上尾事件とは?事件の原因・死者!乗客vs国鉄の大暴動事件!

上尾事件は1973年に国鉄高崎線上尾駅で起こった乗客による暴動事件です。上尾事件の原因は高崎線沿線の人口増加と国鉄のインフラ整備の遅れで電車の混雑が慢性化・国労の遵法闘争に乗客の怒りが限界を超えたことでした。上尾事件は1ヶ月後首都圏国電大暴動へと発展します。

上尾事件とは?事件の原因・死者!乗客vs国鉄の大暴動事件!のイメージ

目次

  1. 1上尾事件とは?
  2. 2上尾事件の概要
  3. 3上尾事件当時の様子
  4. 4上尾事件をきっかけに周辺の駅でも暴動が発生
  5. 5上尾事件から首都圏へ拡大【首都圏国電暴動事件】
  6. 6現在では起こり得ない上尾事件
  7. 7高度経済成長の日本の1ページであった上尾事件

上尾事件とは?

上尾事件とは1973年3月13日に、埼玉県上尾市の高崎線上尾駅で電車の乗客が起こした暴動事件です。上尾事件の原因は日本国有鉄道(国鉄)当局と国鉄労働組合の労働闘争の手段とされた「遵法闘争」による電車遅延への乗客の不満が爆発したことによるものです。

上尾事件に始まり、約1ヶ月後には首都圏全土に広がった「首都圏国電暴動事件」という大暴動につながっていくことになりました。

高度経済成長の中、ただでさえ団地が増え乗客が多い高崎線の電車の混雑は深刻なレベルに達していましたが、国鉄の乗務員による遵法闘争は、そこに拍車をかけました。

特に上尾事件の暴動の起こった13日の早朝はホームで動かない電車を待つ6000人を超える人が溢れていました。上尾事件の日の上尾駅は、首都圏への通勤圏内でサラリーマンや学生でごった返していました。

数時間もホームで待たされた結果、駅に入った列車には定員をはるかに超える乗客が乗り込んでいて、それでもさらに乗り込もうとする乗客と、整理する乗務員の間で争いになったことが原因で、ついに上尾事件に繋がる大暴動が起こりました。

上尾事件では、乗客は駅長室になだれ込んだり、駅舎のものを壊したり、列車に投石して窓ガラスを割るなどの行動を次々と起こし、公安や機動隊が出動する大暴動となりました。

混乱に乗じた窃盗、乗務員が閉じ込められる、運転手が電車から降ろされて歩かされるなどの被害、電車や駅舎の設備が壊され、乗客の国鉄に対しての怒号が飛び交いました。

上尾事件の混乱は当日の午後には上尾駅から沿線の駅にまで広がりました。多数の人の影響を与え、7名の逮捕者を出し、多額の損害をだす事件となり、上尾事件と呼ばれることになりました。

上尾事件の概要

上尾事件の紹介をしましたが、そんな上尾事件の概要を整理しました。上尾事件の起きた原因とはどのようなものだったのでしょうか。上尾事件の時代背景を含めてご紹介します。

【上尾事件の原因1】激増する乗客に追いつかないインフラ整備

上尾事件当時は、どのような時代だったのでしょうか。

日本国有鉄道(国鉄)は1964年(昭和39年)、東京から新大阪駅の東海道新幹線が開業しました。1972年(昭和47年)には新大阪から岡山間、その3年後には全通となる新大阪から博多を結ぶ山陽新幹線も開業し、日本国有鉄道、いわゆる国鉄は現代の姿に近い主要な新幹線路線を完成させました。

上尾事件の頃は、日本の成長を支えるインフラを華々しく開業させる一方、赤字経営で増え続ける乗客の対応が不十分な時代でした。都市の経済が急速に膨れ上がるなか、電車の増便、ラッシュ時に適した車両の導入など対応しきれない問題が多く残されていました。

高崎線の歴史は古く、1883年(明治16年)に第一期線として新橋、横浜間を開業しました。

1932年(昭和7年)に大宮以南が電化され、戦後の行動経済成長により、高崎線沿線にも団地が造成され、人口が急増しました。1952年(昭和27年)に全線が電化されてから、国鉄は新型車両も導入し通勤需要に応えました。

しかし、激増する人口に追い付かず、一方で長距離列車の需要も拡大したため、上尾事件当時の線路容量は限界に達していました。

1960年(昭和35年)の上尾駅の利用者数は1日平均14000人と多くかったため、この頃から宅地開発が始まりました。

利便性を高めるため、駅の北に東西を結ぶ橋が1971年(昭和46年)9月にかけられてから、自由に行き来ができて便利になりました。1968年(昭和43年)2月には東西を結ぶ自由通路が完成し、同年6月10日には新しい駅舎ができたのでした。

線路容量が限界に近い中で沿線住民の通勤・通学に利用される普通列車の増便はままならず、朝夕通勤通学時間帯の普通列車は既に混雑が慢性化していました。

その上国鉄は慢性的な赤字体質のため通勤型電車・近郊型電車の増車も十分にできず、車両不足を補うため2扉しかない急行型電車を朝夕時間帯の普通列車に投入していたため、普通列車は日常的に混雑していました。

さらに、冬季の特急・急行列車は日本海側の大雪で遅延することも多く、ダイヤ混乱時はこれらの優等列車を優先的に通行させる措置を採るために、普通列車は大幅な遅延や運休となることが多かったのです。利用客の不満の原因となっていました。これが上尾事件の原因のひとつです。

【上尾事件の原因2】国鉄の労働争議

国鉄は1960年代から赤字経営が常態化し、新型車の投入を抑え、通勤車両の不足分を急行型165系等の2ドア車両で代替して、混雑が慢性化していました。

当時の高崎線は、沿線の人口増加によって定員の2倍を超える混雑が日常的になり、列車に乗ることもままならない状態でした。そして乗客にとってインフラの遅れと同様に上尾事件の怒りの原因となったのは国鉄の姿勢でした。

大暴動を引き起こす原因を作った国鉄労働組合とは?

日本は第二次世界大戦で国力を総動員させたにもかかわらず、多くの命を失い、焼け野原となってしまいました。1945年(昭和20年)の無条件降伏により、連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQの占領統治を受けることとなったのです。

しかし、GHQは日本軍を解体しただけにとどまりませんでした。民主化を推し進める目的もあったので、日本国有鉄道、いわゆる国鉄に巨大な労働組合を誕生させていくことになったのでした。翌1946年(昭和21年)2月、石川県片山津で国鉄労働組合総連合会の結成集会を開催して誕生したのが「国労」です。

これが、後々、乗客を怒らせて上尾事件という大暴動を引き起こす原因となったのでした。

1970年代に入って、国鉄は膨大な赤字を抱え破綻寸前に陥っていました。その原因は人件費の異常な増加。なにより組合が強すぎて合理化が全く進まないばかりか、毎年のように賃金があがり人件費が膨れ上がっていくのですから国としてはたまったものではありません。

しかし、当時の国鉄の2大組合、国労(国鉄労働組合)と動労(国鉄動力労働組合は、「昔、陸軍、今、濃国労」「鬼の動労」などと酔われるほど絶大な権力を誇り、歴代の経営陣は全く手の出せない状況でした。

1973年、国労と動労は国鉄経営陣に待遇改善要求として「運転手2人制の復活」を求めてきました。これは以前機関車が主流だった時代に運転手とボイラー手が必要だった時代の名残なのですが、急速な電化の進展で職を奪われる事を恐れた組合が、運転手一人化は労働強化だとして2人制の堅持を要求したのです。

しかし、この時代錯誤な要求に対し当然当局はこれを拒否しました。国労、動労はこれに対して大規模なストライキとサボタージュを行い、当局に要求をのませる戦術に出ます。

ストライキを禁じられた国鉄労働組合が行った「遵法闘争」

上尾事件の起きた頃、国鉄では、賃金引上げや労働環境の改善・合理化反対を目指して、労働闘争が頻繁に繰り返されていました。

公共企業体職員であった国労などの労働組合員は、公共企業体と労働関係法(公労法)第17条で争議行為、すなわちストライキを禁じられていました。

そこで、組合側は暗雲店安全規範などの諸規則を厳格に遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆手に取り、運転安全規範などの諸規則を「遵守(厳密に守り通す)」することで、労働闘争の手段とした「遵法闘争」を度々行っていました。

「遵法闘争」とは実際には踏切前で一旦停止をしたり、ゆっくりと走ったり、止まったりを繰り返し、必要以上に安全に配慮する運転を行うという戦術を取っていたのです。

結局はノロノロ運転となり、発車時間、到着時間が次々に遅れていき、こうしてダイヤは大幅に乱れていきます。

こうやって上尾事件当時の国鉄の職員たちはストライキのようなことを平然と行っていました。これを自動列車停止装置(ATS)になぞり、ATS順法とも呼ばれた順法闘争だったのです。

なお、「遵法」とは言われているものの、日本国政府は1956年(昭和31年)にこのような形式をとる労働闘争を違法と認定していました。しかし、判例形成には至っておらず、行わないようにという指導の範囲に過ぎませんでした。

上尾事件以前には、実際には阻止することができなかったのです。

【上尾事件の原因3】国鉄乗務員の横柄な仕事ぶり

上尾事件は遵法闘争によってダイヤが混乱したことが直接の原因でしたが、その背景には、当時、特に※マル生運動が挫折して以降の国鉄職員による怠慢で横柄な業務態度があり、それに対し日頃から不満を持っていた利用客の不満が一気に爆発したものでした。

※マル生運動(マルせいうんどう)とは、上尾事件の当時の国鉄や郵政省において行われた、生産性を向上させる運動のことです。生産性向上運動とも呼ばれます。

この運動に関係する書類には「生」の字を丸で囲んだスタンプを押したので「マル生」と呼ばれるようになりました。当時赤字の国鉄は生産性工場に取り組みましたが、労働者にとっては労働強化の原因になり、国鉄と労働組合の対立を深める結果になりました。

職員のおごりは、窓のついている(つまり利用者の目に触れる可能性がある)運転室や駅構内など、乗客の目の届く場所での服務の乱れに象徴的でしたが、目に触れない場でのたるみもありました。上尾事件に繋がる怒りは、こうしたところからも蓄積されていました。

一例としては高崎線に存在した「国鉄職員専用列車」と揶揄(やゆ)される列車の存在です。

これは朝の通勤時間帯に一部の試運転列車を踏切前で機外停車させ、至近に居住する国鉄職員を乗り降りさせて通勤の足代わりに使うもので、機材私物化の最たるものでした。ひたすら自意識を肥大化させた国労・動労組合員の増長の結果でした。

また、国労宣教部は「影響力が大きく、効果があるから」という理由で、乗務員に遵法闘争の際には通勤列車を狙うように指導していたという事実もありました。上尾事件は、起こるべくして起きたのです。

上尾事件当時の様子

「遵法」開始より8日目(日曜の3月11日には行われず)の3月13日、乗客たちの怒りが、とうとう爆発しました。 上尾事件です。1973年(昭和48年)3月13日、高崎線上尾駅の1番線ホームには6時51分発の籠原初上野行きの普通列車832Mが止まったままになっていました。

通常のダイヤではその日の7本目の列車のはずが、4本の運休と2本の遅延でこれがこの日一番の電車でした。そのため駅にはその分人が増えていったのです。

【上尾事件】早朝、乗客の怒りが我慢の限界に達する

列車が発車するのかはわからないまま、すでにホームは6~7千人の乗客であふれかえっていました。840人定員の列車に3000人がすでに乗っていました。

乗客5000人がホームに溢れさらに乗り込もうとし、駅員はドアを閉めて列車を発車させようと乗り込もうをする乗客を抑えるという小競り合いが始まりました。これが、上尾事件の前触れでした。

【上尾事件】乗客の怒りに火をつける原因となったアナウンス

1時間以上発車する列車がない中で、乗客は増え続け、高崎線上尾駅は改札入場制限を行っていました。上尾事件に発展するほどの怒りが群衆の中に燻っていました。

832Mが発車出来ない状況で、後続となっていた前走発上野行き上り普通列車1830Mが52分遅れで2番線に入線しました。この1830Mも定員944人のところ4000人以上が乗車するという超満員でした。

1830Mは7時27分に上野駅到着後、7時40分に上野発籠原行きの普通列車になる運用でした。

しかし、ドアが閉まらないほどの混雑のため、同駅は「両列車とも2つ先の大宮駅(埼玉県)で終点とする」旨のアナウンスをすると、朝から一番電車を待っていた6000人ほどの客が騒ぎ出し、駅長室に詰め寄ったり、運転手を引きずり出したりする上尾事件の大暴動に発展しました。

【上尾事件】怒り狂った乗客の暴力と破壊

乗客たちは、運転席になだれ込んで運転手に詰め寄りましたが、運転手は逃げ出して一時姿を消してしまいました。乗客は運転席を破壊してしまったのです。ホームから線路に降りた客が、運転席の窓ガラスを割った瞬間、他の人たちの理性は完全に吹き飛びました。

上尾事件はここから始まったのです。駅員はこの異常事態に恐れをなして、多くが近くの民家に逃げ出してしまいました。

乗客は駅の事務室になだれ込んで、駅員に暴力を振るい、電話線を切り、窓ガラスを割るなど駅の施設を破壊して回ったのです。そして、事件のどさくさに20万円の現金を持ち出しました。上尾事件の始まりでした。

【上尾事件】乗客 VS 機動隊

上尾駅に停車していた列車2本は運転設備や駅の分岐器や信号なども破壊されたことが原因で発車不能になりました。一方、下りホームには上野発新潟行きの「とき2号」が近づいていましたが、上尾事件の混乱の影響で300メートル手前で停止していました。

乗客は、なんとこの列車にまで投石を開始したのです。運転席の窓ガラスが割られ、ヘッドマークも壊されました。上尾事件は次々と広まりを見せていました。

上尾事件の暴動により多くの乗務員、駅員が怪我をしました。上尾駅長と助役は怪我をして入院し、駅員は総退去しました。上尾事件を受けて大宮鉄道病院は救護班を送り込み、警察、機動隊、公安が送り込まれました。機動隊員は最初の70人では上尾事件の大暴動を抑えきれず最終的に700人まで動員されました。

一時30000人にまで膨れ上がった上尾駅の乗客は10000人にまで減りました。機動隊の整理により、上尾事件の投石、破壊行為が沈静化しつつありました。11時には高崎~上野間で特急、急行5本、ローカル列車15本が立ち往生…と、周辺の駅に次々と上尾事件が飛び火していき、混乱はどんどんと深まるばかりでした。

しかし、昼前には上尾事件の混乱も徐々に収まり、次々と運転が再開されていきました。

上尾事件をきっかけに周辺の駅でも暴動が発生

上尾駅は昼前には上尾事件の暴動がおさまりつつありましたが、同時に上尾事件を知った周辺の駅へと混乱は広まっていきました。8時45分ごろ「とき二号」の車掌から「乗客たちが線路を歩き始めた」との連絡が入ったのでした。この頃、上りの電車は上尾駅を先頭に約10本が数珠つなぎ状態になって止まっていました。

満員電車に閉じ込められていた乗客の一部はしびれを切らし、電車は動かないから歩いて行こうとドアを開けて線路伝いに大宮方向に向かって歩き始めたのです。上尾事件の起きていた上尾駅から隣の宮原駅までは4.2キロほど、その次の大宮駅まではさらに4キロほどの足場の悪い線路を革靴やハイヒールで乗客たちは黙々と歩いて行ったのでした。

【上尾駅から沿線の駅に広がり大暴動へ】宮原駅

一方、上尾駅にいた一部の乗客は、動かない列車をあきらめて8キロ先の大宮駅に向かいました。そして、宮原駅で駅長と助役を捕まえ、大宮まで一緒に歩かせるという暴挙にでました。

上尾事件のを受け、熊谷通運上尾支店内に現地対策本部を設置しました。埼玉県警は対策本部を上尾警察署に設置し、群馬県警にも応援要請しました。

10時22分上尾駅では乗客たちが構内のポイントに石を詰める、10時30分大宮駅では、東北線上野発仙台行き急行「まつしま一号」に投石をするなどと、上尾駅だけでなく周辺の駅にまで上尾事件の暴動は広がりを見せていきます。

【上尾駅から沿線の駅に広がり大暴動へ】大宮駅から川越線へ

上尾駅の次の駅、宮原駅を出て大宮駅に向かうと、川越線が見えてきます。大宮駅まで川越線と高崎線は並行して走っているのです。上尾事件を受けて、大宮駅では8、9番線ホーム事務室を怒った乗客が占拠しました。

線路を歩いている乗客たちは、川越線を走ってきた列車にも投石して、今度は川越線もストップさせてしまいました。上尾事件の影響は、次々と波及していきました。

列車の乗務員たちは、上尾事件の怒り狂った乗客たちに襲われる恐怖を感じて、電車を捨てて、逃げてしまいました。運転士と車掌は国鉄大宮工場に避難しました。こうして、上尾事件の影響で川越線も不通となってしまいました。

【上尾事件】夜まで続いた大暴動の影響

正午には振り替えバスの輸送が軌道に乗り、乗客たちも上尾駅から次々と去っていきました。国をも揺るがした「上尾事件」は、発生から5時間で終結しました。10000人の暴徒の中で、逮捕された人数はたったの7人しかいませんでした。上尾事件の取材に来た朝日新聞の記者に暴力を振るった人や、現金を盗んだ人がこの中にいたのです。

上尾事件の影響による混乱に乗じて、11時59分と12時4分の2回、国鉄本社の交換台に同じ男の声で「午後1時5分に東京駅を爆破する」との脅迫電話もありました。

上尾事件が終結したからといって、ダイヤがすぐに復旧したわけではありません。夕方の午後5時20分まで、高崎線は運休状態になり、通勤とは関係のない人まで影響を受ける結果となりました。上下とにも1時間にたった1本という少なさでした。上尾事件の影響は夜になるまで続きました。

上尾事件を受けて、大宮から、上尾、熊谷方面にバス70台を出して振り替え輸送を行いましたが、バスを待つにも長い列に並ばなくてはなりません。

その上、やっと乗れたと思ったら朝の電車以上に混雑のすし詰め状態でした。上尾事件同様、ここでも乗客の罵声が飛び交っていました。中には出社まで6時間、帰りは3時間と合計9時間もかかったという人もいたほど、上尾事件の影響は各駅へと広がっていったのです。

【上尾事件】大暴動による当日の被害、影響

上尾事件の事件日には全国的に遵法闘争の影響があり、暴動の起きなかった各線でも大幅な遅延が生じていました。13日12時時点での影響は下記の通りです。

貨物列車運転本数 : 平常の60%まで低下
中央快速線 : 運休40本
南部線 : 32本
京浜東北線 : 30本
他首都圏本部管内運休本数計220本、影響人員約71万人
首都圏本部管内改札止め : 12駅計46回
大阪環状線 : 午前中の運休本数66本。大阪地区での影響人員は約30万人

上尾事件から首都圏へ拡大【首都圏国電暴動事件】

1973年(昭和48年)の春闘で、国労と動労は順法闘争を争議戦術として経営当局に対抗していましたが、利用客からは批判と反発を招いただけとなり、3月13日朝には高崎線上尾駅他数駅で、乗客が鉄道車両や駅施設を破壊して駅周辺を占拠した暴動は、上尾事件に発展しました。

本来であれば、上尾事件の時点で事態の収拾を図るべきでしたが、労使双方とも歩み寄りは見られませんでした。とりわけ国労・動労は「上尾事件は権力側の扇動したもの」と、根拠も示さないまま反論し、上尾事件の怒り冷めやらぬ利用客への謝罪を拒否したばかりでなく、順法闘争を断続的に再開しました。

順法闘争自体への法的解釈論議を別としても、このような態度をとる組合に対し、マスメディアは利用客の視点から批判を行いました。上尾事件を受けての対策が講じられることもなく、国労・動労に対する国民の怒りも、もはや限界に達していました。

上尾事件があったにも関わらず国鉄当局と労働組合は歩み寄らず、「遵法」は首都圏では上尾事件をきっかけに緩められたものの全国的には続けられ、3月17日には半日ストライキ(全面ストではなく、平日の5割程度の運行)を決行しました。 

3月20日には24時間ストライキを予定していましたが、さすがに上尾事件を受けての世論を考慮し中止、組合は1ヵ月の“休戦”を決断しました。 

そして翌月、1973年(昭和48年)4月24日から再び「遵法」が開始されることになりました。4月27日には国鉄・私鉄とも全面ストライキを予定しているなど、乗客はもうこの事態に辟易としていました。1ヵ月ほど前の上尾事件の鬱憤は、ずっとくすぶっていましたので、「遵法」開始当日に、それは爆発します。

首都圏の国鉄の駅で同時多発的に起こした大暴動事件となります。上尾事件同様、やはり原因は人々の「遵法」に対する怒りでした。事件当時は4・24騒動、4・24事件という呼称でも呼ばれました。

特にこの日からは4月27日の交通ゼネストを控え、遵法闘争を強化していました。

16時30分頃、大宮駅では東北本線・高崎線が遵法闘争によるダイヤの乱れで60-90分遅れとなっていました。帰宅時間とが重なったことでホームに乗客が溢れ出し、一部の乗客が駅長室を占拠する騒ぎを起こしました。

一時険悪な状況となりましたが、埼玉県警への警備出動の要請とあわせて、東武野田線・バスなどへの振替誘導をしたことで、この時は一旦沈静化しました。上尾事件のような暴動には至らなかったのです。

【首都圏国電暴動事件】大暴動発端は赤羽駅

赤羽の東北・高崎線下りホームでは一向に到着しない列車に利用客の不満が高まっていました。上尾事件と同様に、利用客たちの怒りは限界まで高まっていたのです。

20時頃、青森行急行「津軽1号」を宇都宮駅まで普通列車扱いにすると案内放送が流れました。定刻であれば「津軽1号」は上野駅19時35分発ですが、遵法闘争と荷物積込みの遅れから20時15分に上野駅を発車しました。

しかも、上野駅を発車した時点で超満員となっていました。「津軽1号」の到着前、赤羽駅列車ホームで上り中距離電車が停車中、ホーム上の乗客1,500人が下り電車が来ないことに不満を募らせ「停車している電車を折り返し運転しろ」と要求し、運転士を引き摺り下ろして中距離電車を破壊し始めていました。

【首都圏国電暴動事件】津軽1号の赤羽駅への入線

そのような事態が進行していた20時30分頃、「津軽1号」は数百人が待つ赤羽駅に到着しました。しかし、既に超満員のため駅の乗客は乗車することが出来ず、乗客は機関車を取り囲みました。

機関士は乗客の勢いに押され職務放棄して逃亡しました。上尾事件と同様の展開となったのです。

その後、乗客は動かない列車に対して窓ガラスを割り始めました。このため「津軽1号」も赤羽駅を発車できなくなり、国鉄側は京浜東北線へ乗客を誘導する案内放送を行いました。上尾事件同様の騒ぎが起き始めていました。

しかし、この時、京浜東北線北行の電車も赤羽駅手前で信号機故障により運転見合わせとなり、乗客1000人が線路を歩き駅へ向かう事態となっていました。

21時頃には赤羽駅の各線ホームは6,000人もの人で溢れ、更に駅長室に詰めかけて暴れ、駆けつけた機動隊に対して気勢を挙げて対峙する等の大暴動に発展しました。21時30分頃には1番線に停車中だった京浜東北線磯子行電車車内で発炎筒が燃やされ、車内も破壊されました。22時30分頃には男性が運転台に放火する騒ぎとなりました。

【首都圏国電暴動事件】赤羽駅から首都圏全土に暴動が波及

更にホームに停車していた京浜東北線が放火され炎上、この影響で京浜東北線のみならず並列する山手線までストップします。そしてこのことは、各駅のホームにあふれかえっていた乗客に決定的な一撃を与えることになりました。

赤羽駅での列車運行停止は山手線などにも影響が及んで次々と国電の列車運行が停止する事態となり、そのため、暴動が他の駅にも波及することとなりました。

上尾事件の暴動の件もあり、赤羽駅の暴動の報が伝わると、上野駅、新宿駅の乗客達が一斉に暴徒と化して駅を破壊、占拠。更に暴動は忽ちのうちに首都圏の各駅に波及し、最終的に渋谷、秋葉原、有楽町などの首都圏38の主要駅に拡大しました赤羽駅の暴動はわずか1時間あまりで首都圏の各駅に連鎖的に広がっていったのです。

【首都圏国電暴動事件】上野駅

20時すぎには上野駅で運転手がなかなか来ないことに乗客が激怒、遅れてやってきた運転手を小突き、電車から引きずりおろし連行しました。乗務員室から持ち出した発煙筒を焚く人まで現れました。7番線ホームでは乗客3,000人が発炎筒を炊いて窓ガラスを割り始めました。

この騒ぎをきっかけに騒乱状態となり駅機能が麻痺し、21時には警察が到着したものの手が付けられる状態ではなくなっていました。上尾事件と同様に、一斉に多くの暴徒が現れました。

暴徒は本屋改札事務室や切符売り場も破壊し始め、職員は身の危険を感じて職務放棄をしてしまい駅は無人状態となりました。その後も破壊行為は続き、0時20分頃にはコンコース放火騒ぎが起きる事態となりました。動かない列車の案内板を集めて放火された火に投げ込むといった行為も見られました。

【首都圏国電暴動事件】新宿駅

新宿駅では上野駅での騒乱発生を受けて21時10分ごろより騒ぎが起こり始め、21時30分頃山手線の運行を停止、地下鉄私鉄各線への振替輸送の案内を放送したところ、利用客が駅長事務室に押し掛ける騒ぎとなりました。

22時頃には西口の料金精算所や売店などが襲われ、東口では鉄道公安室に放火する騒ぎに発展。翌4月25日7時頃まで騒乱は続きました。新宿駅での暴動参加者は最大時には20,000人に達しました。上尾事件同様、暴動は一気に群衆の中に広まったのです。

同駅の一連の騒擾と顛末は1984年に発行された『新宿駅90年のあゆみ』にも述べられているが、駅職員たちは職場から逃げ出さず、収拾に懸命で後に感謝状を出されたといいます。 

【首都圏国電暴動事件】首都圏の複数の駅で同時多発的な大暴動に

この他、渋谷駅、秋葉原駅、有楽町駅等の計38駅で破壊・放火などの暴動事件が同時的に多発しました。群衆の数は上尾事件の10,000人を大きく超え、総計で32,000人を超えたとされています。

一部の暴徒の中には切符・現金・売店の商品を略奪する者も現れ、被害は現金だけで1千万円を超えたとされています。上尾事件とは比べ物にならないほどの大きな損害額でした。

また、池袋駅では群集同士の喧嘩、神田駅ではタクシーに投石をすると言った騒ぎも発生しました。新橋駅では駅施設破壊によると思われるガス漏れも発生しています。これに対し、警視庁では22時頃、機動隊の最大動員を指令し投石などの破壊行為の阻止と、駅員・車両の保護を指令するとともに各駅長に対して駅員の現場待機を要請しました。

さらに23時30分頃には上尾事件同様、事件の拡大防止と列車運行確保、悪質者に対する逮捕・検挙の方針を全警察官に指令をだしました。私鉄各社に電車・バスの臨時運行と終電延長を要請しました。

しかし、同時多発した騒乱には有効な手が打てず、また群衆に恐れをなした駅員が職務放棄して逃げ出す事例が相次ぎ、混乱を収拾させることはできませんでした。

国労は21時30分、東京地本の遵法闘争を中止し、動労も混乱を緊急整備するまでは当局に協力することとしました。25日以降は東京以外の地区で闘争を継続しました。しかし、21時45分頃には赤羽線・京浜東北線・山手線・東北本線・高崎線・常盤線(常盤線各駅停車を含む)がすでに運行を停止しており、完全に手遅れでした。
 

上尾事件同様、多数の鉄道車両・施設が破壊された影響は大きく、首都圏では翌4月25日午前10時頃まで列車運行が全面停止となりました。その後も大幅な間引き運転を強いられる事態となりました。

【首都圏国電暴動事件】破壊・放火は38駅に

その他、多くの駅で乗客が駅長室を占拠するなど、冒頭にも紹介したように38の駅が破壊・放火を含む被害に遭うという、同時多発的大暴動となりました。上尾事件に端を発したこの暴動の被害は、凄まじいものでした。

「26駅で破壊・占拠」という、恐ろしいほどの被害状況を伝える新聞見出しがありますが、同日の夕刊では「破壊・放火は38駅に」とさらに増えていました。

【首都圏国電暴動事件】被害

4月26日に国鉄が集計したところによれば、被害額は次のようになっており、磯崎叡総裁は26日の衆議院運輸委員会にて報告を行っています上尾事件同様に、多くの損害が出ました。
 

国鉄の損害額
 

  • 損害額合計:9億6000万円(以下内訳)
    • 車両:1億円
      • 被害S:走行不能になるほど致命的なダメージを負い廃車となった車両の補充製造で数編成
      • 被害A:工場に入庫して修理を要する車両で23編成
      • 被害B:電車区で約1週間で修理できる車両で36編成
      • 被害C:ガラス破損など1日で修理できる車両で32編成
    • 建物:1億2000万円
    • 電気機械設備:4億1000万円(コンピュータ等)
    • 自動券売機:1億3000万円、東京都配置数約3000台のうち208台が使用不能
    • 乗車券類の払い戻し:2億円
 

その他
 

  • 鉄道弘法済会損害:数千万円(売店の破壊等)
  • 貨物減送量:47万トン(内生活必需品10万トン)

現在では起こり得ない上尾事件

現代では上尾事件のような大暴動が日本で起こることは考えられないでしょう。現代社会では労働組合と企業の経営陣は話し合いによる条件交渉が行われます。上尾事件の頃のような乗客を巻き込むストライキや「遵法」は乗客に迷惑をかける行為であり、企業としてマイナスでしかありません。

上尾事件の後、乗客から見て、企業への不満や抗議も集団で感情的に行う暴動に訴えるのではなく、乗客の声を聞くルートをきちんと構築され細かく対応していく仕組みが企業側にも出来ています。

高度経済成長の日本の1ページであった上尾事件

復興に向かった日本経済は、その後、世界に例のない高度経済成長期に入っていきます。1955年から1973年まで日本の実質経済成長率は年平均10%を超え、欧米の2~4倍にもなりました。上尾事件はそんな時代の事件でした。

大都市への人口集中により、過疎、過密の問題、さらには公害問題も発生しました。大都市では住宅事情が悪化し、甲虫渋滞、騒音、ゴミ問題など生活環境が悪化しました。上尾事件以外にも、さまざまな問題で揺れ動く時期でした。

日本のGNPが資本主義国第2位となったのは1968年でしたが、四大公害裁判の開始は1967年、公害対策基本法の制定も1967年、環境庁の設置は1971年でした。

上尾事件はこうした時代の流れの中で起こった、社会の成長の歪みの一つだったと言うことができます。現代の日本では想像もつかない上尾事件の大暴動。ですが、テロ事件が世界で多発する昨今、上尾事件のような過去の社会の混乱から学びとることも必要でしょう。

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