山岳ベース事件の概要!連合赤軍が起こしたリンチ殺人事件

山岳ベース事件を知っていますか?連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件です。山岳ベース事件では多くの犠牲者が出ました。あさま山荘事件にも繋がっています。今回はこの山岳ベース事件について紹介します。連合赤軍が起こしたリンチ殺人の犠牲者や判決を見ていきます

山岳ベース事件の概要!連合赤軍が起こしたリンチ殺人事件のイメージ

目次

  1. 1山岳ベース事件とは?
  2. 2山岳ベース事件からあさま山荘事件へ
  3. 3山岳ベース事件の概要
  4. 4死者12名!山岳ベース事件で行われたリンチ殺人
  5. 5山岳ベース事件で結成された連合赤軍とは?
  6. 6山岳ベース事件の用語を詳しく解説
  7. 7なぜ山岳ベース事件はエスカレートしたのか?
  8. 8山岳ベース事件11人目の犠牲者・金子みちよ
  9. 9山岳ベース事件のその後、裁判や判決の行方

山岳ベース事件とは?

山岳ベース事件とは1971年から1972年にかけて連動赤軍が起こした同士に対するリンチ殺人事件です。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍が起こしたあさま山荘事件とともに新左翼運動が退潮する契機となったとされています。

あさま山荘事件は当時全てのテレビ局がこのあさま山荘事件を報道しているので、当時を知る人ならば多くの人が記憶に残っているのではないでしょうか。あさま山荘事件はテレビの報道や映画等によってまだ人々の記憶に残っていると思います。

しかし、そのあさま山荘事件の前に山岳ベース事件という末恐ろしい事件があったことを知る人は少ないのではないでしょうか。それが今回紹介する「山岳ベース事件」です。

あさま山荘事件後に発覚したリンチ殺人事件

山岳ベース事件はあさま山荘事件の後で発覚しています。山岳ベース事件はあさま山荘事件で逮捕された連合赤軍の幹部などへの警察の取調べで仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚しました。そのことは世間に強い衝撃を与えたとされています。

それまではこの山岳ベース事件と知る人はいなかったのではないでしょうか。今回はこの山岳ベース事件について詳しく調べていきます。

山岳ベース事件からあさま山荘事件へ

山岳ベース事件というのは「総括」という名のリンチによって連合赤軍のメンバー29名の内12名がリンチ殺人された事件のことです。この山岳ベース事件(リンチ事件)の首謀者、また連合赤軍のリーダー格が永田洋子という女性です。

この永田洋子の命令により山岳ベース事件は行なわれました。永田洋子は「革命」を掲げ「総括」というリンチを仲間に命じ12名の連合赤軍メンバーをリンチ殺人したとされています。

山岳ベース事件は後のあさま山荘事件後に発覚しています。それまでは山岳ベース事件は公には一切知られていなかったとされています

あさま山荘事件とは?

あさま山荘事件は1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「あさま山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件です。当時この事件の様子はテレビ等で報道され、多くの人が目にしました。

このあさま山荘事件については覚えている、知っているという人も多くいるのではないでしょうか。このテレビ報道は平均視聴率50.8%という数字をたたき出し、現在でも日本記録となっています。今後この記録は更新されることはないでしょう。

あさま山荘事件の概要

日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、あさま山荘の管理人の妻を人質に立てこもりました。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警機動隊が人質救出作戦を行ないますが、救出作戦は難航しました。

最終的に死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出したとされています。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出し、犯人5名は全員逮捕されました。

人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録となっています。酷寒の中での警察と犯人との攻防や、血まみれで搬送される機動隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継されました。

事件の発端

山岳ベース事件により内部崩壊が進んでいた連合赤軍は1972年2月16日、彼らが直前まで事実上の拠点として秦名山や迦葉山のベース跡地が警察の山狩りによって発見されたことを知った坂口弘らは、群馬県警の包囲網が迫ってきたのを感じたそうです。

そこで、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えし、隣接する長野県に逃げ込むことにしたとされています。長野県ではまだ警察が動いていないと判断したようです。この時、最高幹部の森と永田洋子が資金調達のため上京していました。

この決定は最高幹部2人と連絡取れない中で、坂口を中心に行なわれたとされています。森と永田洋子もベースが発見されたことを前日に知り、坂口たちと合流使用としていましたが、2月17日に山狩り中の警察に発見、逮捕されています。

坂口らは長野県の佐久市方面に出ることを目指してベースを出発しましたが、装備の貧弱さと厳冬期という条件が重なって山中で迷ったそうです。そして、軽井沢に出てしまったようです。この事件で彼らがあさま山荘を選んだのは偶然であったようです。

事件発生直前には29名いた連合赤軍のメンバーはこの時点では坂口、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5名のみとなっていました。この5名も最終的に機動隊の強行突入の末逮捕されています。

その後、今回の山岳ベース事件が発覚しています。この時までは山岳ベース事件のことは知られていなかったようです。では、山岳ベース事件について詳しく見ていきましょう。

山岳ベース事件の概要

1960年代以前の日本では学生や労働者による政治運動や政治活動が盛んであったとされています。その中で、学生を中心とした新左翼諸派は、1967年頃から急速にその活動を先鋭化されていったとされています。

その中でも最も過激派であるとされていたのが、1969年の9月に公然と登場した共産主義者同盟赤軍派、及びほぼ同時期に過激な闘争を開始した日本共産党神奈川県委員会とされています。

同年の10月の国際反戦デー闘争や同11月の佐藤首相訪米阻止闘争で新左翼主流武闘派や全共闘が壊滅し、政治運動が穏健化する中この2つはハイジャックやダイナマイト闘争などを行い、その活動を先鋭化されていったとされています。

1971年には革命左派は銃砲店を襲撃し銃で武装するようになり、赤軍派は金融機関を襲撃して資金獲得を行なうようになっていったそうです。そのため、警察の取り締まりも一段と厳しくなりました。革命左派と赤軍派も警察の殺害を企てました。

一方で、この頃から中核派等の新左翼主流派勢力やノンセクト・ラジカルも過激な闘争をするようになり、交番爆破や東峰十字路事件のような機動隊員の殺害事件も起こるようになったそうです。

1971年に入って共闘関係を結ぶようになっていた赤軍派と革命左派は、やがて「連合赤軍」の結成を宣言したと言われていますが、実態はなく、その一方で両派ともに警察の厳しい追及によって活動に行き詰っていったようです。

両派はその事態を打開するために合同の軍事訓練を行い、指導部会議を重ねていましたが、その最中に「総括」として暴行、極寒の屋外に放置、食事を与えなかったことなどにより短期間に29名のメンバーの内12名をリンチ殺人しました。

このことにより、自らの組織を弱体化させたとされているのが、今回紹介する「山岳ベース事件」になります。

1971年8月には革命左派において山岳ベースを脱走したメンバー2名の「処刑」が行なわれていて、すでに同士殺害という一線は越えていたそうです。つまり山岳ベース事件ではよりスムーズにリンチが行なわれていたことになります。

革命左派が銃屋を襲撃し武装組織になる

1971年2月17日に日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が栃木県真岡市の銃砲店を襲撃しました。これを真岡銃砲店襲撃事件といいます。革命左派は獄中の最高指導者川島豪の奪還のため、外国領事館等の要人の誘拐を企てました。

しかし、要人の誘拐は困難と判断し断念しました。そこで川島が公判出廷のため横浜拘置所から横浜地方裁判所に護送される際に襲撃する計画に変更したとされています。そこで銃火器が必要となり、この事件が起こりました。

当初、民間人を襲撃することに疑問の声も出ていたそうですが、「銃砲店は警察権力と一体化しているので、その末端機関と見なすべきだ」と正当化され、この襲撃が実行されました。

1971年2月17日午前2時半頃に電報配達を装って栃木県真岡市の銃砲店の勝手口を叩く音に反応して銃砲店の人が戸を開けると、革命左派の男ら3人が乱入して一家4人を縛り、猟銃10丁(散弾銃9丁、ライフル1丁)、空気銃1丁、銃弾約2300発を強奪しました。

事件直後に犯行メンバー2名は逮捕され、永田洋子、坂口弘らも指名手配されることになったようです。このことによって、犯行メンバーや永田洋子、坂口弘は都市部での活動が困難になったとされています。

永田洋子は捜査網からの逃避の中で強奪した銃の使用目的を当初の最高指導者奪還ではなく、銃を軸とした武力闘争に切り替え武装組織として活動していくことにしたそうです。このことが山岳ベース事件に繋がっていきます。

赤軍派と利害関係が一致し連合赤軍として結成

当時、赤軍派は金融機関の強盗等によって資金力はありましたが、武器がないのが弱点だったとされています。一方、革命左派は真岡銃砲店襲撃事件などで猟銃等を手に入れていたため、武器はありましたが、資金はなかったようです。

以前からお互いの活動を評価していた両派は、それぞれの利害が一致したことから、赤軍派の軍事組織であった中央軍と革命左派の軍事組織であった人民革命軍が統合した後、連合赤軍が結成されたようです。

そして、山岳ベースにて今回の山岳ベース事件が引き起こされていきました。

新倉ベースへ集合し合同軍事訓練を開始

連合赤軍の母体の1つであった革命左派は、テロを行なったメンバーの多くが指名手配されていて、都市部での自由な活動ができなくなっていました。そこで、警察の目の届かない山岳地帯に軍事訓練や今後のテロ作戦のための拠点を作りました。

それを山岳ベースと呼んでいました。山岳ベースは目撃される等の理由により転々と場所を変えていたそうです。連合赤軍のもう1つの母体である赤軍派も都内アジトを拠点としつつ、山岳ベースの設置を目指すようになったそうです。

連合赤軍は1971年12月に赤軍派の新倉ベースで初の合同軍事訓練を行なったとされています。この合同軍事訓練で山岳ベース事件が起こり、多くの犠牲者を出しました。

脱走者への総括・死刑が始まる

12月20日頃から革命左派の秦名ベースで両派の指導部会議がはじまり、合法部との決別と両派による「新党」の結成が宣言され、両派のメンバーが山岳ベースに集合したそうです。秦名ベースの新党においては、「総括」がエスカレートしていきました。

「総括」とは本来は過去を振り返る「反省」を意味するもので、当時の左翼政治運動家の間で好んで使われていたそうです。これは山岳ベース事件でよく使われました。

連合赤軍においては、総括対象者は最初は作業から外されるだけでしたが、間もなく総括に集中させるためとして、長時間の星座、食事を与えない、さらには殴打が加えられるなど、どんどんエスカレートしていったそうです。

この際に連合赤軍の最高幹部であった森恒夫は、殴って気絶させ、目覚めた時には別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開していたそうです。また、この暴行はあくまで総括のための援助であるとされていたようです。

この暴行の対象者は日を追うごとに増えていき、最終的には死者が出るに至ったとされています。また、一部のメンバーは森によって「組織に対する裏切り」と断定され、「死刑」を宣告されたようです。この「死刑」は相手殺害することでした。

山岳ベース事件では、この死刑も含め総括によって多数の犠牲者を出しました。

メンバーが次々とリンチで殺害される

1971年12月末からの約2ヶ月半の間に死亡、殺害されたメンバーは12人に上りました。総括と称して次々とリンチ殺人されました。犠牲者の中にはメンバー同士で恋仲であった者や兄弟であった者もいたようです。

中には妊娠していたメンバーもいたそうです。そのメンバーは後に解説する、金子みちよです。リンチ殺人されたメンバーの遺体は、証拠隠滅のためにすべて全裸で土中に埋められたそうです。

山岳ベース事件ではなぜこのようなリンチが行なわれたのでしょうか。

連合赤軍の残党5名があさま山荘に立てこもる

その後、連合赤軍の残党である5名が長野県軽井沢町の別荘あさま山荘に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺する、あさま山荘事件を引き起こすことになりました。その後、山岳ベース事件の発覚に繋がります。

死者12名!山岳ベース事件で行われたリンチ殺人

山岳ベース事件で永田洋子らによってリンチ殺人された犠牲者12名について調べていきます。永田洋子らによってリンチ殺人された犠牲者はどのような理由で総括の対象となり、リンチ殺人されたのでしょうか。

山岳ベース事件で永田洋子らの犠牲者となった連合赤軍のメンバーの名前などについても詳しく調べていきます。

1人目の被害者・尾崎充男(22歳)

山岳ベース事件の1人目の犠牲者である尾崎は、何度も総括に遭ってきたとされています。その理由として、交番襲撃に積極的ではなかったことや、武器の隠し場所を教えたなどの理由で何度も殴る蹴るの暴行を受けたとされています。

激しい暴行の末、気絶を繰り返しますが真の革命戦士になる予兆が見受けられないと感じた永田洋子は「ここでやめたら尾崎は目覚めない!」と、永田洋子の命令で外の木に縛り付けられたそうです。外の気温は-15℃の極寒でした。

尾崎は木に縛り付けられたまま舌を噛み切り、その後凍死したとされています。尾崎の殺人について永田洋子は「奴は負けた!これぞ敗北死!」と言い、この殺人から殺したメンバーは全て「敗北死」という言葉で片付けたそうです。

2人目の被害者・進藤隆三郎(21歳)

山岳ベース事件の2人目の犠牲者である進藤は、尾崎が死んだ次の日に総括の対象になったとされています。進藤の元彼女が逮捕されたことであらぬ疑いを掛けられたようです。その疑いに対して進藤は否定したようですが誰も聞かなかったそうです。

その後、永田洋子らの命令により全員からの激しいリンチによって殺害されました。これが山岳ベース事件2人目の犠牲者となっています。

3人目の被害者・小嶋和子(22歳)

山岳ベース事件の3人目の犠牲者である小嶋は加藤能敬と付き合っていたようです。2人が小屋の裏でキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまい、総括の対象となったそうです。この時永田洋子は2人にこういったとされています。

「あんたたち、こそこそと!いやらしい!革命する気はあるの!?」永田洋子はメンバー同士の恋愛を激しく嫌悪していたそうで、革命家が恋愛なんて100年早いと他のメンバーに訴えたそうです。

メンバーからも総括に異議なしとの声が上がり、2人とも激しいリンチを受け小嶋は外の木に吊るされ、その後凍死したとされています。これが山岳ベース事件の3人目の犠牲者となっています。

4人目の被害者・加藤能敬(22歳)

山岳ベース事件の4人目の犠牲者である加藤は、彼女を殺された後も激しい暴行を受けまだ生きていたそうです。加藤には2人の弟がいました。永田は加藤の弟らにこう命令したとされています。

「これは兄さんのためなのよ!兄さんを革命戦士にするための総括なのよ!」、2人の弟は「兄さん、すまない」「兄さん、申し訳ない」と言いながら激しく暴行、その後加藤は殺害されました。

これが山岳ベース事件の4人目の犠牲者となっています。

5人目の被害者・遠山美枝子(25歳)

山岳ベース事件の5人目の犠牲者である遠山は、長い髪を鏡台の前で梳かしていたところを永田に因縁をつけられたそうです。その際永田はこう言ったとされています。

「あんた、鏡ばっかり見て革命する気あるの!?本当にやる気があるんだったら、自分で自分を総括しなさい!」、遠山は小屋の中央に立たされ自分の顔を30分以上も殴り続けたそうです。その後、髪を切られ逆エビに縛られたそうです。

その後、全員から暴行を受けたようです。永田らに「あんた、メンバーに色目使ってたんでしょ!この男好きが!」「それでも革命家か!」と罵倒されながら暴行を受けたとされています。その後、遠山は殺害されました。

遠山は母子家庭であったそうです。遠山は「お母さん、美枝子は革命戦士になるから。絶対に幸せにするから!」と言っていたそうですが、その願いは叶いませんでした。これが山岳ベース事件の5人目の犠牲者となっています。

6人目の被害者・行方正時(25歳)

山岳ベース事件の6人目の犠牲者である行方は、不適切な発言をしたと言う理由で会議で議論となり、総括として5日間縛られ暴行を受けて殺害されたとされています。なお、どのような不適切な発言だったのかは不明とのことです。

これが山岳ベース事件の6人目の犠牲者となっています。

7人目の被害者・寺岡恒一(24歳)

山岳ベース事件の7人目の犠牲者である寺岡は、総括に疑問を抱いていたようです。一体なんために総括を行なっているんだと、総括がおかしいことを親友に言ったようです。寺岡は親友にこう言ったとされています。

「親友のお前だからこそ言っているんだ。このままじゃ俺達全員永田に殺されるぞ!」、後日寺岡は永田に呼び出され、「あんた、陰口言ってるんだって!?」と問いただされたようです。寺岡は親友が密告したことを悟りました。

そして、永田に「俺はなぁ!最初からお前のことが嫌いだったんだよ!この風船ババア!」と言ったらしいです。これに対し永田は激怒し「総括すらかけない!死刑よ!死刑!みんなこの男を殺せ!」と命じたようです。

寺岡の太ももに1人がナイフを刺し、動けなくなったところをアイスピックで心臓、首、急所を狙って刺したとされています。しかし、寺岡はなかなか死なず、最後には4人がかりでタオルを使い絞殺したとされています。

これが山岳ベース事件の7人目の犠牲者となっています。

8人目の被害者・山崎順(21歳)

山岳ベース事件の8人目の犠牲者である山崎は、前日の死刑に加わらなかったことで、もう逃げ出したいという気持ちになっていたそうです。リーダーに呼び出され、死刑に加わらなかったことを激しく追及されたそうです。

山崎は自ら「僕を死刑にしてください。死刑になって当然の人間です」と涙を流しながら告げたそうです。その後山崎は死刑に処されます。全身をアイスピックで刺され、最後に絞殺されました。

これが山岳ベース事件の8人目の犠牲者となっています。

9人目の被害者・山本順一(28歳)

山岳ベース事件の9人目の犠牲者である山本は、山岳ベースに理想郷を夢見て家族と共に参加していたそうです。しかし、メンバーから「お前、嫁に対する態度が偉そうだな。お前は革命戦士なのか?」と因縁をつけられ総括の対象となったようです。

無抵抗の山本は妻の目の前で激しい暴行を受けた後、逆エビに縛られ柱に繋がれたそうです。山本は舌を噛み切って自殺を図ろうとしましたが失敗し、そのまま放置され死亡したとされています。

これが山岳ベース事件の9人目の犠牲者となっています。

10人目の被害者・大槻節子(23歳)

山岳ベース事件の10人目の犠牲者である大槻は、メンバーとの議論の際に「敗北」という言葉を多用してしまったという理由で因縁をつけられ、総括の対象となったようです。元々永田は大槻が気に入らなかったともされています。

永田に髪を切られ、全員から激しい暴行を受けて殺害されました。これが山岳ベース事件の10人目の犠牲者となっています。

11人目の被害者・金子みちよ(24歳)

山岳ベース事件の11人目の犠牲者である金子みちよは、永田からこう因縁をつけられます。「あんた、メンバーの男ばかり見てるね!この男好きが!女を使って取り入ろうって魂胆だろう!?」「同士とヤッたことがあるんだろう!」

「革命戦士としての自覚が足りない!」、などと言われたようです。金子みちよは妊婦だったそうです。金子みちよは大槻同様、頭が良く美人であったようで、金子みちよは度々永田に意見していたそうです。

そのことが永田の逆鱗に触れたとされています。大槻と共に縛られて暴行を受け、お腹の子供ごと殴られ殺害されました。これが山岳ベース事件の11人目の犠牲者となっています。

12人目の被害者・山田孝(27歳)

山岳ベース事件の12人目の犠牲者である山田は、「この組織を脱退したい」と告げましたが、受け入れられずに雪の中に正座させられ反省を促されたとされています。夜の食事抜きで薪拾いを命じられ、戻った時に「作業が遅い」と叱られたそうです。

その後、全員から10日間リンチされ続け、衰弱し死亡しました。これが山岳ベース事件の12人目の犠牲者となっています。

山岳ベース事件で結成された連合赤軍とは?

山岳ベース事件で結成された連合赤軍について詳しく調べていきます。

赤軍派

赤軍派とは、1969年に結成された共産同系の日本の新左翼党派の1つとされています。山岳ベース事件をはじめ、武装闘争による数々の事件を起こしています。

革命左派

革命左派とは、日本共産党神奈川県委員会の通称で1969年に結成された日本の新左翼党派の1つです。こちらも山岳ベース事件をはじめ、数々の事件を起こしています。

連合赤軍が結成された理由

連合赤軍が結成された理由は赤軍派と革命左派がお互いの利害が一致したことから、結成したとされています。この連合赤軍は山岳ベース事件をはじめ、あさま山荘事件などを引き起こし、日本に強い衝撃を与えました。

山岳ベース事件の用語を詳しく解説

ここで、山岳ベース事件で出てきた用語について詳しく解説していきます。山岳ベース事件で出てきた用語にはどのようなものがあるのでしょうか。見ていきましょう。

学生運動とは?

山岳ベース事件での学生運動とは、戦争反対や条約改定などの政治的な事柄に対する反対運動や要求運動のことを指します。しかし過激になって運動の意味そのものに疑問が残ります。

山岳ベースとは?

山岳ベースとは、指名手配による活動の制限がかけられた事により、警察の目から離れた山岳地帯に拠点を置くという目的で設置されたメンバーらのアジトを指します。この山岳ベースで今回の山岳ベース事件が起こりました。

共産主義化とは?

共産主義とは、政治や経済分野での思想や理論、運動、政治体制の1つで、財産の一部または、全部を共同所有することで平等な社会を目指すことです。

総括とは?敗北死とは?

山岳ベース事件ではその意味が捻じ曲がっている部分もありましたが、総括とは反省を意味しています。決して殺害するような意味はありません。敗北死とは、山岳ベース事件で使われたメンバーら、永田が勝手に使った言葉です。

自らの殺人を正当化するために使われていたものと思われます。

なぜ山岳ベース事件はエスカレートしたのか?

山岳ベース事件がなぜここまでエスカレートしていったのか詳しく調べていきます。永田という権力によるものも大きかったとされていますが、一種の催眠のような効果も働いていたのではないかと言われています。

でなければ、山岳ベース事件のようにここまでの殺人をするのは異常であるといえます。

言葉の独り歩き

山岳ベース事件では総括、敗北死といった言葉が独り歩きしていたとも考えられているようです。だからこそ、山岳ベース事件のような悲劇が生まれたのではないかという意見もありました。

若年層のイジメと同調圧力?

また、山岳ベース事件では若年層のいじめや、同調圧力といった心理的なことも働いていた可能性があると考えられています。そのようなことから、今回の山岳ベース事件が引き起こされたのではないかという意見もありました。

山岳ベース事件11人目の犠牲者・金子みちよ

山岳ベース事件で当時唯一妊娠していた金子みちよについて詳しく調べていきます。金子みちよは革命左派に属していて、当時連合赤軍の会計係として存在していたようです。中央委員会と呼ばれる幹部組織にいた吉野の子を妊娠していました。

永田は金子みちよに対して嫉妬心があったとされています。それは金子みちよが美人で頭も良かったこと、金子みちよが永田に対してイエスマンではなかったことなどが理由として挙げられます。金子みちよは革命左派時代から意見していたそうです。

永田は能力を認める一方で金子みちよが自分立場を脅かすという警戒あったとされています。また、金子みちよは遠山を激しく批判していたともされています。しかし、結局永田によって金子みちよは総括の対象にされました。

山岳ベース事件のその後、裁判や判決の行方

山岳ベース事件の収束後の判決はどのようになったのでしょうか。山岳ベース事件後の判決について詳しく調べていきます。森恒夫は判決の前に自殺で死亡しています。永田は死刑という判決が下りました。坂口も同様に死刑という判決が下りました。

吉野は無期懲役と罰金4万円という判決が下りました。植垣には懲役20年という判決が下りました。加藤倫教には懲役13年という判決が下りました。その他の逮捕されたメンバーにはそれぞれ懲役4年~20年という判決が下りました。

このように重大事件であった山岳ベース事件ですが、犯人それぞれに判決が下りました。また永田はこの判決を受け収監されていましたが脳腫瘍で死亡しています。

今回紹介した山岳ベース事件では多くの犠牲者が出ました。逮捕された犯人達には判決が下り、それぞれ懲役の判決となったもの、死刑の判決となったもの、この山岳ベース事件の犯人達には相応の判決が下り収束していきました。

しかし、1人国外逃亡した坂東が処分されない限りこの山岳ベース事件を含め一連の事件は終わらないと言う意見もありました。全てのメンバーが正式に処分されてやっとこの山岳ベース事件が解決したと言えるのではないでしょうか。

山岳ベース事件をはじめて知ったという方も多くいるかと思います。このような悲しい事件、山岳ベース事件があったことを忘れずにこんな悲しい事件があったんだと思っていただければ幸いです。

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