東大ポポロ事件とは?概要や判決をわかりやすく解説!

学問の自由や大学の自治問題として取り上げられ続けている東大ポポロ事件。そんな東大ポポロ事件について今回は詳しく調べてみました。一体どのような事件だったのかその概要と、その事件の結末はどうなったのかについてご紹介していきます。

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目次

  1. 1東大ポポロ事件をわかりやすく解説してみた
  2. 2東大ポポロ事件とは?
  3. 3東大ポポロ事件の経緯や概要
  4. 4拘束した警察官は公安警察だった
  5. 5東大ポポロ事件の判決はどうなった?
  6. 6東大ポポロ事件のその後は?
  7. 7東大ポポロ事件によく似た事件を紹介
  8. 8社会に大きな影響を与えた事件だった

東大ポポロ事件をわかりやすく解説してみた

学問の自由や大学内の自治についての問題を考える際に思い出されるのが東大ポポロ事件です。当時はかなりの話題になりましたが、現在ではこの事件自体を知らないという人も多いのではないでしょうか?

そこで今回はそんな東大ポポロ事件についてわかりやすく解説してみました。東大ポポロ事件とは一体どんな事件なのか、またその結末はどんなものなのか当時の時代背景を踏まえながらご紹介していきます。

東大ポポロ事件とは?

ではさっそく東大ポポロ事件の詳細がどのようなものなのかについて見ていきましょう。東大ポポロ事件が起こった当時の時代背景はどのようなものだったのか、またこの事件の争点はどのようなものなのでしょうか。

東大ポポロ事件時の時代背景

東大ポポロ事件が起きた当時の日本はGHQ占領下にあった時代でした。民主主義が推し進められてはいましたが、実際にはまだまだ社会主義が浸透している時代でした。

そんな厳しい社会情勢の中、サンフランシスコ講和条約の締結で反社会主義の動きが加速していきます。労働者の間で労働運動が起こったりと政府に対する反感が国民の中で徐々に湧き上がってきていました。

そしてその運動に対して政府は制限や弾圧を行使。日本国内は政府と国民の間で一触即発の状態であったと言われています。

事件の争点は?

そしてそんな厳しい社会情勢の中、東京大学構内で「東大ポポロ事件」が発生します。この東大ポポロ事件では日本国憲法第23条に保障されている「学問の自由」と「大学内の自治」そして「警察権の在り方」の3つが争点となりました。

東大ポポロ事件の経緯や概要

当時の時代背景や事件の争点について理解したら、次は東大ポポロ事件の経緯や概要について見ていきましょう。複雑な時代背景の中で起こってしまった東大ポポロ事件。具体的には一体どのようなことが起こったのでしょうか?

ポポロ劇団が大学教室内で演劇発表を行う

東大ポポロ事件は1952年2月20日、東京大学本郷キャンパス法文経25番教室で起こりました。その日は東京大学の公認学生団体である「ポポロ劇団」が大学教室内で演劇発表を行っていました。

その演劇は「何時(いつ)の日か」というもので、1949年に福島県で起きた松川事件をテーマにした演目でした。反社会的な題材ではありましたが、大学からの許可を得て学生たちは劇を上演していました。

そしてその演目の上演中に東大ポポロ事件は発生したのです。

演劇のテーマだった松川事件とは

演劇のテーマだった松川事件は1949年8月17日に福島県で起きた列車往来妨害事件。日本国有鉄道の東北本線で走行していた列車が突然脱線し、機関車の乗務員3名が死亡した事件です。

現場を検証した結果、電車が脱線した付近に細工された形跡があり故意に機関車を脱線させたという見解に。また現場付近の水田からすば納屋バールが発見されるなど事件性が高いと判断されました。

その後、事件の捜査を行っている捜査当局は当時大量人員整理に反対していた東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員が共謀して犯行に及んだのではないかと推測します。

そして事件発生から24日後、傷害罪で別件逮捕された元国鉄線路工の少年に対して松川事件に対する取り調べを実施。その9日後には少年は犯行を自供します。そしてその少年の自供をもとに合計20人にも及ぶ共犯者が逮捕されました。

その後容疑者たちは起訴され死刑判決を受けていましたが、捜査機関が容疑者たちの無実を示すアリバイなどの重要な証拠を隠蔽していたことが発覚し、逆転無罪を勝ち取りました。

この事件は日本戦後最大の冤罪事件として語り継がれており、現在でも真犯人や真相は判明していない未解決事件となっています。

観客の中に私服警官を見つける

そんな問題視されている事件を題材にした演目を行っていたポポロ劇団ですが、上演中に劇団員が観客の中に私服警官が紛れ込んでいることを見つけます。そして警察官を見つけた劇団員は上演中にも関わらず4名いた私服警官のうち3名を拘束しました。

警官を拘束して謝罪文を書かせる

私服警察官を拘束した劇団員たちは警察手帳を取り上げました。

学生が取り上げた警察手帳は大学の意向によって後日警察官に返還したようですが、その手帳内には1950年7月以降から警察が東大内を張込・尾行をして学生の思想動向等の調査を行っていたことが記されていたそうです。

そしてその事実を知った学生達は警察官に対して謝罪文を書くよう要求。さらには暴行を加えました。

学生達が起訴される

そしてこの東大ポポロ事件が起きたあと、警察官に暴行を加えた劇団員の2名が当時制定されていた「暴力行為等処罰ニ関スル法律」で警察側から起訴されます。そしてここから大学・学生と警察との長い長い裁判での戦いが始まりました。

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拘束した警察官は公安警察だった

この東大ポポロ事件で学生達が拘束した警察官は「公安警察官」であったと考えられています。公安警察感とは国家に属する警察官のことで「公共の安全と秩序」を守る為に存在している組織です。

通常の警察官が犯罪を取り締まるのに対して、公安警察は「思想」を取り締まる警察官。また警察という名前がついていますが、実際には警察組織からも独立している謎の多い組織だと言われています。

公安警察が対象としている組織は右翼団体やテロリストなど。尾行や潜入・盗撮などをして対象者の情報収集をするのが主な仕事内容だと言われています。

東大ポポロ事件の判決はどうなった?

国民と日本政府の対立の激化から起こってしまった東大ポポロ事件。私服警察官に暴行を加えた劇団員が起訴されることになってしまいましたが、その裁判の判決はどのようなものになったのでしょうか?

学問の自由・大学内の自治を主張する学生たちと警察権力・政治勢力を誇示しようとする警察の争いの結果がどうなったのか見てみましょう。

第一審は無罪

まず昭和29年に東京地方裁判所で下された第一審は被告人学生たちは無罪であるという無罪判決でした。

「大学は学問の研究や教育の場であり、思想や言論は自由であることは憲法上保障されている。」自由を保障するためには外部からの環境を排除しなければ、本当の意味での自由ではない」

という考えが前提で、その自由を守るために警察官を拘束したならば正当であるという理由でした。

また松川事件をテーマにした演目に対しても「学生・教員の学問的活動一般は自由でなければならない」とされ、この自由に干渉する事は警察でも許されないという判決が下りました。

控訴審でも第一審を支持

第一審で無罪を勝ち取った東京大学の学生たちでしたが、その判決に納得しなかった警察はさらに控訴を行います。そして昭和31年東京高等裁判所にて第二審が行われました。

しかし第二審でも裁判所は第一審を支持したため判決は翻らず学生たちは無罪に。逆転判決を狙っていた警察組織の思惑は外れ、名誉を回復する事はできませんでした。

最高裁では破棄され差し戻しへ

二審でも勝訴することができなかった検察は更に学生たちを最高裁判所へと上告します。すると最高裁判所大法廷は昭和38年にその原審を破棄。そしてその審理を東京地方裁判所へと差し戻ししました。

差し戻しとは簡単に言い換えると、最高裁判所が今までの裁判内容を否定しもう一度やり直しを命じるというもの。つまり今まで行ってきた裁判や下された判決がまた振り出しに戻ってしまったということです。

差し戻しを行う理由は様々ですが、今回の場合は「行っていた演劇は学問ではなく政治的・社会的運動であるとみなす」「学問でない限りは警察官の侵入は大学の学問の自由を侵すものではない」という理由のものでした。

差し戻し後に有罪が確定

最高裁判所からの差し戻しで昭和40年に再度東京地方裁判所での裁判が開かれることになります。この時には最初の裁判が始まってから11年もの時が経過していました。

そしてその第一審で当時学生だった被告人たちは有罪の判決を下されてしまいます。今までの無罪判決から一転して一人は6ヶ月の懲役刑、またもう一人は4ヶ月の懲役刑が言い渡されました。

2人ともに2年間の執行猶予はあったものの、この判決は社会に非常に大きな影響を与えました。

東大ポポロ事件のその後は?

最初は無罪だった劇団員たちでしたが、最高裁判所の差し戻しで有罪になってしまうという、どんでん返しがおきた東大ポポロ事件。学生側が有罪になるという形で終わりを迎えましたが、その後は一体どうなっているのでしょうか?

東大ポポロ事件が社会に与えた影響や、その後の社会情勢についてここではご紹介していきたいと思います。

東大ポポロ事件の影響は現在も残っている

学問の自由と大学内の自治問題に対して大きな影響を与えた東大ポポロ事件。第一審では無罪だった学生たちが最終的に有罪になってしまったことに対して現在でも批判的な見方が多く、違憲ではないのかという声がたくさん挙げられています。

「警察官が無断で大学内に立ち入り思想調査をしているのはおかしい」「劇団は大学側の許可を得た上で演目を上演していたのにも関わらず政治的圧力をかけられる対象だった」「大学側の意見を尊重していない」という意見が散見し、現在でも議論されています。

半世紀以上も前に起こった事件ではありますが、現在でも議論になる程その事件の影響は大きかったのだと言えます。

京大ポポロ事件が起きた

大きな社会問題となった東大ポポロ事件。複雑な時代背景があったからこそ起こった事件なのかと思っていましたが、つい最近にも同じような事件が起きています。

それは2014年京都大学でのこと。過激派の情報調査のために私服警官が無断で京都大学内に潜入し、過激派組織の学生たちから暴行を受けるという事件が起こりました。

暴力があったことはよくありませんが、事前通告なしに警察官が校内に立ち入ったことに対して京都大学も「遺憾である」というコメントを発信しています。

世間一般的にはこの事件は「京大公安事件」と呼ばれていますが、一部の間では酷似している東大ポポロ事件をもじって「京大ポポロ事件」と呼ばれています。

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東大ポポロ事件によく似た事件を紹介

ここまでは1952年2月20日に起きた東大ポポロ事件の概要などについてご紹介してきました。学問の自由や大学内の自治について考えさせられる非常に大きな事件だったことがわかったと思います。

しかしそのような事件は東大ポポロ事件以外にも起こっていたのです。そこでここでは東大ポポロ事件によく似た事件をご紹介していきたいと思います。

愛知大学事件

まず最初にご紹介するのは「愛知大学事件」です。この事件は1952年に学内に無断で侵入した警察官を学生たちが拘束したことから始まりました。無断で侵入した警察官に対して大学側は「大学内の自治を脅かす行為である」として警察署へ抗議文を提出します。

すると警察側は学生たちに暴力を振るわれたとして法律違反・不法逮捕・公務執行妨害の罪で9名の学生と1名の講師を起訴しました。

一審目は無罪と刑免除の判決が下り、二審目も「裁判官の令状がある場合を除いて、大学の立ち入りは大学側の許可を要するといった原則をもとに、公務執行妨害の罪は成立しない」という実質的に無罪の判決を勝ち取っています。

早大事件

次にご紹介するのは「早大事件」です。早大事件は1950年に早稲田大学内で発生した事件。

連合国軍占領下だった当時の日本で共産主義の支持者と疑われた人々が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官であるダグラス・マッカーサーの指令の元、強制的に退職させられていました。

その一連の運動をレッドパージを呼ぶのですが、そのレッドパージに対して早稲田大学の学生が構内で反対運動を起こした事件です。

この学生運動に参加していた学生達は当初早稲田大学構内で「平和と大学擁護学生大会」を実施する予定でしたがそれを大学側は拒否。ならばと講堂の使用許可を得ようとしましたが、それも拒否されてしまいました。

大学の対応に対して怒った学生達は反対運動をする為に講堂を不法占拠。大学側は対処しきれずに警察に助けを求め、およそ2000人の学生と警察官が対立する事態となりました。

学生と警察官の抗争は激化し怪我人が出た上に公務執行妨害で143人が検挙されるなど、事態が収束するまでに大きな被害が出ました。

社会に大きな影響を与えた事件だった

今回は1952年2月20日に起こった東大ポポロ事件についてご紹介しました。戦後の不安定な時代に大学構内で起こった事件。学問の自由を求め、大学内の自治を守る為に戦った大学と、権力で人々の思想を押さえつけようとする警察・政府の思惑が交錯しています。

裁判では学生側に有罪判決が下りましたが、現在でもこの判決に対して異議を唱える人も少なくありません。学問の自由とは何なのか、大学内の自治とは?など様々なことについて考えさせられる、課題がたくさん残る事件でした。

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