背徳感の意味や類語・例文・使い方とは?背徳感を感じる瞬間も紹介
恋愛とかで背徳感を感じたことはありますか?背徳感ってそもそもどのような意味で、どのよう使い方がされるのでしょうか。今回は背徳感の意味や使い方、例文だけではなく、その感情が生まれる理由や心理、背徳感がもたらすものなどにも迫っていきましょう。
目次
背徳感を感じたことってある?
皆さんもこれまでの人生で、一度くらいは背徳感を感じる瞬間を経験したことがあるのではないでしょうか。それはどのようなシチュエーションで、どのような心理状態だったでしょうか。
ひょっとしたら、背徳感の意味や使い方を誤解しているかもしれません。よく背徳感と同義に使われる言葉に「罪悪感」がありますが、背徳感と罪悪感の意味を意識して、使い方を考えているでしょうか。
後で詳しく見ますが、背徳感と恋愛には深い関係があります。背徳感には、罪悪感にはない甘美さがあります。背徳感のある恋愛は異常なほど燃えます。堕ちていく心理状態、快感がたまらないのです。
そもそも「背徳感」の意味とは?
背徳感とは、辞書的には「本来あるべき道に背いた後ろめたい感覚」、「悪いことをしてしまった申し訳なさ」といった心理状態と定義されていますが、これだけでは背徳感の微妙な色気が出ませんし、意味的に罪悪感との違いも不明確です。
背徳感の意味を正しく理解し、使い方を間違えないためには、これらに「快感を伴う」を付け加えるべきです。そうです、背徳感の本質的な意味には甘美な快感が伴うのです。
そこには、人間だけが持つ自己陶酔があります。自分で作ったストーリーに酔う心理状態の自分がいるのです。
「背徳感」の読み方
背徳感の読み方はご存じの方が多いでしょう。背は「はい」、徳は「とく」で、「はい とく かん」と読みます。
英語では、背徳は「immorality」で、「im」は否定を意味し、「moral」は道徳を意味しますから、徳に背くで、「はい とく」と読むのです。
「背徳感」の類語
「背徳感」の類語は「罪悪感」です。一般的に両者はあまり区別されずに使われることが多いです。どちらも「良くないことをした時に感じる後ろめたい感情」を表す言葉として使われます。
でも、先ほど見たように、背徳感には、罪悪感にはない何とも言えない官能的な甘さがニュアンスとして漂っています。罪悪感はただただネガティブな後悔という心理状態でしかありませんが、背徳感には自ら進んでその快感に堕ちていく自虐的な心理がついて来るのです。
そういう意味では、背徳感は罪悪感の一種ではあるが、罪悪感に自己陶酔的な感情が付加された特殊な罪悪感とも言え、自ずと使い方も変わってきます。
「後ろめたさ」、「疾しさ(やましさ)」も背徳感の類語として使われることがありますが、両者はどちらかと言えば、意味としては「罪悪感」に近い言葉と言えます。
使い方としては、単に悪いことをして、心が後悔を感じる心理状態のときは、「罪悪感」、「後ろめたさ」、「疾しさ(やましさ)」を同義語として使います。
「背徳感」の場合は、後で見るように、もう少し違うニュアンスの心理状態の時に使うと良いでしょう。
「背徳感」の対義語・反対語
もうお分かりのように、「背徳は道徳に背く」ですから、「背徳感」の対義語・反対語は「道徳感」と考えるのが自然です。
一方で、「○○感」というのは、「自分が○○である(している)感覚」なので「道徳感」という言葉は使い方としておかしいという意見もありますが、「自分が行っていることは道徳的であると認識している感覚」と理解すれば、それほどおかしい使い方ではないでしょう。
「道徳感」がおかしい表現とする見方の場合、「背徳感」の対義語・反対語として「正義感」をあげる場合があります。「正義」の対義語・反対語は「不義」ですから、「背徳感」の対義語・反対語を「正義感」としても意味的に問題ないでしょう。
「背徳感」の言葉の使い方《例文紹介》
単に悪いことをして、それに後ろめたさを感じるような心理の時は、「背徳感」よりも「罪悪感」、「後ろめたさ」、「疾しさ(やましさ)」という表現が使い方として適当です。
「背徳感」という言葉を使う場合は、単なる罪悪感にプラスして、官能的な甘さ、自虐的な要素の心理状態が必要です。悪いことを悪いこととして理解しつつ、堕ちていく、自分自身ではどうしようもない感情。そして、それに快感を感じてしまう切ない罪の意識です。
このようなことを念頭に置いて、以下で幾つか使い方の例文を見てみましょう。
例文1.「いけない恋愛に背徳感を覚える」
背徳感を「感じる」という表現がありますが、「感」が二重になり、表現としては好ましくありません。ここは、例文にあるように「覚える」が適当です。
この恋愛は誰かを傷つけることが分かっています。分かりつつ、その恋愛に堕ちていくのです。そこには人を傷つけることに対する微かな(かすかな)快感も垣間見えます。世間一般の道徳感に一種の挑戦をする自分がいるのです。許されないからこそ余計燃え上がるのです。
これを「カリギュラ効果」と言います。古代ローマ皇帝カリグラをモデルとした映画「カリギュラ」で、そのあまりの表現の過激さに一部で公開禁止の措置が執られ、それがかえって反響を呼んだことに因んでの言葉です。
このように、背徳感は、通常の罪悪感にプラスアルファのスパイスがかかっていることに注目すべきです。この例文で、単に「罪悪感を覚える」としてしまうと、罪の意識だけが強調され、何とも言えない退廃的な官能美のニュアンスがなくなってしまいます。
例文2.「期末テストが近い時期の夜遊びは背徳感一杯」
この例文の子は多分、期末テストが近くないときはそんなに夜遊びはしないのでしょう。ストイックでなければならないときだからこそ、夜遊びは蜜の味なのです。ひょっとすると、夜遊びそのものにもそんなには興味がない可能性すらあります。
例文3.「むずがゆい背徳感がわき起こる」
例文の「起こる」という表現も「覚える」という表現とともに、背徳感という感情を表す言葉として適当です。
例文にある「むずがゆい」というのは、自分ではどうしようもない、何とも言ず腹立たしい、しかし、無くなってしまうのは勿体ないと感じる、一種の快感を表す表現として、背徳感に被せる言葉にふさわしい表現です。
むずがゆさを快感として自覚できるのは、性的な快感を覚える思春期以後かもしれません。
背徳感という感情が生まれる理由
では、背徳感という感情はなぜ人間に生まれることになったのでしょう。その理由は様々な切り口から考えることが出来そうですが、ここはやはり、恋愛、セックスの観点から見るのが適当です。
恋愛、セックス(特にセックス)から生まれた背徳感という感情が様々なシチュエーションに使われることになったと考えられます。
背徳感は人工的に作られた感情?
猿から分化したばかりの人類に背徳感という感情はなかったでしょう。また、生まれたばかりの赤ちゃんにもそれはないと考えるべきです。
両者には、何が良いことで、何が悪いことかという概念がまだないのです。判断基準となる道徳感がまだ育っていないのです。道徳感がなければ、それに背く背徳感がないのは当たり前です。
背徳感は人類の恋愛、セックスをより魅力的なものにするために生み出された、人工的な感情とみることができます。
背徳感は人間のセックスを魅力的なものにする小道具?
少し話が難しくなりますが、人間は本能の一部が壊れていると言われています。種族保存本能としてのセックスを、他の動物のように本能だけでは出来ないのです。
人間にはキチンとした発情期がありません。いつでもセックスできる代わりに、本能だけに任せたセックスができないのです。オスとメスではなく、男と女としてキチンとセックスできるような人工的な仕掛けが必要なのです。
人間の男と女を、本能抜きで、普通にセックスに向かわせるためには、セックスが実態以上に神秘的で素晴らしいものと思わせる必要があるのです。その仕掛けの小道具として、背徳感のような感情が人工的に作られたと考えるのが、最も理にかなっているのではないでしょうか。
背徳は必要悪?
背徳感は、禁断の果実に手を伸ばす時に生まれる感情であり、禁断の果実に手を伸ばす一つの動機付けにもなり得ます。背徳感という罪を犯す快感は、自分自身にも巧妙に隠したつもりで、実は密かに自覚されているのです。
禁断の果実は非常に魅力的でなければ禁断になりません。この世のものとは思えないほど素晴らしいものに違いない、という幻想が必要なのです。
このように、背徳は本能が壊れた人間のセックスを、一応それなりの形にするために編み出された必要悪のようなものかもしれません。背徳感という感情がなければ、人間の恋愛・セックスの神秘的な魅力は、ある意味半減するのです。
背徳感を感じる瞬間はこんな時
背徳感が、人間の恋愛・セックスを、ある意味、動物並みにまともなものにするために生まれたのであるならば、当然、背徳感を感じる瞬間は、恋愛やセックスにおける様々な出来事が中心にならざるを得ません。
勿論、人間の恋愛・セックスから生じた感情が、それ以外の生活の瞬間においても感情として援用されることになったと考えるのは自然なことです。
ここでは、背徳感を感じる瞬間を、恋愛・セックスを中心に見ますが、それ以外の場面も少し見てみましょう。
1.古今東西、不倫は背徳感をわき起こす最大の事件
不倫は明らかに社会的なルール・規範に反します。「不倫は文化」かどうか知りませんが、不倫は、古今東西、人間が社会生活を営み始めて以来、止むことはありませんでしたし、これからも多分そうでしょう。
今TVでやってる黄昏流星群はコミックでも人気でしたが、テーマは不倫です。お昼の奥様劇場のテーマも不倫ものが多数を占めます。
人の不倫をTVやコミックでのぞき見するだけで、その人の感情には既に背徳感の果汁の香りが漂っています。ましてや、自分自身が実際に不倫の主人公になった瞬間の恍惚感は想像するにあまりあります。
2.血縁の濃いもの同士の恋愛やセックスは背徳感の極み
いとこ同士の恋愛や結婚は、世間になくはありません。ただ、世界には禁止されている国もあって、世間的にはあまり祝福されないことが多いでしょう。
これは、所謂「血が濃くなる」ということで、遺伝子的に奇形児や障害児を出しにくくさせるさせるための人間の知恵の一つだと言えます。学術的に遺伝子障害に関する確たる結論は出ていないようですが、タブー視されてきたことは間違いないようです。
でも、本人達はどうでしょうか。もうお分かりだと思いますが、タブーだからこそ逆に燃える部分があるのです。極端な言い方をすれば、普通はまず実現しない母子相姦や父子相姦の代用としての、いとこ恋愛、いとこ婚という言い方が出来るかもしれません。危険な背徳の香りがするのです、
3.職場仲間との恋愛やセックスはギャップがたまらない
職場はオフィシャルな空間です。最近は家族的な雰囲気のカジュアルなIT系の企業も増えているようですが、敢えて家族的なと言わざるを得ない位、やはり職場はオフィシャルな場なのです。
その職場仲間とプライベートで親しくなると、職場とは全く違う彼(彼女)を見ることになります。このギャップ感は、経験したことがない人には分からないかもしれませんが、何とも言えない背徳感を覚える瞬間です。
もし、肉体関係が出来ると、職場では折に触れて、周りの人には気づかれないような色っぽい目線を二人で交わす瞬間が訪れます。この瞬間に感じる背徳感は一種の優越感との相乗効果で大変なエクスタシーとなります。
4.異性の友人が恋人に変わる瞬間の背徳感
女子にとって男友達はなりたつのでしょうか。また男子にとって女友達は女友達であり続けることはできるのでしょうか。異性の友人関係は成立するのか否かは、永遠のテーマだと言われています。
答えは明確で、外形的な性差ではなく、精神的な性差が意識された時点で、友人関係は成立しなくなると考えるのが普通です。
異性の親友というのは自己欺瞞です。本当は異性への感情を持っているにもかかわらず、友人という関係を維持して、振られる時のリスクに保険をかけているのです。でも、恋人に変わることを虎視眈々と狙っていて、それが成就した瞬間に、自分への背徳感を覚えるのです。
5.先生と教え子の禁断の恋愛
高校教師というTVドラマがありました。主題歌も良かったですが、配役が絶妙でしたね。そこには森昌子の「先生」にはない、不健全さ、反道徳感、背徳感がありました。
だから、ヒットしたんです。誰しも教師への淡い恋心を抱いた経験は、一度くらいあるのではないでしょうか。淡い思いを感じるだけだと背徳感は生まれません。これがドラマの中で実現してしまうと、ドラマの主人公に自己投影が起こり、見ている自分の背徳感がもっこりと盛り上がってくるのです。
6.親友が夢中になっている彼氏(彼女)を巧みに奪った時
石川ひとみが歌った「まちぶせ」は女子の心理の深層をついています。まちぶせする彼女は、本当はその彼にそれほどゾッコンではないのかもしれません。友達が彼氏にゾッコンだから奪いたいのではないでしょうか。
そこには残酷で独りよがりな背徳感があります。自分自身の心の奥底では、「やめておいた方良い」という良心のささやく声が聞こえるのですが、心全体は背徳感にあふれた悪魔に乗っ取られています。どうにもならないのです。
彼を手に入れた途端、甘い背徳感は消え、二人は分かれてしまうといったストーリーが目に浮かびそうです。
7.食べてはいけないときに食べてしまった食事は極上
唯一、恋愛とは関係ないエピソードです。場面は、これまで我慢に我慢を重ねたダイエットがやっと大きな成果を上げそうな日の夜です。仕事に疲れた体と心を休めるため、自室でくつろいでいます。
ふと、冷蔵庫を開けると、そこにはあるはずのないショートケーキが微笑んでいます。時々やってくる母か妹が置いて帰ったのでしょうか。ダイエットを完遂するため、食べてはいけないものは極力自分の目から遠ざけていた私ですが、このときは思わず手が出てしまいました。
食べてしまった後に残るのは、罪悪感とうよりは背徳感かもしれません。誰も見ていないし、ショートケーキ一個くらいたいしたことないし、と自分に言い訳しながら、ショートケーキの甘さの余韻に浸っているのです。
背徳感のある恋愛とは?
背徳感は恋愛を大恋愛にする非常に重要なスパイスです。背徳感のない、三島由紀夫の「潮騒」のような、目映く(まばゆく)健全な恋愛は作り物だというのは言い過ぎでしょうか。
勿論、背徳感の欠片(かけら)もない、太陽の下の誰にも祝福される恋愛もないことはないでしょう。でも、敢えて言えば、背徳感のある恋愛の経験こそが、その人の人間性をより味わい深いものにし、その人を所謂(いわゆる)色気のある大人にしていくのではないでしょうか。
そもそも恋愛にはどこか背徳感がつきもの
禁じられた恋だから燃えるのだ、ということはこれまで見てきました。そしてそこには、やや退廃的で快感に溺れる背徳的な自分がいます。
恋愛感情は人間をセックスに向かわせる王道です。恋愛感情抜きの、病んだ感情に導かれるセックスもありますが、今回の話題からは外れますので除外します。恋愛感情はそれほど健全なものではありません。貪欲な所有欲や他人を下に見る優越感などがつきものです。もっともっとと快感を求めます。
恋愛は非日常的な事件なのです。別にドロドロとした不倫でなくとも、恋愛そのものが非日常的な禁断の果実なのです。なので、どのような恋愛にも日常的な生活を送る世間に対する背徳感がつきまとうのです。
背徳感のある恋愛の結末や如何に
祭りには必ず終わりがあります。祭りの後の寂しさは必ずやってきます。恋愛の時に享受した甘美な背徳感の度合いによって、当然、寂しさの度合いは変わってきます。
強い背徳感を感じるような恋愛の場合、寂しさだけではすみません。もう祭りは終わったのです。日常生活の中で、世間一般の道徳の裁きを受けなくてはいけない時が来るのです。
ほどほどに、と言うのは易しいですが、それをコントロール出来ないのが背徳感のある恋愛なんでしょうね。
それでも止められない背徳感のある恋愛
恋愛のない人生が無味乾燥な人生であると同じように、背徳感の全くない恋愛は子供のお遊戯のようにつまらないものです。
人は祭りの後の寂しさを覚え、吊り橋の上で抱き合うエクスタシーを覚えながら、新しい自分を発見し、人間としての発酵が進んで、味を出していくのではないでしょうか。
道ならぬ恋愛に溺れていく人に石つぶてを投げられる人はどれくらいいるでしょうか。人はいつまでも背徳感を覚悟で、心を焦がす恋愛を求め歩く動物なのですから。