瀬戸内シージャック事件の犯人の川藤展久や弁護士の行動やその後

日本初のシージャック事件、「瀬戸内シージャック事件」。生中継された事件解決の瞬間は衝撃的でした。「瀬戸内シージャック事件」は、事件解決後も物議をかもし、国会も巻き込む騒ぎになりました。日本中を震撼させた「瀬戸内シージャック事件」とは何だったのでしょうか。

瀬戸内シージャック事件の犯人の川藤展久や弁護士の行動やその後のイメージ

目次

  1. 1「瀬戸内シージャック事件」とはどういう事件?
  2. 2なぜ瀬戸内シージャック事件が起きたのか?
  3. 3瀬戸内シージャック事件の概要
  4. 4川藤展久の生い立ち
  5. 5瀬戸内シージャック事件のその後
  6. 6瀬戸内シージャック事件が世間に与えた影響とは?
  7. 7川藤展久の最後の謎の言葉とは?
  8. 8犯人射殺で解決した2つの事件
  9. 9瀬戸内シージャック事件の悲劇

「瀬戸内シージャック事件」とはどういう事件?

1970年(昭和45年)、高度成長期のただなかに開かれた大阪万博に沸く日本で起こった「瀬戸内シージャック事件」。日本初のシージャック事件として日本の犯罪史上に名を刻むとともに、「犯人射殺」によって終結した初の人質事件としても有名です。

輸送機関を乗っ取る「ハイジャック」から派生した「シージャック」という言葉が使われたのも、「瀬戸内シージャック事件」が最初です。

「瀬戸内シージャック事件」は、一人の男が、些細な交通違反の発覚から次々と罪を重ねて引き起こした、行き当たりばったりの犯行です。

警察から逃れるため、定期旅客船「ぷりんす号」を乗っ取った犯人は、乗客と乗務員を人質に、銃を乱射しながら逃走を続け、その様子はテレビやラジオで生中継されました。

報道規制がゆるく、マスコミのモラル意識が低かった当時、生々しい事件の様子は克明に報道され、多くの人々が犯人射殺の瞬間を、テレビを通して目にすることになりました。

幸いにも、人質や警察官に死者は出ませんでしたが、犯人を狙撃した警察官を批判する声もあり、「瀬戸内シージャック事件」は、警察官の拳銃使用についても物議をかもしました。

「瀬戸内シージャック事件」は、日本警察の、犯人狙撃に対する慎重な姿勢を促すきっかけになったと考える向きもあります。

なぜ瀬戸内シージャック事件が起きたのか?

日本中を震撼させた「瀬戸内シージャック事件」。実際にシージャックが起きたのは、1970年5月12日ですが、事件の発端は前日の11日です。

いったいなぜ、日本犯罪史上初のシージャック事件が起きたのでしょうか。事件のきっかけとなった交通違反から、順を追って事件を解説していきます。

川藤展久が少年2人と交通違反で捕まる

「瀬戸内シージャック事件」の犯人は、川藤展久という、当時20歳の男ですが、事件のきっかけとなったのは、川藤展久と2人の少年が起こした交通違反です。

遊び仲間だった川藤展久と少年2人は、5月10日、福岡市内で車を盗み、広島へ向かっていました。日が変わった11日深夜0時過ぎ山口県の国道2号線で取り締まりをしていた警察官に追い越し禁止違反で呼び止められます。

普通なら違反切符を切られるだけですが、不審を感じた警察官がナンバーを照会すると盗難車であることが発覚します。

連行中に川藤展久と少年1人が逃走

3人は逮捕され、最寄りの警察所に護送されることになりましたが、警察官が運転する盗難車に乗せられた川藤展久と少年のうちの一人は、隠し持っていた猟銃で警察官を脅し、さらに警察官の胸をナイフで刺して逃走します。もう一人の少年は、パトカーで連行されました。

川藤展久と少年は、軽自動車を盗んで検問を突破し、電車で広島に向かいます。広島市内に入った2人は、逃走の資金調達に郵便局強盗を企てますが、警察の警戒を恐れて山中に身を隠し、野宿して一夜を過ごしました。

12日午後2時ごろ、広島市郊外の踏切にいるところを目撃され、すぐに警察官が駆け付けましたが、現場は道が狭く、徒歩での捜索が繰り広げられました。

川藤展久を見かけた警察官は、通りかかったトラックに便乗して追跡を続けましたが、すんでのところで川藤展久に運転手を人質に取られ、取り逃がしてしまいます。その際、川藤展久は警察官の拳銃を奪いました。

川藤展久と一緒に逃走していた少年は、近くに隠れているところを発見され、逮捕されました。

広島の鉄砲店でライフルや弾丸を強奪

川藤展久は、運転手を脅しながら広島市街に向かい、午後4時ごろ、広島県警察本部のすぐ近くにある、かねてより見知っていた銃砲店に押し入って、ライフル銃3丁と弾薬80発と散弾250発を奪います。

広島港に向かう

銃砲店を出た川藤展久は、タクシーを使って検問を突破し、広島港(宇品港)に向かいました。

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瀬戸内シージャック事件の概要

ここからがいわゆる「瀬戸内シージャック事件」です。停泊中の「ぷりんす号」に乗り込んだ川藤展久は、乗客と乗員を人質に取り、銃を乱射しながら無謀な逃走劇を繰り広げ、最後には警察官による狙撃によって命を落とします。

「ぷりんす号」が乗っ取られてから、衝撃に結末を迎えるまでの「瀬戸内シージャック事件」の様子を解説します。

旅客船ぷりんす号が乗っ取られる

「ぷりんす号」は、広島と今治を結ぶ定期旅客船で、事件当時出航時間を控えて停泊中でした。川藤展久は、銃を乱射しながら桟橋を渡り、制止しようとした警察官に発砲、怪我を負わせ、乗客や乗務員を乗せたぷりんす号を乗っ取って、船長に出航を命じます。

銃口を突き付け、「どこでもいいから大きな街へ行け」という川藤展久の命令に従って、船長は松山港に向かいました。このとき、船内には乗客33人と、船長を含め11人の乗務員がいました。

瀬戸内海を航行

ぷりんす号は瀬戸内海を、時速7kmの速度で航行し、松山港に向かいました。その間、川藤展久は、広島県警の警備艇を狙撃して警察官に重傷を負わせた他、偶然モーターボートで遊んでいた一般人を狙撃、マスコミがチャーターしたセスナ機を銃撃しました。

この事態に、広島県警警備艇5隻、チャーター船1隻、海上保安庁の巡視艇15隻のほか、海上自衛隊の掃海艇と支援艇も追跡に加わり、近隣県警本部やマスコミのヘリコプターが多数飛び交う異様な光景が繰り広げられました。

警視庁は、最悪の場合、犯人への発砲も視野に入れ、ライフル銃を装備した大阪府警の狙撃手を海上自衛隊機で派遣、愛媛県警や福岡県警も強行作戦に備え、催涙弾や狙撃手を手配しました。

そんな中、船長が機転をきかせて速度を低速に保ったおかげで、午後9時40分にぷりんす号が松山港に入港する頃には、すでに警察が到着して厳重な警戒をし、シージャックされたぷりんす号を待ち構えていました。

なぜか入港を止めた川藤展久は、給油が必要との船長の連絡を受け、人質となっている乗客の解放と引き換えに、給油を要求します。

そこで、警察は、給油に紛れて警察官がぷりんす号に乗り込み、犯人を確保する作戦をたてましたが、川藤展久の警戒が厳しく、断念せざるを得ませんでした。

その後、約束通り乗客と未成年の乗務員は解放されましたが、7人の乗務員は解放されず、ぷりんす号は午前0時50分ごろ松山港を出港します。

川藤展久は追尾する警備艇に向かって銃を乱射した後、警備艇や巡視船など20隻もの船に取り囲まれながら深夜の瀬戸内海を航行し、途中進路を変えながら午前8時50分ごろ、出港地である広島港(宇品港)に戻ってきました。

川藤展久は狙撃され死亡

広島港に戻った川藤展久は、逮捕された仲間を連れてくるように要求しましたが、警察はこれに応じず、川藤展久の父親や姉が投降するように説得に当たりましたが、銃を乱射してそれに応えました。

これにより警察官一名が重傷を負い、偵察中の警察のヘリコプターにも着弾、あわや墜落の危機を招きました。このころ、広島県警本部は、被害の拡大を恐れ、緊急処置として狙撃も止む無しとの結論に達しました。

9時50分ごろ、乱射を中断し、手ぶらでデッキに出てわめいていた川藤展久に対し、待機していた大阪府警の狙撃手が発砲。弾は左胸を貫通し、川藤展久は、病院で緊急手術を受けましたが、助かりませんでした。

川藤展久の生い立ち

凶悪犯罪が起こるたびに、犯人の生い立ちや素行が取りざたされます。なぜそんな事件を起こしたのか、その謎を紐解くために、犯人の過去を振り返るのは重要なプロセスです。

川藤展久は事件当時20歳。数え切れないほどの罪を重ね、挙句に日本初のシージャック事件という大それた犯罪を犯した川藤展久とは、どのような人物だったのでしょうか。

川藤展久の家庭環境

川藤展久は、1949年(昭和24年)に岡山県児島市下津井町(現倉敷市下津井)で6人兄弟の三男として生まれました。父親は船員として働いており、母親は新興宗教の熱心な信者で、不在がちだったと言われています。

川藤展久の素行

小学生のころから素行不良で、盗みやさぼり、放浪を繰り返していた川藤展久。小学校の学籍簿には、「不良化の素質十分」との記述もあります。

中学に進学してもいい加減な性格は治らず、1年も経たずに学校に行かなくなってしまいました。その後は、窃盗や無賃乗車など、軽犯罪を繰り返しながら各地を転々とし、蕎麦屋やパチンコ屋で働いたり、ヤクザの使い走りのようなこともしていました。

いくつかの罪で逮捕された川藤展久は、少年院や施設に送られることもありました。どんな仕事をしても長続きしない川藤展久は、1967年には広島で工員になりますが、またしても複数の窃盗で捕まります。

1969年春まで入所していましたが、出所後は定職に就かず、パチンコなどをして暮らしていました。

川藤展久の性格

小学校の学籍簿によると、学校の先生からは、自分を律することができず、誘惑に流されやすく、善悪の判断がつかない、だらしない性格と見られていたようです。

人の顔色を見てご機嫌を伺い、辛いこと、苦しいことからは目を背け、自分のやりたいことしかやらない、これも川藤展久の特徴です。

同じような犯罪で何度も捕まるのは、学習能力がない証拠です。反省することがなく、悪いのはいつも自分以外の何かだと思っている。幼稚で自分勝手、短絡的で投げやりな性格が、悲惨な事件とその結末を招いたと言えます。

瀬戸内シージャック事件のその後

「瀬戸内シージャック事件」は、事件そのものも衝撃的でしたが、事件が解決した後も世間に大きな問題を投げかけました。

犯人の死という形で幕を閉じた「瀬戸内シージャック事件」のその後を見てみましょう、

弁護士が発砲した警官を告発

「日本初のシージャック事件」の他に、「犯人の射殺によって解決した日本で初めての事件」、それが、「瀬戸内シージャック事件」に冠せられるもう一つの名前です。

悲惨な戦争を経て、暴力や死に非常にナーバスになっていた日本において、たとえ犯罪者でも、命を奪ってはならないという考え方は根強く、犯人を狙撃し、結果的に死に至らしめた警察官は、一部からバッシングを浴びました。

事件の余韻さめやらぬ5月15日、北海道の人権派の弁護士2人は、狙撃手と狙撃を指示した広島県警本部長が、特別公務員暴行陵虐致死、殺人および同教唆の罪にあたるとして広島地裁に告発しました。

弁護士側の主張は、「逮捕することもできたのに、いきなりの射殺は人道上許すことはできない」というものでした。

しかし、広島地裁は、射殺までの経緯、すでに100発以上銃を乱射し、複数の警察官が負傷している点、まだ多数の銃弾を所持している状況、これ以上航行を続けた場合の人質の安全性、肉親の説得に対して発砲した事実などから、罪には当たらないとして不起訴処分としました。

これを不服とした弁護士側は、不審判請求を行いましたが棄却され、最高裁でも棄却されたため、狙撃手と広島県警本部は正式に無罪が認められました。

発砲した警官はバッシングを受ける

個人情報の管理が徹底なされていなかった1970年当時、狙撃手の名前はおろか顔まで、堂々と報道されており、凶悪事件の犯人とはいえ、人一人を殺してしまった狙撃手に対して、バッシングが始まりました。

犯人の父親の、「親として、死んでくれてせめてもの償いができた。警察に抗議するつもりはない」という言葉で、バッシングの声はやや収まりました。

それでも、「手や足を撃って拘束するという方法もあったのではないか」という一部の声や、訴えられた重圧に耐えきれず、狙撃手は事件後警察を去りました。

当時の新聞や記録には、「瀬戸内シージャック事件」における犯人射殺は、特例中の特例として、仕方がなかったとする意見が多く見られます。

しかし、国会の証人喚問では、当時警察庁長官であった後藤田正晴氏が、社会党の議員に3時間にもわたって糾弾されるなど、犯人の射殺に対して、強い嫌悪感を抱いた人も少なくなかったことがうかがわれます。

後に、後藤田氏は回顧録で、「(瀬戸内シージャック事件の犯人射殺は)、やむを得ない、最後の手段だった」と語っています。バッシングを受けた狙撃手に対しては、「かわいそうだった。マスコミがかぎつけたから」と暗にマスコミを非難しています。

ぷりんす号はフィリピンの観光船として利用されていた

「瀬戸内シージャック事件」の舞台となったぷりんす号は、後にフィリピンの企業に売却され、観光船として余生を送りました。

事件をモチーフにした映画が制作された

「瀬戸内シージャック事件」に題材を取った作品は2つあります。一つ目は1975年作成の「冒険者たち」、2つ目は1982年に公開された「凶弾」です。

「凶弾」は、元東京都知事石原慎太郎氏の次男で、俳優の故石原裕次郎氏の甥である石原良純氏のデビュー作です。瀬戸内シージャック事件を題材にしながら、青春群像劇としての切り口で描かれた映画ですが、興行収入は振るいませんでした。

瀬戸内シージャック事件が世間に与えた影響とは?

「瀬戸内シージャック事件」は、同じ年の3月31日に起きた「よど号ハイジャック事件」と同じように、一部始終がマスコミによって報道されました。

マスコミにとって、犯行現場の生中継はまたとない機会ですが、結果としてセンセーショナルな結末を日本中に拡散することになり、ひいては狙撃手のバッシングのきっかけにもなりました。

狙撃手の罪の有無以外にも、「瀬戸内シージャック事件」は、さまざまな問題を投げかけました。「瀬戸内シージャック事件」の影響は、今の日本に、根強く残っています。

射殺の是非

「瀬戸内シージャック事件」で最も大きく取り上げられたのは、犯人の射殺の是非です。死刑の賛否と同じく、軽々には判断できない問題です。

警察官職務執行法第7条では、「他に手段がないと信じるにたりる相当な理由」がある場合にのみ、武器の使用を認めています。事件当時の警察庁長官である後藤田正晴氏も、「銃器の使用は最後の最後の手段」としています。

これは、射殺を認めるという意味にはなりません。「瀬戸内シージャック事件」では、腕を狙った弾が左胸にあたったとして、狙撃手に射殺の意志は認められませんでした。

事件の凶悪化が叫ばれる中、警察にとって犯人射殺の是非は常に大きな課題です。犯人といえど人間、いたずらに命を奪ってはいけないという意見もわかりますが、罪もない人々の命が危険にさらされても、犯人の命を優先するという考え方には疑問が残ります。

「射殺も止む無し」というのは、」誰にとっても重い決断です。「瀬戸内シージャック事件」は、命の重さについて、常に考え続けるようにと諭しているのかもしれません。

メディアの影響力の大きさ

インターネットの破壊力にはかないませんが、マスコミの持つ影響力も計り知れません。マスコミが流した情報がもとで、「瀬戸内シージャック事件」の狙撃手は警察を追われることになりました。

今なら、インターネットで叩かれ、もっと悲惨なことになっていたかもしれません。犯人射殺の瞬間を、あからさまに報道したマスコミの倫理観の無さも問題です。センセーショナルなシーンを報道することがマスコミの使命ではないはずです。

マスコミの罪はまだあります。ぷりんす号が松山港に近づいたとき、ラジオでは警察が配備についていることを放送していました。それを聴いた川藤展久は、松山港への入港を中止し、逃走を続けようとしました。

船長が給油を要求したことで、松山港への入港が実行され、人質解放につながりましたが、ラジオはその後、警察がわざと給油に時間をかけ、犯人逮捕の隙を伺っていたことまでばらしてしまいました。これに怒った川藤展久は、警備艇に発砲しています。

しかも、本当は給油の必要がなかったことまで放送したのです。幸いにも、川藤展久はこの放送を聴いてはいませんでしたが、もし、耳にしていたら、どうなっていたことでしょうか。

マスコミはその影響力の大きさを自覚するべきですし、スクープのためなら何をしてもいいという態度は、非難されても仕方がありません。

川藤展久の最後の謎の言葉とは?

狙撃手に撃たれて倒れた川藤展久は、即死ではありませんでした。甲板に倒れた川藤展久の「死んでたまるか、もういっぺん」という最後の言葉を、そばにいた船長が聞いていました。

川藤展久は、もういっぺん、何をしたかったのでしょうか。その真意は永遠に謎のままです。

犯人射殺で解決した2つの事件

「瀬戸内シージャック事件」は、犯人が射殺されて幕を下ろした最初の事件ですが、日本では、犯人が射殺された事件は、このほかには2つだけです。

どれも人質の命がかかった人質事件で、ぎりぎりの判断で決断された発砲です。いずれも犯人以外死者は出ておらず、「瀬戸内シージャック事件」のときのような、告発騒ぎも起きていません。

長崎バスジャック事件

1977年(昭和52年)に起きた、日本初のバスジャック事件です。「阿蘇連合赤軍」を名乗る2人の男が、改造銃や手製爆弾を持って路線バスを乗っ取り、乗員、乗客16人を人質に立てこもった事件です。

犯人の1人は死亡、1人は逮捕され懲役6年の実刑判決を受けました。

三菱銀行人質事件

1979年(昭和54年)に大阪で起きた、猟奇的な人質立てこもり事件です。犯人はショットガンを使って銀行員と客、30人以上を人質に立てこもり、警察官2人と客2人を殺害しました。

事件発生から2日後、犯人は射殺され、残った人質は解放されましたが、重傷を負った人質もおり、事件の全貌が明らかになるにつれ、その凄惨さに日本中が震撼しました。

瀬戸内シージャック事件の悲劇

「瀬戸内シージャック事件」は、何も考えていない若者が、坂道を転がり落ちるように、破滅へと突っ走った不幸な事件でした。

立ち止まるチャンスは何度もあったのに、後先を考えない衝動的な性格と、楽なほうへと流れたがる短絡的な思考が、後戻りできないと錯覚させたのでしょう。

もし、マスコミが松山港での警察の動きを放送していなければ、犯人射殺というシナリオは避けられたかもしれません。息子が射殺されて「死んでくれて」と言わざるを得なかった父親の胸中はいかばかりでしょう。

任務を全うしたがために、犯人を射殺した警察官との烙印を押され、警察を退いた狙撃手にとっても、やりきれない事件だったに違いありません。

その後に起こった三菱銀行立てこもり事件では、狙撃手の心理的な負担を軽減するために、一斉射撃の指示が出され、誰の弾が犯人の命を奪ったか、特定できないようにかいりょがなされました。

これ以降、2019年の現在まで、犯人射殺で解決に至った人質事件はありません。この記録が幸か不幸かはわかりませんが、悲惨な事件がこれ以上起きないことを祈るばかりです。

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