玄倉川水難事故(DQN川流れ)のその後を詳しく解説!
1999/8/14神奈川県で発生した玄倉川水難事故。死者13名という悲しい結末となりました。受難者一行の言動から、DQN川流れとも呼ばれています。そんな玄倉川水難事故の概要は?なぜDQN川流れなのか?生存者のその後やその後の言動、裁判の噂などをまとめました。
目次
玄倉川水難事故(DQN川流れ)の概要と詳細
テレビでリアルタイムに伝えられたことに加え、受難者のリーダーによる暴言、死者13名という悲惨な結末などから、20年近く経過した今でも記憶に新しい玄倉川水難事故(DQN川流れ)。アウトドアを行う際の教訓として、多くの機会で取り上げられています。
ここではまず、その玄倉川水難事故(DQN川流れ)がいつ、どのような天候の下で起こったのか・事件の概要や発生の経緯・死者や生存者の数などについて記載していきます。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)発生日時
玄倉川水難事故(DQN川流れ)は、1999年8月14日に発生しました。
横浜から来た受難者グループ25名が、前日8月13日に神奈川県を流れる玄倉川(くろくらがわ)の中州でキャンプを始めました。事故当日の14日はお盆真っただ中の土曜日でした。
おりしものオートキャンプブームや流星群到来のタイミングとも重なり、キャンプ指定外の場所にもテントが多数張られ、行楽を楽しむ人々でにぎわってたということです。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)当日の天候
事件当日の8月14日の天候は暴風雨という悪天候。前日の13日に、紀伊半島の南海上に熱帯低気圧が発生していたためです。その熱帯低気圧の影響で、13日夕方になると神奈川県では雨足が強まり、気象庁から県内全域に大雨洪水注意報がだされました。
14日早朝には、大雨洪水警報が発表されています。増水が激しさを増した事故当日8時までの総雨量は114mm。救助が開始される10時には、1時間に38mmと激しい雨となっていました。
上流にある発電用の玄倉ダムに貯水機能はなく、崩壊防止のために放流を行うには十分すぎる雨量でした。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)事故発生
そんな必然とも言える状況のなか、玄倉川水難事故は発生しました。テントを張っていた中州に取り残されたのは、グループ一行25人中、前日に日帰りで現場を離れた4名と勧告を受け入れ避難した3名を除く18名。
事故発生前に到着したテレビカメラにより、雨とダムの放流で激化する濁流のなか、生き残りをかけて必死で踏ん張る受難者の姿と、救助に奮闘するレスキュー隊の姿がリアルタイムで放映されました。
そのテレビカメラの目前で、18人全員が一斉に、決死の救助活動の甲斐もむなしく濁流に押し流されてしまったのです。
流された18名のうち、幼児1名は一緒に流された大人により別のキャンパーへ向かって投げ出された後救出され、生き残りました。また、他の4名は運よく岸にたどり着くなどで生き残りましたが、残りの13名は水死という痛ましい結果となりました。
なぜ玄倉川水難事故は(DQN川流れ)と呼ばれているのか?
この玄倉川水難事故は、DQN川流れとも呼ばれています。それは、グループ一行が事故の前後で取ってしまったDQNな態度や言動に、端を発していると言えるでしょう。この時の行動が、受難者たちのその後の運命に大きく影響していきます。
それでは、どのようなことが言動がDQNだったのでしょうか。ここでは主にその態度について記載していきます。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)再三の警告への態度
一行には、前日の夕方から当日朝にかけて、雨やダム放流による増水や水位の上昇に関する警告や退避の勧告が再三行われていました。
途中、宿泊予定だった年配の3名がこの勧告に従い車へ避難し生き残りましたが、中州に残った18名はその言葉に全く耳を傾けず、事故発生まで退避することはありませんでした。むしろ、その心配をよそに、暴言やあざ笑うような態度で答えを返しています。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)救助活動への態度
救助活動が始まると、リーダーの男性によるレスキュー隊への暴言が始まりました。水かさが増し、一行がパニックに襲われる中で放つその暴言が、テレビカメラにも収められています。
生き残りをかけた必死な態度とも取られましたが、過酷な状況の中で命を懸けて任務を行う方々に対しての、あまりに配慮のないDQNな言葉の数々でした。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)救助後の態度
生存者の救助された後のDQNな態度も、その後に非難を浴びる一つの要因となっています。救助を行った自衛隊や食料を差し入れた地元住民に対して、お礼やお詫びの言葉ではなく暴言を発し、非礼な態度を取ったのです。
時系列で見る玄倉川水難事故(DQN川流れ)
それでは、玄倉川水難事故(DQN川流れ)の流れを、事故発生前日から当日・その後に分けて時系列で見ていきましょう。
1999年8月13日玄倉川水難事故(DQN川流れ)事故発生前日
13日 | 紀伊半島の南海上に熱帯低気圧が発生、一行がキャンプを開始 |
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15時頃 | 降水がはじまり、その後巡回していたダム管理職員による増水と水位上昇に対する警告が行われる |
17時前 | 神奈川県全域に大雨洪水注意報が発表される |
19時頃 | グループ25人のうち4人が日帰り予定であったため帰宅 |
19時半過ぎ | 雨足の強まりに伴い、上流の玄倉ダムが放流予告のサイレンを鳴らす |
20時前 | ダム管理職員が2度目の退避勧告 |
20時過ぎ | ダム管理事務所が警察署に通報 |
20時20分 | 玄倉ダム放流開始 |
21時過ぎ | ダム管理職員と警察官による退避勧告、一行のうち3名が退避 |
1999年8月14日玄倉川水難事故(DQN川流れ)事故発生当日
5時半過ぎ | 神奈川県全域に大雨洪水警報発表 |
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6時頃 | 前夜に退避したメンバーが避難を呼びかける |
6時半過ぎ | 玄倉ダムが本格的な放流を開始 |
7時半頃 | 警察官が退避の呼びかけ |
8時過ぎ | 前夜に退避したメンバーにより119番通報 |
8時半頃 | 中州が水没しテントも流される、自力での退避が不可な程水位があがる |
9時過ぎ | 消防のレスキュー隊が到着 |
10時頃 | レスキュー隊が救助を開始、テレビカメラによる放映開始、一行のリーダーによる暴言も放映される |
11時頃 | 玄倉ダムが警察からの要請で放流を中止、満水となり5分で放流再開 |
11時半過ぎ | 18名が一斉に流され1名が救出、4名が岸に流れ付き着き生き残る、リアルタイムでのテレビ放映も継続 |
12時15分頃 | 現地本部設置 |
17時 | 神奈川県知事により陸上自衛隊へ災害派遣要請 |
19時頃 | 下流の丹沢湖で女性2名の遺体が収容される |
玄倉川水難事故(DQN川流れ)当日以降
15日8時半頃 | 対岸の生き残り4名が救出される |
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午後 | 2名の遺体収容 |
翌日~8/28 | 警察・消防・自衛隊・自治体や地元自治体により、10名の遺体収容 |
8月29日 | 最後の行方不明者1歳女児の遺体発見、捜索活動終了 |
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玄倉川水難事故(DQN川流れ)のリーダー・生存者・死者の詳細
玄倉川水難事故(DQN川流れ)のリーダーの名前・リーダーを含む数名が勤務していた会社名・死者や生存者の数について、ここでは記載していきます。
リーダーの名前は?勤務先の会社名は?
加藤直樹という名前の男性が、一行のリーダーのような存在でした。
また、そのリーダー加藤直樹を含む数名が勤務していた会社名も判明しています。株式会社富士繁(ふじしげ)という産廃業者の戸塚工場です。富士繁というと個人の名前のような印象を受けますが、会社名として使用されています。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)の死者と生存者の内訳
死者13名のうち富士繁(会社名)の社員は5名、その妻が2名、社員が連れてきた女性が2名、子供が4名です。富士繁の社員を中心に、その関係者の女性と子供で占められていました。
生存者は5名のうち大人が3名、子供が2名。なんと、生き残った大人のなかにはリーダー加藤直樹が含まれています。そして、子供の生き残り2名は加藤直樹の子供です。
事件後、暴言を吐き続けていた加藤直樹の名前を筆頭に、死者と生存者の氏名、会社名もすべてネットに晒される結果となりました。リアルタイムでのテレビ放映やその後発達したインターネットにより、それは比較的容易なことでした。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)・被害者たちの暴言の数々!
加藤直樹を含む一行は、ダム管理職員や警察、消防、自衛隊、地元住民に対してたくさんのDQNな暴言を吐いています。ここでは、その暴言を警告段階から救助中、救助後に分けてまとめてみました。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)警告段階でのDQNな暴言集
事故前日からダム管理職員や警察官、地元住民は一行に対して警告や避難勧告を出し続けていました。そんな人々に対する、暴言です。
警告段階でのダム管理職員・警察に対するDQNな暴言
退避を促すダム管理職員、警察官に対して加藤直樹は「早く失せろ、殴るぞ」・「放っておいてくれ、楽しんでるんだよ」などの身勝手でDQNな暴言を発しています。
警告段階での地元住民に対するDQNな暴言
身の安全を案じ、心配し声をかける地元住民には「地元の人は臆病ね」・「田舎者はプライバシーを侵すのが趣味」などの非礼きわまりないDQNな暴言がありました。
救助中のレスキュー隊に対するDQNな暴言
救助中には、レスキュー隊に対して加藤直樹が「おい、こら、ヘリを呼べ」・「もたもたすんな」・「仕事なんだから早く助けろ」などの暴言を発しています。
自身の命も危険にさらしながら作業を行う人々に対して、身勝手で非常識過ぎる加藤直樹のDQNな発言が目立ちました。
救助後の自衛隊や地元住民に対するDQNな暴言
無事対岸より助けだされた加藤直樹は、救助に参加した自衛隊の隊員、さらには地元住民へも再びDQNな暴言を吐いています。
救助後の自衛隊に対するDQNな暴言
「テントを回収したら返してほしい」。生き残りの加藤直樹が発したDQNな言葉です。命がけで救助にあたる隊員に対して、責任と事の重大さを全くといいほど理解していない、暴言にも似た発言です。
救助後の地元住民へ対するDQNな暴言
善意からおにぎりを差し入れた住民に対して、「まずい」と発言し、その後そのおにぎりを地面に叩きつけています。生き残りとしては考えられないほど失礼な、加藤直樹のDQNな暴言と態度です。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)のその後
玄倉川水難事故(DQN川流れ)の後、生存者や富士繁、死者の遺族はその後どのような行動を取ったのでしょう。
生き残りと死者に対してその後に囁かれはじめたいくつかの噂、事故によりその後改変された事柄、その後の世間の反応などについてもまとめてみました。生き残りへの試練・裁判の有無・会社名へのイメージなども焦点です。
玄倉川水難事(DQN川流れ)生存者のその後の言動
生き残った大人と子供、それぞれ行動した者としない者に分かれています。どちらにしても、何かしらの非難を浴びる結果となりました。
大人の生存者その後の言動
大人の生存者3名のうち2名は、会見を開くことはありませんでした。大人の生き残りは会見を行わず謝罪の意思を表明しなかったことで、世間から非難を浴びています。事故後生存者の名前も晒されていますので、その2人の特定は容易なものでした。
子供の生存者その後の言動
子供の生存者2名のうちの1人、加藤直樹の娘は事故後ブログを記載しています。もちろん名前や事件の名称、詳細は伏せてありましたが、個人の名前と事件を特定するには十分な内容でした。そのため、現在ではそのブログは閉鎖されています。
子供の生き残りの1人は、行動を起こしたことで世間の反応を刺激してしまいました。
富士繁に関するその後
受難者のうち5名が勤務していた会社富士繁は、現在でも営業を続けています。事件後も富士繁という会社名は当時のままです。ホームページによると、その後いくつかの業務上必要な登録や許可を取り、施設も開設。仕事の幅を広げてきていることがわかります。
事故に関しては、会社の責任を問う声はあまり聞かれませんが、世間的なイメージから会社名の変更などが行われていても不思議ではありません。
富士繁という人の名前や景色をイメージできるような会社名ですので、事故を知る人の記憶は鮮明です。その後も会社名を変更しないことで、事件への関与を否定しているようにも感じます。
富士繁戸塚工場周辺では、近年道路建設による立ち退きに関するトラブルも発生しているようです。以前から周囲への騒音や操業の安全性についても取り沙汰されています。
生命保険金殺人の噂と裁判の噂
玄倉川水難事後(DQN川流れ)の発生後、いくつかの噂がささやかれました。そのなかで金銭にまつわる2つの噂、富士繁も絡んだ生命保険金にまつわる噂と裁判の噂についてまとめました。
加藤直樹と富士繁による保険金殺人だったのでは?という噂
リーダー加藤直樹の執拗なまでの退避拒否から、事故後、玄倉川水難事故(DQN川流れ)は事故ではなく事件だったのではないかという噂が週刊誌で取り上げられました。
加藤直樹が富士繁の経営状態を調べ、社員に生命保険金をかけて殺したという生命保険金殺人の噂です。
実際には作為的なものではないようでしたが、噂をされても仕方のないほど不可思議な事故だったということになります。富士繁という会社も普段からあまり評判は良くないようでしたので、そのあたりももこの噂が流れる原因だったのかもしれません。
生存者や死者の遺族は裁判を起こした?裁判を起こさなかった?
自然災害関する事故の場合、受難者や死亡者の遺族から、その自然を管理する団体や公的機関に対して損害賠償などの裁判が行われる場合があります。ですが、玄倉川水難事故(DQN川流れ)については裁判が行われたという記録はありません。
起こしたところで勝ちは望めない状況でしたが、当時のリーダー加藤直樹のそれまでの言動からは、裁判に手を付けなかったことは不思議に思えます。生き残りの名前が晒されていたことで、これ以上の騒ぎになることを避けたのかもしれません。
また、自然災害による事故でも、受難者に相当の過失があるケースでは、関係機関より救助活動の費用を求める裁判を起こされる場合があります。玄倉川水難事故(DQN川流れ)では、地元自治体が負担しただけでも4800万円の公費が使われました。
しかしながら、この費用を求める裁判なども起こされた記録はありません。裁判はその後の類似事故発生の抑止力ともなりますが、この玄倉川水難事故(DQN川流れ)はあまりに特殊なケースのため、その必要性がないと判断されたのかもしれません。
その後の世間の動きと改変された事柄
玄倉川水難事故(DQN川流れ)の発生を受け、世間的にもいくつかの動きがありました。再発防止に向けた議論や対策・救助体制の強化が図られたのです。
河川の利用と安全に関する議論と救助体制の強化
事故後、国土交通省や自治体各署では、河川の利用と安全に関する議論などの再発防止に向けた取り組みが行われました。
また、神奈川県では消防組織の改編が行われ、東京都においてはウォーターレスキュー隊という名前の部署が設置されました。自然下での水難事故に対する救助体制の強化が図られたのです。
天気予報による台風に関する表現の改編
防災上の観点から、気象に関する表現の改変も行われました。玄倉川水難事故(DQN川流れ)で大雨をもたらした熱帯低気圧と台風に関して、それまで大した影響がないと思われる可能性のあった表現を改めたのです。
2000年6月から、「弱い熱帯低気圧」から「弱い」を外し「熱帯低気圧」へ、台風の強さを表す「弱い」「並みの強さ」、台風の大きさを表す「ごく小さい」「小型」「中型」の表現を廃止しました。
現在では、台風の強さを「強い」「非常に強い」「猛烈な」、大きさを「大型」「超大型」で表しています。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)発生後の世間の反応は?
事故後の世間の反応は様々でしたが、グループが自然を甘くみていたこと、リーダー加藤直樹をはじめとする一行のDQNな言動に対する非難が主でした。
死者や生存者の名前・富士繁という会社名が特定され晒されたのは、このような世間の反応の現われと言えるでしょう。それぞれの名前については、現在でも簡単に情報を目にすることができます。
一旦個人の名前や会社名が判明してしまうと、インターネットが発達したこの時代では、その後いつまで経っても忘れてもらうことはできません。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)後の死者や生き残りに対する世間の反応は、厳しいものがほとんどです。富士繁という会社名に対するイメージにも、傷がついてしまった結果となっています。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)の教訓
玄倉川水難事故(DQN川流れ)からは、たくさんの教訓が得られました。
自然を甘くみてはいけない
山の天気が変わりやすいことは、一般的な常識です。例えその場で雨が降っていなくても、上流で激しい雨が降ったりダムの水が放流されれば、その後に川が増水することは容易に判断できます。
また、川は水深が浅くても、大人でさえ足を取られ死者出すことがあるのです。
ましてや、前日発生した熱帯低気圧の影響で雨が強まり、大雨洪水注意報や警報、ダム放流の警告が出されていたにもかかわらず退避しなかったことは、自然を侮り過ぎている証拠です。
厳しい自然を甘くみていると、死者を出すDQNな事故につながる危険性は大きいのです。
アウトドアにおいて知識や経験の不足、判断力の欠如は命取り
キャンプ以前に小さい子供がいる川遊びでは、中州は危険ですので絶対にやめましょう。事故のケースでは、上流にダムと下流に大小2つの堰があるというさらに危険なシチュエーションでした。
キャンプ指定エリアだったのは当然で、そこにテントを張ったことはアウトドアにおける知識や経験の不足の表われです。退避をしなかったことも、判断力の欠如と言えるでしょう。
自然を相手としたアウトドアでは、知識や経験の不足、判断力の欠如は、死者を出すDQNな事故につながる可能性が存在するのです。救助費用に対する損害賠償請求の裁判を起こされた場合は、争点になる可能性があります。
人からの進言や警告は素直に聞こう
大人でも、経験や知識の不足、判断力の低下は誰にでもあります。そんなとき、傍から見ている人々の進言はとても意味のあるものです。
ましてや、自然を管理している団体や危険を判断する部署がある場合、経験やデータ、その後の対応に基づいた警告や勧告が行われますので必ず指示に従いましょう。
アウトドアにおいては基本的に自己責任ですが、有事の際には迷惑が掛からないように、他人からの進言や警告は素直に聞くことが大事です。結果的に生存者を増やす要因となり得ます。
玄倉川水難事故(DQN川流れ)では、子供の方が柔軟な反応を見せていたということです。DQNな大人の身勝手に巻き込まれた結末はかわいそうですね。
また、救助費用の損害賠償裁判を起こされた際には、警告の有無や指示に従ったかどうかも、大きなポイントとなります。
救助される側は謙虚な態度で
事件、事故、自然災害に巻き込まれた人を救助するのは、確かに消防隊や自衛隊の仕事です。しかしながら、現場によっては自らも命の危険にさらされながら作業しなくてはいけません。
この玄倉川水難事故(DQN川流れ)においても、そのような状況を見て取ることができました。また、人命救助には莫大な費用が発生することがあります。自治体などが負担する場合、それは住民の血税を充てるということになります。
事件や事故の際は、このようなことをわきまえていないと、世間から厳しい反応をされ、関係機関からは損害賠償請求の裁判を起こされてしまう場合もあります。個人の名前が晒されているケースでは、この費用面以外でも裁判自体が精神的苦痛になりかねません。
勤務先などが晒されてしまった場合は、会社名のイメージダウンにつながります。救助される側の立場になってしまった場合は、DQNな行動は慎み、謙虚な姿勢で感謝の念を忘れないようにしましょう。
信頼できる仲間やリーダーと行動しよう
加藤直樹は仕事上では頼れるリーダーだったかもしれませんが、アウトドアにおいては違ったという見方ができます。ましてや、危機的な状況になると人間は本性が現われるものです。
この玄倉川水難事故(DQN川流れ)についても、前日に退避したメンバーからは何度か退避の進言などがありました。普段から、本当に信頼できる仲間やリーダーを見つけ、一緒に行動することが大切です。
アウトドアは謙虚な姿勢で柔軟に楽しもう!
この玄倉川水難事故(DQN川流れ)の発端は、グループに自然に対する謙虚さが掛けていたところに元々の原因があります。人間は、自然の猛威には勝つことができません。
河原でのキャンプは楽しいものです。ましてや、仕事の合間の休日に都合をつけて行う場合、予定の変更は難しいものですが、命あっての行楽とも言えます。
アウトドアを行う際は、天候や環境などに十分気を付け、随時、正確な情報を入手しながら柔軟且つ的確に判断しましょう。
また、身の安全を心配する人たちからの進言や警告をことごとく無視してしまったということも、13人もの死者を出す悲惨な結果となった要因です。
一行には、事故発生前から後までの言動や態度にも謙虚さが欠けていました。その結果、リーダー加藤直樹をはじめとした生存者・死者・会社名などの名前がすべて晒され、DQN川流れと呼ばれることとなってしまいました。
こうなると、その後の生き残りが辿る運命は厳しいもとなります。自然に対しても人間に対しても、自分の命に対しても、普段から謙虚な姿勢を心がけ行動することが大切です。