宮崎勤や家族の現在!東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相は?

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を覚えていますでしょうか?何人もの少女が犠牲になったその凄惨な事件から30年あまりが経った今、解説いたします。宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相は、また宮崎勤のその心理や生い立ちについて解説いたします。

宮崎勤や家族の現在!東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相は?のイメージ

目次

  1. 1東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
  2. 2東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の概要
  3. 3宮崎勤とはどういう人間?
  4. 4東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件【加害者家族】
  5. 5東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の裁判
  6. 6東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の報道
  7. 7東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相は?
  8. 8現在は死刑執行済・世間の恐怖は残る

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件は事件から30年が経った今でもその記憶が新しいと言う方も多い凶悪事件です。その被害者が全員10歳以下の少女であり、さらに宮崎勉の私生活などとも合わせて、多くの子供を持つ親に恐怖を与えた事件でした。また、この事件による世間への影響はとても大きく、様々な波紋を呼んだ凶悪事件でした。

今回はそんな宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件について、その事件の概要や真相、また犯人である宮崎勤の生い立ちや現在についてご紹介いたします。被害者遺族の悲痛な気持ちはもちろん、当時の加害者家族の様子などについても合わせてご紹介いたします。その悲惨な結果をどう見るかについては、賛否両論が上がっています。

被害者は全員10歳以下の少女

宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件は、1988年から1989年の約1年間、東京から埼玉を中心に相次いで発生した、10歳以下の少女が被害者となった連続殺人事件でした。広範囲での事件であり、相次いで被害者が出たことから、子供を持つ親は恐怖に震えながらの生活を送っていましたが、1989年、ついに宮崎勤は逮捕されました。

最後は遊んでいた幼い姉妹を襲おうとしたところ、幼い姉妹の父親により取り押さえられたところで、ついに宮崎勤は現行犯逮捕されました。宮崎勤は一貫して無罪を主張しましたが、その犯行の凄惨さなどから第一審からの死刑判決がくだされ、その判決は最後まで覆ることはありませんでした。また、裁判は多くのメディアから注目を浴びました。

世間の認識への大きな影響を与えた

宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件では被害者はすべて4歳〜7歳の少女で、その犯行の異常性から、世間では様々な論議があがるなど、世間に大きな影響を及ぼした事件でもありました。被害者の父親・母親の悲痛な様子を楽しんでいる節もあり、多くの有識者によるプロファイリングなども行われ、様々な意見が飛び交いました。

宮崎勤の生い立ちやその家族までが注目を浴び、宮崎勤の父親や母親、そして2人いた妹までも世間から犯罪者扱いを受け、悲惨な結果を産むことになりました。では、宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件のその真相や、死刑囚となった宮崎勉の現在について解説していきます。この悲惨な事件から、私たちは今何を知ることができるのでしょうか。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の概要

まずは宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の概要についてご紹介いたします。30年も前になると、その名前は知っていても生まれる前で詳しくは知らない、と言う方も多いです。死刑囚となった宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の概要を知ることで、その異常性や被害者の父親・母親などの悲痛な気持ちも伝わってきます。

わずか1年の間に4人もの少女が被害者となった事件は現在でもメディアで取り上げられることがあり、またこの事件が起きたことにより、世間への影響は大きく、「少女趣味、ロリコンは犯罪者予備軍」や「オタクは現実とフィクションの区別がついていない」など、様々な偏見が向けられるきっかけにもなりました。

埼玉県入間市内で4歳の女児を誘拐・殺害(1988年8月)

宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の発端は埼玉県入間市でのことでした。当時4歳だった少女が誘拐され、その後宮崎勤により殺害されました。また、少女を殺害後死後硬直した少女の遺体にわいせつな行為を行い、その様子を動画としてビデオ撮影していたことも明らかになっており、宮崎勤の自宅からそのビデオテープが発見されました。

この時の記録にて、鑑定人や裁判官から「どうして写真だけでは済まなくなったのですか」と尋ねられ、宮崎勤は「よくわからない」「急に子供の頃が懐かしくなった」など、曖昧な返答を続けるなど、宮崎勤の異常性が見られ、その最初の誘拐・殺人の動機についての真相は死刑囚となった現在ではその心理を知る術はありません。

埼玉県飯能市内で7歳の女児を誘拐・殺害(1988年10月)

次に起こったのは埼玉県飯能市ないでのこと。当時7歳、小学1年んせいの少女が宮崎勤により誘拐され、殺害されました。こちらはなんと少女に傷を負わせ、瀕死の状態の少女に対してわいせつ行為を行ったと宮崎勤死刑囚は証言しており、そのわいせつ行為を行った時の様子について、足がピクピクとわずかに動いていた、と証言しています。

また、第二のこの誘拐・殺害について、宮崎勤死刑囚は「なんとも言えないスリルがあった」や、「よく覚えていない」など、こちらも曖昧な証言をしています。また、第三の事件のあと、遺棄したこちらの少女の遺体を探そうとするも、発見することができなかったとも供述していたことからも、宮崎勤の異常性が伺えます。

埼玉県川越市内で4歳の女児を誘拐・殺害(1988年12月)

そして第三の事件は埼玉県川越市にて起こりました。当時4歳だった少女を誘拐し、殺害されました。こちらの少女に乱暴をはたらこうとした際、少女が失禁したと宮崎勤は証言しており、そのことにより宮崎勤は焦ってその遺体を山奥に投げ捨てたと供述しました。事件は12月9日。その6日後の15日には、その少女の全裸死体が発見されました。

また、宮崎勤本人が送ったものかどうかは定かではありませんが、死体発見から5日後、12月20日に少女の父親・母親の自宅にハガキが届きました。少女の父親・母親は、遺体が発見されたと聞いてテレビのインタビューにて「見つかってよかった」と発言したことから、宮崎勤は第二の事件の被害者の遺体も探し出そうとしたと供述しています。

また、宮崎勤は同時に第一の事件の少女の遺体も探し出し、こちらは発見し、1989年2月6日に第一の被害者の父親・母親の自宅の前に、「今田勇子」の名前で少女の骨の一部が入ったダンボールを起きました。また、同時に犯行声明を新聞社に有効するなど、宮崎勤の特異性が伺える行動にも出ており、この文書から筆跡鑑定も行われました。

東京都江東区で5歳の女児を誘拐・殺害(1989年6月)

そして第4の事件は東京都江東区にて起こりました。同時5歳だった少女が宮崎勤死刑囚により誘拐され、殺害されました。これが最後の殺害でありましたが、宮崎勤がもし逮捕されていなければ、それ以降もどんどん被害者が出ていたことが危ぶまれます。6月6日の犯行から5日後、6月11日に、その少女のバラバラの遺体が発見されました。

また、この第四の事件について宮崎勤は裁判にて検察側はDの手を焼いて食べたなどと、罪状認否において述べました。ですが、検察側によりこの証言は宮崎勤自身の異常性について強調するために主張したものであると主張され、第四の事件に対する食人行為は虚偽である可能性が高いと結論付けられたことも記録として残っています。

幼い姉妹を狙って猥褻行為・現行犯逮捕(1989年7月)

1989年7月23日。東京八王子市にて幼い姉妹に対してわいせつ行為を起こそうとしました。宮崎勤は少女の全裸写真を撮影しようと姉妹に近づき、妹の方の全裸を撮影した隙を見て姉が父親に知らせ、姉妹の父親により宮崎勤は取り押さえられました。父親は取り押さえた男が東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人であることを知りませんでした。

姉妹の父親が宮崎勤を取り押さえて現行犯逮捕したあと、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件もまだ捕まってないのに、と宮崎勤本人を責めましたが、後日東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が宮崎勉だったと判明して愕然としたとメディアからの取材に答えています。宮崎勤は他の少女の殺害に関して自供し始め、事件の真相が明るみに出始めました。

宮崎勤とはどういう人間?

様々な異常性、特異性から世間を恐怖に陥れた宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件。こちらではその犯人である宮崎勤の生い立ちや経歴について、年代別に解説していきます。宮崎勤はどのような人物で、どのような家庭で育ったのでしょうか。死刑囚となり、現在ではその死刑も執行された宮崎勤。その生い立ちを辿っていきましょう。

まずは宮崎勤の生い立ちやその経歴についてから順に解説していきます。様々な異常な言動、そして東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こし世間を恐怖に陥れたその行動。宮崎勤はどのような生い立ち、どのような性格だったのでしょうか。実は裕福な家庭に生まれていた、非常に負けず嫌いな性格など、その生い立ちは詳細に知ることができます。

宮崎勤の生い立ち・経歴

こちらでは宮崎勤の生い立ちや経歴についてご紹介いたします。宮崎勤は東京都西多摩郡にて生まれました。地域新聞「秋川新聞」を発行する新聞会社を経営する父親の下に長男として生まれ、とても裕福な家庭でしたが、父親・母親ともに多忙で、幼少期から住み込みのお手伝いがいました。家族構成は祖父、祖母、父親と母親、そして二人の妹です。

宮崎勤の経歴として印刷会社に就職していたこともありますが、わずか3年で退職し、その後は自宅にこもる生活が続くなど、その経歴は陰鬱なものとして映ります。趣味として同人誌などを発行したりしますが、その態度の悪さから同人仲間にも嫌われ、同人活動も1回きりのものでした。その他経歴、生い立ちについて年代別にご紹介いたします。

宮崎勤の幼少期

まず宮崎勤の生い立ちとして、幼少期についてご紹介いたします。宮崎勤の幼少期は先ほどのように裕福な家庭に生まれましたが、彼は手首に関する身体障害を患っていましたが日常生活に支障はなく手術の成功率も低いため、父親・母親の意向で手術は行いませんでした。ですが幼少期お遊戯などで特定のポーズができずからかわれたと証言しています。

一方で家庭では大変可愛がられており、多忙な父親・母親の代わりに住み込みのお手伝いや祖父が中心に幼い宮崎勤の面倒を見ており、幼稚園でからかわれた経験もあり幼少期から内向的だった宮崎勤をよく外に連れて歩いたりしていました。また、この祖父が死去した数か月後から、宮崎勤は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こしました。

宮崎勤の小学校・中学校時代

宮崎勤の生い立ちとして、小学校時代宮崎勤は怪獣に熱中していました。怪獣博士とクラスメイトから呼ばれるほどでしたが、別段人気者というわけではありませんでした。一方で勉強面では大変優秀で、成績はいつも上位。宮崎勤自身も小学校から算数が得意であったと証言しており、宮崎勤の母親も当時その優秀な成績を自慢するほどでした。

宮崎勤の中学校時代から、その負けず嫌いな性格が現れ始め、1〜2年生の時は陸上部、そして3年生になると将棋部に所属していました。陸上でも将棋でも、非常に負けず嫌いで練習や勉強を怠らず負けた相手に必ず勝利することに固執していた一面を持ちます。一方で宮崎勤は通信教育で空手を習っていたことも明らかになっています。

宮崎勤の高校時代

宮崎勤の高校時代、幼い頃から手首の障害があることを隠すために、自宅から大変遠い男子校に進学しました。通学に片道2時間も掛かる高校でしたが、名門校だったこともあり、宮崎勤の父親・母親から幼い頃から得意だった英語を生かして、英語教師を目指すために高校を選んだと勘違いされていたと宮崎勤本人は証言しています。

ですが、高校に進学してからその優秀だった成績は下降し始めます。宮崎勤本人はそのまま付属の大学に進学しようと考えていましたが、高校3年生にもなると内部進学が難しくなるまでに成績は下がっており、宮崎勤は希望していた内部進学を果たすことができませんでした。そのことから、宮崎勤は志望校を短大の画像技術科に変更しました。

宮崎勤の大学時代

短大時代、宮崎勤は大変影の薄い学生であったことがわかっており、タレントであり俳優の川崎麻世が同じ短大の同級生であったことが明らかになっていますが、川崎麻世の同級生は80人程度だったのにもかかわらず、当時の印象はほとんどないと発言しています。当時はまさか凶悪事件を起こすなんて微塵も思わなかったと証言する方も多いです。

一方で、宮崎勤はその生い立ちとして、短大での勉強の傍らパズル制作にのめり込み、自ら制作したパズルをパズル雑誌などに投稿し、またパズルの解答を投稿することで、宮崎勤本人の名前が雑誌に掲載されることもありました。欠かさずパズル雑誌を購入し、その解答を送るなどを続けていたことを宮崎勤本人は証言しました。

宮崎勤の社会人時代

宮崎勤は社会人となり、短大卒業後印刷会社に就職しました。オペレーターとして勤務するも、勤務態度は非常に悪く、また態度や言動も大変悪かったため、周りからの評価もとても低かったことが明らかになっています。就職から3年後、東京から神奈川県へ転勤を命じられますが、それを拒否したことから、宮崎勤本人から退職しています。

その後数ヶ月自宅にこもり、家業である新聞社での手伝いを始めます。一方でアニメの同人制作をしたり、ビデオサークルに入り録画したテレビアニメなどのビデオを交換したり収集しており、事件後警察による家宅捜索が行われた際、自宅からは大量のアニメビデオが見つかっていますが、ほとんど鑑賞していなかったことが明らかになっています。

宮崎勤の負けず嫌いな性格

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤ですが、その生い立ちと一緒に知っておきたいのがその性格。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の裁判での宮崎勤の発言も一貫性がなく、その異常性が明らかになっていました。精神鑑定も行われましたが、彼の思考や心理に関して不可解な点も多く、その点についても世間で物議を醸しました。

ですが宮崎勤の性格は学生時代の様子から見ても負けず嫌いであったことがわかります。大変負けず嫌いで、「勝利」に固執する一面があったことが伺えますが、高校時代にその固執する様子は徐々に見られなくなっており、社会人になるとその素行の悪さが目立つようになりました。年を重ねるごとに鬱屈した感情を抱くようになったことが伺えます。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件【加害者家族】

ここまで宮崎勤本人の生い立ちやその性格について解説いたしましたが、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件はとても凄惨で多くの少女が犠牲となった痛ましい凶悪事件でした。死刑囚となり、現在はその死刑も執行された宮崎勤。真相が明らかになった現在でもその被害者家族の悲痛な気持ちはメディア越しでもひしひしと感じられます。

その一方で、加害者家族、宮崎勤の父親や母親、そして2人の妹は現在どうなってしまったのでしょうか?30年前当時は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起こったことで、加害者家族も犯罪者扱いされる風潮が強くありました。死刑が執行された現在、宮崎勤の家族・父親や母親、二人の妹の現在について解説いたします。

宮崎勤の父親

宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相が発覚して4年後、宮崎勤の父親は自宅を売却しました。地方新聞会社を経営し、裕福だった宮崎勤の父親は一切を売却した代金を被害者遺族に支払うことを決めました。宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発覚時宮崎勤の実家も公開されており、その写真からかなりの規模であることが伺えます。

宮崎勤の父親は被害者遺族に対して支払いの段取りを取り付けると、自殺の名所と言われている東京都の多摩川に架かる神代橋に赴き、そこで飛び降り自殺を遂げました。その自殺に関しても大きく報道され、宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件は宮崎勤死刑囚となった後もその余波を大きく残し、この自殺に対しても賛否両論が巻き起こりました。

宮崎勤の母親

宮崎勤の母親は、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件により実の息子である宮崎勤が逮捕され、死刑囚となりその死刑が執行された後、行方をくらましました。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相が明らかになったことで加害者家族である母親も大きなバッシングを受け、また息子が凄惨な事件の犯人であったことにショックを隠しきれない様子でした。

行方をくらませる前の宮崎勤死刑囚の母親の最後の受け答えは、宮崎勤死刑囚の死刑執行後、東京拘置所から宮崎勤死刑囚の遺体の引き取りの依頼でした。この依頼に対して宮崎勤死刑囚の母親は「遺体はそちらにお任せします」と答えました。このことから母親が息子に対してショックを感じ、遺体の引き取りも複雑な感情を抱いていたことが伺えます。

宮崎勤の妹

最後に宮崎勤死刑囚の二人の妹についてご紹介いたします。二人いる妹のうち姉の方、長女については宮崎勤死刑囚の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相が報道されたことで、すぐに当時勤務していた会社を辞めさせられました。また、長女は当時婚約を予定していましたが、この事件をきっかけに自らその婚約を破棄しています。

また、二人の妹のうち次女の方は当時看護学校に通っていました。ですが、その看護学校を退学させられており、当時の加害者家族も犯罪者扱いをする風潮の強さが伺えます。ですが、加害者家族を犯罪者扱いするその風潮については現在でも残っている部分が多く、そこに対して賛否両論が上がっており、様々な議論が飛び交っているのが現実です。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の裁判

宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の裁判では、その真相が明らかとなり第一審から死刑判決がくだされました。現在では死刑はすでに執行されており、宮崎勤はすでにこの世にはいませんが、どのような裁判が行われ、宮崎勤の死刑執行に至ったかについてこちらで解説いたします。その死刑執行までにどのような真相があったのでしょうか。

宮崎勤から謝罪の言葉は一切なし

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相が明らかになり宮崎勤が逮捕されたのち、まず宮崎勤は精神鑑定を受けました。机に何かを書き続けたり、法廷でも笑みを浮かべるなど、様々な不可解な行動を行っていることも確認されていますが、逮捕当時の様子なども鑑みて、その精神鑑定の結果、責任能力は実証され、第一審から死刑が下されました。

実際精神鑑定石5人、そして心理学者1人による精神鑑定が行われたにもかかわらず、このことにより、拘置所や取り調べ、そして裁判での様子などの統合失調症など責任能力を疑う言動は仮病だと結論付けられました。解離性精神同一性障害など精神障害に関する診断もなされましたが、その結果も異常なし、責任能力は保たれるという結論でした。

一審・二審ともに宮崎勤へ死刑宣告

そして控訴審、上告審を経て一貫して死刑宣告は揺るがず、2006年1月17日の上告審にて、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤は死刑が確定しました。上告も棄却され、2008年6月17日、宮崎勤死刑囚は東京拘置所にてその死刑が執行されました。宮崎勤はこの死刑執行を冷静に受け入れたとの記録が残っています。

真相が明らかになり、現在では宮崎勤も死刑が執行されてもうこの世にはいません。ですが、死刑が執行された現在でも、被害者遺族、そして加害者家族、そして日本中の人々に強いショックを残した事件でした。死刑執行後、宮崎勤の遺体と対面したのは母親だけでしたが、前述通り母親はその遺体を引き取らず、その後、現在については消息不明です。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の報道

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相が明らかになり、現在では宮崎勤も死刑が執行されました。ですが、事件の真相が発覚した当初から現在まで、メディアがその宮崎勤の趣味や私生活に関して大きく取り上げたことで、アニメなどが好きないわゆるオタクに対して偏見的な報道のされ方があり、強いバッシングが世間で強まりました。

オタクに対する強い偏見

アニメやホラー作品のビデオテープを大量に自宅に所持していたことが大きく放送され、同じくアニメ作品が好きないわゆるアニメオタクに対して、強い偏見があり、アニメが好きな人間は現実とフィクションの区別がついていないという偏見が強まりました。全員がこのような特徴を持っているとオタクのイメージとして根付く影響がもたらされました。

中でもホラー作品も含まれていたことから、そのホラー映画の残虐性に影響を受けて東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こしたのではというメディアの報道のされ方もあり、ホラー好きも同じくバッシングされる対象となりました。

また、この報道のされ方により、事件発覚後しばらくはホラー作品のテレビ放送が自粛されるなどの影響もありました。

広がる幼女趣味への恐怖

ビデオテープの収集癖が明らかになった際、その大量のビデオテープの中に少女のわいせつ行為に関するビデオテープも含まれており、以前から宮崎勤は幼女趣味、いわゆるロリコンだったのでは、という報道がされ、そのことにより「ロリコンは犯罪者予備軍である」という認識が世間の間で広まりました。

ですが、宮崎勤は生い立ちでもご紹介したように、ビデオテープそのものを収集することが目的であり、映像はほとんど鑑賞していなかったことが確認されており、収集癖が勝っており、ほとんどが一般的なアニメ作品で、いかがわしい内容は1%にも満たない程度だったことから、報道に偏見的な意識を植え付けるものがあったことを論じる人もいます。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相は?

それでは、宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の真相とは結局どのようなものだったのでしょうか。少女4人が犠牲となったこの凄惨な事件は、宮崎勤がすべて起こしたものであり、宮崎勤の残虐性や異常性を伺えるものでした。また、この事件により世間に対し強い偏見や恐怖を残す、とても影響力の強い事件であったとも言えます。

一貫して死刑判決、現在は執行済み

少女4人が犠牲となった東京・埼玉連続少女誘拐殺人事件は、全て宮崎勤本人が誘拐・殺害し、また被害者家族に対して少女の遺骨を送りつけるなど、その残虐性を伺うことができ、また本人も逮捕後に自供していることから、宮崎勤本人が犯人であることがわかります。また、実際に少女たちの遺骨も発見されています。

また、曖昧な発言を繰り返している一方で、犯行そのものは認めているということで、その真相として宮崎勤が東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人であるということは揺るがぬ事実です。そして現在では死刑判決が下り、その死刑も執行されています。2018年現在、宮崎勤は死刑は執行されました。死刑執行時の年齢は45歳でした。

宮崎勤の冤罪説を唱える人も

また、宮崎勤の冤罪説を唱えるひともおり、市民団体「M君裁判を考える会」も組織されています。代表者は木下信男氏で、宮崎勤の冤罪説を唱える論文も発表しています。そのほか冤罪を唱える書籍も発行されており、未だ宮崎勤の冤罪を唱える声は残っています。

また、事件が発生してから30年。この間に科学はどんどん進歩しており、もし現在宮崎勤の精神鑑定を行ったとしたら、どのような結果が出ていたのか。宮崎勤が犯行を犯した事実は変わらずとも、その精神鑑定の結果が異なっていた可能性について論ずる意見もあります。科学の進歩により、今後犯罪の鑑定はどんどん詳細になっていきます。

現在は死刑執行済・世間の恐怖は残る

今回は宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件について開設いたしました。被害者家族、そして加害者家族はこの事件にどのような気持ちを抱いたか、そして世間へ与えた影響は計り知れません。現在は宮崎勤の死刑も執行されていますが、模倣犯も現れており、その事件の早期解決が望まれます。

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