説します。
山地悠紀夫とは?
はじめに山地悠紀夫の基本情報からお伝えしていきましょう。山地悠紀夫死刑囚がこの世に生を受けたのは、一体どんな意味があったのでしょうか。殺された被害者とその家族は無念の思いが絶えないでしょう。
山地悠紀夫のプロフィール
本名 | 山地悠紀夫 |
生年月日 | 1983年8月21日 |
没年齢 | 2009年7月28日 (25歳) |
出身地 | 山口県山口市 |
家族 | 父・母(両方とも死亡) |
山地悠紀夫は、1983年8月21日生まれで、山口県山口市出身です。酒癖が悪かった父親は肝硬変で死亡、母親と二人暮らしをしていました。貧しい青年だった山地悠紀夫は、16歳の若さで自分の母親を殺害するという事件を起こします。
まだ未成年だったことから、少年院に入りその後出所した山地悠紀夫ですが、再び殺人を犯します。殺人が凶悪で更生の見込みもないことから、死刑判決が下され、2009年7月28日 に死刑を執行されました。25歳でした。
2度の殺人を犯した人物
前述したとおり、山地悠紀夫死刑囚は自分の母親を殺した罪で少年院に入り、その後は赤の他人である姉妹まで殺しています。2度の殺人を犯した人物が山地悠紀夫死刑囚です。
少年院から出てきてしまったのがまずかったですね。また、少年院では再犯の危険性は予測できなかったのでしょうか。こんなことになるとは残念でなりません。
山地悠紀夫の生い立ち
ここからは、山地悠紀夫の生い立ちについて見ていきましょう。山地悠紀夫死刑囚は酒癖の悪い父親と買い物依存症の母親との間に生まれました。
世の中には様々な家庭があり、不幸な境遇で育つ子供は多いですが全てがこのような殺人事件を犯すわけではありません。山地悠紀夫死刑囚はなぜ、殺人事件を起こすような人間になってしまったのでしょうか。
父親は酒癖が悪かった
山地悠紀夫の父親は酒癖が非常に悪かったのだそうです。酔っ払いの中でも、すぐに寝てしまう人や陽気になるいわゆる「酒癖の良い」人もいますが、山地悠紀夫の父親は母親や子供を殴るような父親だったと言います。職も転々として定職がなかったそうです。
母親は買い物依存症
酒癖の悪い父親はやがて肝硬変で死亡します。その後は母親との二人暮らしになりました。しかし、母親は買い物依存症だった?との情報があり、驚くほどの額の借金をしていたのだそうです。
母親は実家や親戚とも疎遠で助けを求められなかった事もあり、ご近所の方にも数万円の借金を重ねていたといいます。ある時は借金の取り立てが自宅に怒鳴り込んでくるなど相当怖い思いもしたようです。
また、山地悠紀夫が新聞配達で稼いだお金も平気で使い果たすなど、かなりだらしがなく酷い母親だったことは確かなようです。ご近所の話では「仲良し親子」と映っていましたが、本人曰く「会話がほどんどない」家庭だったとのことでした。
貧しい生活だった
普通に生活をしていれば、多額の借金をせずとも暮らしていけるはずですが、この母親のおかげで二人は貧しい生活を余儀なくされます。水道やガス代も払えないような生活だったのだそうです。
学校の教科書代も支払えないような貧しい生活で育った彼は、それでも中学ではぐれることはありませんでした。
学生時代のいじめ
山地悠紀夫は学生時代に陰湿ないじめも受けていました。周りの友達には「悪魔」と呼ばれていたそうです。学校では目立たず、友達もあまりいなかったと言います。
山地悠紀夫は、中学校では、卓球部に所属していたものの、中学2年の頃より不登校になります。人との関りが上手ではなく、事件後も自分の気持ちを喋る事のなかったそうなので、友達もおらず孤独だったのでしょう。
バイトで生活費を稼ぐ
家が貧しかったことや、友達関係で上手くやっていく自信がなかった山地悠紀夫は、高校には進学せずバイトを始めます。彼のしていたバイトは新聞配達でした。
勤務態度は非常にまじめで月に9万円を稼ぎ、大半のお金は家に入れる真面目な少年だったそうです。当時の勤務先の同僚は、母親の借金がすごくて困っている、と相談されたそうです。
また、母親の再婚話を聞き、家を出る決意をした彼は、中古のバイクを買い新聞配達で更に稼ごうともしていました。母親を殺したのはバイクが届く前だったと言います。母親殺害は計画的ではなく、咄嗟の反抗だったのでしょう。
山地悠紀夫が犯した山口母親殺害事件の概要
母親の借金に悩みながら真面目にバイトをして、お金も家に入れていた山地悠紀夫ですがなぜ母親を殺してしまったのでしょうか。山地悠紀夫が犯した山口母親殺害事件の概要について説明しましょう。
金属バットで殴り殺す
2000年7月31日午前1時頃に事件は起こりました。山地悠紀夫が自ら「母親を殺した」と110番通報をしたのです。
山口署の職員が駆けつけると、玄関で母親が頭から血を流し、死んでいるのが発見されました。当時母親は50歳で、他にも顔や胸を鈍器のようなもので殴られた形跡がありました。
山地悠紀夫は、署員に対して「母親の借金で口論となった。金属バットで殴り殺した」と言っていました。
被害者は実の母親
被害者は実の母親でした。夫に先立たれ、当時はまだ50歳だった母親は実の息子に殺されてしまったのです。このときのニュースやワードショーでは、山地悠紀夫への同情の声が多かったと言います。
母親の素行があまりにも悪く、真面目に働いていた山地悠紀夫に同調する気持ちがあったのでしょう。しかし、彼はのちの証言で「母親を殺した事は全く反省していない」と述べています。
殺すに値する人物という意味もあったのかもしれません。しかし、彼の異常性が徐々に明るみに出る事になっていくのです。
山地悠紀夫はまだ16歳だった
母親を殺人した山地悠紀夫はまだ16歳でした。16歳といえば、世間一般では高校に進学している年齢ですが、山地悠紀夫は高校にはいかず、真面目に新聞配達をしていました。
16歳という年齢なので、今後十分に更生の余地はある、と判断され少年院に送致されることになったのです。
動機は母親の無言電話
殺人の動機について、当初は「母親の借金で口論となった。金属バットで殴り殺した」と言っていましたたが、直接の動機は母親の無言電話だったのだそうです。
それまでは母親とは仲が良く喧嘩をしていた様子もなかったそうです。しかし、山地悠紀夫が交際しようとしていた女性に、母親が無言電話をかけたのだそうです。
そのことを母に問いただしたものの、認めようとしなかったことから、カッとして殺してしまったのだそうです。せっかく好きになった女性との交際を邪魔されると思ったのでしょうか。
3年間少年院で暮らす
母親を殺人した罪で逮捕された山地悠紀夫は、その後3年間少年院で暮らすことになりました。2003年10月に仮退院し、2004年3月に本退院しています。
しかし、山地悠紀夫を鑑定した精神科医師は、「法律を守ろう、とは、それほど思ってはいない」と話していたことを取り上げて、山地悠紀夫は十分に更生していないのでは?との意見を提示していました。
このときに、精神科医の意見を聞き入れて出所をさせなければ、二回目の殺人の被害者を出さずに済んだのかもしれません。非常に残念なことでした。
少年院のプログラムとは
少年院は刑務所とは違うのだそうです。刑務所は刑を執行する場所なのに対して、少年院は「教育をおこなう」ところなのです。
少年院の教育プログラムは主に3つ「刑務作業」「改善指導」「教科指導」です。刑務作業は規則正しい生活をさせ労働をするものです。改善指導は、個々の問題に気づかせるためのもので、臨床心理士やカウンセラーなどが関わります。
教科指導とは、勉学をさせることです。この中のどれもが大切な事ではありますが、特に再犯を防ぐうえで大事なのは「改善指導」です。山地悠紀夫への改善指導は、まったく上手くいっていたとは思えません。
山地悠紀夫が再び犯した大阪姉妹殺害事件の概要
精神科医が「更生できていないのでは?」と疑問を呈したにもかかわらず、山地悠紀夫は少年院を出所します。そして今度は赤の他人を二人も殺すという残虐な行為に及ぶのです。
山地悠紀夫は、「単に人を殺したかった」「母親の時の殺人で快感を覚えてしまった」との言葉を残しています。しかし、実際にはそれだけでなかったようです。山地悠紀夫が再び犯した大阪姉妹殺害事件の概要をみていきます。
姉妹が暮らすマンションに寝泊まりしていた
山地悠紀夫は、前述のとおり母親を殺した際に性的な興奮を覚えたのだと言います。風呂場で返り血を流していた時に、思いがけず射精としたと告白しているのです。
そして再度その興奮を味わいたくなったため、姉妹が暮らすマンションの周辺を数日前よりウロウロして、襲い掛かる準備をしていました。
ただ、誰でも良かったというわけではなく、どうやらその姉妹が初恋の人と似ていたから?との推測もあるようです。山地悠紀夫は、人に自分の気持ちを話さない性格だったので真相は分かりませんが、姉妹に興味を持ってしまったのは事実のようです。
姉妹をナイフで刺して強姦
2005年11月17日午前2時半のことでした。仕事を終えて帰宅した姉が家のドアを開けた時に背後から襲撃します。ナイフで胸を刺したあと、強姦をするという人とは思えない行為に及びました。
その後すぐに妹も帰宅したため、同じようにナイフで胸を刺し、姉と同じように強姦しました。ベランダでタバコを吸った後に、とどめのために姉妹の胸を再度刺しました。
何度も言いますが、なぜ少年から出してしまったのでしょう。更生などちっともしていなかったのに、見抜けなかったのですね。少年院の指導が極めて表面的だったと思わざる終えません。
証拠隠滅のため放火
山地悠紀夫は、姉妹の自宅にあったお金などを盗んだ後に、証拠隠滅のため放火をしました。しかし、放火をしても数々の証拠が残る事になり、逮捕されました。これが大阪姉妹殺人事件の概要です。
山地悠紀夫は、母親殺しの時は自分で警察に電話をして自首をしています。しかし、この事件の時には逮捕されても、しばらく否認をしていたのだそうです。
放火をして証拠隠滅を図ったぐらいなので、刑務所に行くのは嫌だったのでしょう。しかし13日目の取り調べで、自分のした反抗だったことを認めました。
大阪姉妹殺害事件のその後は?
大阪姉妹殺害事件を起こした山地悠紀夫死刑囚は、その後どうなったのでしょうか。
判決は死刑
何の罪もない二人の命を奪い、強姦し、金銭を盗み、証拠隠滅のために放火までした山地悠紀夫の判決は死刑でした。
当初はアスペルガー症候群ではないか、正常な判断能力がなかったのではないか、などの検討もされましたが、「判断力はあった」と下されました。
山地悠紀夫も死刑を切望
また、公判中は「人を殺すこ事と、物を壊す事は全く同じ」と述べていました。山地悠紀夫も死刑を切望していたと言います。
弁護人には「何の為に生まれてきたのか?その答えが見つからない」「生まれてこない方が良かった」「人を殺す為だったのか?漠然と人を殺したいと思う」などと語っていたのだそうです。
弁護人は死刑判決に対して控訴しようとしましたが、2007年5月31日、本人が控訴を取り下げました。そして死刑判決が確定したのです。
2009年に死刑執行
そして2009年7月28日に死刑は執行されました。 人を壊すのも物を壊すのも一緒、人殺しをしたいという欲望を持った異常者、山地悠紀夫は25歳でその生涯を終えました。
山地悠紀夫が残した言葉を紹介
ここで、山地悠紀夫が公判中や弁護人に対して残した言葉を紹介します。
死刑でいいです
死刑でいいです、というのは控訴を取り下げる時に言った言葉だと思われます。少年院では、母親を殺した事を全く反省していなかったそうですが、退所後もパチンコ屋でいかさまをしてお金を手に入れる「ゴト師」として不正にお金を得ていたようです。
中学卒業した後は、真面目に新聞配達をしていたのに仲間にも恵まれず将来への希望もなく、人殺しへの快感を求めた結果の言葉なのでしょうか。
我思うゆえに我あり
我思うゆえに我あり、この言葉は本当に本人が言っていたのかは不明ですが、ノンフィクション作家の小川善照がこの事件を取り上げて書いた小説の題名にもなっています。
これを読むと、山地悠紀夫の残虐性とともに、他人を受け入れようとしなかった頑なな性格、更には死刑を望んでいた山地悠紀夫に対する死刑執行は、刑罰を与える上で何か意味があるのだろうか、との問いかけにもなるでしょう。
イケメンと言われた山地悠紀夫の画像は?
山地悠紀夫のことをたまに考える。母親殺して、よその姉妹殺して25歳で死刑執行されて、なんのために生まれてきたんや、、、 https://t.co/HOhqtdZo1V
— 高橋ユキ (@tk84yuki) July 21, 2016
山地悠紀夫は、イケメンと言われていたのだそうです。当時の画像がツイートされていましたので掲載します。
被害者の方のご冥福を祈ります
山地悠紀夫死刑囚の生い立ちや、山口母親殺害事件と大阪姉妹殺害事件の全容を解説しました。山地悠紀夫は家庭に恵まれず不幸な生い立ちだったのは確かなようです。
しかし、本人の生い立ちは、被害者には何の関係もないことです。死刑執行は再犯を犯されるよりいいかもしれませんが、これで失われた命が戻る事はありません。被害に合われた方のご冥福を心より祈ります。